闇に溶けるここ数日、食欲が全くと言っていいほどない。確かにいくつも依頼が入り、腹に物を入れる余裕がなかったのもあるが、食べることを面倒だと思っている節がミスタにはあった。三日程携帯食品しか食べていないのは流石にマズイかな、とついさっき終わったばかりの依頼資料を椅子に凭れかかりながら見ていたミスタは立ち上がる。
「何かあったっけな」
冷蔵庫を開けてゴソゴソと漁る。今料理をするようなやる気は出ない。奥の方を漁ると、数日前に買ったコンビニ弁当が目に入った。これでいいか、と賞味期限さえ見ずに手に取る。数日固形食を口にしていないのならばお粥などが妥当なのだが、そんなことを考える冷静な頭は今の疲れきったミスタにはなかった。
「……いただきます」
一人暗い部屋の中で蓋を開ける。冷えきったご飯やおかずは美味いとも何も感じず、ただただ口に食物を運ぶ作業を進めた。途中で腹が膨れたのか、飲み込めなくなってきたが残すわけにもいかないため、無理矢理にも押し込んでいく。食べ終わって手を合わせる。既に腹の中がグルグルと掻き回されているような不快感があったが、それよりも先に依頼資料に片をつけなれければならなかったため、シンクにフォークと空の容器を投げ込み、隣にある事務所へと戻った。
眠い眼を擦りながら椅子を前後に揺らして確認作業を続ける。意図せずゴギュ、と喉から嫌な音がなり、ヤバいと察したミスタはトイレに駆け込んだ。蓋を開け、便座に手をつき下を向く。意識して嚥下の動作を繰り返すが、当然それだけでは吐くことが出来なくて、生理的な涙だけが瞳に溜まっていく。怖いし、後々喉を痛めるから避けていたのだが、ミスタは左手の人差し指を口に突っ込む。思い切って舌の奥を刺激した。何度か強くつついていると、喉仏の少し上あたりが開き、胃液とともに先口にしたばかりの食事がせり上がってくる。慌てて指を抜いて吐瀉物を便器にびちゃびちゃとぶちまけた。無理に吐いたせいか、喉が焼けるように痛い。一度吐いてリミッターが外れてしまったのかは分からないが、腹のグルグル掻き乱される感覚は収まらずに、喉が勝手に吐くような動作を繰り返した。
「げほっ、え……」
引き攣るような咳も止まらず、冷や汗がツーっと額を走る。キュウと喉を締めようとするがそれは逆効果で、そういった流れのように喉が開くだけで、胃液が出てくることもなくただミスタの喉を痛めつける。
「あ"〜〜…………クソっ」
口の中に酸っぱい臭いと、弁当がぐちゃぐちゃに混ざった臭いが充満する。口をすすぎたくて堪らなかったが、吐いたことによって体力を消耗し、動く気力すらない。このまま落ち着くまで待つしかないのか、と無力感と孤独感に襲われて瞳にじわりと涙を浮かべた。疲れか、段々と眠くなってきて瞼が閉じ、頭を便器に突っ込みそうになったところで後ろから勢い良く引っ張られる。
「ミスタ、大丈夫!?」
「ぇあ、シュ、ウ……?」
ぼんやりとした瞳に、シュウの姿が映る。情けない姿を見られた、と働かない頭が無理に動いて誤魔化すように立ち上がろうとする。そんなことで誤魔化せるわけもないが、今はシュウに格好悪い姿を見られたのが嫌で仕方がなかった。
「無理しちゃ駄目。まだ気持ち悪い?吐きそう?」
肩を抑えて再び座らせる。シュウは自身のポケットからハンカチを取り出して、汚れるのを厭わずにミスタの口元を拭う。ミスタはその手を止めようとするが、力の入らない手で抵抗などあってないようなもので、シュウはミスタをそのまま抱き上げる。
シュウが来たことで安心したのか、いつの間にか吐き気も収まっていた。ただ、腹の中が掻き乱される感覚はまだ残っており、シュウの歩く振動さえ辛くて、シュウにしがみついた。
「ご、め……シュウ……」
耳元で気持ち悪いのを抑えて伝える。シュウは黙ったままゆっくりとミスタを備え付けのベッドに降ろし、ミスタの額を軽く指で弾く。デコピンをされるとは思ってもみなかったミスタは、濡れた目を白黒とさせてシュウを見遣った。
「謝らないで、僕が好きでやってるの」
シュウがミスタの事務所に足を向けたのも、ミスタから三日間連絡がなかったからだ。ミスタとシュウはお互いがいくら忙しくても一日一回は連絡を取り合っている。おはよう、でもおやすみ、でも何か一つ必ず送っていたのだ。だというのに、三日間連絡が来ない。一日目は忙しいのだろうと思っていたが、それが二日、三日となると心配になってくる。探偵という職業上放っておいたらいつの間にかいなくなってしまいそうなミスタである。何も言わず行くのも迷惑かな、とも考えたがどうしようもなく心配になってシュウは合鍵を使って扉を開けたのだった。
そして案の定ミスタが倒れそうになっており、慌てて駆け寄る。焦点がしっかりしていないミスタに、話しかけながら様子を見る。前会った時より確実にミスタは痩せていた。相談してくれたら良かったのに、そんなに頼りないかなと頬を噛んでミスタを抱き上げる。そっとベッドに降ろして頭を撫ぜた。
「探偵の仕事をしないで、とは言わないけど……無理はしちゃ駄目だよ」
「で、も」
「依頼人じゃなくて自分を優先して欲しい。いきなりは難しいかもしれないけどさ、僕は顔も知らない君の客よりミスタの方が心配だ」
ぱちくりと瞬く。言われていることが、ミスタにはよく理解出来なかった。これでも、自分のことを大切にしているつもりだ。自分の限界も分かっているつもりだし、だからこそ今日食事を摂った。半分以上流してしまったが取り敢えず暫くは大丈夫だとも判断していた。そんなミスタの思考を読んでか、落ち着かせるために額にキスを落とした。
「一緒に住もうか、ミスタ」
「ぇ、?」
前々から思っていたことだった。お互い忙しいせいで月に二度くらいしか会えない。電話などで会話し、声は聞いているがそれでも寂しさは募るばかりだ。こんな状態のミスタに提案するのはズルいと分かってはいるが、シュウはミスタを目に入るところに置いておきたくて仕方がなかった。自分の知らないところで一人野垂れ死なれては敵わない。それならば、いっそ自分の。
そこまで考えて思考を紛らわせるようにフルリと首を振る。
「僕はミスタと一緒に居たい。ね、ミスタはどう?」
「オ、レは……」
静かにミスタの答えを待つ。
「オレ、すぐにこんな風になるし、シュウに、沢山迷惑かけ、ちゃう」
「迷惑なんかじゃないよ。僕が好きでやってる、って言ったでしょ?ミスタのことが好きだから、大事だからこうやって一緒にいるの」
瞼が震えて、ぽたりとミスタの瞳から涙が零れ落ちていく。嬉しいのか、どんな感情なのか分からずにミスタは慌てて瞳を擦ろうとする。その手を握って、シュウは薬指に口付けた。
「こたえて、ミスタ」
「ぁ……シュウと、一緒がいい」
「シュウじゃなきゃ、ヤダ」
爆弾を投げつけられた気分になってシュウは目を細める。あまりにも愛らしかった。自分だけを求めるミスタが、いじらしくて可愛くてどうしようもない。そんなぐるりと渦巻く感情に気付かないフリをして、シュウはにっこりと笑った。
「それじゃ、今度家探そうか」
「……ン」
「今日は、もうゆっくりおやすみ」
「…………ン」
ポン、ポン、と一定のリズムで胸を軽く叩くとミスタの反応が段々と鈍くなっていく。すぐに軽い寝息を立てて眠ったミスタに安心したような笑みを浮かべて、シュウは息を吐いた。
先の会話を思い出して、やっと。やっと、自分のモノになったのだと、そう自覚する。カーテンを閉め切って、光を通さない室内は暗い感情を闇の中へ隠すように、電気が消された。