平日のナイター、一塁側内野自由席。休日はそんなことはないけれど、平日であれば結構空いている。通路側の空席に腰を下ろし、隣に鞄を置いた。
野球は、まあ嫌いではないけれど、正直、そんなに熱心に見ているわけではない。本当の野球ファンに言ったら怒られそうだけれど、僕が球場までわざわざ来ているのは他の理由がある。
周りを見渡して、彼女を探す。そう、僕の目的は、ビールの売り子さん。『ルカ』と名札をつけた彼女のことを、僕はここ一ヶ月ほど、俗っぽい言い方をすれば、推している。
「…あ」
彼女の姿を見つけた。ちょうど接客を終えて立ち上がるところだった。まだ少し距離はあるけれど、キャップにあしらわれた大きな花のおかげで、彼女だと判別するのは容易だった。
彼女は階段を登って、立ち止まった。次の客を探すのだ。彼女からビールを買うため片手を挙げる前に、彼女に見つかってしまった。彼女の表情がぱっと明るくなって、ぶんぶんと大きく手を振る。周りへの少しの優越感と、気恥ずかしさ。僕は大きく手を振るようなキャラではないので、肩まで手を挙げて、小さく振り返した。
急がなくていいのに、彼女は少し早足になって僕の席へ近付いてくる。僕が鞄から財布を取り出している間に、彼女は僕の足元に膝をついていた。
「こんにちはー!」
「こんにちは、今日も元気だね」
「えへへ、うん!」
大きな目を細めて、彼女は笑った。彼女の笑顔は世界を煌めかせる力があって、僕はありがたいことにそれを享受している。一杯ね、と一応確認を取って、彼女は慣れた手つきでビールをカップに注いでいく。
「今日は少し遅かったね。残業?」
「まあね。雑用を頼まれることが多くって」
「サラリーマンって感じで格好いいよ!」
「んはは、ポジティブだね」
ビールを手渡され、七百五十円を手渡した。(球場に通うようになって、小銭を持ち歩くようになった)
「あー…えっと、ちょっと話していっていいかな」
「?もちろん、僕は構わないよ」
ていうか、お客さんが少なかったらなんだかんだ少し話していくじゃん。というのは、彼女の雰囲気が少しいつもと違ったから、言わないでおいた。
彼女は他にビールを求めている客がいないか、一応首を伸ばして確認する。(ミーアキャットみたいだった)いなかったようで、そのまま少し身体を小さくし、僕を隠れ蓑に使うように、僕に半歩近付いた。
僅かに感じる汗の匂いに、少し鼓動が速くなる。
「き、きみは、いっつもわたしから買ってくれるよね」
「うん?そうだね」
「わたしを、気に入ってくれてるってことでいいの?」
「…?気に入ってるよ?」
いつもは僕の入る隙間なんてないくらいのマシンガントークで、表情もころころ変えて楽しそうに話すのに、今日は何やら言い淀む時間が長い。別に待つのは苦じゃないから、全然いいんだけど。
んー、んー、と彼女が声を漏らすたびに、サイドテールが揺れる。括っているだけと思いきや、ちゃんと毛先は巻かれているんだから、女の子ってのは頭が下がる。爪先も綺麗なジェルネイルが施されていて、それが置かれた太腿は健康的な色で…、………こういうのは良くないかな。
「あの…気付いてるかも知れないんだけど、わたしもきみのことを気に入っていて」
「…?」
「あ、あーっと…気に入ってるっていうのは、つまり、気になってるってことで」
「………?」
いつも快活な彼女からはあまり想像できない、的を得ないセリフ。僕はいまいち意味を理解できなくて、首を傾げる。
彼女は頬を赤らめて僕を見上げた。眉が下がっている。こういう表情は初めて見たけど、すごく可愛いな。
「え、えーと!これ、わたしの連絡先!」
「…へ?」
手渡された小さな紙には、女の子らしい丸い字で、名前…ルカカネシロ、と、ラインIDが書かれていた。
僕は慌てて顔を上げて、彼女を見る。
「よかったら、…その、一回デートしよう!」
彼女の顔は真っ赤だった。もちろん、僕の顔も真っ赤だった。真っ赤な顔をした男女が、黙って見つめ合う。それは周りから見れば、酷く滑稽な風景だろう。
大きな瞳を落ち着きなく左右に動かして、彼女はそのまま立ち上がった。
「あ、あの…連絡…待ってるから」
「…えっ、あの」
「またね!」
彼女は勢いよく立ち上がったと思うと、急ぎ足で階段を駆け降りていった。引き止めようと伸ばした腕は、何も掴めずに宙ぶらりんだ。
「………まじかよ」
いつも通りの平日だったはずだ。少し残業が長引いて、いつも通り野球もそこそこにビールを買って、彼女と世間話をして、試合が終われば帰路につく。それだけだったはずなのに、今日は本当に、世界が変わってしまった。
僕は頭を抱えて俯いた。
ちょっと待てよ、連絡待ってるから、って。
「一通目って何を送ればいいの…?」
僕には荷が重すぎる。誰か、これからどうすればいいか教えてくれ。