盃と朝「あらあ、朝から勤勉ですわねえ、侍大将様?」
「……貴女ですか」
とある城での朝、朝の鍛錬を終え、木簡を盛りだくさん腕に抱えたベナウィが主の執務室に顔を出すと、そこに居たのは思っていた人物ではなかった。
大瓶を傾け、女傑と呼ばれる女性がいかにも朝まで飲み明かしたのだと分かる風景があった。断り切れなかったのか相手をさせられ飲み潰れた皇……ハクオロが床に臥せって苦し気な寝息を見下ろして、盛大な溜息を落とすと、ベナウィは額をこつこつと叩いて木簡を文机へと音を立てぬように下ろした。
部屋の隅においてある毛布を主の肩にかけると、散乱したように転がる瓶と盃を盆に乗せ、未だ飲み足りないとばかりに最後の一滴を盃に乗せようとする手首を握った。
「貴女が酒を飲むのは構いませんし、貴女は実質聖上の直の部下ですから何も言いませんが、聖上に呑ませるのは遠慮頂きたいものですよ。特に今日は他國の大使がやってくる日なのですから。勘弁してください」
「あらごめんなさい? 単にあなたが主さまと酒宴が出来ないから僻んでるのかと思いましたわ?」
「……ありえません」
ベナウィは、下戸という訳ではない。
だが基本的に酒に失敗するのを避ける為、飲む事は任務で必要としない限りは己から飲むことは、絶対しなくなって久しい。
そこに大酒のみの仲間が増えてしまい、こういった肝心な予定の時にハクオロが『役立たず』になり、当人は二日酔いで酷い目に遭ってる事が時折見られるようになったのは彼としても頭が痛いところだ。
まあ腕の良い薬師であるエルルゥが居るので滅多なことにはなっていないのだが、一度大きい集団である親善大使が立ち寄る朝に、ハクオロどころかオボロとクロウまでが纏めて潰されているのを見た時はさすがに雷を落とした。だというのに彼女はまったく堪えた気配がなく、何度となくこのような失策を繰り返すのだ。
これは酔い覚ましを飲んだ後の聖上にモノ申さねば、そう考えた瞬間、視界の薄藍がいくらか細められ、大剣を持つわりに繊細な指先が、主の魘される眉間を撫でていったのを意外そうに見た。
「いくら主さまが完全無欠だとて、男の方で、ヒト、なんですのよ? 逃げたくなる時くらいありましてよ、侍大将さま?」
「……それくらいは承知していますが」
「この方、國交の前日は胃を痛めて眠れなくなっておられることが多いって、知っていましたかしら、ベナウィ」
「……っ それは」
男とて、そんな彼を知らかった訳ではない。
だが何だかんだと、ハクオロは毎回立派にやり果せている。
そんな朝は毎度まいどカルラに潰され、慌てたエルルゥに看護され、薬師に悪かったと言いながら頭を下げて、ほっとした顔をして――。
(……エルルゥ様が居て下さるから、か)
そういった柔らかな部分は、自身には出来ない。
ベナウィはそう己を知っている。
役割分担、以前ぽつりとハクオロがそう言って、何もかも抱え込んでくれるなと彼に言ってくれた事があった。
「……そうですね。私も少しばかり多忙で視野が狭くなっていましたか」
「ふふ、分かれば宜しいのですわ。ところで一献、いかがです?」
「いくらなんでも朝からは不要です!」
きっぱり言い置き、酒宴の荒れた床を拭き取りながら、侍大将はけれどぽつりと。
「……何もないときちんと承知できる時の、夜半であれば、一杯程度なら構いませんがね」
「あら、ケチ臭いですわねえ。ふふ」
少しは柔らかくなったところを見せた男に、カルラは手の中の盃を一気に空にすると、思わせぶりな笑みを溢して部屋を去って行った。
ところで、と、ベナウィが溢す。
「毎回飲むだけ呑んで、片付けをしないのは看過できませんがね……」