目が覚めると、見知らぬ部屋にいた。
気絶していたのか、まだ脳が覚醒していないようで、目の前がぼんやりと滲んでみえる。動こうとするが、足には何も付いていなくて立ち上がることができない。それに、腕にも何か手錠のようなものが付けられていて、頭の上に揃えるように固定されていた。
一体自分の身に何が起こったのかまるで理解できない。ここで目覚めるまでの記憶を辿ってみようとしたが、どうにも思い出せない。思い出せるのは、自分の名前といままでの生い立ち、昨日までの記憶だ。
俺はガントレットの競技中に、新記録が出したくて足元でグレネードを爆破させた。あの時の光景は忘れられない。観客たちが色んな表情をして、その視線が全部俺に注がれていた。後にも先にも、あの時の興奮を越える出来事はないだろう。それから、足を太腿あたりから切断することになって、シェの姉貴に義足にするように勧められた。ここから先は、思い出したくもない出来事が続いた。
シェが見舞いに来てくれた数分後、黒いスーツを着た男達が現れて、足が短くなった俺を攫うように無理やり退院させた。そして、二度と帰らねえと思っていた実家の、俺が子どものころに使っていた部屋に押し込められた。思えば、奴らはこの機会をずっと狙っていたんだと思う。俺がもう無茶できない体になって、親父のクソみてえな仕事を継がせる機会を。
攫われるように連れ戻されてから数日後、ベッドの上で教育が始まった。欠伸がでそうになる会社の理念から、俺がこれからやることになるクソつまらねえ業務内容について、社交界でのルールなんてのも聞いた気がする。逃げ出そうにも、俺には手段がなかった。
それから数カ月たったころだ。何も覚える気のない俺にとうとうあきれ返った教育者たちは、俺に新しい使用人を付けた。それがテジュンだ。
始めて俺の部屋にやってきた時、会社を継ぐ見込みのない俺を始末しに来た殺し屋かと思った。目が鋭くて、真っ黒なコートと髪の毛。コートに突っ込んだ手には、ナイフや拳銃が握られているんだろう。そう思い込んでいたから、こいつが俺の新しい専属の使用人だと紹介されてとても驚いた。
テジュンは完璧な使用人だった。なんでも言うことを聞く訳じゃないけれど、なんていうか、鞭と飴の匙加減が丁度よかった。今までの奴らは俺に理解させるので必死で、俺がそれを必死で嫌がっていることなんて、心底どうでもよさそうだった。でも、テジュンは違った。俺が家業を継ぐのを嫌がっていることを理解してくれた。俺も、こいつの仕事が俺を、一人前に会社を継げる人物になるようにすることだと、すんなり理解できた。だから、テジュンからいろいろ教えてもらうことは、あまり嫌じゃなかった。この気持ちが、所謂恋だと気づくのに、そうそう時間はかからなかった。
これが、俺が覚えていることの全てだ。俺はテジュンのことが好きになった。俺のことを理解して、一緒にいてくれようとしたからだ。俺のことを第一に考えてくれていたからだ。だから、こんな場所にいるのだろうか。俺なんかがテジュンを好きになったから、地獄に落とされたのだろうか。
ぼんやりする頭でそんなことを考えていると、聞き覚えのある足音が聞こえてきた。コツコツという固い足音。革靴の足音だ。どんどん近づいてくる。
ガチャ、と金属の音がした。ここからは見えないけれど、どうやらドアがあるらしい。足音かもっとクリアに聞こえてくる。やっぱり何度も聞いた音だ。この音がなる度に、俺は胸を高鳴らせた。今は逆だ。なんでこんなことをしたんだ、それだけが頭を埋め尽くす。
「テジュン……」
足音の主の名前を呼ぶ。テジュンは初めて会った時と同じ、人を殺していそうな目で俺を見つめてきた。
「どういうことだ、説明してくれ」
「お前が望んだことをしただけだ」
「こんな窓ひとつない部屋で手錠をかけられることがか?俺がそんなこと言うわけないって知ってるだろ」
「いいや、お前は確かに言った、連れ出してくれと」
「……は?」
全く身に覚えがない。
「大丈夫、すぐにこの手錠も外す、その前に、紹介したい奴らがいるんだ」
「な、なんだよ、お前以外にも誰かいるのか」
「怖くない、オクタビオが自由になる為に必要なことだ、奴らも協力してくれるらしい」
「俺は……」
そこまで声を出そうとして、新たな足音が近付いてくるのに気がついた。その足音が妙だったから、俺はさらに口を噤んだ。テジュンのと全く同じ音だった。似たような靴を履いているからとかじゃない。全く一緒の音に聞こえた。革靴の音だ、しかも二人分。
音は俺のいる部屋のあたりで止まって、またドアを開ける音がした。
「目が覚めたか?」
「あぁ、でもまだ混乱しているらしい」
「仕方ないだろう、こんな訳の分からない所に連れてこられたんじゃ」
「怪我はしていないか?お前、結構乱暴に連れてきたからな」
「オクタビオに怪我させるようなことはしない、しかし、手錠をかけたまま少々暴れたらしくて、それだけが心配だ」
「暴れたのか」
「手首を見せてみろ」
俺は目の前の光景が信じられなかった。
男がいる、三人。その三人とも、顔が全く一緒だ。鋭い殺し屋みたいな目をした、テジュンと顔が一緒の男が二人、俺を取り囲んでテジュンと話している。男のうち一人は赤いコートを着て、染めたような白髪で、もう一人は緑のコートに薄い金髪だった。髪型とコートの色以外には見分けのつかない男たちは、俺をまるで芸術品でも扱うみたいに、てきぱきと手錠を外して、俺の手を掴んで手首の具合を見ている。
振りほどこうとしたけれど、妙に強い力で掴まれていて動かすこともできない。
「痣になっている」
「ヒヨン、お前がきつく手錠をかけるからだ」
「テジュンもこれくらいしないとオクタビオは暴れるって言ってたじゃないか」
「二人とも喧嘩するな、オクタビオが不安そうにしている」
緑のコートの男の一声で、テジュンと赤いコートの男、ヒヨンが黙る。緑のコートの男は俺に近付いてきた。男の顔はテジュンと全く同じだけれど、どこか穏やかさがある目元をしていた。
「オクタビオ、不安にさせてしまったな、安心してくれ、俺達はお前の敵じゃない」
「敵じゃない奴が手錠をかけるか?」
「はは、そう言われたら言い返せないな」
その男は優しげに笑うと、二人に握られたままだった手を、優しく奪い返すように握って、少し浅黒くなった手首を指で撫でた。
「……で、どっちだ、手錠をかけたのは」
穏やかな声のまま、男は二人にそう訊ねた。二人は少し目を合わせて、ヒヨンの方が「俺だ」と言った。
「オクタビオに警戒されると、分からなかったか?」
「俺は知らねーよ、テジュンが暫く拘束してた方がいいって言ったんだ」
「テジュン、どうしてそう思った?」
「それは……」
テジュンはもごもごと口を動かしたけれど、何か発音することはなかった。
さっきからテジュンもヒヨンも、この全く顔が同じの男に怯えているように見える。一体この三人の関係性はなんなのか、そもそも、俺はなんでここに連れてこられたのか、疑問ばかりが頭を巡る。
「なぁ、ここはどこなんだ」
とにかく、最初に気になったことを訊ねてみる。
少なくとも、俺の実家ではない。コンクリートの壁はもう何十年も経っているかのような劣化具合だし、こんな薄汚い部屋は、俺が入れる部屋の中にはなかった。
「ここは安全な場所だ、特殊な仕様になっていてな、電波も通さない部屋なんだ、お前の居場所も、奴らにはきっとわからない」
「そんな説明で安心できるかよ!大体、俺はなんでこんな場所に……」
連れてこられたんだ、そう言いかけて、言葉に詰まった。三人の目が、一瞬で恐ろしいものに変わったからだ。俺はテジュンを初めて見た時、殺し屋だと思った。今の三人の目は、正に人を既に殺めた後のような、そんな恐ろしい目をしていた。
「なんでって、オクタビオ、お前が言ったんだぞ」
「そうだ、テジュンから俺も聞いた」
「さっきも言っただろう?連れ出してくれって、お前が頼んだんだ」
三人は恐ろしげな瞳のまま、俺を見下ろすように取り囲む。
「奴らは俺たちがどうにかするから」
「オクタビオは安心してここにいたらいい」
「そうだ、新しい義足も作ろう、もっとオクタビオに似合うものを」
「それがいい!オクタビオは走るのが好きだったな、スポーツ用のを作らせよう」
「この部屋だったら、いくらでも歩き回っていいからな、でも、ここから出るのはダメだ」
「ここから出たら奴らにお前の居場所がバレてしまう」
「それは嫌だろう」
「あの生活に戻るのは辛いだろう」
「だから、俺たちと一緒にここにいよう」
口々にそういう言葉を繰り返す男達に、俺は明確な恐怖を覚えた。これは自由でもなんでもない、監禁だ。
俺は男達の足の間を掻い潜るように這った。しかし、足のない体はすぐに捕まえられて軽々と持ち上げられてしまう。
「なんで逃げる?」
「俺達がいるだろう?」
「何か不満か?」
「ふ、不満しかねぇよ、俺がもし仮にあの生活から抜け出したいって言ってたんなら、こんなのは望んじゃいねぇ」
「「「………………」」」
三人が静かになる。表情は相変わらず怖いまま、じっと俺を見つめてくる。
「オクタビオ……」
「そういうことか」
「なぜ早く言ってくれなかったんだ」
何か納得した様子で、男達は俺を床に降ろした。震える俺に、テジュンがしゃがみこんで視線を合わせてきた。
「オクタビオ、俺たちはお前が好きなんだ」
面と向かった場違いは告白に、俺は固まってしまう。嬉しい言葉のはずなのに、上手く反応できない。意味不明なことが起こりまくって、状況がうまく掴めない。
「だから、お前を守りたいし、しっかり愛したい、だからここに連れてきた」
次はヒヨンがしゃがんでそう言う。
「今までの分もたくさん、オクタビオに愛情を注ぎたいんだ、だからずっとここにいてくれ」
緑のコートの男もしゃがんでそう言った。
もう、三人の目からは殺し屋のような恐ろしさは消えていて、俺を慈しむような雰囲気に変わっていた。でも、だからといって俺の警戒心が解けた訳じゃない。じっと睨み返すと、三人は顔を見合わせて困った様子だ。
「オクタビオ……」
「どうしたら分かってくれる?」
「お前はここに居ないと奴らに連れ戻されるんだ、だから多少の不便は我慢してくれ」
おろおろと話す三人に、この瞬間は少なくとも敵意は感じなかった。本当にどうしたらいいかわからないみたいな。どうにか俺をここに留まらせようと、大人三人が必死になってて、流石に俺も少しだけ警戒心を解いた。ほんの少しだけど。
「こ、ここにいる方が本当に安全なら、大人しくここに居てやるよ、だからんな顔すんなって……」
この一言だけで、男達の顔がぱあ、と明るくなった。大の大人が、と俺も可笑しくなってフッと吹き出した。
「やっと笑ってくれたな」
「急に連れてきたのは本当にすまない、だが仕方なかったんだ」
「俺達は奴らとは違う、お前に寂しい思いなんて、させないから」
男達が代わる代わる俺に触れてくる。半分機械に覆われた手、それなのに、不思議と温かい手。テジュンの手に、俺はすっかり安心してしまった。
この時の俺は、急にやってきたあの生活から抜け出せる機会に、喜びすら感じていた。もうあの息苦しい、死にそうな日々とはさよならできると。
でも、本当の苦しみはここからだった。
人に愛されることがこんなに苦しいことだったなんて、心から愛されたことのない俺は、この時知らなかったからだ。