挿話 去りし人の背中 はっきりさせておかなくてはならない――と、小さく身を縮こまらせて座っている聶懐桑を上から見下ろして、魏無羨はクルリと笛を回した。
「舍身呪は簡単に成せるものじゃない。どうして成功させることができたのか、予想はつくのか? まさか勝算もないのに唆したわけじゃないんだろ?」
鬼将軍と思追の二人を見送り、魏無羨の首の傷の治療を兼ねて事の顛末を報告するために雲深不知処に取って返した際、山門付近で出会した聶懐桑を蘭室へと連れ込んだ。藍氏の仙師に請われて、茫然自失となった沢蕪君に付き添って来たらしい。未だ大半の仙師が事の収拾に当たっていて周囲に人気がないことを良い事に、藍忘機と二人して聶懐桑に知っている事を吐き出させ、事の詳細を明らかにしようと考えたのだ。
聶懐桑は俯いていた顔を上げ、チラリと目を合わせる。そして魏無羨の笑みの中に微かな怒気が滲んでいることを認めるや、再び首を縮こまらせ膝の上の拳をぎゅうと握りしめた。
「分からないと知らないは禁止だぞ。俺は『こいつ』が本当に望んで俺を生き返らせたのかどうか、ちゃんと知っておきたい。もはや元に戻してやることは出来ないが、こいつには墓もないし、俺だけでも死ぬまで覚えておいてやらなくては可哀想だ」
聶懐桑は俯いたまま、小さく頷く。
「八二で勝算はあったよ。それに彼自身が強く望まなくては、舍身呪が成功するわけがない」
聶懐桑の目の前、綺麗に背筋を伸ばしている己の知己の隣に魏無羨はどかりと腰を下ろす。それを待っていたかのように彫像のように静かに座していた藍忘機が『話せ』と短く命じた。
莫玄羽は一四で金麟台へと招かれた。
招かれた理由は、金光揺をこれ以上増長させてはならぬと金光善が妾腹の子供を望んだためだが、それに玄羽が選ばれたのは金夫人の意向が大きい。金夫人は光揺を激しく嫌っていた。孫の金凌の成人までの中継として光善の血を引く妾胎の子供を望んだ際、夫人は真っ先に玄羽の名を挙げた。光善の胤は他にもあったが、夫の乱行に呆れ返っていた金夫人が、その胤を認めて世話をしてやっていたのは玄羽一人である。
玄羽の母は豪族の出の美しくおっとりとした女性で、金光善が夜狩の折に宿を求めた街で見初め、そのまま囲った女性だ。豪族とはいえ只人である女性と大世家の仙師では、何をされても拒むことなど考えられなかっただろうし、許されなかっただろう。玄羽を産んだ折、玄羽の母は金夫人へと自ら文を送った。畏れ多くも名高い仙師の胤を賜ったことを詫び、けして夫人に迷惑をかけることはないのでどうか我が子を自ら育てることを許してほしいと願うものだった。その字は流れるように美しく、夫が侍らせる娼婦のような芸妓に呆れ果てていた夫人は、この者だったら許してやっても良いと思ったようだ。実際、玄羽が四つになる頃には光善は莫家に通うことは稀になり、時折思い出したように金品が届けられるだけとなっていたが、金夫人は玄羽の誕生日には欠かさず金品と衣を贈ってやっていた。そんな玄羽が招かれたのは当然と言えば当然だった。
仙師としての修練を行なっていない玄羽は、招かれた当初は結丹には程遠かったが、母譲りの美しい顔としなやかで美しい身体をしており、母に似ておっとりとした性質は金夫人を喜ばせた。毎朝欠かさず金夫人のために花を生け、茶を煎れ、肩を揉んでやり、息子を失った悲しみを癒そうと一緒に祠堂で手を合わせ、そうしてやっと修練へと向かった。玄羽を担ぐために擦り寄る者も多かったが、金凌が成人するまで夫人の心を慰めにきたのだと言って憚らず、増長する事もなく、常に夫人に付き従っており周囲の評判はすこぶる良かった。実際、柳腰の細い体のため、体術や剣術は不得手だったが、生母とそっくりの美しい字を書き、学ぶことを厭わず、霊力もけして低い方ではなかったようだ。
結丹が遅いことを心配した金夫人の導きで聶懐桑が玄羽と会うようになったのは、玄羽が金鱗台に来て一年経ったのち、玄羽が一五の時だ。
「ほっそりとした姿の美しい、色白で瞳が大きく大人しげで、おそらく金氏では一番の美形だった」
聶懐桑は当時を思い出したのか、小さくため息を吐いて微笑んだ。
結丹が遅い理由は分からなかった。医師の見立てでは、本来ならもう十分に結丹できるだけの霊力も体力もあるはずで、生来の優しくおっとりとした性質のために、少しばかり遅れているのかもしれないというものだった。
しかし、その後三月経っても半年経っても結丹せず、懐桑は請われて何度か玄羽と会った。玄羽は、光揺が懐桑にも煎れてやっていたという結丹のための茶を贈ってくれたこと、滋養のある食材や薬草を玄羽のために取り寄せてくれていることを嬉しそうに話していた。
玄羽が狂ったと言われるのは、光善と夫人が相次いで身罷ってからだ。
修練が遅れた玄羽がようやく結丹の兆しを見せ始めた一六の頃、光善が突然身罷った。悲嘆に暮れた夫人も後を追うように病死し、今際の際に金凌を頼むと文を託された玄羽は、それを金凌の後見となってもらうべく江氏へと送った。その書が蓮花塢に届く頃、玄羽もまた心を病んだとして金氏の離れに閉じ込められたのだ。江宗主は夫人の遺志を汲んで金凌の後見となったが、書を出したはずの玄羽とは顔を合わせることはなかった。
数年後、周囲が玄羽のことを疾うに忘れた頃、玄羽はひっそりと莫家へと返された。表向きの理由は、結丹出来ずこのまま金家に置いておけないためだったが、陰では断袖のためとも、光揺の妻への不埒な恋慕のためとも言われた。玄羽は幽鬼のようにやせ細り、顔を白く塗りたくり、少年の頃の美しい姿は見る影もなかった。
光揺が玄羽に何をしたのか懐桑が気付いた頃には、玄羽は既に莫家で虐げられ、自ら命を絶とうと思い詰めていた。
「玄羽が結丹のためと喜んで飲んでいた茶や薬草は、結丹を促すどころか、逆に結丹を阻むもので、さらにはその体を依代に適した陰質のものへと変えていくためのものだった」
聶懐桑の言葉に魏無羨は唸るような声を上げた。
「依代」
「光揺は玄羽を依代に適した陰質の体にし、絶望させ、献舎させるつもりだったのだと思う。断袖の噂はおそらく偽りで、その身は清く保たれていたはずだ。光揺が復活させたかったのは、おそらく亡き母。彼女は生きるために身を売っていたが、献舎する玄羽の体が清ければその身も清められる。結丹間際まで高められた身であれば、いかに衰弱していたとしても、只人である女性を復活させるには十分だったはずだ」
自分の身に何が起こっているのか、先に気付いたのは玄羽だった。玄羽は、自らの母が実の妹である叔母によって陥れられ、汚され、弱小世家の仙師に金と引き換えにその身を与えられていたことを知った。弱小とはいえ、叔母に世家との繋がりがあるわけがない。繋いでいたのは光揺だった。光揺は自らの母の境遇を玄羽の母に負わせ、自分を認めなかった父の血をひく玄羽を母のために献舎させることで恨みをはらそうとしていた。
光揺の隠された顔に気付いた懐桑が玄羽を人知れず訪ねた時、玄羽は泣きながら懐桑に訴えた。妾腹の自分を恨むのは許せる、だが、母を蔑めたことは許せない。誰かの依代となるしか道がないのなら、母を蔑めた光揺のためではなく、自分の恨みをはらせる者の依代になりたい、と。
聶懐桑は魏無羨の名を出した。おそらく光揺に陥れられた者の一人で、光揺の謀を解明し復讐するにはうってつけだと。ただ、玄羽の持つ霊力では献舎では足りない、舍身呪にする必要があるだろうと。
玄羽は頷いた。復讐のために人を呪うのに、自らの安寧は元から望まない。魂も魄も砕け散り、誰もが自分を忘れてもかまわない。幼い頃には通って抱いてくれた父のため、寂しさを堪えて金家に送り出してくれた母のため、妾腹の自分を虐げるどころか労わり心を傾けてくれた金夫人のため、光揺を滅ぼせるのなら全てを投げ打つ覚悟があると。
懐桑は玄羽に、生前の魏無羨から送られてきていた護符を――座学で燃やした万灯の詫びの手紙に同封されていたありがたい護符を――手渡した。懐桑のために強力な護符にしてやろうと、魏無羨自ら血で描いた護符は、玄羽の手で数画書き加えられ守りの効果を消された。そして、魏無羨の生前の血は、死の淵を越えて呼び戻すための強い鎖となったのだ。
「ああ、そういえばそんな物騒なものを送っていたな、確かに」
なるほど生前の血が鎖となったのなら、この身が蘇ったことも納得できる。だが、最初に懐桑は勝算は八二だと言った。
「勝算の残りの二は、俺が問霊に答えなかったことか」
懐桑は頷く。
「色々な世家が自分勝手な思惑で呼び出そうとしては失敗していた。流石に献舍や舍身呪を試した世家はなかったが」
聶懐桑は俯く。
「聞いていた状況で生きているとは考えにくかったのに、江宗主が陳情を見つけ出した時も周辺にそれらしい服や遺物すら残っていなかった。骨があったという話だったが、風化が激しく断定もされなかった。そもそも江宗主が持ち帰らなかったことからも、明らかに遺骨ではなかったのだろう」
静かに聞いていた藍忘機は、その時初めて口を挟んだ。
「魏嬰、その体、自分ではどのような状態だと考える?」
魏無羨は首を傾げ、小さく鼻を掻いた。
「記憶はところどころ抜け落ちてはいるが、死の寸前、崖から落ちたことは覚えている。体は――そうだな。この体には金丹がないせいもあるが、落ちた直後だと言われても違和感はないな。少なくともお前たちと同い年のままのような気はしない。死んでいた分くらいは皆より若いだろう、たぶん」
「玄羽が家に帰されたのは二十の時だ。理由はおそらく再び金光揺が抱え込んだ薛洋が玄羽に興味を持ったからだと思う。玄羽は返される直前、幽閉されていた部屋に度々黒衣の青年が現れて、吐くまで無理やり食事を口に詰め込まれたと言っていた」
魏無羨は大袈裟に眉を顰めた。
「なるほど、光揺が復活させたいのは母だから、痩せていようが霊力が乏しかろうが構わないが、薛洋が復活させたいのは仙師だから、喰わせて霊力を増やそうとしたわけか。まあ、それでも記憶が最期まであるということは、俺はやはり死んだと考えるべきだろう、実際、捨身呪で蘇ったのだし」
「では、何故問霊に答えなかった? 死んでいれば答えるはずだ」
藍忘機の静かな問いに答えたのは、魏無羨ではなく聶懐桑だった。
「体の一部が――というより体でも魂魄でもない、ある意味で仙師のもう一つの命とも言うべきものが消えずにこの世に残っていたからかもしれない」
「金丹か!」
懐桑はコクリと頷いた。
「護符と同じく、この世と魏無羨を繋ぐものとして、生きたままの金丹が残っていた。――もちろん、これは蓮花塢での大騒ぎと観音堂での話を聞いてようやくわかったことだけどね」
舍身呪は容易に成功はしない。術者の持ち合わせた霊力と身を捨て去るだけの激しい憎悪が必要で、加えて引き出される側との間にある強固な鎖が必要だ。
「強力な邪祟や聖獣が出るような魔境には時の狭間が存在するというし、霊力が高い仙師は自らの命を使って時の狭間を作れるとも言うから、瀕死の状態でそういった所に居た可能性も考えられるけど、生きているとも死んでいるとも言えない状態になったのは金丹がこの世に残っていたからかもしれない」
聶懐桑は俯いたままため息を吐くと、低く小さく問いかけた。
「とても嫌な話をするけど、乗りかかった船だ、聞いてもらえる?」
話せ――と魏無羨は静かに答えた。
「光揺は密かに我が兄と鬼将軍を手駒にしようと試みていた。でもそれだけじゃない。温情も駒にしたかったようだ。ただ、欲しかったのは彼女の知識と医者としての手技だ、普通に傀儡にするわけにはいかない。光揺は温情を脅していたようだ、既に魏無羨は死んだ、弟への拷問を止めたければ全ての知識を吐き出せ、自分に仕えろと。死を覚悟していた温情は首を縦には振らなかった。仕方なく薬を使い、彼女から様々な事を聞き出そうと拷問が何度か行われた。そういう記録が残っていた。その中に、『彼の二つの命は生きている。きっとその命がお前の悪を暴いてくれる』という言葉があった。不思議な言葉だと思っていたんだけど、それが金丹の事だとは思わなかった」
「二つの命」
藍忘機は小さく呟く。
一つは金丹だろう、それは仙師の命と言ってもいい。だが、もう一つは?
「馬鹿だなぁ、温情は。本当に馬鹿だ。適当に嘘を言ってほんの少しの自由さえ手に入れれば、そんな拷問を耐えなくても、楽に死ねる薬くらいすぐに作って自害できたろうに」
本当に馬鹿だ――呟きと同時に、ポツリと雫が一粒、魏無羨の胸元に落ちた。
「温情がよく『私たち一族のために死ぬ必要はない』って言ってたから、いつも言い返してたんだよ。『仙師としての命は江家で貰った、だからそれは江家に返した。人としての命は両親に貰った、それはこの世で命と引き換えにしてもいいと思えるたったひとりのために返すと決めてるんだ、だから安心しろ』って。温情は、自分の命を金のように勘定するなって、怒ってたけどな」
――あなたの命は、あなたのたった一人のためにとっておいて。私は私の購いたいものを自分の命で支払うから。
動かない体で温情の小さな背中を見送った時、口に出さずに彼女が伝えた言葉を聞いた気がした。
「温殿はどうなったのだ」
「どうやら、金家の奴婢の中に温情を助けたいと思う者が居たらしい。奴婢の手引きで牢を抜け出し、山中で自害したようだ。遺骸は見つかっていないが、その山中には深い竪穴が幾つもあって、おそらくそこに身を投げたのだろうと。手引きした奴婢はどうにか逃げおおせたようだが、記録は残っていない。その頃はまだ金夫人が存命で、夫人は温情が捕われ拷問されていた事を知って激怒して、奴婢の追跡をやめさせたんだ。温情は江殿の出産を案じて、金夫人に様々な助言を伝えていたらしい。もちろん名は伏せられていたけど、おそらく金夫人は気付いていたんだろう。当代一の医師の助言は有り難かっただろうな」
「座学で知り合って以来、師姉と温情は文を交わしていたようだったからな。師姉は霊力と体力が釣り合わず、よく体調を崩しがちだったから」
月足らずの難産で生まれたという江厭離は、どうしても体力に劣った。親譲りの霊力の強さが災いして無理をすると身体の方を損なうので、虞夫人は御剣すら許さなかった。御剣しないため、霊力が低いと見くびられることもあったが、江厭離はそんな中傷は歯牙にも掛けなかった。金夫人が是非とも嫁にと願ったのも、もちろんその気立の良さや聡明さも好ましかったのだろうが、生まれ持っての霊力の高さゆえだ。
「温殿は何故――」
そこまで言って藍忘機は言葉を止めた。思慮深く目を伏せ、口を引き結ぶ。
「俺に気兼ねするな。どっちみち自害という道を選ぶのなら、どうして何度も拷問に耐えたのかと聞きたいんだろう?」
聶懐桑は目を伏せたままの藍忘機と足を崩して笛を回している魏無羨とをしばらく見つめ、小さくため息を吐いた。そして、これはまだちゃんと確認していないことだから内密にしてほしいと断って、言葉を繋いだ。
「最初はおそらく、鬼将軍の事を心配したのだろう。容易に操られるようになったとわかれば、嘘をついてでも牢を出て、弟を鎖から解き放つつもりだったと思う。彼女はそういう人だった。だが、鬼将軍は容易に操られなかった。思考を奪い意志を奪っても、指一本すら動かせなかったようだ。そうと分かれば温情にはこの世の未練はなかったはずだ。だが、実際には温情は囚われてから半年もの間を牢で過ごした。その間に薬を盛られ暴力を振るわれたのは、記録に残されていた限り四回はある」
「四回――」
「手引きをした奴婢はかなり早くから世話係になっていたから、もっと早く牢を出ようと思えば出られたはずだ、何か目的があって留まったとしか考えられない。その目的がずっと分からなかった。――ただ、この数年、気になっていることがあるんだ。光揺の手前、大して調べることはできなかったが、辺境で何箇所か明らかに疫病が減った地域がある。旅の薬師が薬の作り方を教えたという噂もある」
「逃げた奴婢か!」
「おそらく」
聶懐桑は頷いた。
「牢の中で自らの知識を書に認め、それを奴婢に託したのだと思う。疫病が減った村は、温情が逃れた方角とは真逆にある。追手を引きつけ、奴婢を逃がそうとしたんだろう」
死ぬと決めた後、自らの知識を恵まれぬ人に残すために拷問に耐えた。温情とはそういう女性だった。女性でありながら一族を率い、医師として可能な限り人を助けようとした。一族の命と温氏の悪行を秤にかけ、いつも必死に可能な限りその秤を正の目盛りにしようとしていた。
「温情は本当に――」
本当に馬鹿だ――
震える声を聞いて、藍忘機は伏せていた瞳を上げた。
「温殿が身罷った場所は何処か分かるか」
分かる――と聶懐桑は答えた。
その場所は低い木々が疎に生え、大きな岩が行く手を阻むようにそそり立っていた。岩影や木々の合間に、やっと人が通れるような割れ目が幾つも顔を覗かせ、その多くは深く裂け目となっている。落ちたらけして地上に戻れない――そんな穴だ。この穴のどれかに、彼女は身を投げたのだろう。
「始めよう」
藍忘機は白い衣をゆったりと広げ、安座した膝に愛琴を広げる。問霊だ。
よく通る琴の音が、わずかに残った木々の葉を揺らす。
安らかな調べの最後の音が消えた後、程なくして小さくビンと弦が弾かれた。
「温情か」
コクリと忘機が頷く。
琴を鳴らしては小さな応えを聞く。
魏無羨が現世に呼び戻され光揺を滅し、弟は傀儡の鎖を外され、今は一族の弔いの旅に出たこと。
ただ一人残された温氏の子供は、藍忘機の養子として藍氏の仙師となったこと。
願いを託した奴婢によって、疫病から救われた村があること。
彼女に伝えたいことは山ほどあるようでいて、実際にはただ一つだ。
『全てを任せて、安心せよ』
ビンと弦が鳴く。
しなやかな白い指が安息を奏で始めたのを聞いて、魏無羨は笛を唇に当てる。あの閉ざされた飢えと貧しさしかなかった小さな住処でも、よくこの笛を吹いていた。吹き終わって固い岩の寝床に帰ると、誰もいない寝床の申し訳程度の掛け布は綺麗に畳まれ、小さな欠けた器に入れられた白湯が置いてあった。温情はいつでも、目覚めぬ弟と同じように魏無羨の世話し、目覚めぬ弟の代わりに魏無羨を叱りつけた。それに慣れてしまったのか、弟が目覚めたあとも同じように魏無羨を叱っていた。出来の悪い弟がひとり増えたとでも思っていたのだろう。
最後の琴の音が消えると、小さく何度か弦が鳴り、そのままもう応えはなかった。
「温情はなんて?」
藍忘機は問いには答えず、ただ優しく微笑んだ。
「温情は思いを残すことなく逝ったか」
「逝かれた」
「そうか」
まるで飛び立った見えない命を見送るように、魏無羨は空を見上げる。その背を眺めながら、藍忘機は最後の琴の音を思い出した。
――ありがとう。ごめんなさい。
問うてもいない琴の音に勝手に応えて、彼女は逝った。
「今度、ここに思追を連れてこよう。温情が命で支払って購ったのは、きっと思追の命だから」
旅立った彼女の命は、温家の最後の二人が作る塚で眠るのだろう。
「次は何処へ行く」
藍忘機には仙督の打診が来た。観音堂の始末が終わるまでの短い間で手早く決着をつけなくてはならない。
「莫家へ」
「うん」
住むものの居なくなった莫家は既に朽ちかけていた。がらんとした家の中庭を抜け、既に扉が外れ剥き出しになった小屋へと足を運ぶ。目覚めた時には残っていた禍々しい陣も消え、吹き込んだ土と木の葉が壁の隅に奇妙な塊を作っている。
藍忘機は安座し、琴を弾く。思った通り、琴の音に応えはない。
魂も肉体も、生きた記憶も喜びも、その全てを捨ててただ復讐のために最後の刻に命を燃やした青年。金氏では一番の美形だったと聶懐桑は言った。美に厳しい彼の言葉に嘘はないだろう。結丹していたら、光揺の陰謀がなければ、もしかしたら今では金凌の良き兄であり片腕になっていたかもしれない青年。
「ありがとう。ごめんな」
魏無羨は懐から仮面を取り出し、そっと部屋の真ん中に置く。
墓もない。あっても弔う人も居ない。形ばかりの墓を作るより、彼が最期の刻を生きたこの場所で弔ってやりたい。
「お前を苦しめた光揺は死んだよ。悪事は世に知らされて、お前を利用しようとした悪いやつはみんな死んだ」
お前は何になりたかったんだろう――美しい字を書き、夫人のために花を生け茶を煎れ、周囲を羨むことも憎むことも、驕り高ぶることもなかった、玄羽というまるで太陽の使いの烏のような名を持っていたお前は。滅びた太陽を呼び戻す僕のように、ひっそりと名前だけの存在になってしまったお前は。
「お前がくれた二度目の生を、お前に恥じないように生きるよ」
藍忘機が安息を弾く。
地面に置いた仮面を優しく撫でて、魏無羨は小さく『おやすみ』と呟いた。この仮面は、莫家で弔った後、金家の祠堂に納めても良いと金凌から許しを得ている。
安息の最後の一音が消えるのを待って、魏無羨は立ち上がった。
「行こう、藍湛」
この仮面を金家へ届けて。
温家の塚を詣でて。
思追と温寧に、温情が逝った場所を教えてやって。
綿綿に事の次第を伝えて安心させたいし、できれば金凌に会ってもらいたい。
温情の知識を辺境にもたらした奴婢の足跡も辿りたい。
仙督着任の催促が来るまで、それまでは二人で。
それからは一人で。
行こう。
過去の苦しみを捨てて、過去のしがらみを捨てて。
あの時、真っ白で綺麗な、心に決めたたったひとりを正しく美しいままで残すために、そのたったひとりのためだけに自ら手放した未来へ。
そのたったひとりに手を引いてもらいながら、あの時は進めなかった光の道を、未来へ。