Ⅰ
——ピスキス共和国。セレネイアから逃れて姿を隠していた民たちは、代表代理の代理というなんとも格好のつかない肩書きを持った若い軍師の指揮によって無事に住み慣れた土地へ戻り、安堵の息を漏らしていた。
帰還を喜ぶ人々を更に喜ばせたのは、一年ほど前から行方知れずとなっていたクロウが再び姿を現したことである。オウィの指揮で救援に向かったピスキスの傭兵達は、駆けつけた街道でまさに舞うようにして敵を一掃するその姿に圧倒され、一種の高揚さえ感じたと話す。
「初めて姿を見たが、あれが救世主ってやつか!」
「おい、様をつけろ様を! あんな細っこい体で何ができるかと思ったら、俺たちよりも大きな得物を振り回すとは驚いたぜ」
「でも救世主様がいるなら、あの屍兵や帝国にだって勝てるかもしれないな!」
戦いの後の高揚のまま、若い傭兵達が口々にそう語る。
エールを掲げ勝利の余韻に浸る若者達を横目に見やる一人の剣士は「お前も飲めよ!」と誘われるとそれを断り、いくつか食事を分けてもらうと用はないとばかりにその場を静かに去った。
「ほら、もらってきたぜ」
「イロンデールか、ありがとう」
ベルノルトに用意してもらった宿は海沿いにあった。かつて商業の国として栄えたここでは石造りの建物がいくつも並ぶ。眺めの良い二階の部屋は裕福な商人や貴族が泊まっていたのだろう。古ぼけてはいるが、部屋の調度品は職人の意匠が凝らされているとイロンデールの素人目にもわかるものだった。
イロンデールの呼びかけに窓の外を眺めていたクロウが振り向く。窓枠の向こうには海が広がり、水平線へと落ちる太陽が全てを燃やし尽くすように海と空を色付けていた。
「おい、クロウ様!」
「どうした?」
イロンデールが食事をテーブルに並べていると、違和感を感じた。それもそのはずだ、左腕のグローブから滴るように血が流れているのだから。
「なんだこれは⁉︎」
「ああ、これか。さっきの戦闘でできたんだろうな」
「なんでそのままにしてやがる!」
駆け寄って見ればグローブの一部は大きく裂け、恐らくは屍兵の持っていた剣によって付けられたであろう傷が深く骨にまで届かんとしていた。
——この傷でずっと景色を眺めていたのか? いや、この傷を負ったままあれだけの動きをしていたのか?
答えを探す前に、血を止めなくてはいけない。イロンデールは手早く布を傷口に押し当てると、それを固定した。
「すまない、助かった」
「……いや、とにかく治癒ができるやつを探そう」
静かに、それでいて困ったように笑うクロウの右手を引いて、イロンデールは治癒の術を心得ているという若い軍師の元へと向かった。
「傷は塞がりましたが、数日は無理に動かさない方がいいですね」
左手で拳を作り、一つずつ指を開いていく。感覚を確かめるクロウへオウィは視線を投げた。
「ああ、わかった」
そう言葉を返すクロウをじっと見つめて、オウィは訝しげな顔をしている。
「おい、どうした?」
「いえ、なんでもありません」
イロンデールが眉根を寄せて問うが、オウィがその胸の内を口にすることはなかった。
Ⅱ
「ミツキちゃん、付き合ってくれてありがとう」
「ううん! 私も気になってたから、よかったよ」
翌日、傭兵団へ顔を出し、街の様子を聞いていたクロウの耳にリズとミツキの声が届く。
「どこか出かけていたのか?」
心なしか、リズの目の端が赤い気がする。クロウがそのことについて触れるか触れまいか考えていると、先にリズが口を開いた。
「えっと、父のお墓へ行ってきました」
「……そうか」
セレネイアによる人間狩りの卑劣さ、この世界に呼ばれてすぐにそれを突きつけられたあの出来事。クロウは脳裏に浮かんだ光景に思わず眉を顰めた。
「あっ、あの。もう大丈夫です」
「おばさんも元気そうでよかったね!」
顔を綻ばせながら頷くリズを見て、ようやくクロウはほっと息を吐いた。
◇
「て、敵襲だ! 屍兵が出たぞ!」
扉が開くと同時に転がり込むように駆け込んできた男の声に、一瞬にして空気が張り詰めたものへと変わる。
「どこだ⁉︎」
「城門から続く街道だ! こっちへ来るぞ!」
我先にと武器を手に持つ者、怯えた顔をしながらも身を隠す者、混乱した場面においても足を止める者はいなかった。この一年で、ピスキスの人々は戦う術を、身を守る術を、身につけてきたのだろう。それはつまり、オウィの指揮によるものだ。それぞれが自分に課された責を果たそうとしている。それならば、とクロウは左手を握りしめる。傷は塞がり、支障はない。クロウは城門へ向かって駆けた。
魔法使いの統率を失った屍兵は、本能のままに生きた人間を求めて歩みを進める。戦略も戦術もない戦い方だが、人を凌駕した力や圧倒的な数に手練の傭兵団も苦戦を強いられていた。
「これ以上城門へ近づけさせるな!」
「そっちへ行ったぞ!」
討ち漏らした屍兵は城壁の中にいる人間の匂いでもわかるのか、引き寄せられるように進んでいく。
「うおりゃあ!」
現れた男は長い髪を高い位置でまとめ、それ自体が鎧であるかのように惜しげもなく上体を曝け出していた。赤い腰布が舞うと同時に斧が振り落とされる。脳天から直撃を受けた屍兵は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「お師匠!」
「遅い! なにやってんだ!」
飛び交う怒号には慣れたものといった顔で、ミツキは槍を構えた。その後ろでは風を身にまとったリズが杖を掲げ、加護を与える。少女達の怯えひとつ見せない横顔にドルフは口角を上げた。
城壁の見張り台から戦場を見渡す軍師は自然と口元に手を寄せ、ぶつぶつと独り言を溢していた。不気味だと笑いながら嗜める幼馴染はもちろん隣におらず、敵が集中している最前線にその姿が見える。そちらに向かう視線を意識して全体へ向け、思考を切り替える。戦力の増強は望めないこの状況でいかに犠牲を少なく耐えるか。城壁の中は最悪の事態に備えて民間人の退避は済ませている。しかし、ひとたび城壁内への侵入を許してしまえば、限られた戦力で守り抜くことは難しくなるだろう。多少の犠牲は覚悟の上でも、城壁を死守すべき……。結局、籠城戦とは消耗戦であり、戦況を覆すほどの大きな波がなければ大局も覆すことができないのだ。
「くそっ」
悪態を吐いていても仕方ない。できることをやるしかないのだ。今一度最前線を見据えると、オウィは見張り台を降りた。