破滅フラグはへし折ります! いつからだろう。いつからすれ違ってしまったのだろうかと五条は極めて冷静に考える。
今五条の目の前に立っている子は申し訳無さそうにこちらを見ていた。
「悠仁……今、なんて……?」
「ごめん、悟さん……俺、もう別れたい」
別れたいという悠仁の方が今にも泣きそうな顔をしていて、五条はそれ以上何も言えなかった。
「本当にごめん」
なんで。どうして。頭の中では次々と言葉が浮かぶのに、震える口からそれらが出ることは無かった。
「…………さよなら……」
見慣れたリュックを掴むと悠仁は五条の横をすり抜けて玄関へと向かう。
「悠仁……」
自分とは思えないか細い声にも驚いたが、それでも悠仁は振り返ることなく靴を履くと玄関のドアを開けて出て行った。
バタンと閉じられた音が大きく響き、これが現実なのだと五条に教えていた。
「う……」
いつの間に眠っていたのだろう。目を開けると見慣れた天井が映りここが寝室だとわかった。
「…………最悪」
チュンチュンと雀が爽やかな朝を演出しているというのに、五条の心は真っ黒な雨雲よりも重い。
理由は簡単で、五条は昨日五年間付き合っていた恋人にフラれたのだ。
本来ならここで『夢で良かった』とホッと一息つきたい所だが、この世で自分にだけ与えられた六眼が昨日のことは真実だったと脳に信号を送っている。
「はぁ…………ん?」
両手で顔を抑えようと動かした時、片腕が動かなくて顔を横に向ける。
「……………………は?」
そこには何故か、昨日別れを告げ出て行ったはずの悠仁が眠っていた。偽者か、それこそ自分の幻覚かと思ったが六眼が本物だと告げている。
「なん、で……」
もしかして、あの後戻って来てくれたのだろうかと恐る恐る手を伸ばす。眠ると幼くなる顔は記憶のまま、指先が触れた頬の感触も全く一緒だった。
「ん……」
擽ったいのか、少しだけむずがってから閉じていた目が開く。琥珀色の瞳が五条を映すと、嬉しそうに細められた。
「おはよ、せんせぇ……」
へらっとした笑みは五条の好きな表情の一つだ。本物だという確信を得て五条は悠仁を抱き寄せた。
「せ、先生?」
急に抱き寄せられて驚いたのだろう。戸惑った声が聞こえてくるが、この手を離すのが怖くて更に力を込めてしまう。
「いたた、先生、痛いって」
「ゆーじ、悠仁……っ」
「どーしたの? 嫌な夢でも見た?」
痛いと言いながらも、五条の様子がおかしいと感じているのか悠仁は逃げようとしなかった。むしろ落ち着かせるように背中をトントンと叩かれる。
「うん。すっごく嫌。悠仁に捨てられた」
「はぁ? 俺が、先生を?」
「うん。別れたいって言われた。もうホント最悪」
「そっか……先生は俺と別れるの嫌?」
「当たり前だよ! 僕には悠仁だけなのに、悠仁は僕がいなくてもいいとかなんで」
「いや、俺に言われても……」
嫌だ嫌だと腕に力を込めれば悠仁も抱き締め返してくれて安心した。
「そっか……先生には俺だけなんだ」
それは嬉しいな、と可愛いことを言うのでもう一度六眼で確認する。そして目の前にいるのが間違いなく本物の悠仁だと理解して安堵した。
「こっちは寿命が縮まったよ……もう、ホントに勘弁して……」
「つってもなぁ……先生の夢だったんだし」
(ーー違う。あれは現実だった。)
そこまで考えてから体を離して悠仁を見る。だが、やはり何度見ても目の前の悠仁を本物だと六眼は言っていた。
(一体何が……)
「先生?」
そこでふと疑問が湧き上がった。
「ねぇ悠仁、なんで名前で呼んでくれないの?」
そうだ。付き合って四年後、つまり卒業した去年から悠仁は名前で呼んでくれていたはずだ。
それなのに目の前の悠仁は自分を先生と呼ぶ。
「えっ な、名前で呼ぶのは来年卒業してからって言ったじゃん……」
顔を赤く染めて言う悠仁はとても可愛い。可愛いが、何かおかしなことを言った気がする。
「卒業……してから……?」
「だって卒業するまでは先生だし、その……まだ、心の準備が……」
それはおかしい。だって悠仁はニ年前に卒業しているはずだ。
しかしこのセリフには覚えがある。
「…………悠仁、僕のスマホ、ある……?」
「へ? いつもの所に置いてあるじゃん」
そこ、と指を差されたベッド横のサイドテーブルには見慣れたスマホが二台置かれていた。だがそれも確かに知っているが、機種変前に自分が使っていた物だった。
すぐに手に取り、電源ボタンを押すと時刻が表示される。その下には今日の日付がある。
「うそ……」
だがそこに表示されていたのは、三年前の日付だった。
◆
あの後、どこか様子がおかしい五条を心配して悠仁が伊地知に連絡を取り、半休だったのをなんとか一日休みをねじ込むことに成功した。
代わりとして七海と冥冥の仕事が増えてしまったらしい。冥冥には口座にいくらか振り込むとして、七海には悠仁がお礼に何かを作ると言い始めたので全力で拒否した。
「ダメダメダメ! 悠仁の手作りは全部僕のだから!」
「えええ?」
「七海にはカスクートの詰め合わせセットでも送ればいいよ! はい、注文した!」
「早っ そんなに大量に送られても困らん?」
「大丈夫だって。どうせ伊地知や硝子と食べてるよ」
「…………ねぇ、先生本当に大丈夫?」
疑うような視線に負けず平常心を保つ。
まさか今朝の悪夢は夢ではなく、本当に未来でフラレてしまい、気がついたら過去に戻って来ていたなんて言えるわけがない。
「うん。今日休めば大丈夫だよ」
「…………先生もうずっと忙しかったもんな。今日はゆっくり休んでよ」
優しく頭を撫でられて癒やされていくのがわかる。ふと時計を見ると間もなく始業の時間が迫っていた。
「悠仁は? もう学校の時間になるけど行かなくていいの?」
「へ……?」
よく見れば制服じゃなくて私服だ。今日は平日なのだから着替えるならそろそろ出なければならない。
何か変なことを言っただろうかと首を傾げると、悠仁は慌てたようにそうだったと立ち上がる。
「あっ じゃあ俺行くけど、何かあったらすぐに家入先生に連絡してな!」
「大丈夫だよ。悠仁こそ気をつけてね」
「おう! じゃあまた!」
いつものように元気よく玄関から出ていく姿を見送る。それを少しだけ寂しいと思うのは、昨日までの未来では卒業しからこのマンションで一緒に暮らしていたからだ。
「…………あれ?」
そこでふと思い出す。まだ寮暮らしの悠仁がこのマンションに泊まりに来るのは週末のはずだ。しかしスマホを確認しても今日は平日。高専から近い場所だが、わざわざ泊まりに来てくれていたのかと不思議に思った。
◆
休みになったものの、やることもなくなった五条は教え子を驚かせようと高専に来ていた。
三年前なら悠仁たちは三年、乙骨たちは四年になっているはずだからまだ在学中の姿を見るのが楽しみだった。
「あれ?」
しかし教室には誰もいない。もしかして任務だったかと肩透かしを食らうが、それが間違いだとすぐに気付いた。
「あっちか」
六眼には呪力が見える。教え子たちの呪力は校舎ではなく寮に固まっているようだ。
「なんで寮?」
あの辺りは談話室だったかと歩いていくと、懐かしい声が聞こえてきた。
「やっほー!」
「げっ」
手を振りながら歩いていけばあの頃の子供たちがいる。
「あれ?」
懐かしい学生服ーーではなく私服姿で。
「なんでアンタがここにいるのよ」
釘崎の質問は五条もしたかった質問だ。
「君たちこそ。授業は?」
「はぁ? 今日は特別休暇になったじゃない」
「…………五条先生、確か虎杖と出掛けるって言ってましたよね。虎杖はどうしたんですか?」
「へ……?」
ポカンと見渡せば確かに悠仁だけがいない。
「悠仁……来てないの?」
「休みなのにいるわけないじゃない。昨日から泊まりに行ってたんじゃないの?」
最早休み前のお泊りは公認なので誰もが不思議そうに五条を見ている。
「なんだ悟。お前悠仁にフラれたのか?」
「え……」
パンダの言葉に今朝の夢ーー三年後の未来を思い出して背筋が凍る。急いで悠仁の呪力を確認するとすぐ近くから感じられた。
すぐに踵を返すとその場所へと向けて走り出した。
「悠仁!」
「おわ」
辿り着いた先はあの地下室だった。ソファに座り、ここで暮らしていた日のように一人でDVDを見ていたのかテレビが点いている。
「先生 なんでここにいるの?」
「それはこっちのセリフだよ! 今日休みになってたの」
「え……なんで……」
「驚かせようと思って学校に行ったら誰もいなくて、寮に行ったら今日は休みだって言われて……僕と出掛ける約束してたって本当?」
「いや、大したことじゃないから大丈夫だよ」
「ーー嘘だ」
悠仁はすぐに本心を隠す。だから見逃さないようにしないといけなかったのに、突然過去に戻ってきた衝撃で抜け落ちていた。
「大したことないならなんで一人でここにいたの。なんで寮で皆と一緒にいなかったの」
「それは……」
「悠仁はさ、悲しい時は一人になるよね。僕が……僕のせいで、傷付いたんでしょ?」
「違うよ。先生は何も悪くなくて、俺が……」
「ほらまたそうやって自分のせいにする。なんで僕を怒らないの。約束を忘れるなんて最低だって怒っていいんだよ」
「それは……無理だよ」
なんで、という五条の呟きにまた悠仁は悲しそうな顔をした。
「先生はすげー頑張ってんじゃん。一人で何件も任務こなして、たくさんの人を助けて……先生として学校の授業もやってさ。そんなん疲れて当たり前だよ。だから、俺との約束より……疲れてるなら休むのを優先してほしい」
ーー違う。そうじゃない。
確かに任務は大事だが、疲れているからという理由で悠仁との約束を反故にしたりはしない。
「待って。ちょっと待って」
きっとこうなったら悠仁は今日どんな約束をしていたのかを教えてはくれないだろう。なら脳をフル稼働して五条にとって三年前の今日、何があったのかを思い出さなければならない。
反転術式で常に脳は回復している状態なのだ。悠仁との約束ならきっと覚えていると記憶を辿っていく。
「先生……?」
「待って」
三年前。学校が休みになった日。泊まりに来ていたのはーー……。
「あ……」
そして思い出す。確かに悠仁が泊まりに来ていた日があった。
自分も今日と同じ半休を取っていた。悠仁に一緒に行きたい場所があると言われて、なんとか午前中は半休をねじ込んだのだ。
(でも……)
それなのに、朝食を食べていると仕事用のスマホに着信があった。無視しようとしたが悠仁が出るように言ったので渋々と電話に出たのだ。
当たり前だが緊急の任務の連絡で、半休なんだからあと数時間待てと言おうとした五条を止めたのも悠仁だった。
また今度行こうと宥められたのを思い出す。
(この日は行かなかった。……でも待てよ。その後……?)
しかしその後出掛けた記憶がない。
ーーつまり。
(約束をドタキャンしてからやり直してないじゃん……)
ガクッとその場に蹲る。なんだそれは。最低にも程があると自分に嫌気が差した。
「先生 やっぱり具合悪いんだろ?」
崩れ落ちた五条に慌てて駆け寄ってくる悠仁の手を掴むと抱き寄せた。
「えっ せ、先生?」
「ごめん。悠仁……忘れてて本当にごめん」
きっとこれだけじゃないはずだ。大抵のことは笑って許してしまう悠仁が別れを切り出すほどに自分は悠仁を苦しめた。
だが本当は悠仁と別れたくない。
もしこれが何かの導きによって過去に戻って来ていたのだとしたら、二度とあんな未来にはしたくない。
「先生、本当に気にしなくていいから……」
「午後は」
「へ?」
「悠仁が行きたかったところ、午後からでも行ける」
「あー……」
今からでも挽回できないかと思ったが、悠仁の眉毛が困ったように下を向いている。嫌な予感に震えていると、悠仁の口が動いた。
「その……もう行ってきちゃったんだよね……」
ーー終わった……。
そう思った。挽回どころか破滅への道しか歩んでいない。己の不甲斐なさにもう何も言えなかった。
「もうダメだ……こんなんじゃ悠仁に嫌われて当たり前だし……」
「何言ってんの。俺が先生を嫌いになるわけないじゃん」
崩れ落ちたままの五条を宥めるように悠仁が背中を叩く。だが五条は三年後に愛想を尽かされ破局する未来を知っているのだ。
「ごめん、悠仁……」
「先生本当にどーしたん?」
「悠仁に嫌われたら生きていけない……」
「だから嫌わねーって」
一回りも年下の恋人を甘やかすどころか甘やかされていて、それが余計に情けなく思えてくる。
ふと視線を動かすと、テーブルの上に重なったDVDケースの横に置かれた小さな紙袋が目に入った。
「それ……」
「え? あ、あぁ、これは……」
珍しく口籠る悠仁に違和感を覚えるよりも、目の前の紙袋の存在に五条は釘付けになった。
(ーーあの紙袋……)
小さく自己を主張するその存在を、五条は確かに知っていた。
◆
五条がそれを見たのは偶然だった。
同じマンションに住み始めた頃、珍しく悠仁が忘れ物をしたから持ってきてほしいと連絡が来て部屋のクローゼットを開けた。中は整理整頓されていて目当ての物はすぐに見つかり、締めようとした時に視界の端に映ったのだ。
「ん?」
衣類の奥に隠されるようにあったそれを不思議には思いつつも、特に気にせず五条は扉を締め悠仁の元へと向かった。
◆
(あの時の袋だ)
ほんの少しの違和感が、ソレを見逃してはいけないと訴えかけてくる。
「ねぇ悠仁……それ、なぁに?」
「えっと……大した物じゃ……」
「じゃあ中を見てもいい?」
「ゔ」
ひっくり返ったような声を上げて悠仁が視線を泳がせる。それを見てやはりこれを見逃してはダメだと確信した。
「ダメなの?」
「いや、ダメっていうか……きっと先生の趣味じゃないし、つまらないっつーか……」
見せたくないという気持ちが伝わってくるが、五条も引くわけにはいかない。悠仁より先に手を伸ばすと小さな紙袋を持ち手を掴んで取り上げた。
「あ」
「ねぇ悠仁」
「な、なに……」
「これを見たら、悠仁は僕を嫌いになる?」
引くことはできないが、無理強いをして嫌われたくもない。だから卑怯だとわかっていても悠仁が断れない聞き方をする。
「き、らいには……なんねーけど………………先生が、俺のこと……嫌になる、かも……」
「なにそれ」
そんなことあるわけがない。目の前の悠仁に意識を集中させながら手元の小さな紙袋を見る。白地のシンプルなもので、真ん中には店名か何かが箔押しされていた。
「嫌いにならないなら見てもいい?」
「う……」
未だ葛藤があるのかすぐには頷いてくれなかった。だが、見ても嫌いにはならないと言質をとったので五条はさっさと紙袋の中へと手を入れた。
「あ」
「…………これ……」
掌に収まる大きさの小箱。ドラマなどで何度も見たことのあるそれに五条は息を呑んだ。
「……開けてもいい……?」
「う……」
珍しく鼓動が早くなる。こんなにも緊張するのはいつ振りだろうかと思いながら小箱の蓋を持ち上げて開いた。
そこに鎮座していたのは予想通りの物で、二つの指輪が静かに輝いていた。
「悠仁……これってーー」
「ごめん」
最後まで言い終わらないうちに悠仁が勢い良く土下座する。突然のことに呆気にとられていると、土下座のまま悠仁が口を開いた。
「先生こういうの邪魔だし嫌いだって言ってたのに……なんか、つい、勢いで買ってしまったといいますか……」
「…………悠仁が、これを買ったの……?」
「はい……」
「もしかして、行きたかった所って……」
「ここ……です……」
呆然としながら五条は掌にある指輪を見つめる。
確かに言った。いつだったかテレビを見ている時に必要ないとか、そんなことを言った気がする。
つまり五条があの日見つけたこれは、三年前からずっとクローゼットの中に保管されていたことになる。五条に渡されることもなく、かといって捨てることもできずに隠されていたのだ。
隅にあったとはいえ、クローゼットを開ける度に悠仁がどんな思いをしていたのか五条にはわからない。
わからないが、これもまた悠仁の心を蝕んでいたことだけはわかった。