ドクターは時々、長い眠りから目ざめた瞬間を思い出そうとする。朧気ながら記憶にある風景のなかに銀髪の男が此方を見下ろしていた。
そして自分にこれから仕事を手伝ってくれ、というような旨の話をしていたような気がする。だが、しっかりと全てを思い出せない。
男はつまらなそうにドクターを見下ろしてから、手を差し伸べてきた。面識があったのかさえ分からない。
「エンシオディス・シルバーアッシュだ」と抑揚のない声が名乗ったのはうっすらと意識にある。
しかし眠りにつく前のことはさっぱり記憶になく、自分が何者なのか理解しようがなかった。
身に付けていたフード付きのコートと白衣、そして擦り切れて解読できない製薬会社の認証カードには所属が記してあった。
『ドクター』
名前も本名か不明だが医師である可能性は高い。けれども医療技術がすっぽり抜け落ちているので、それさえも怪しいが。
もしも認証カードに記されているのは本名だとしても、呼ぶのは危険だろうからエンシオディスの周囲にはドクターと呼ばれている。
(…なんとか、目ざめたところだけでも思い出せないかな)
棺に入っていたという情報も、ひどく冷えた状態だったのも思い出せない。記憶喪失でも、せめて目が覚めたときくらいしっかりしていたら、その後もどうにか分かるのではないだろうか。
花の淡い装飾が施されたティーカップの中身を覗く。ブラウン色の液体のうえに映る自分。
疲れたような表情のさえない男が、紅茶を覗いている。
「どうした」と呼びかけられて、ティーカップから顔を上げた。
「あ、エンシオディス。帰ってたの」
いつのまにかソファの隣に立っていたエンシオディスはドクターの頬にやんわりと触れた。
ドクターが目ざめた時に見上げた銀髪の男、エンシオディス・シルバーアッシュ。
イェラグという雪に覆われた国を治める貴族のひとりで、貿易会社を経営してると説明を受けた。
長い体躯(たいく)を優雅な仕草で折り、ドクターの隣に座る。そしてエンシオディスは、当然のように太い尻尾をドクターの腰に巻き付けた。
「顔色が悪い―」と言いつつ、頬から唇へ手袋に包まれた指先が移動してゆく。
「また目ざめたときを思い出そうとしていたのか?」
「…うん、どうにか全部思い出さないかなぁって」
「無理をするな。まだ目が覚めて日がそうたっていない」
言いながら、銀髪と同じ色の長い睫毛を伏せる。
棺から助け出されたときから毎日眺めているが、そうそう慣れない程度にエンシオディスは顔が綺麗だ。
まだ屋敷の外に出てないけど、人目につく容姿をしている。そんな人間が、どうして自分を助け出したのか分からない。
「聞いているか、私の話を―」と伏せた睫毛を瞬き、エンシオディスが此方を伺う。
「うん、分かってるって。頑張って思い出さないよ」
不満げなエンシオディスの胸に、よりかかった。
「それなら良いが、どうか無理をしないでほしい」
「うん―」と頷きながら、エンシオディスの首筋にもたれる。
「ところで、そろそろ返事を聞かせてほしいのだが…」
柔かな声に囁かれ、ドクターは固まる。棺から出てきた記憶喪失の男を、綺麗な顔で貴族様のエンシオディスは嫁にもらいたいそうだ。
ここ数日ありとあらゆるシチュエーションで告白をされて、おとぎ話のプリンセンスでも鼻血が出そうな程である。
「う、また…その話かぁ」と、つい怪訝そうな返事をしてしまった。
「嫌なのか、我がシルバーアッシュ家の嫁になるのは」
エンシオディスはしおらしい声で呟きドクターの髪を梳いた。
「違うよ、嫌じゃない。寧ろ有り難い話なんだけど、本当に私で良いのかって…」
「どうして、そう謙遜する?この私が、お前を嫁に貰いたいのだ」
貴族様でないと許されない発言なのは、記憶喪失の身でも充分理解できる俺様感。
全く引かないエンシオディスをなだめる様に、ドクターは逞しい胸を撫でた。
「だってさぁ、闇オークションで売られてた記憶喪失の男がシルバーアッシュ家の嫁だよ?君が嫁にしますって決めても、治めてる地のみんなが納得してくれるか、どうか…」
いわゆる闇オークションに『棺へ入った人間が売られている』と聞き、エンシオディスは興味本位で落札したらしい。
シルバーアッシュ家に仕える、それに値する人間を探して市場を調査していたときだった。
エンシオディスの治めるイェラグは、貴族同士の小競り合いが多発しており、人材を広く求めていたのだという。
確かに目ざめたばかりは、仕事を手伝ってもらうと説明されていたのに、次第に友人になってくれと話が変わる。
それどころか、どうしても手放したくないので、嫁になってくれと懇願されドクターは驚いていた。
同僚から友人、最終着地は嫁というのは、あまりにも飛躍しすぎな気がしているけども。
「お前は何処まで健気なのだ、そんな些細な事を心配しなくて良い。全て私に任せておけば問題ない」
「そうは言いましてもね、妹にも聞かず結婚を決めるのは良くないよ。やっぱり」
大いばりなのは結構だが、あとあと兄妹間で戦の火種になるのはゴメンだった。
ただでさえ、妹と疎遠になっていると聞くのに、ぽっと出の記憶喪失男が長男の嫁は争いのゴングが鳴る予感。
「いいかい、エンシオディス―」と言いながら、銀髪のうえにある丸みがある猫耳を、不満げに動かす俺様貴族の手を取った。
「私のせいで君が嫌われてほしくないんだ。妹達や、治めている地の人に…そうなったら亡くなったご両親に申し訳ないから」
おずおずと口にしてから、割と良い断り方ができたなとドクターは自負する。
しかし残念ながら、エンシオディスの琴線(きんせん)に触れなかったらしく、掴んでいた手を握り返されてしまった。
「お前は、本当に何処まで健気なのだろうか。それとも私を困らせて、楽しんでいるのか?」
「落ち着いてください、エンシオディス様。そんなつもりは一ミリも御座いません」
鼻先が触れるほどに顔を近づけられ、やや温度の高い声がドクターの名を呼んでいた。
「そうだろうとも、お前がそんなつまらない真似をしないと良く理解している。心配いらない、必ず上手く事を成してみせよう。全て私に任せてほしい、必ずお前を幸せにしてみせる」
興奮しているのか、エンシオディスの太い尻尾が左右に揺れている。まったく全然落ち着いてない。
断ったつもりだったのに、尻尾が歓喜に満ちるほどのゴーサイン状態に変わっているのか。
「そんな、私は…どうしたら」と、もごもご言いよどんだら、柔らかく左手を取られた。
そうして穏やかな動作にあわせ、髪飾りを揺らしながら、手の甲に口づけを落とされる。
伏し目がちなため、長い睫毛が影になり様になっていた。
「私の白雪姫よ、どうか我が家に嫁いでほしい」
「ぐっ―」と呟いて、ドクターは固まるしかなかった。
まじまじと見つめられながら、あわせて何十回目かの愛の告白を、至近距離で受けるのはキツい。
こういうときに顔面偏差値が高いと、無碍(むげ)にできないのが悲しいところだ。
「その、白雪姫はその…恥ずかしいですねぇ。君は王子様に違いないけど、私はお姫様じゃないから…」
「棺に収められ花で飾られていた、愛らしいお前は白雪姫に間違いない。謙遜しなくて良い」
「うぅ、よくそんな恥ずかしいこと平気で言うなぁ」
一歩も退かないどころか、前進してくるエンシオディスにドクターは眩暈がしてきた。このままではエンシオディスの嫁になるしか道はないようだ。
どうせ記憶もない。即ち、帰る場所もない。
嫁になれば衣食住は保証されるからと、自分を言い負かす。それに強引だが、優しい部分もあるエンシオディスを苦手と思うこともあるが、嫌う理由はなかった。
「記憶が戻る前に、旦那様が出来ちゃったよ」
照れ笑いを浮かべながら、もそもそと口にしたら、鋭いエンシオディスの目がおおきく見開かれた。
「…そうか!生涯、大切にする。そして何があっても、私はお前を守ってみせる。愛しているぞ」
ストレートな告白は毎日浴びていたが、初々しく感じるのは何故だろう。
「あの、私も…その、君のこと…す、好きだよ」
一応は、こたえなくてはとたどたどしい口調で話ながら、エンシオディスの手を掴む。
「これから、よろしくお願いします…。君の、エンシオディスの力になれるよう、頑張りますので」
とてもエンシオディスを眺める余裕がなく、途中から俯いてしまった。
ドクターは自分の顔が真っ赤になっているのが分かる。耳の先まで熱くて、脳みそが沸騰しそうだ。
「あぁ、我が妻よ―」と言いつつ、優雅な所作で顎を取られて唇を奪われる。意外なのだが、触れたエンシオディスの唇も頬も、自分と同じ熱くて人間味を感じた。
強引な王子様に婚姻を迫られてしまい、記憶喪失の男はどうにか目ざめた瞬間を思い出そうと、足掻く暇がなくなる。
まさか自分が白雪姫と呼ばれるとは、いくらなんでも予想が出来なかった。きっと白雪姫本人も、驚きの連続な日々だったのかと些か同情したりする。
「楽じゃないのよ、お姫様も―」とぼやいてたりしているのだろうかと、エンシオディスに抱きしめられながら、ドクターは考えていた。
つづく…