密やかに、強引に「また肥える気か?」
「え?」
耳を心地良く擽っていた、弾む鼓動。それは、今しがた聞こえた声でピタリと止まった。折角の喜悦の情が台無しだ。文句の一つでも言いたいが、今日は我慢。善逸は頭を振って、フツフツと沸いた苛立ちを押し込めた。
「獪岳、帰ってたんだ。おかえり。コレ、美味しいよ。食べる?」
善逸が一人で座る台所のダイニングテーブルの上には、食べかけのケーキが載った白い皿が一つ。善逸は涼しい顔で、それを持ち上げた。獪岳の嫌味など、意に介していない振りをして。見破られてるのは、百も承知だけれども。
ネクタイを緩める獪岳の眉間に、深い皺が寄った。まだ何か言われる。善逸は聞こえないよう、諦めの溜息を吐いた。
「要らねぇ。今、何時だと思ってんだよ」
「えっと、夜の十一時五十分、デス、ネ……」
スマートフォンに表示された時刻が、背徳行為だと警告する。しかし善逸は抑えられなかった。獪岳が帰る二時間前まで行われていた、自身の誕生日会に出たケーキを食べたい欲求を。
慈悟郎と二人ながらも賑やかに行われた宴は、夜の九時に終わった。
「旨い酒じゃ」
普段、嗜む程度にしか酒を飲まない慈悟郎だが、孫の祝い事では杯が進む。自分以上に喜ぶ養父に、善逸もいつもより饒舌になり、気が付けば慈悟郎の就寝時間を過ぎていた。鼻歌交じりに寝室に向かう養父を見送り、洗い物と入浴を済ませる。寝る前に喉を潤そうと冷蔵庫を開けた善逸の目に入ったのが、獪岳の分として取っておいた料理とケーキだった。
六等分したホールケーキの一切れは慈悟郎が、二切れは善逸が食べた。後一切れ食べても、獪岳には二つ残る。主役の自分が多く食べても許されるだろう。善逸は一人こっそり、ケーキの甘さを堪能する事に決めた。それが三十分前。先程撮った慈悟郎との写真を見ていたら、あっという間にこの時間になっていたのだ。
「唐揚げとサンドウィッチが冷蔵庫にあるけど、今は食べない…よね?」
伺い見る獪岳の顔色は、柔らかな昼白色の照明の元でも余り良くないのが分かる。ここ一ヶ月続く残業で、獪岳はまともな夕食を摂っていない。心配する養父経由に聞けば、栄養ゼリーや栄養調整食品で賄っているという。毎晩、冷蔵庫に入れておく夕食は、胃の負担と余計な肉を纏う事を回避する為、食べるのはいつも朝だった。不健康な生活を送りながら、健康を気遣う。そんな獪岳にしてみれば、深夜にケーキを頬張る善逸に、苦言を呈したくなるのも仕方が無い。
善逸は皿の上にフォークを置き、冷蔵庫を開ける獪岳を見た。その背中からは、疲れが滲み出ている。
社会人は大変だ。再来年には自分もこうなると思うと気が重くなる。同時に一抹の寂しさを感じた。自分も帰りが遅くなったり、休日出勤を経験するかもしれない。そうなった時、慈悟郎が望む家族団欒での祝い事は減っていくのだろうか。
獪岳は炭酸水のペットボトルを取り出し、戸棚から出したグラスに注いだ。喉が渇いているのか、細かな泡が立つそれを一気に飲み干していく。
「じいちゃん、心配してたよ。毎日の残業で、体は大丈夫かって。顔を合わせるのも、朝だけだし」
「……今週末には落ち着く」
養父を出されたら、答えない訳にはいかない。喉を潤す一杯目と違い、二杯目は少しずつ口にする。ゆっくりと上下する獪岳の喉仏は、自分のものよりも少し大きい。目立つそこに、善逸の目が留まった。
「それなら良かったけど」
シンッと静まるキッチンに響くのは、獪岳がグラスを洗う水の音だけ。善逸は食べかけのままで、手付かずのケーキを見つめた。獪岳に何か言われるのは、日常茶飯事。普段なら気にせず食べるのに、何となく口に入れるのが憚れるのは、社会人になり、厳しい生活に置かれてる獪岳への後ろめたさか。善逸は一口分のケーキが載ったフォークを、ぼんやりと見つめた。
「食わねえのかよ」
「……食べるよ」
言いながら、善逸の手は止まったままだった。またも沈黙が落ちる。それを破ったのは、獪岳だった。
「なあ、カス」
「何?」
「来月頭の土曜の稽古は欠席する」
「……仕事?じいちゃんに言っておくね」
唐突な報告に、善逸は顔を上げて獪岳を見た。特段、変わらない表情からは、獪岳の心理が読み取れない。
獪岳と善逸は幼い頃から、慈悟郎の営む剣道場で稽古を受けていた。社会人と大学生となった今では、毎日は難しくとも、週末は手伝いも兼ね、出来る限り参加している。
出られない時は、各々が慈悟郎に伝えていた。それが当たり前で、互いに知らせる事など今の今まで一度も無かった。善逸にも知らせると言う事は、実は仕事以外の重要な理由があるのだろうか。尋ねた所で、詳細は答えてくれないだろうけど。
残り少ないケーキは、やはり食べてしまおう。フォークを持ち、口に運ぼうとした善逸だが、獪岳の言葉でピタリと手を止めた。
「お前も休むんだよ」
「えっ?俺?え?何で?」
「先生も了承済みだ」
獪岳の返事は、善逸の質問の答になっていない。
「決定事項だからな」
「何それ、怖いっ!俺、何かされちゃうの話が見えないんだけど!」
話の展開も獪岳の考えも、全てが理解不可能。動揺する善逸を他所に、獪岳はキッチンを出て行ってしまった。慌てて立ち上がり、その背を追い掛けようとした時、善逸のスマートフォンがメッセージの着信を知らせる。表示される送信者は、今の今までここに居た獪岳。
「何?獪岳は何をしたいの?今度はこっちって、何が書いてあるの」
怖い。指震える指で、スマートフォンをタップし、送られた二件のメッセージに目を通す。
獪岳が送ってきたのは、URLとスクショされた画像。リンク先に飛び、内容を確認した善逸の目が大きく見開かれる。何度も何度も内容を確認し、スクショされた画像と照らし合わせ、体が震える。
「何、コレ……」
返信する前に善逸の体は動いていた。慈悟郎を起こさぬよう、獪岳の部屋へと急ぐ。
「獪岳、あの!土曜日、絶対に空けとくから」
開かない扉に、善逸は言葉を掛けた。返事は無いが、扉の向こうのすぐそこに、獪岳が立っているのが分かる。ドクンドクンと鳴り響く鼓動が伝わってくる。獪岳と自分の二人の心音が重なる。同じテンポと同じリズムなのは、獪岳も同じように緊張しているからだと思いたい。
「ここ、行きたいって言ってたの知ってたの?俺、すっげー嬉しい。その為に残業してた?嬉しいけど、俺だって獪岳の体を心配してるんだよ。来週からはいつもの時間に帰って来るんだよね?じいちゃんも安心するよ。あ、じいちゃんは休む事だけじゃなくて、コレも知ってるんだよね。先に言ってくれたんだ。ちょっと照れ臭いよね」
善逸の気分は高揚していた。扉は開かないが、伝えたい事はまだまだある。
「俺、飛行機初めてだから、ちょっと緊張してるんだ。大丈夫かな。でも獪岳が隣に居れば安心だよ。ねえ、持ち物は何がいる?必要な物は、一緒に買いに行ってくれる?勿論、お金は自分で払うからさ」
「……先生が寝ているだろう。静かにしろ」
苦々しい顔で獪岳が扉を開けた。しかし心音からは、不快は聞こえない。
「あ、そうだよね。ごめん。俺、嬉しくて。獪岳、これ誕生日のプレゼントとして受け取って良いのかな?こんなに豪華なもの、貰っちゃって良いのかな?」
真っ直ぐ喜びを伝える善逸から獪岳は目を逸らし、舌を鳴らす。しかしその音にも、機嫌の悪さは伺えなかった。
「一緒に行けるなんて……。楽しみだなぁ…」
噛み締めるように呟き、善逸はスマートフォンの画面を獪岳に見せる。
送られたURLは、旅行会社のHP。スクショされた画像はその会社のパックツアーの予約完了画面。北の大地への三泊四日の旅は、二名で予約されていた。
「獪岳、俺が此処に行きたいの知っててくれたんだ」
「さあ。…俺が行きたいだけだ」
「獪岳も?同じ場所に行きたいと思うのも、嬉しいよ。その方が、色々楽しめるじゃん」
「騒がしくしたら、山の中に置いてくからな」
「えぇ!」
ぶっきらぼうな物言いでも、冷たさは感じない。善逸はパックツアーの詳細画面に頬を緩め、旅の行程を示す文字を指で撫でた。
「本当に行けるとは思わなかった……」
獪岳が予約した旅先は、自然豊かな北の大地の南端に突出する半島だった。
たまたま観ていたテレビで流れる雄大な自然に、善逸の目は釘付けになっていた。火山活動や流氷などによって形成された、険しく雄大な景観。野生動物が生息する豊かな生態系。海に沈む夕日を眺めながらのキャンプ。脂の載った新鮮な魚介類。「行ってみたいな」誰に聞かせるでもない、呟き。あの時、獪岳は部屋の隅のソファーに座って、本を読んでいた。自分に関心を持たない獪岳には、聞こえていないと思っていたのに。聞こえていただけで無く、計画を進めていたなんて。内緒で。誕生日に合わせて。
「獪岳と二人で旅行なんて、初めてだよね」
自分たちは所謂、兄弟を越えた関係だ。しかし互いに甘い言葉を囁いたり、無邪気に触れ合う事など一度もした事がない。デートも、手を繋ぐ事も、キスも。その先なんて、想像すら付かない。きっと自分たちはこのままだ。不満はないが不安はある。しかし善逸はそれを獪岳には見せないようにしていた。
そこへ来て、急な旅行のプレゼントとは、サプライズが過ぎる。半ば強引な獪岳のプレゼントだが、善逸には喜びしか無かった。胸の中には、もしかしての淡い期待が顔を出す。
「別に、フツーに行くだけだからな」
「え?あ、うん。そ、そんなの、分かってるよ!」
善逸は桃色に染まり掛けた思考を、急いで打ち消した。しかし早口になった返事に、獪岳の口端が微かに上がる。
「お前、何かいやらしい事でも考えてただろう?」
「え?別にな、な、なに、も…」
ニヤニヤする獪岳の顔なんて、今まで何度も見てきた。その度にムカつく事もあった。でも今は、否定をする気が起きなかった。二人だけの旅行に浮かれているのだ。少し位期待しても良いじゃないか。
「……い、色々考えてるよ…」
善逸は、獪岳の指摘を素直に認めた。
「だって二人きりだし、考えちゃうじゃん」
獪岳の口元は笑みを湛えたままだった。してやったりの満足感に満たされた笑顔に、善逸の唇が尖る。
「……獪岳は?考えないの?」
「……」
答えは無い。その代わりに、獪岳の指先が善逸の耳朶に載った。
「真っ赤だな」
柔らかな耳朶を摘まんだ指が、ゆっくりとそこを揉みほぐす。獪岳の指の動きが起こす優しい波で、善逸の思考はフワフワと揺蕩う。
「こ、答えてよ。俺ばっかり言ってるじゃん。獪岳はい、色々、考えない……の?」
まるで返事の代わりのように、耳の後に移動した獪岳の人差し指が、ゆっくりとそこを撫でる。傷付けぬように、しかし楽しそうに滑る指の動きは、旅先で迎える夜を想像させ、善逸に熱を与えた。
「教えねーよ」
「ずるい……」
「大人は狡いんだよ」
獪岳の指が、耳を離れていく。初めて知った熱を残したまま。
「もう遅いから、寝ろ」
獪岳の声に、善逸は頷くしか出来なかった。ぎこちない動きで、きびすを返そうとしたその時、獪岳の顔が近付く。
「善逸、お子さまなお前が思う以上の事になるからな。……覚悟しとけよ」
「お、思う以上の事って…」
「お前には想像出来ない事だよ。覚悟出来るか?」
「……っ!は、はいっ!」
善逸の背筋が、反射的に伸びる。見慣れた漆黒の瞳の奥に、知らない炎が見える。それはきっと男の欲情。ずっと見ていたら焼き焦がれそうになる。善逸はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あんま、食い過ぎるなよ」
顔を離しながら、獪岳は指先で善逸の横腹の肉を摘まむ。
「はい…」
「本当に出来るのかよ」
鼻で笑う顔も、どこか楽しそうだ。「早く寝ろ」をおやすみの挨拶に代えて、獪岳は静かに扉を閉めた。しばしそこに立ち尽くした善逸は、覚束ない足取りで台所に戻る。テーブルの上には置きっぱなしのケーキ。残す程でも無い量だ。しかし。
「明日にしよう……」
ラップを掛けた皿を冷蔵庫に戻し、善逸は洗面所に向かった。鏡に映る耳を自分で撫で、先程与えられた熱を思い出す。
「覚悟……、しないと」
熱い。心も体も。冷まさなければ。善逸は何度も何度も、冷たい水を頬に打ち当てた。