ゆきのよに あちゃあ、マジだこりゃ。雪でバスが止まった。南岸低気圧の予報が出ていたのは知っていたし、ニュースで繰り返し注意を促してもいた。ただ、ちょっとだけ「なんとかなるんじゃない?」と思ってしまった。今考えれば正常性バイアスというやつだったのだろう。
オフィスを脱出しながらバス会社のアプリをチェックした。運行状況図に引かれた赤い線の点滅は見事に自宅方面行きの路線。自宅は駅から緩くずっと続く長い上り坂を経た小高い丘の上の住宅街にある。登坂できないと判断されると真っ先に運休になる地域だ。在宅勤務にしておければよかったが、そういう日に限って中途半端な時間に来客の予定が入って出社せざるを得なくなる。まぁ大体いつもそんなもんだ。
首都圏の都市部は残念ながら雪にかなり弱い。滅多に降らないのだから常に万全な体制とはいかないのも無理ないが、不幸中の幸い、電車は各線まだ無事で最寄り駅までは戻れた。ただバスがダメなレベルではタクシーもうちの前の急坂を上りきれないし、さっき見たところそもそも乗り場に一台も待機していなかった。これはもう歩くしかない。覚悟は決めたものの、撥水加工された底厚めのビジネスシューズ程度ではここまでになると水気の多い雪質に太刀打ちできない。本当は口のとこ絞れるゴム長一択なんだよなぁ。雪国生まれにも関わらず長くこちらで暮らすうち降雪気配へのカンもすっかり鈍ってしまったらしい。
駅前のロータリーを抜けて商店街を通る。このへんは軒先の庇屋根があるからまだ楽勝だ。エビフライが美味い弁当屋、眼鏡屋、今日は定休日の自転車屋、ときどき団子買う和菓子屋、美容院、隣にコンビニ。……あ、そうだ。思い立って中に入ると客はまばらどころかほとんどいない。まだ二十時台なのに店員さんもいつもより少なく手持ち無沙汰そう。恐らくは人出がないと踏んで仕入れも減らしているのだろう。品出しもない客もいないじゃ暇に決まっている。というか彼らだっていっそ早仕舞いして帰りたいだろうに。
なんとなく悪い気がして早めに用事を済まして出るべく内側に蒸気の汗をかいたホットショーケースを確認するとまだ中華まんが残っていた。ピザまん、カレーまん、チョコクリームまんというラインナップにしばらく悩んでピザまんを手に店を出る。今日はフード付きのダウンジャケットだからまずはフードを目深に被り、左手に傘、右にピザまん背中にリュックの出で立ちで再スタートを切ることにする。ピザまんで暖を取って身体を温めつつ商店街を過ぎたここからの本番を切り抜ける作戦だ。
……さっっっみいぃい!!
さっきより風強くなってない!?しかも向かい風じゃんあっダメだこれ顔痛い!手の感覚もうない!やだぁフード外れた!耳!耳痛い耳!耳取れちゃうって!!あああピザまん冷めるピザまん早く食べなきゃピザまんあああ美味いよねこれね、トマトとチーズね、あっもう顔痛すぎて口動かない上手く噛めない傘あおられてる重い重い重い載ってる雪落としたいけど右手塞がってんだよくっそ何なんだよピザまんてああいやピザまんは悪くないよな俺は好きだようんうんああもう足冷たい染みてる染みてるもう無理もうやだここで遭難して終わるんだぁああ
心の叫びが最大ボリュームになったところでぼすっ、という湿度のある重たい音とともに電線に付いた雪が落ちてきて傘にクリーンヒットした。あおられて傾いていた傘なんてなんの守りにもならず、普通に首から肩口まで落雪を浴びる。えっもうこんなん嘘じゃんまだ全行程の半分も来てないのに?雪が首にひっついて死ぬほど冷たいし、体温で溶け首筋を流れて不愉快極まりない。ピザまん一つで生き残ろうとしたのが悪いってのか?肉まんなかったんだから仕方ないだろ。何だか分からないがむかっ腹が立つ。早く帰宅したくて必死なだけなのに。くそ、それでも進むぞ。進まねば家は向こうから来てはくれない。ロングウェイホームというやつだ、大事な場所ほど遠く感じるものなのだ。いや今日ばかりはマジで遠いけど。何に対する反骨心か分からないものを燃やしながらも歩を進める。あとピザまん今思うと普通に美味しかったです。冷めきってたって食べたら腹にはそれなりにしっかりエネルギーが充填される。
車道を走る車は既にまばらでチェーン装着済みのトラックとかアウトドア仕様の四駆車が大半になっている。それらが残すタイヤの轍だけがまだアスファルトの黒い色を辛うじて透かしていた。反対に歩道は人が踏み固めた跡も少しずつ減り、新雪の下に氷やシャーベットが隠れているトラップゾーンが増えてきた。積雪深は少ないところで五センチ、深いところが十五センチいかないくらい。これでもこのあたりでは交通網に十分すぎる影響が出る深さだ。なにしろ滑りやすいし足に力を込められない。これはもう、車道歩いた方が楽なんじゃないか……?
背後を振り返って車のいないことを確認してからそろりと轍に降りてみる。踏みしめたそこはぎゅっと固く締まっていて予想通り歩きやすい。道交法的にはアレだけど非常時だから許してお願い!百五十メートルくらい進んだところで背後からエンジン音と駆動音が近づいてきた。音の気配からすると結構大きい車のようだ。残念だがここは道を譲るしかあるまい。やり過ごしたらまた車道に降りようかしら。残り三分の一強くらいの道のりを思いつつ、なお強く吹きつける風雪に目をしばたたかせて歩道に上がった。だがどうやら判断がほんの少し遅かったらしい。
ぶしゃあああああ
「っええええー……うそぉ……」
すぐ横を走り抜けていった車高の高いSUVが車道脇の水気が強い雪と泥の合いの子くらいの飛沫をこれでもかと跳ね上げた。すでにすねの下あたりまで水が染みてきていたスラックスは膝下くらいまで一気にずぶ濡れ。景気よく仕立て上がった濡鼠一匹を残し、恐らくそんな状況に気づいてもいない高級車はそのまま旋風を巻きながら走り去っていった。依然横殴りの様子は最早吹雪と呼べるほどで信じられないくらい寒い。黒いはずのダウンジャケットもへばりついた雪の白にすっかり染まっているではないか。風にあおられまくる重たい傘を握る手に続き、脚も感覚が無くなってきた。
そしてこの一撃は悪天候への負けん気やら運動不足解消できるじゃんといった健全なモチベーションをも悉く削って殺した。要するにもう嫌。なんかもうこれ以上進める気がしない。このままだと本当に行き倒れてしまう。いくら人の気配が無いとはいえこんな都市部の、しかも住宅街のど真ん中で。あともう少しで家の前の急坂、温かな愛の巣まで数百メートルだというのに――。
あーあ、もしかしてほんとにお迎え来ちゃったかも。なんか坂の上の方から変な足音みたいなのが聞こえてきてる。ぎゅ、ぺたし。ぎゅ、ぺたし。みたいな。今時ってお迎えも徒歩で来る感じ?空からファ~って効果音つきで小さな天使と一緒に舞い降りたりしないの?かなりしっかりしたベンチコート着てフード被ってフェイスマスクまでがっちり装着してスノーパンツで来るんだね。完全防寒じゃん。
「……くらぁ、……どくらぁ……!」
うわ名前まで把握済みとか事前準備ばっちり本人確認不要ときたか。ああこれ完全に連れてかれちゃう……っていや困る困る困る!全然無理ですお断りです家でキラウㇱ待ってるもん。帰らないと泣いちゃうでしょ、こないだ誕生日のお祝いしたばっかりの可愛いあいつ置いて今昇天なんかできませんて!どうやら思考がだいぶ鈍麻するくらい極限状態に追い込まれているらしい。頭を振って気を取り直し、今の状況をちゃんと確認しようと前方の冬服の化身みたいのに改めて目を凝らしてみる。
意識をしっかり保ってよく見れば、着込んだ隙間からのぞいている強く優しい輝きの瞳には心当たりしかなかった。本当のお迎え。真打ち登場。お迎えオブザイヤー殿堂入り。帰るべき我がスイートホーム、その人だ。
「き、きらうじぃ……!」
「おかえりー門倉、大変だったろ。やっぱりバス止まっちゃったな。電車着いたってメッセージ入った時間から考えてそろそろかと思って迎えにきた」
「ウン……すんごいしんどかったぁ……俺もうダメ動けない〜」
「お疲れ様。うわお前足元びしょびしょじゃないか!そんなに地面湿ってたのか」
「車の泥ハネ浴びたんだよぉ。もう手も足も感覚ないぃ。凍傷になったかも〜」
家路はまだ続けど、待ち望んだ人がそこにいる安堵で一気に肩の力が抜けていく。代わりにどっと疲労が押し寄せ、股関節や膝関節や普段意識したこともないような部位の筋肉が急にダメージを訴えだす。縮こまる身には寒さも一層厳しく感じられ、もう臆面もなく弱音を吐きたいしここまでの辛苦を労ってもらいたい。甘え倒したい。なんか今ちょっと泣きそうだし。なにより絶対お前がいる所に帰って来たかったんだと言いたい。……いやこれ言うのはさすがに照れ臭いな。坂道を吹き上げる湿った雪で側面が塗られ始めている電柱に視線をやり、熱すぎる台詞は白い息で鎮火した。救われた感激がどうも自身を昂らせているらしい、と多少の客観視はできるくらいの冷静さを取り戻しつつある。
「お前さんなんかまたすごいの履いてきたのね」
「これか?今度イポㇷ゚テと雪原ハイクしようって話してたから新調したんだ。ちょうどいい慣らしになったぞ、スノーシュー」
片足を持ち上げて足裏まで見せてくれたのは現代のかんじき。徒歩で天から迎えが来る音の正体はこれだった。本来はもっとふわふわの雪でこそ効果を発揮する道具だが、慣れた様子はさすがエリート雪国育ちかつ現役のウィンタースポーツ愛好家。
「はー。備えあれば憂いなしだなぁ何でもさ」
「たまたまタイミング良かったんだ。一台しかないから門倉はこっち持ってきた」
キラウㇱが背負っていたリュックから口が絞れるゴム長がお出ましになった。なんだかんだ言ってこれが一番間違いないんだよ。ちょっと重いからって持って出なかったらこれだから、判断ミスをずっと後悔していた。
「あー!そう、これ!!これ持ってっとけばよかったんだよなぁ。ほんと助かるよありがと……あ、でも俺もう足濡れてるしなぁ」
「中濡れたって乾かせばいいんだから大丈夫だ。門倉が坂道滑りながら歩くなんてほんとに命がいくつあっても足りないから履いとけ。ほら、肩貸してやる。支えてやってもいいし。でもその前に……」
ベンチコートに手を掛け、真ん中、上、下とぷちぷちスナップを外していく。えっなにそこになんかすごいものが仕込まれているのですか?優しい目元をさらに綻ばせたキラウㇱはおもむろに袷を割り開く。
「ほらこい門倉!あったかいぞ!」
「き……きらうしぃ〜♡」
背後に廻ったらおっさんに露出趣味するおっさんの地獄絵図に見えるかもしれないこの姿。が、その懐は常春の園への誘いに違いなかった。もうあたりには人っ子一人歩いていないし、新弟子のぶつかり稽古よろしくその厚い胸に思い切り飛び込む。
「あぁ、あったげぁ……」
地厚なボアのふかふかした肌触り。その中でいつもの温もりが既に熱気と呼べるほどの塊になって包んでくれる。着込んで少し歩けばこいつはすぐにこれくらい温まるのだから自分との生命力の違いを思わずにはいられない。ほうっと息をつくと首筋とか背骨の周りとかの力みが緩んで、こんなにも自分が強ばっていたのかと気づかされた。思わずお国言葉が出てしまうくらいだ、子どもや動物のそれみたいな人をほぐしてくれる熱なのだろう。
そうして緩めてもらった肺で大きく息を吸い込めば、柔らかくてまろいキラウㇱの心根そのものみたいな匂いが鼻腔から全身に満ち満ちてゆく。幸せだ。もうこのままこいつに同化して吸収されちゃってもいいな。……あ、でも匂い嗅いでたらちょっとムラムラしてきたかも。やっぱ同化はしなくていいわ。
「寒い思いして帰ってくるだろうから今晩は白菜と豚バラのミルフィーユ鍋をコンソメひたひたで作ったんだ」
「ああー、いいー。最高だわそれ」
厚い胸板に頬ずりしていた顔の下の方でイメージに刺激されじんわり活発化した唾液腺が存在感を増す。キラウㇱが作るものは何でも美味いが、これは冬の定番であり俺のお気に入りでもあった。くたくたに煮えて豚肉の出汁が限界まで染みた白菜を噛み締める喜びでこの冬も我が家の食卓は間違いなく豊かなものになる。外側の繊維質だけ残って中身が甘ぁくしょかしょかになってるのが美味いんだ。しょかしょか。あ、腹が鳴った。
「帰ったらアツアツの食わしてくれぇ。腹減ったよー」
「……あれ、門倉お前何かトマトソースの匂いする」
「エッ」
好物が待っている楽しみに至近距離で顔を上げたら、冬眠しているはずの藪の蛇をつついたようだ。いたずらがバレた子どものような気まずさがせっかくほぐれていた表情筋をまたこわばらせてゆく。健康診断の度に何かしらの黄色信号以上が灯る身分に買い食いは基本的に許されていない。
「あ、うん……あの、駅前のコンビニでピザまんを……。いやほら雪も風もすごいし寒いしだったから何か腹に入れとかないと凍えそうだなって。……すまん」
「?別に怒ってないぞ?腹減ってると寒さが堪えるからな。そりゃむしろ賢明な判断てやつだろ。ただ食べ過ぎは良くないから米減らす」
「ああんあのスープで食べるお米が至上の幸せなのにぃ!殺生なこと言うなよぉ」
「食った後スノーハイクで消費してくるならいいぞ!」
「……早くお家かえろキラウㇱくん」
「アハーッ!ジジイ根性ない!」
「ここまで帰って来た根性を褒めてくれー」
「フフフ。だからほら、ミルフィーユ」
ベンチコートをさらに深くかき合わせ、のしかかるように包み込む温もりの塊。フェイスマスクを少しずらした熱い唇が頬にちゅ、と触れた。こんな甘い温度がある場所を手に入れてしまったが最後、二度と出て行きたくなんてなくなる。だから雪が降ろうが槍が降ろうが貝が降ろうがここに帰る。
「ミルフィーユなら挟まないとダメじゃん。お前さん一人足らないよ?」
「あー。うーん、じゃあそれはダメだな。きっともう一人の俺とで門倉の取り合いになる!」
「あらそぉ?二人がかりで挟んでお前さんのこといじめていいなんてなったら俺なら俄然張り切っちゃうんだけどなァ」
「ばか!何言ってんだスケベジジイ!ほら早く長靴履いちゃえ!」
キラウㇱが中に着ていたフリースジャケットの鎖骨あたりに人差し指を這わせると飛びすさるように間を取られた。マッチ売りの少女が見た幻のごとく、あっという間に常春も霧散する。代わりにぐいぐい長靴を押しつけてくる表情はしかしフェイスマスクとフードの隙間から僅かにのぞく部分だけでも赤らんでいるのが分かる。
まったくいい年してなんだってこんな初心な反応するんだか。いい年していい年のおっさんからかってほくほくしてるこのおっさんも大概だけどもね。これ以上口に出したら晩飯も幻になりかねないし、今こそ沈黙は金なり。黙っておこう。二人がかりのミルフィーユとはいかないが、続きは食後にゆっくりみっちりでも遅くはあるまい。道路が凍結してどうにもならないはずだから明日こそは絶対在宅勤務にするし、お籠り決定だ。
キラウㇱの肩を借りるどころか全面的にもたれかかってゴム長に履き替えるとようよう雪面をしっかり踏めるようになった。支えてもらっていたのをいいことにそのまま手なんか繋いじゃって、帰る場所は同じなれどあと百メートルばかりの雪の逢瀬を楽しむ。もう顔を目がけて飛び込んでくる雪も巻き上がる風も気にならない。真っ白な雪の夜に、雪みたいにまっさらな男と今は世界にただ二人だけ。振り返れば二人分の足跡がここまで続いている当たり前のことが何だか嬉しくて、進む足に力が込もる。滑ったところでこいつがいるなら何も不安はない。ひっくり返ったって受け止めてくれるだろ、きっと。アスピリンスノーには程遠い首都圏の雪もなかなかどうして、おっさんたちにロマンチックな恋人の時間を演出してくれる。悪いことばかりじゃない。
……前もこんな風に二人で雪道歩いた気がするんだけど、前っていつだったっけ?前回雪積もったのが二年くらい前だったか。でもそれじゃなくて。もっと前、のような気がするけどその前は……んん?まだ一緒に住んでなかったか。いつだ?うーん、まぁいいか。
舞い降りたそばから白を溶かす温かな手と指が絡んでいる。ミルフィーユ鍋早く食いたい。そしてデザートは君の予定だ、マイスイート。胸の内だけで口説き文句を吐きながらゆっくり上る急坂はあと二十メートルほどを残すばかり。