忘羨ワンドロワンライ【おままごと】「忘機の様子はどうだ?」
藍啓仁は忙しなく髭を撫でつけながら、目の前で一礼した藍曦臣に問いかけた。
「私の部屋で寝かせています。熱が高いので薬湯を飲ませました。熱が出たのは風邪のせいですが、医師はむしろ膝の裂傷の方が心配だと。薬膏を毎日塗り直し、しばらくは膝を酷使させぬ方が良いそうです」
藍啓仁は顔を顰める。雪の中、冷たい石畳の上に長く跪いていたのだ、幼い膝はどれほど痛んだだろうか。迎えに行った頃は既に痛みを通り越し、何も感じなくなっていたに違いない。
「しばらくは私の目の届くところに置いておこうと思っておりますが、よろしいでしょうか」
藍啓仁はしばし熟考する。藍曦臣は結丹したとは言え、まだ少年の域を出ない。座学は自室で行うこともできるが、剣技については兄弟子に混じっての修練が必要だ。だが、藍忘機が無理せぬように目を配るとなると、他の門弟に任せるというわけにもいかない。
「そうせよ。午前中の剣技の修練の際には儂の居室に連れてきなさい」
藍曦臣は安心したように小さくため息を吐き、深く一礼した。
藍曦臣は弟の藍忘機が不憫でならない。母は産後の肥立ちが悪く体調を崩しやすくなり、藍忘機は母との面会の機会が限られてしまった。藍曦臣には母と一緒に数多くの節句を祝った記憶があるが、藍忘機にはほとんどその記憶はないだろう。面会が限られるため、藍忘機に会える日には母は必死に元気なふりをしていた。藍曦臣の前では母は無理をせず、床で手を握って話をしたりしていたので、藍曦臣にはこの日の覚悟があったが、元気な姿しか知らないまだ六つの藍忘機は、母が突然鬼籍に入ったことが理解できない。優しい笑みを浮かべて戸を大きく開き、駆け寄る藍忘機を抱きしめてくれる、そんな母を待ち続けて、幼い藍忘機は静室の前から動こうとしなかった。そして倒れて熱を出したのだ。
「曦臣、お前もしっかりと体を休めなさい」
「はい叔父上」
藍曦臣はもう一度深く頭を下げた。
「お! 目を覚ました! お婆婆、目を覚ましたぞ!」
「誰がお婆婆だ。姐姐と呼べ」
目の前に突然現れた大きな輝くような瞳と、耳がキンとなるくらい大きな明るい声に、藍忘機はキョトンと首を傾げた。質素を通り越して粗末と言った方が良いような天井には、なにやら怪しげな草が幾つもぶら下がっている。少なくとも雲深不知処ではない。藍忘機にはここがどこかは分からない。藍忘機は未だ一度も雲深不知処を出たことがないからだ。
「どれ、顔をお見せ。ふん、お前のように恵まれた子が来るのは珍しいね、熱で魘されて迷い込んだのか。まあいい、一晩くらいは診てやろうか」
姐姐と呼ばれるには薹が立った女性からは、青草の清々しい香りがする。
「薬湯を煎じるのか? 俺、手伝おうか? 麻黄か? 葛根か? 甘草は入れるか?」
「これ、ままごとと一緒にするでない。お前は汗を拭いておやり」
藍忘機は、目の前で大きな声で騒いでいる子供をまじまじと見つめた。歳の頃は藍忘機と同じか少し幼いくらいだろう。痩せた体にまとった衣は薄く、端々がほつれた季節外れの夏衣だ。寒いのではないかと心配して、藍忘機は自分の上衣を渡してやろうかと布団の中で胸元を改めたが、着ていたはずの上衣はなく、代わりに里衣の上に薄い綿の入った寝衣の上着を羽織っていた。今日は母と会える日で、母が扉を開けてくれるのをじっと待っていたのではなかったか、いつの間に寝支度をしたのだろうと藍忘機は首を傾げる。
「よし、汗を拭いてやる。起き上がれるか?」
藍忘機の戸惑いなどお構いなしに、子供は藍忘機の背に手を当てて起き上がらせる。湯を含ませた真っ白な布で額や首筋を拭われて、藍忘機はそこでようやく自分が抹額をしていないことに気が付いた。慌てて額を探り、周囲を見回す。
「抹額は最初から着けていなかったぞ。誰かに取られたわけではないから安心おし」
その言葉に藍忘機は胸を撫で下ろす。そして、女性が自分の素性を知っていることに気付いて再び首を傾げた。
「なんだ、そんなに首を傾げて。迷い込んできたわりに、覚めているのだねぇお前は。お前が理解しやすいように言えば、ここは夢と現の隙間のような場所で、夢と夢とが時折混じり合う。このクソガキはここの常連で、よく迷い込んでくる。たぶん、共情の素質があるのだろうね。道端に落ちていたお前を拾って連れてきたのもこいつだ」
こいつと呼ばれた子供は、女性に向かっていーっと歯を剥き出して顰めっ面をしてみせる。
「今日のお婆婆は薬仙だな。初めて見る。いいな、薬を使えればみんなを助けられる。俺にも教えてくれ」
「焦らずとも、いつかお前も学ぶことになるだろう。何度も言ったろう? ここでの事は目が覚めれば忘れるが、心の奥に残っていて、遠い未来に興味を抱くことになるのだと。お前は初めてと言ったが、覚えていないだけで、今までも薬仙としてお前と会っているぞ。お前が薬の処方を知っているのはそのためだ」
朧げにしか理解できない藍忘機を置き去りにして、二人は楽しそうに話を進める。
「そうなんだよな。忘れちゃうんだよな。惜しいよな」
子供はそう言うと、藍忘機を振り返り、にこりと笑いかけた。
「おれは家を探して旅をしてるんだ。蓮花を見たことがあるか? 蓮の花が咲いている家なんだ」
藍忘機は首を振る。
「絵では見たことがある。それに実や根は食したことがある」
うんうん、と子供は首を振った。
「おれも食べた事はあるな。でも、根っこや実だけじゃ花の想像がつかないんだよ」
こんな――と言いながら藍忘機は両手首を合わせて十の指を丸く開いた。
「こんな花だ。兄上は薄紅の美しい花だと言っておられた」
「兄上か。いいな兄弟が居るのか。俺は一人なんだ。もし兄弟が居るなら、おれは姉上が欲しかったな。甘やかしてもらう代わりに、おれが守ってやるんだ」
子供は輝くような笑顔を見せた。
「ほら、薬湯をお飲み。今出ている熱はちょっとした風邪だから放っておいても問題ないが、お前の膝は問題だ。あとで酷く膿まないように薬を煎じた。苦味消しの蜂蜜が入れてあるが、少々苦いのは我慢しろ。薬を飲んだら、目が覚めるまで好きなだけ話すがいい。ここで会ったのも縁だろう」
藍忘機が小さな器を受け取ろうとすると、横から小さな手にパッとそれを取り上げられる。
「飲ませてやる」
子供は大真面目な顔をして、器の中の薬を小さな匙で掬い、ふうふうと息を吹きかける。
「ままごと好きだなぁ、お前は。付き合ってやってくれ、家族が恋しいのだよ、このクソガキは」
揶揄われてふんと唇を尖らせた子供を眺めて、藍忘機は戸惑ったように目を伏せた。藍忘機にとって、甘い汁物や菓子を匙で食べさせてくれるのは母だけだった。特別甘味が好きというわけではなかったが、そうして母に食べさせてもらう甘味は、本当に美味しかった。
「ほら」
差し出された匙を戸惑ったように眺め、差し出してくる子供の顔と見比べる。そして、そろそろと藍忘機は口を開いた。
薬は苦かった。だが、飲み下すと、舌にとろけるような甘さが残った。胸を締め付けるような甘さに、藍忘機は小さくため息を吐く。母に食べさせてもらう時もそうだった。口に入れられる味とは別に、小さな胸を打つ甘いときめきがいつも藍忘機の胸を締め上げた。
「苦いか? 大丈夫か?」
心配そうな子供の顔を見て、藍忘機はコクリ頷く。
「よし、飲んでしまおうな、頑張れ」
少年はふうふうと薬を冷ましては、せっせと藍忘機の口へと運ぶ。藍忘機は最後のひと匙を飲み込むと、布団の端を少し捲り上げた。
「寒いだろう?」
藍忘機のその仕草が自分を床の横に誘っているのだと気付いて、子供は嬉しそうに笑うと冷えたか細い足を遠慮なく布団の中に忍び込ませた。
「草原に寝転んで空を見上げると、全部星空なんだ。ずっと見てると星が少しずつ動いているのが分かる。そんな時、思うんだ、おれは一部始終を見たんだと。他の誰も見ていない星が動くところをおれは見た、おれはその時の世界の全部を見たんだ、って」
雲深不知処を出たことがない藍忘機にとって、一人で旅をしているという子供の話は全てが驚異的だった。
「私は真夜中の星空を見たことがない」
藍忘機の呟きに子供は『仕方ないさ』と返す。
「だって、寝る時間が決まってるんだろう? しかも、その規則を破ると怒られちゃうんだろう? 仕方ないさ」
「北斗星君を中心にぐるりと星が回る、と書では読んだ」
「そう、ぐるりと回る。面白いよな」
子供は旅をしているらしい。親は居ない。親を待つ代わりに自分で親の家を探すことにしたそうだ。冷えた万頭を齧る日もあれば、何も口に入れられない日もある。人里では人の善い老爺が庭で実った果実をくれたりするし、人里を離れれば野生の木の実を拾ったりもする。川で魚を釣り上げたこともあるという。
「もちろん、豪華な食事を夢見る日だってある。ふかふかの万頭や焼いた雉肉とかな。でも、おれ思うんだけど、豪華で珍しいものを嫌いな奴と一緒に食べるより、たとえカチコチの小さな万頭でも、大好きな奴と半分ずつにして食べた方がずっとずっと美味しいんじゃないかと思うんだよ」
「うん」
少年の感じ方、考え方は藍忘機にとって好ましかった。雲深不知処で童が最初に教わるのは『分け合う』ということだ。私利私欲に走らず、お互いを大切にし、相手を自分と同じと考えて分け合う。食事も布団も。――そう、ちょうどいま、少年と温もりを分け合っているように。
『くしっ』
可愛らしいくしゃみを耳元で聞いて、藍忘機は慌てて綿入れを脱ぐと、少年に着せ掛けた。
「お前、熱が出てたんだぞ。おれに綿入れくれてる場合じゃないだろう?」
藍忘機は首を振る。
「体が熱くて汗が出る。寒くなるまでは君が着ていて」
少年は汗ばんだ藍忘機の顔を眺めると、すぐさま湿らせた布でその汗をそっと拭った。
「寒くなったらすぐに言えよ」
藍忘機は、季節外れの薄い衣しか纏っていなかった少年のか細い体が自らの柔らかな綿入れに包まれたのを眺めて、ホッとしたように静かに目を伏せた。ここが雲深不知処なら、すぐにでも自分の行李から衣を取り出して少年と分け合うだろう。
「どうした、少し疲れたか? じゃあ、横になろう。大丈夫だ、隣にちゃんと居るからな」
少年に支えられて床に横になり、藍忘機は素直に目を閉じた。
「お前、いつもはもう眠っている時間なんだもんな。しっかり眠れ。目が覚めたらきっと熱は下がってる」
布団な中で子供の細い指が、そっと藍忘機手を握ってくれるのを感じて、藍忘機は微かに微笑んだ。
「ふふ、ようやく笑ったな、お前」
ヒュウと風が頬を打って、魏無羨は目覚めた。村外れの祠の脇にある大木の根元で風を凌いで眠っていた魏無羨は、小さく丸まった自分の体に色褪せた紺染めの薄い男物の綿入れが掛けられていることに気が付き、体を起こした。見れば祠には新しい供物が捧げられ、蝋燭が一つ灯っている。祠に参りに来た村人が、見るに見かねて綿入れを掛けてくれたのだろう。
村人が残してくれたのは、綿入れだけではなかった。足元に、大きな葉を器にして万頭と干した果物が置いてあった。供物中から魏無羨のために分けてくれたのだ。
「ありがとうございます」
魏無羨は祠に向かって手を合わせると、そっと冷めた万頭を両手で包み込む。
大きな町では簡単な届け物などをして駄賃を貰うこともできるが、小さな村ではそんな機会さえない。だから、小さな村が続くとどうしても飢えてくる。夏のうちは、藪の奥に実っている野生の果物で飢えが凌げたが、秋の実りの時期が過ぎると、それも難しくなった。
魏無羨は万頭を少しだけ千切って口に入れると、たっぷりと時間をかけて噛み締め、飲み込む。そして残りを全部懐に仕舞い込むと、大きな綿入れを体に巻きつけて、登ってくる朝日を見つめた。
朝だ――と藍忘機は気付いた。柔らかな木目の天井は、自室ではない。この優しい香りは兄のものだ。
藍忘機が身を起こすと、枕の横にきちんと畳まれた抹額があった。兄が外して置いてくれたのだろう。
布団からそっと滑り出ると、微かに膝に違和感を感じる。寝衣を捲り上げると、両膝には厚く包帯が巻かれていた。
藍忘機はすぐに昨日のことを思い出した。雪の中、開かなかった扉を。薄暗くなっても灯が灯らなかった母の部屋を。
「忘機、起きたのかい?」
背後から声をかけられ、藍忘機は振り向いた。藍忘機のために自室で朝餉を摂ることにした藍曦臣が、食籠を提げている。
「兄上」
藍曦臣はすぐに籠を置き、藍忘機の額に手を当てる。
「ああ、熱は下がっているね。食事はできそうかい?」
こくりと藍忘機が頷くのを見て、藍曦臣は嬉しそうに笑った。
「では卓においで。久しぶりに一緒に朝餉を食べよう」
藍忘機の目は、藍曦臣が卓に並べた朝餉の皿の中の小さな万頭に引き寄せられた。万頭の話を誰かとした――そんな夢を見たような気がする。
「万頭が食べたいの?」
欲しいという感情をあまり露わにしない弟が、珍しく万頭をじっと見つめていることに気が付いて、藍曦臣は嬉しそうに問いかけた。
「おいで忘機」
藍曦臣は藍忘機を座らせると、そっとその手に万頭を置いた。
「ゆっくり噛んで食べなさい」
母の異変を理解できない幼い弟をどうやって慰めたら良いかと思案にくれていた藍曦臣は、目覚めた藍忘機が思っていたよりずっと落ち着いていることに深く安堵した。昨夜、最初のうちは藍忘機は酷く魘されていたのだ。夜半過ぎからようやく熱が下がり始め、息も表情も穏やかになった。
――たとえカチコチの小さな万頭でも、大好きな奴と半分ずつにして食べた方がずっとずっと美味しいんじゃないかと思うんだよ。
藍忘機は、何か大事なことを思い出せていないような気持ちを抱えたまま、手の上の柔らかな万頭をゆっくりと半分に裂いた。
「兄上、兄上は蓮花をご覧になったことがあるのですよね?」
唐突な藍忘機の問いかけに、藍曦臣は小さく目を見開いた。
「雲夢に叔父上の使いで文を届けに行った時に、美しい蓮池を見せていただいたよ」
藍忘機は二つに裂いた万頭に目を落とした。
「夢を――夢の中で蓮花の話をしたような気がするのです」
「そう。きっと良い夢だったのだね」
あまり表情を露わにしない藍忘機の唇が微かに笑みを含んだのを見て、藍曦臣は嬉しそうに笑った。