万寿菊は散り際に唄う厨房に立ち、忙しなく鍋の前を行き来する。
それは小さな実験を行なう男にすれば、そう珍しくもない習慣であり、料理仲間であるルルティエもそこに伴う事が少なくない。
今日は芋と穀物の崩れた余りを組み合わせて、揚げ物でも出来ないか。
そんな事を自分が呟いた事に端を発して、試しに素案だけでも構築するかと、出来た暇を使ってみることにしたのだが。
「…………」
「………………」
「……………………」
「…………………………なあ、えっと、アルルゥさん?」
ぐいぐいと、無言で黒髪の皇女が、こちらに向かってくる。
料理の手を止めることは出来ず、だが、何も言わないこの辛うじて知人といえる娘がちょっと怖い。
「何、ハク」
「い……いやあ。親善大使の仕事は、どうしたのかと。片割れ……カミュさんだったか、は宴に参加してるんだろう?」
「ああ、カミュちーはクーの所。宴には式神置いてきたから、問題ない」
「……それでいいのか、公務ってやつは」
まじまじと、それこそ瞬きもしないような大きな黄玉をこちらに向け、黒い鍋の中と自分とを観察し続ける少し体躯の大きな娘に僅かに仰け反ってしまう。
それは初対面ではすでにないにせよ、知人というほど近しいものではない間柄としては、あまりに不躾すぎる視線なのは間違いなくて。
これが保護者の姉だという人物でもなければ、遠慮なく追い払えるのだが。
いや、白楼閣の客でない時点で追い払うのが正しいのだろうが、この親善大使をしている皇女さまはどこか妙な圧があって、少なくとも朝から付き纏われているのを、少々気弱な側面のある男が払い切れていないのが実際のところだった。
とはいえ、流石にずいずいと逼ってくる芥子色の双眸の遠慮のなさには辟易しており、まして厨は危ないものも多い。
どうやらこの黙ってさえいれば麗しい見目で、歴戦の猛者だというのだから、妹であるクオンが敵わないのは、ここの女将に対するそれとあまり変わらないのかもしれないと溜息が落ちた。
それでも、自分を含め怪我をしては敵わんと、流石に意を決して男が額にずいと手を置いた。
「何」
「あんたには珍しいものなんだろうが……揚げ物、今は油を使っている。さすがに顔や目に飛んだら危ないし、傷にでもなればこっちがクオンに叱られるだろう。その段差くらいまでは下がってくれ」
「分かった」
押し付けの強い視線が少しだけ緩み、無表情のままながら、一歩距離を取ってくれた。
この皇女というにはどこか野性味があるというのか――ムティカパと呼ばれる大虎を従えている時点で、只者ではないことだけは理解しているが、一國の姫君にしては修羅慣れしているようなそれはどういう事か。
摩訶不思議が横たわるのは、薬師をしているのにお嬢様然としているうえに前線でも戦えるだけの技量を持つクオンにも言えたが、ヒトとなりが良く分からない時点でこのアルルゥの方が正直怖い。
(もしかしてトゥスクルは、女はそんなのが当たり前なのか?)
あまりに失礼なことを考えていると、背後ですんと鼻を鳴らした音に、また小さく溜息が落ちた。
少し前、厨房にルルが珍しいと忍び込んで空にしてくれた記憶は新しい。
今も、どう考えてもこの試作が目当てなのだろうとは分かるが、また食い尽くされては堪らない――その懸念から、先に釘を刺す事にした。聞いて貰えるかは……分は悪いだろうが。
「先に言っとくが、手元のコレはあんたに分けられないからな」
「ケチ」
「試作の試作なんだよ、そんなもの、仲間内以外に渡せるわけないだろ……っ」
返された短い言葉に、自身の思わぬ熱の発露で少しだけハクの言葉尻がきつくなる。
一瞬、こくりと息を飲み、平静に心地を落ち着かせようと試みる。
恐らく、身内であるクオンに限らず、このどこか良く分からん連中に連日振り回されているからか。
正攻法での対処も、裏から辿る何かもうまくいかないことで、どこかしら調子を狂わされているせいだろう――どこかでそう言い訳して、男が首を横に振った。
だが怒りに似た何かを向けられた外つ國の娘は、そんなもの気にした風もなく――さすがに國の代表が、一般人の八つ当たりめいたものなど気にも留めないかと思わされるほど泰然としており、関わるこちらが馬鹿を見そうだと緩く首を横に振った。
恐らく何を言っても背に居る娘は去りはしないし、この試作も奪う気満々だろう。
そんな与太事を脳内で浮かべ、油の中できつね色に染まり始めた衣を、どこか遠い目で眺めてしまう。
ふと、後ろから向けられていた生ぬるいような黄玉の気配が、どこか鋭く針のようなそれに取って代わる。
慌てて振り向けば、その女は何を見たのか。
先程までの伸びやかさが嘘のように――視線だけでこちらを射貫けそうな風体を晒していた。
唾を飲み、だが逃げる事もできないまま、ハクは眉根を僅かに寄せて立ち尽くす。
「なん、だ」
「……クーに帰るよう、説得、協力して」
「それは、出来ん。あんたらの……家族の問題で、恐らくクオンも嫌がっている、なら……自分も関わる気は、無い」
「……おまえが言えば、クーはきっと聞く」
「「だから」だ」
思わず飛び出た自身の言葉に、目の前の芥子色の双眸が瞬く。
男からしても、言う気のなかった妙な言葉は、だがすぐさま首横に振って訳の分からなさを打ち消した。
「自分が何を言おうが、クオンは決めたら梃でも動かんだろ。自分程度が何を言って聞くと思っているのがそもそもおかしいだろうに」
「……おまえ、本気でそれ、言ってる?」
「当たり前だ」
あの嫋やかでしなやかに思える保護者さまは、誰が見ても強い。
肉体的にもだが、そもそも我が強いとすら言える時点で、精神的にずっと自分より大人だ。
稀に幼さを示すことも、均衡の不安定さを見ない訳ではないが――ただ拾っただけの男にすら気を配ってくれる細やかさはあれど、こちらの意見で意志を変えるほど軟弱な筈がないのだ。
そう言い切って、姉のあんたなら知っているだろうと無言で見る。
どこか唖然とした、思ってもいなかった言葉を言われたかのように、アルルゥは動かなかった。
「……どうか、したか?」
「ハクは、馬鹿なのか」
「は?」
「クーは……ううんもう良い。気付いてないなら、むしろ好都合」
「……何だってんだ」
唐突にくるりと向きを変え厨から出ていく背が、一瞬だけこちらに振り返り、落胆したようにじとりと見た気がした。
「どっちにしても、おまえの隣にクーは置いてけない。カミュちーもきっとそういう」
「クオン自身がそう決めたなら、自分は何も言わんさ。聞くとは思えんがな」
「……帰る」
示された言葉が何を言ったのか。
その意味を取る事もできず、どこか苛立った気持ちを押さえられずに鍋に戻った。
「……連れて帰る、か」
単語が鍋に落ち、だがすぐ首を横に振る。
それは無い。
彼女が去るのは、すぐじゃあない。
考えの埒外にあった可能性――いや、未来の事実から目を逸らし、男はそれらを打ち消した。
この先の途――それほど未来でもない場所で、互いの途が別れる契機が起きる事など予想することも出来ず。
今はただ、不気味に足音を残していった、保護者の姉の言葉を振り切っていた。
あの背に、妹が傷つくのが何故か見えた。
そう皇女のひとりが呟いたのを男が知る事は、恐らくないまま。