忘羨ワンドロワンライ【手懐ける】「小蘋果、世話をしに来たぞ、起きてるか?」
小蘋果は大きな耳をピンと伸ばした。僅かに首を持ち上げて体を震わせ、折り曲げた脚の隙間に体を寄せている兎を起こして退かすと、ぐんと首を伸ばして小屋の扉を振り返る。簡単に開け閉めできる小屋の戸を押し開け姿を現した黒い影を見て、小蘋果はイーっと口を開けて歯を見せた。見ようによっては笑っているようにも見えるその顔は、小蘋果が嬉しい時に見せる表情だ。かれこれ三日、魏無羨は姑蘇藍氏の門弟に代わって小蘋果の世話に来ていた。藍忘機は仙門百家あげての大きな話し合いのために門弟を多く引き連れて金麟台に出かけている。年嵩の門弟たちが藍忘機の補佐のために駆り出され、年少の門弟たちがその穴を埋めているため、小蘋果の世話は魏無羨に回って来た。
「冷泉の水を汲んできたぞ、体を洗ってやろう、おいで」
ヒョイと首の飾り輪を引かれて、小蘋果は四肢を踏ん張って体を起こす。小屋の外の風は暖かく、桶いっぱいの水は小蘋果のために三つも用意されていた。
「今日は珍しく暖かいからな、隅々までしっかり洗ってやるぞ。お前、水浴び好きだもんな」
魏無羨は袖を絡げ、桶に棕櫚の皮を丸めたものを突っ込み、小蘋果の体を洗い始める。かつては黒々としていた毛並みは、芦毛かと思うほど白く変わった。旅をしていた頃は魏無羨を乗せ、雲深不知処に居付いてからは幼い門弟と共に果樹園からの果物を背に乗せて運んだりしていた小蘋果は、最近はその背に何も乗せることはない。
「気持ちいいだろ? 今日は天気がいいから、体を洗ったら少し散歩するか?」
小蘋果は歯を剥き出して、ブフンと嘶いた。
魏無羨は桶の中を覗きにくる白兎たちを踏まないように気をつけながら、小さくて脚の強い旧友の体を丁寧に洗った。
おれがはじめて知った世界は、あまりおれに優しくなかった。
母親から引き離されて、首に付けられた縄を引かれて連れて行かれた先は、大きな屋敷の裏手の畑が広がっている所で、二つある小屋のうち小さい方に放り込まれて、毎日畑仕事をさせられた。世話は杜撰で、水が汚れていたり、時々干上がって水がなくなることもあった。十分な餌もなくて、仕方なくその辺の硬い草を噛んだ。そのせいで、おれのまわりはいつも土がむき出しになって黒々としていた。
ある日、残りの小屋に放り込まれたのが、黒いのだ。でもその頃は薄っぺろな白っぽい服を着せられていた。正直、おれは黒いのの方が似合ってると思う。そこそこ立派見えるしな。
黒いのが来て、おれの世界は少し楽になった。水が汚れていたら替えてくれたし、時々自分の持っている果物もくれた。だから、黒いのがおれの縄を引っ張って屋敷を飛び出し、街を出て旅が始まった時も、まあこいつとならいいかと思ったのだ。ただ、黒いのを乗せて歩くのは重かった。降りて欲しくて止まると、止まるなと言って小枝で尻をペチペチ叩いてくる。何度振り落とそうと思ったかしれない。
黒いのが倒れて、一緒くたに山に連れてこられて、白いのにたっぷり餌を貰えるようになってようやく気付いたが、実は黒いのはたいして重いわけじゃなかった。おれがひもじくて力が出なかっただけだった。山でたっぷり食べさせてもらってから、白いのも一緒に旅に出た時は、もう、黒いのを重いとは思わなくなっていた。
白いのと居ると、黒いのは楽しそうだった。宿に泊まる時は、白いのが宿の馬番に銀子を渡してくれるから、たっぷりの藁も餌も用意してもらえる。おれはご機嫌だった。おれを連れて行けない時は、白いのが農家に銀子を渡してそこに預けられた。農家にはたいてい童がいて、おれは童の乗馬の相手になった。童なら二人一緒に乗られても軽々で、餌も美味いし仕事もなくて気楽だったが、それでも時々、おれは黒いのを思い出した。
川があれば、丁寧におれを洗ってくれた。
ごくごくたまに、おれの好物の林檎を買ってくれて、自分で一つ食べて、残りの三つはおれにくれた。
時々、黒いのは笛を吹いた。合わせて嘶くと、ヤツは大笑いした。
毎朝、新鮮な若芽が芽吹いている草むらを探して連れて行ってくれた。
おれの背中でブツブツ文句を言うくせに、自分のための水を汲む前に、おれのための水を汲んだ。
「小蘋果、門弟たちが頭が良いっていつも褒めてるぞ。お前、自分の廁はここだと場所を決めてるんだって? いつも小屋が綺麗で掃除がしやすいってさ」
魏無羨は棕櫚の皮で小蘋果の背を、優しく撫でてやる。
「果樹園の家人を覚えているか? お前が果樹園から荷を運ぶ度に、お前にこっそりおやつの林檎を渡してくれてただろ? 雪が積もる前に暇乞いして、これからは離れ地のお屋敷で庭師をするんだって。最後の日にはお前の顔も見に来るって言ってたぞ」
小蘋果が果樹園の荷運びを担うようになって、一番楽になったのはその家人だった。彼は果物の荷運びの手伝いも引き受けていたからだ。小蘋果は大人と同じかそれ以上の重さを軽々と運び、一日に何往復しても疲れを見せなかった。お陰で家人は果樹の世話に専念でき、翌年からの果樹の収穫は格段に多くなった。
「お前がここに居着いてもうすぐ十五年だもんな、お前も家人もそりゃ歳をとるよな」
結丹した魏無羨は未だに若々しい。仙師の歳の取り方は緩やかだ。だが、重ねた年齢分の穏やかさを身にまとい、小蘋果を撫でる腕の動きは優しい。
「真っ黒だった鬣も真っ白になっちゃったなぁ、小蘋果」
雲深不知処ではそもそも生き物を飼うことを禁じられていること、そして小蘋果の鳴き声が想像以上に五月蝿いことを理由に、藍啓仁は何度か小蘋果を麓に下ろそうと考えた。その考えが変わったのは、果樹園での小蘋果の働きを知ったからだった。果樹の陰に居た蛇に噛まれそうになった幼い門弟を守ったのは小蘋果だった。果敢に前脚で何度も蛇を踏みつけ、蹴り飛ばしたのだ。蛇は逃げ出し、幼い門弟は怪我一つなかった。遠くから来ていた外弟子が、実家の方では家畜を守るためにロバを番犬のように使っていると話し、小蘋果は荷運びの腕とその勇敢さで、見事に雲深不知処の一員になった。
五月蝿いから山から下ろせと藍啓仁に言われたほどの大きな叫びも、最近は滅多に聴かれない。小蘋果は穏やかに老いた。
魏無羨を背に乗せて、時に頑固に立ち止まりながらも世界を旅したロバは、小さくて勇敢で、五月蝿くて義理堅かった。そして老いた今、ロバの瞳は穏やかで優しい。
「さあ、小蘋果、散歩に行こう。せっかくだから、お前がよく働いていた果樹園への道を行こう」
首の飾り輪を引かれて、小蘋果は歩き出す。歩みは穏やかだが、やはりほんの少し気まぐれだった。
黒いのは犬が嫌いだった。
何度か、おれが追い払ってやったことがある。おれは犬や野犬のようなもの見ると、無性に蹴りたくなるのだ。背中を向けて逃げ出したら追いかけられて噛みつかれる。だから、自分の方から追い立てて、蹴り上げてやるのだ。初めて犬を見た時からそう思っていたから、きっとそういう習性なんだろう。
黒いのを守ってやるのは、いつも林檎を多くくれる礼の代わりだ。
黒いのは『お前は最高の相棒だよ』と言った。
黒いのはよく笛を吹いた。たいてい寂しそうな笛だ。そういう時、黒いのは白いののことを思い出している。
山に帰ればいいのにと、おれは思う。山には旨い餌もあるし、白いのは優しい。
だから、見知った道に来た時、おれは迷わず山に向かう道を進んだ。黒いのは『どこに行くんだ、勝手に行くな』と騒いだ。黒いのは少し困ったような顔をしながら、でもちょっと嬉しそうだった。
「小蘋果、疲れたのか? 小屋に帰るか?」
少し傾斜のある坂道に差し掛かって、小蘋果がその歩みを止めると、魏無羨はそっと小蘋果の頭を撫でる。大きな耳を数回振るわせると、小蘋果は大人しくゆっくりと旋回した。そして、今登ってきた緩やかな坂道を降り始める。
「小蘋果。明日はお前の大好きな藍湛が帰ってくるぞ。きっとお前に土産の林檎を買って来てくれるな。どうだ、嬉しいか」
ブフンと小さく鼻を鳴らして、小蘋果が首を振る。小蘋果に言わせれば、嬉しいのは黒いのお前だろう――ということだろう。
小蘋果は藍忘機に特別懐いた。藍忘機が諭すように語りかけると、いつもの頑固さが嘘のように大人しく従うのだ。同じだけの時を共に過ごしていても、小蘋果と魏無羨との間にあるのは、懐くというのとはちょっと違う。例えれば『こいつに意地悪していいのはおれだけ』というような感情だ。お互い、性質が似ているのかもしれない。
「小蘋果、少し風が冷たくなってきたから、後で藁を増やしてやるよ。あったくなるようにな」
魏無羨は語りかけながらゆっくりと歩く。ポクリポクリと可愛らしい音をたてながら、小蘋果の小さな蹄が土を踏み締める。そのうちに兎たちが小蘋果の後ろを着いて集まってくる。雲深不知処に居る兎は、小蘋果を奇妙な格好の仲間だと思っているらしい。
小屋について藁の上に小蘋果が脚を折って座ると、途端に兎がその背に寄り添う。兎たちは、小蘋果の藁の匂いのする背が大好きだ。
「じゃあな、小蘋果。次に来るまで元気にしてろよ」
魏無羨は白い毛玉に群がられ顎をペタリと藁に付けている小蘋果に手を振る。魏無羨を振り返りもせず、ブフンと鼻息だけで返事をして、小蘋果は静かに目を閉じた。
小屋を後にし、曲がり角を一つ曲がると、そこには藍啓仁が立っていた。髪には白いものが多く混じるようになったが、未だ矍鑠としている。
藍曦臣が宗主として姑蘇藍氏をまとめ、藍忘機が仙督として仙門全体を導くいま、座学の教師は藍思追たちが引き継いだ。魏無羨は得意とする法術の一部と実技、そして藍啓仁が受け持っていた陣術の講義を引き継いでいる。かつて座学の多くを受け持っていた藍啓仁は、いまは門弟となった童たちの最初の手習の教師だ。よく膝に童を座らせて、手を重ねて字を書いている。
「小蘋果の様子はどうだ」
「まだまだ元気だよ。脚はちょっと弱くなったけど、よく食べるし、よく眠る。兎たちが居るから、寒くなさそうだけど、そろそろ藁を増やしてやろうと思う。寝ている時間が長くなってきたし」
「そうか」
魏無羨と並んで歩きながら、藍啓仁はため息を吐いた。
「藍先生?」
問いかけるような魏無羨の呼びかけに、藍啓仁は小さく首を振る。
「果樹園に新たに迎え入れたロバが五月蝿くてな。そういえば小蘋果も最初はそうだったと、思い出していたところだ」
小蘋果が荷を背負わなくなると、藍啓仁は家人に頼んで農家から二歳の若駒を貰い受けた。今ではそのロバが小蘋果の仕事を継いで荷を背負い、果樹園の護衛をしているのだ。白い若駒は、背に童たちへの土産の糖果を背負ってやってきたことから『糖果』と名付けられ、可愛がられている。
「若いということは五月蝿いということなのだと、思い知る毎日だ」
魏無羨は声を潜めて笑った。日々、藍啓仁の膝の上を童たちが取り合って騒々しいのだ。
「明日には童たちの土産も持ってみんなが帰ってくるから、きっと少し静かにできますよ。俺が教えたでしょう? 五月蝿い童は口の中に糖果を突っ込めば黙る――って」
こっそりと悪戯を計画するような小さな笑い声を立てて、細い小道に影を伸ばして二人で歩く。魏無羨は道の分かれた先、雲深不知処の入り口へと下っていく道に顔を向け、微笑む。
「明日には、帰ってくるから、大丈夫ですよ」
まるで自分に言い聞かせるような言葉の響きに、藍啓仁は微かに頬を緩めると、『そうだな』と静かに同意した。