約束はしない「終わったぁ」
と、小さく呟いて、屈んだままだった背を伸ばし腕を思い切り上げる。
よく晴れた休日の午後だった。
昨日は任務で、学校に戻ったのは夜の9時を過ぎた頃。部屋に戻ると、無事だけ伝えてメッセージも曖昧に疲れてすぐに眠ってしまった。
朝は迎えに来てくれた棘とゆっくりして、午後は彼の部屋のローテーブルで明日提出の報告書を作成する。
伸ばした腕を下ろして背にしていたベッドを振り向く。
いつもなら、頑張ったねと何らかのおにぎりの具が降って来るのだけど、今日はやけに静かで。
「……棘ー?」
ベッドを見れば、スマホを片手にうつ伏せで目を閉じる棘。Tシャツに薄い上着を重ねて、黒のマスクを着けたまま、肩が規則的に動いていた。静かな寝息が唯の耳に届く。
「任務で疲れた彼女を放置ですか」
今日は休みだし任務もない。昨日も夜遅くまで起きていたのだろうか。口をへの字にして、呟いた言葉に反応はない。
はぁ、と小さく溜息を落として、唯はベッドの縁に肘を付いた。
白い肌に映える長い睫毛は顔に綺麗な影を落とし、さらさらの髪を枕に散らしている。見えない口元の黒いマスクはたぶん、ネックウォーマーの代わりだろう。唯しかいない空間だけど、唯のためだけに気を遣って口元を隠して着けてくれている。
マスクやネックウォーマーを外して口元を見せてくれるのは、食事の時と……。
ベッドの縁から腕を伸ばして、棘のスマホを持つ手にそっと触れた。スマホを退けて、そこに唯の手を滑り込ませる。
重なった掌は、唯のそれよりもひと回り大きくて。白くて細長い棘の指先。でも、男性ならではの骨張ったゴツゴツとした手。
指を絡ませてぎゅっと握って。
もう一度、棘の顔を見た。閉じた瞳は固く瞑られたまま、静かに肩を揺らしていた。
そのまま唯はベッドに登り、棘の横に転がる。シングルのベッドに2人はやはり小さくて、寝転べばすぐ目の前には棘の顔があった。遠慮がちに端に身体を預けたが、数センチで触れてしまう距離。
握ったままの棘の手をやわやわと握り締めたり、離してみたりしてそれを確かめた。
意外と大きいんだよね。
腕も、肩も。手も。
身長はあんまり変わらないのに。
なんて…、冷静に考えれば、ほんのりと頬が熱くなる。
「大好きだよ」
小さく呟く。頬を緩ませて、唯ははにかんでゆっくりと目を閉じた。もう一度絡ませた指先を折って、ぎゅっと握り締める。
瞬間、その手をぎゅっと握り返されて。
「…………っ?!」
ドクン、と鼓動が跳ねて、はたと目を覚ます。
目の前には、紫の深い色の瞳。握った手に力を入れて、悪戯な顔が唯を覗く。
「ツナマヨ」
目を細めて笑う棘。
「…いつから起きてたの…?」
真っ赤になって問えば、棘からは適当な言葉が返ってきた。
「すじこっ」
棘は握った手を離して、もう一度握り直す。悪戯な笑顔が唯を覗き見た。
「明太子〜」
「…始めから起きてたってこと?」
「しゃけ」
体制を変えて唯に向き直り横向きになる棘。
楽し気に笑うその瞳に耐え切れず、真っ赤になった顔を俯いて隠した。
「たぬき」
頬を膨らませて呟けば、軽い言葉が返ってくる。
「こんぶ」
ふっと、笑う声が聞こえて。
「ツナー?」
呼び掛けられてちらりと目線を上げると、優しく笑う棘と目が合った。
棘は空いている反対の手でマスクをズラして、唯の手を持ち上げる。蛇目の呪印が入った口元。
棘がマスクを外して口元を見せてくれるのは食事の時と、唯に触れる時ーー。
棘は持ち上げた唯の手を、口元に運んだ。包み込まれるように握られた手の甲に、そっと口付ける。リップ音が辺りに響いて、唯の胸がまた大きく鳴り出した。
「……棘…?」
絡んだ指を離して、唯の指先を手に取る。ペロリと出した舌先には、普段はあまり見ることのない牙の印。
「…………っ?」
困ったように瞳を揺らす唯を見て、口の端を持ち上げ、微かに笑う。その指先に、優しく口付けた。
ーーそれは、唯の左手の薬指。
戸惑う唯の顔はみるみる赤く染まっていく。
そんな唯に視線を送りながら、棘はゆっくりと唇を離していった。
「高菜」
呟いた棘は、満足そうに目を細めてニヤリと笑う。唯の薬指をツツと爪でなぞり、
「おかか?」
笑って唯を見る。
答えは聞かずに、掌を合わせて唯の左手をぎゅっと握った。棘は唯の頬に顔を寄せる。
「ツナマヨ」
元より否定する答えは唯の中にはない。唯は小さく頷いて、棘の頬に口付ける。
唯もまた、棘の手を握る。どちらともなく自然と指先が絡んで。
いつの日か、
そこに指輪を刻む事が、叶う日が来るのならと。
ただ願うだけ。
End***