定点観測第X次中間報告―それでもモブ子は推したい― 総務、法務、品質、人事、我が経理。リモート業務がすっかり定着した当社にあっても、実は内勤部隊の出社機会は他部署に比べまだ多い。
御用聞き的なところもあるし、現代的労働環境の申し子であるはずのITチームだって機器が社内にある以上全く出社しないわけにはいかない。
内部の人間と関わるのが業務の大半を占める私たちは、皆の様子を気にかけておくのも仕事の一部だ。単に私がちょっとお節介焼きなせいもあるけど、職業病に近い。そしてこのところの私の気にかけ職人魂を断然揺さぶり続けているのが法務の門倉部長。
総務との兼任部長というなかなかの重責ポストでありながら、そんな素振りをちっとも見せない。偉ぶるところはないし上下も部署間も関係なく誰にでも対応が柔らかい。というか柔らかすぎてもはやユルい。
昼行灯とかぼんやり狸だとか結構なあだ名で呼ばれているけど本人は気にする様子もない。そもそもそんな話が耳に入っているのかも定かではないくらいユルい。経費精算の申請もしょっちゅう差し戻されているし、同じ質問をされたのも一度や二度ではない。部長なのに。
はっきり言っておっちょこちょいで手がかかる人なのだがなんだか憎めないし、私はこのふにゃふにゃした穏やかな雰囲気が良いなと思う。要するに推している。
でもそういうユルさはこの人を理解する上でのごく表面的なものに過ぎないことも私は知っている。この方、恐らく周囲に見せていない「芯」の部分がある。よくよく観察してみると別人のように鋭い目で周囲を見渡していることがあるのだ。そのときは本当に顔つきからして違う。
ところがこれを他の誰に言っても分かってもらえない。部長の謎めいたところに皆がどうして気づかないのか甚だ疑問だけれど、それだけ普段の様子で上手く擬態しているということなのかもしれない。ただ、私が最も強く打ち出したいポイントはまた別だ。
それは工務部のキラウㇱ主任といるとき、二人があまりにニコイチに見えること。部長とは部署も職位も年齢も社歴も全然違うのに「なぜか」仲が良い。いや、正直言って仲が良いとかニコイチとかなんて関係性よりもっと濃い空気を私は感じている。これについても彼らが“土方枠”だからだろうという程度の認識なのだから周囲のセンスを疑わずにはいられない。
確かに当社には土方スカウトと称される人材発掘ルートがあり、読んで字のごとく社長の土方さんが直々に引っ張ってきた社員が結構いる。リファラル採用のすごいバージョン、といったところだ。昔ならコネ入社とか言われたんだろうけど、近年はまたこういうダイレクトなリクルーティング手法が注目されているとも聞く。
社長の人選はヘッドハント目的だけではないようで、見込んだ人であれば老若男女経験の多寡を問わないらしい。門倉部長はその古参で、ここ数年の間に同じ工務部の夏太郎くんとキラウㇱ主任が前後して入ってきた。なんと産業医の家永先生もそのルートだというし、最古参は顧問の永倉さんなんだとか。他にもいるみたいでとにかく人脈が広いとの噂。
そういうご縁の繋がりがある同士、打ち解けるキッカケになる共通項ではあっただろうけど、何より重要なのは匂いだ。気配だ。どう見たって臭い……もとい、“いい匂い”がしているではありませんか。
現に私は過去何度も濃縮された匂いの現場に遭遇している。個人的には確定だと強く思っているけど、いずれも一人のときか周りが誰も気づいていないケースばかりだからひっそり胸の中に留めている。言いふらしたいわけではないし、こういうのは本来静かに見守ってこそ。ソロでも十分充実の推し活だ。
今日なんかは社長のご厚意による有名ブランドのバレンタインチョコビュッフェみたいなイベントがあって、総務が中心となって準備をしていた。
後方支援で私たちも資材の片付けを手伝い、そのときも門倉部長は「チョコの匂いが身体に染み込みそう〜」とか言いつつ困ったような顔でふにゃふにゃ笑った。甘いものはそれほど得意ではないそうで、荷運びのあと腰をさすりながら焦げ茶の包みのビターチョコを二つポケットにしまうところを見かけた。手にしたチョコの二つという数にもロマンを感じないではないけど、それはさすがにこちらの夢を詰め込みすぎかも。
いつもは大体こんな感じなのに、あのミステリアスな二面性はどこから来ているのだろう。ファンとしての好奇心は高まる一方だ。気になるあまり、いつの間にやら私の中に門倉部長の七不思議ができてしまった。そのひとつが“年中キスマーク疑惑”――。
部長のワイシャツの襟のギリギリ境目、喉仏を下った脇あたりにいつも薄く赤い跡がちらついている。あれは一年以上前の秋頃だっただろうか。オフィスの廊下ですれ違って、二言三言交わしながら伸びをした部長の首がぽきっと鳴った。「いてっ」と思わず声を上げて首を傾げたとき、ちらりと見えたその印に私は気づいてしまった。
以来ずーっと部長の首元に注目している。自分で言っておいて軽く引くけど、狂気の観察記録だ。とっくに一年以上経過しているのに、その間赤い印は微妙に位置や形を変えながらまだそこにある。
……そこにある。目の前に。私と部長は今偶然にもエレベーターに二人きり。なぜか駐車場がある地下階から部長は上がってきた。社用車で外出する機会はほとんどないはずなのに何をしていたのか……はこの際後回しにして、知りたい。首元の秘密。いつもの観測地点の距離感を少しばかりはみ出してしまうけど、聞くしかない。諸々バレない程度に。唸れ私のコミュ力!伊達に長いこと愛想よく金庫番やってねぇ――!
「あれっ、門倉部長ってばこんな季節外れに虫さされですかー?首のとこ、ちょっと赤くなってますよ?」
「え?虫?いや、虫は払った……ってそれはこっちの話……え?なに、あ、これぇ!?あー……ええと、違う、違うのよ……」
シャツの襟に指を掛けるとちょっと俯き加減になり、門倉部長は口ごもってしまった。しまった、初撃で踏み込みすぎた。無駄にジャブを入れるよりいっそすっとぼけて間合いを詰めるのがいいかと思ったけど、いきなりクリティカルを出してしまったかもしれない。
「……あのね、皆には黙っててくれる?」
「えっ!?は、はい!見守るための心得はあるつもりです!」
「え?見守る?」
「あっいや何でもないです!どうぞ!」
語るに落ちる。何を自白しているんだ私は。一気に間合いを詰めたら同じ間合いで打たれる可能性もあるということを忘れていた。
「いやぁ、なんかどうも弱いみたいでさ、このへんの皮膚だけ」
「……ん?」
エレベーターがオフィス階に着いてしまった。扉が開いてしまったからには降りるしかない。頭の中に疑問符がどんどん生まれる中、あまりに惜しい時間切れ……と思いきや部長の説明は続く。諦めがついた、みたいな顔をして。
「一年以上前になるのか。夏に汗疹になっちゃったの。もぉー痒くて。で、前後は春と秋の花粉で皮膚弱ってるし、今は冬で乾燥してるじゃん?おじさんの回復力じゃ追っつかないみたいでさ。ずっと治んないのよ、湿疹」
「……ん?え?湿疹?」
「そう。身内に『ジジイは新陳代謝悪すぎだ』とか言われちゃうし、そこだけ繊細みたいなのがなんか恥ずかしくて……襟で隠してるんだけどそれも良くないんだろね」
「湿疹、なんですね……。あの、一度皮膚科にかかられたらいいと思いますよ。痒みにはお薬、よく効きますから」
「そうねぇ。さすがにね。家永先生にどっか紹介してもらおうかね」
エレベーターホールを出てオフィスへの廊下をのろのろ歩きながら、私はすっかり力が抜けてしまっていた。ずっと痒いままでいたのは気の毒だと思うけど、正直言ってこう、してやられた感がある。一年以上にわたり私は部長の湿疹を観察していたのか。まだまだ洞察力が足りないらしい。
そういえば門倉部長に「ジジイ」とまで言ってしまえるとはなかなか辛辣というか歯に衣着せぬ物言いのお身内がいらっしゃるようだ。しかしこれは推し活の上での新情報と言えそう。
「家永先生ならきっといい病院ご存知だと思いますよ。早く受診できるといいですね。首の横の方にもぽつっと広がり始めてるみたいですから」
「……ぇ……、あっ、おお、そうね!めんどくさがってるからこんなことになるんだよなぁほんとに!あっでも言った通り皆には黙っててねぇ?おじさんとの約束よ!?」
首の横に手を当てた門倉部長がいつものふにゃふにゃした笑顔でこちらを見ている。縋るような、困ったような。猫背に上目遣い気味でちょっぴり下唇の出たこの顔はズルすぎる。人の闘志みたいなものを根こそぎ奪うタイプのユルい表情。
「あはは、分かりました。お肌の悩みは私も他人事じゃないのでお気持ち分かります。保湿とかのケアも大事ですよ!化粧水とか乳液とか、今は男性も普通に使いますしね」
「あー、そうみたいね。おじさんでも使えそうなの教えてもらうかねぇ」
「いいの見つかったら私にも教えてくださいねー」
「もー俺つるっつるになっちゃうかんね?若返っちゃうかもしんないわ」
今日の社長のチョコ大盤振る舞いすごかったですねとか、俺はもらったやつ神棚に上げるんだなんて他愛もないやりとりをしてそれぞれの持ち場へ戻っていく。こういうなにげない話が気負わずできる上役というのはやっぱり貴重な存在だろう。
分かれる瞬間、門倉部長の口の端が持ち上がったように見えたがはっきりとは分からない。結局確証を得られるほどのものはないままだ。あだ名通り狸っぽい雰囲気がある門倉部長に化かされた気がしないでもないけど、今後も推し活は続けるとも。
それにしてももっと鋭い観察眼を身につける方法を知りたいものだ。あとほんの少しで定時だし、今日は鍛錬も兼ねて推理小説でも買って帰ろうか。あるいは人心掌握術とかの新書系だろうか?
――あ。門倉部長また申請ミスってる……。
席に戻った私のノートパソコンには経費精算システムの画面が表示されている。ずらっと並ぶ皆からの申請の一番上で、部長の分は前回教えたのと全く同じところを間違えていた。んもう、まったく手がかかる推しだなぁ。問答無用で差し戻します。推しといえども仕事は仕事。
一週間後、社食の冷蔵ケースを覗き込み、小鉢をどれにするか悩んでいた門倉部長の襟元には湿疹がまだちらりと見えていた。少しだけ小さくなった気がするから病院にかかられたのかもしれない。
しかし首の横にもあったはずの赤い跡「だけ」がすっかり綺麗に消えている。それに気づいた私はこの現象が意味するところに〇.二秒で答えを弾き出し、心の中で密かにガッツポーズをするのだった。
かぐわしさの源を探り当て自説の証左を得る日まで定点観測は続く。これだもの、推し活はやめらんねぇっす。