春暁(しゅんぎょう)に結ぶ 最も寒く最も暗い。それが夜明け前。あと少しで地平のはるか先にほんのわずかな光が指先を掛けて、暗闇の幕に風穴が空く。そうするといちどきに真新しい白光が筋を描いて夜を割ってくる。織り上がった光の帯に空が焼かれて朝が来る。
今日は早起きして狩りに行く予定でもなかったし、夜が明けきるまで寝ていても良い手はずだったが思いの外早く目が覚めてしまったらしい。冴えきって、震えが来るほどの室内の空気を振り切ってもうひと眠りするには身体の温もりも足らないようだ。布団に縋っていたい気分とは裏腹に身体は起きようとしている。
もう今夜には諦めをつけた方がよかろうと、もぞもぞ寝返りを打って部屋の中を見渡せば隣の男はまんじりともせず天井を見つめたまま布団に入っていた。
「門倉、起きてたのか」
「ちょっとな。夢を……見たんだ」
「どんな夢だ?」
「……昔の夢だ」
「カンシュだった頃の夢か?」
「ああ。まあ大概いい夢見じゃねえが、いい夢見たいなんてのが都合の良い話だからな。悪夢だろうが仕方がねえのよ」
ふぅ、と深く息をついた音が聞こえる。まだ暗くてはっきりとは見えないが、吐き出されたそれは凍える空気を漂う白く淡い塊になって上っていったのだろう。悪い夢に起こされ、門倉もきっと気を張ったままだったはずだ。いつから一人でそうしていたのか。
長きにわたり監獄に囚われていたこと、門倉がそこの看守だったこと、他の面々も囚人だったことは土方ニㇱパが話してくれたし「その頃は私の方が門倉たちに頭を下げている立場だったのだ」と冗談めかしていた。だが門倉自身は以前のことをほとんど話そうとしない。普段はへらへらと笑い、ちょっかい出してふざけあったり与太話もするのにそれはずっと変わらない。たぶん忠義というやつがそうさせているのだろうが、俺に話したところで意味がないと思っているからかもしれない。
それもそうかと納得するところもある。俺たちは生きてきた場所が違いすぎる。和人の、特にサムライと呼ばれていたような人たちの物の考えは理解が及ばないことばかりだ。時としてサムライは生以上の価値として自ら死を選ぶのだという。今死ぬ気など毛頭ないぞと土方ニㇱパは呵呵と笑ったが、良し悪しではなく俺にはその理屈が分からなかった。
それでも土方ニㇱパたちから俺や俺たちを嘲ったり蔑んだりするような言動をされたことは一度たりともない。故郷のためと割り切って付き合わざるを得なかった漁場。吹きつける寒風の中枯れた地面を見つめ、番屋との間をただ往復する間に幾度となく向けられてきた灰色の視線とは違うと分かる。同じ高さに立って俺を見ている。だから、そういう和人と話してみたい、彼らをもっと知りたいと思うことが前よりずっと多くなっていったんだ。それは門倉のことも同じで――。
「そうか。よく眠れなかったなら辛かったろう」
「……は。まぁな。あとでごめんねしたらヨシヨシしてもらえるガキの悪戯とは違うんだ。だぁいぶひでぇ悪さをしてきた。叱ってくれる母ちゃんもいないんじゃ甘んじて受けるしかねぇのさ」
こういう全て諦めたような口ぶりがどこからきているのかがずっと気になっている。恐らくはその監獄でのことなのだろうが、訊いてくれるなという空気がはっきり伝わるからあえて触れないようにしていた。それくらいは分かる。でも、それを感じると胸の中に細い糸が絡まってくるような、窮屈で心が硬くなっていくような鈍い感覚が俺の中に走る。量りきれなかった距離を指摘されるようでなんとも重苦しいこれは何なのだろう。時を経るにつれそのかさが増していく気がするのをどう逃してやればいいのか。
あれから俺たちは二人で一人分の二人組として共に置かれることが増えていた。凍った碧い湖での門倉は短絡的で行き当たりばったり、かと思えば殺人犯を前に堂々と罠を張り騙しをかけて渡り合ったりもする。そして自らの命を擲つことにやはり全く躊躇がなかった。危ういことばかりで、門倉という男を評するにも一定の貌を持たないから掴めない煙みたいだと思った。相棒と呼ぶには俺にはまだ門倉が見えていない。だからといって興味本位で無理矢理胸の内にずかずか踏み込みたいのではない。ただ、知りたい。知りたいと思うんだ門倉、お前を。
「網走監獄ってどんな所だったんだ……?」
――答えない。かすかな家鳴りも響き渡るほどしんと静まり返った部屋の空気が急に全身にのしかかるみたいで、重い。やはり訊いてはならなかったのか。ひとつ、ふたつ、みっつめの呼吸を吐いて、よっつめを吸ったところでぼそりと呟く掠れた声が耳に入った。
「寒い。寒くて……乾いたところだ。乾いてるのに、湿った重い空気がいつも足元に溜まって絡みついてくる。歩きにくいんだ」
「トー、あ、沼みたいな所なのか?」
「は、ちげぇよ。それはものの喩えだ。でもな、本当に自分が真っすぐ歩けているのかも分からなくなる、淀んで歪んだところだ。それとな……」
「それと?」
「得体の知れない化け物の、でかい臓腑の中にいるみたいだなって思ってた」
衣擦れの音がして、ぼんやりとだが門倉の両手が布団から出されたのが見える。指の先だけを互い違いに組んで重ね、小屋の骨組みのようなものを顔の前で作ってじっと見ていた。
「天井のな、梁や金属の筋交いがこう、化け物のあばら骨みたいに見えるんだよ。だからまぁ、肺腑だな。この中に閉じ込められて俺はずっと出られないんだなと、そう思ってた」
「閉じ込めて、って門倉は囚人じゃない」
「……どうだかなぁ。房との間に仕切りこそあれ、あそこにいた人間に本当に囚人と看守の別なんかあったのかなぁ。まぁ、一生懸命だった奴はいたか」
「囚人じゃないから今はこうして外にいるんじゃないか」
「そうだよ。……どうやって出たか分かるか?……第七師団の焼き討ちに遭ってな、火災用の開房装置動かして囚人七百人を肉の盾にして逃げおおせたのさ。もっとも、化け物の骨は金属だからな。焼かれてそれでも残ってたらしいが」
空気が見えない弾丸になって飛んできたみたいで、呼吸したつもりが喉に栓をされて塞がった。声が出ない。息が詰まる。頭がくらくらする。鼓動は疾るのに血が一気に下がって指先から冷えていく。何も知らなかった。いや知るべくもなかったが、そんな途方に暮れるようなものを背負わされていたのか。
「俺を肺腑に閉じ込めて、それでもマシな人間風味でいられるよう匿ってくれてた親腹食い破って出てったんだ。周りみぃんな肉片になっちまったのに永らえてる俺は外に生まれ出たときから数多の殺しの罪を背負ってるってわけ」
「そんな……だって、門倉一人の勝手でしたことじゃないだろう?そんなの立場がそうさせたんだ、お前のせいなんかじゃ……」
「どうなるかは当然分かっててやってる。消した命の代償にしちゃ随分とチンケだけどよ、俺も肩撃たれたしあそこで死んだことになってる。本来生きてちゃおかしい人間なんだ」
「おっ、おかしいなんてことあるか……!生きてるってことは、その間はこの世界での役目があるってことなんだ。ここで果たすべきことがあるからお前は生きてるんだ……!だから、」
だから?だからどうだと言うんだ。門倉の役目、なんて分かったようなこと言えるはずもない。俺は何も知らない。きっとこの男もサムライと同じ考えをしている。だからサムライが分からない俺に何が分かる、と言われればそれまでなのに。
それでも、生きてほしい――そうだ、生きていてほしい。俺は門倉に生きていてほしい。そうでなければ、辛い。毒を飲んで死にかけたと聞いたときも、近づけない距離があると思い知らされることも俺は辛かったんだ。もう一緒にいることが自然になっていたからだ。ふざけているしだらしないし、腕っぷしはないけどときどき度胸はあって、土方ニㇱパを敬っていて、そのときは子どもみたいに目が輝く。これからも変わらず小言を言ってみたり面倒を見てやったり、教えてくれたり、教えたり。生きている門倉という男とは同じ高さの視線で共にそう在りたい。
「……俺がそのでかい化け物だったらよかった。そうしたらお前を護ってやって、きちんと外に産み出して……やったのに……」
奥底から湧いてきた言葉がそのままするりと口から出たと同時に向こうでふはっと息をつく声がした。かさかさぱさぱさ。軽い衣擦れがして身体が揺れているのは……門倉が笑っているらしい。少し外が明るくなり始めたのか、さっきまでより隣の様子がよく見えている。目を凝らすとこちらを向いたままほつれかけの寝間着の袖を口元に押し当てて小さく震え、笑いを堪えている。くくっ、とか、んぐっ、とかこみ上げるものに抗っているようだった。
なんて野郎だ。こっちはこんなにも必死の想いで絞り出すように話したというのに。確かにおかしなことを言った自覚はある。何で俺が門倉を産むんだ。でもずっといた場所を壊して、人死にが沢山出た罪を背負おうとするなんて、そんな過酷な記憶が門倉の心を石みたいに硬くしてしまったというなら。俺がもう一度同じことをやり直して上書きしてやれたら良いのにと、そう思ったんだ。
途端、さっきまで冷えていた顔に指先に、急に血が戻ってきて巡りだすのを感じた。恥ずかしさと腹立ちまぎれの気持ちが体内隅々までかっかと駆けてゆく。いきなり汗が出そうなほど熱くなって布団を半身まで剥いでしまい、唸り声のごとき不満の声が思わずこぼれた。
「ひどいぞ門倉お前、笑うなんて。俺は見ての通り男だからそりゃもちろん産んだりとかできないし、そもそも俺よりジジイなのにどうやって産むんだとは……思うけどッ」
「んぐふっ……いや、すまんキラウㇱ。全くどうなってんだ、っひひ、産むってのか俺を。んっふふふ、馬鹿にしてる、わけじゃないんだ。……悪ぃな、お前さん根っから世話焼きだねほんとに。それにちょっとばかり優しすぎるかもしんねぇな。いいんだぜこんなのほっといたって」
奥歯で笑いを噛み殺しながら、ところどころで吹き出しながら門倉は少しずつ答える。肩まで揺らしながらまだ笑っている姿にはいらだちも覚えるが、さっきまでの重たくて潰されてしまいそうな空気よりはずっとましだ。
「ほっといたら門倉一人でどこか行ってしまいそうだし、そうしたら探しに行くのは一人分のもう半分の俺だ。そんなことになるくらいなら初めからずっと見張って一人になんかさせないようにする」
「はー、世話かけますね。俺は凶運の星の下に産まれてるからね。これからだってどんなひでぇ目に遭うか分かんねぇし、近くになんかいたらきっと巻き込んじまうぞ」
「いや、門倉は大事なところで運に護られてる。だから今ここにいるんだと思う。でもちゃんと見てないとそれまでにどうなるか分からないから俺はこれからもお前の世話を焼くしお前を見てる」
「はは、そりゃ心強いこと。あーあ、すっかり目も覚めたわ。そろそろ外も全体明るくなるかね……今日は暦幾日だ?昨日節分だったよな。てことは今日が立春、春……か。ああ、そういや土方さんが言ってたぞ、お前さん今日が生まれの日らしいじゃない」
「土方ニㇱパ覚えててくれたのか……。冬と春との境目を越えて、春の初めになる日に生まれたんだって父母から聞かされてたから。和人の暦だとそう呼ぶらしいな」
「へえ。立春大吉、春を呼ぶ男か。なんかぴったりじゃない。めでたいね。ああほら、大事な鉢巻がずれかかってるぞ。さっきまで部屋暗くて分かんなかったわ」
「あ……」
節くれ立って乾いた短い爪の指が故郷の祈りを込めてもらったマタンプㇱにそっと差し入れられた。一瞬目の前が門倉の手で暗くなって、冷たい指にずり上げられるとまた視界が開ける。ちょうど部屋の襖の僅かな隙間から低く差し込んだ冬の朝日が照らし、はっきり見えた向こう側にあったのは無精髭の門倉が柔らかく笑いかける顔だった。ああ、同じ位置で視線がかみ合う。……俺は、この視界がいい。
「あーしかし寒いったらねぇな。早いとこ炭熾して火鉢に当たろうぜ」
「俺は皆の朝餉の支度しないといけないから。炭は熾してきてやるから待ってろ。ただその……」
「お?なによ」
「あと少し……少しだけでいいから。まだこのままお前と話していたい。駄目か?」
「はは。今日生まれの主役のご要望とあれば無下に断るわけにもいかねぇなぁ。さてどんな話がお望みですかなご主人様?」
「フフフ。そうだな、まずは――」
最も寒く最も暗い。それが夜明け前。一年で一番寒いとされる日々が終わり、夜明けに抜けていった冬の踵。それからやってくる次の季節。やってくるのは春のつま先だ。長い人生の冬と夜とに沈んでいた男にもこの足音は聞こえるだろうか。
凍っている土に今はまだ響かなくとも、これから隣でいくらでも俺がその音を聞かせ続けてやればいい。ずっとこの足音で歩いてゆけばきっといつかは凍て解けを迎えるだろう。何たって俺たちは二人で一人分。互いを合わせたら元々の一つになる。それが片割れなのだから。