知らず呼べずとも朝早くからの来訪者は、透明のフィルムと柔らかな薄紙でラッピングされた一輪の花を手に現れた。
眠気のふんだんに残る頭で寝癖のままのボサボサの頭を掻きドアを開けると、根本をリボンで結ばれたそれを押し付けられ呆気に取られる。
止める間もなく家に上がり込んだオクタンが、キッチンのダイニングテーブルの椅子に座っていた。
「どうしたんだ?こんな朝早くから」
押し付けられたのは薄い花びらが幾重にも重なる美しい花だ。ふんわりとした花弁が可憐で、淡い色も好き嫌いがなく好まれるだろう。
だが花を愛でる繊細さは持ち合わせていない。どちらかと言えばズボラで、今だってパソコンデスクの上には昨晩の夕食の残骸が散らかっていて、部屋も殺風景だ。勿論花瓶なんてあるはずもない。
「来る途中、道端で摘んで来た」
冗談なのかすぐバレる嘘を言うオクタンに肩をすくめ、テーブルの上にあった空のミネラルウォーターのペットボトルに水道水を汲む。
とりあえず、と。ラッピングを解き、こんな色気のない簡易な花瓶にその花を挿した。花にしてみれば不満があるかもしれないが、味気ない部屋に在る唯一鮮やかなその花は視界の端にあっても目に留まり、その美しさで心を和ませてくれる。
「ありがとう」
生憎花の名前なんて俺には分からない。薔薇やひまわり、チューリップくらいは知っているが……。
「綺麗だろ?」
オクタンが彼らしくない穏やかな声色で言った。何故花を贈られたのか分からない。自分に花が似合うとは到底思えなかった。
「ああ」
と短く返事をするが、花の名を知らない俺は気の利いた言葉すら思いつかない。
「嬉しい!」と喜ぶキャラでもなければ、花を貰ってはしゃぐほど純粋でも純情でもない。
オクタンがテーブル上のペットボトルを自分の方へと引き寄せ、花びらを指先で優しく撫でた。繊細な手つきに思わず見入って、花ではなくその手を意味もなく眺める。
「何ていう花なんだ?」
「……さあ?忘れちまった」
JAJA、といつものように笑いこちらを向いたオクタンにため息を吐く。
「いい加減だな……」
「そう言うなよアミーゴ。花の良いところは名前を知らなくてもわかるところだろ?」
「わかるって、……何がだ?」
答えを探して可憐な花に注視する。
「その花が、美しいってことが」
告げたオクタンのグラスの向こうの目が俺を見つめていた。いつもの騒がしさを忘れて椅子から静かに立ち上がり、ゆっくり近づく彼の独特の足音が僅かに耳に届く。
俺に向かって伸ばされる腕。避けるのも不自然で首を傾げて彼の行動を見守る。
「オクタン?……」
俺の頬に触れたオクタンの指先が、先ほど花びらを撫でた優しい手つきで肌を滑った。
ふわり、と産毛をかすめる触れるか触れないかの距離で撫でられるくすぐったさに、もぞもぞ唇を動かす。
「名前がわからなくても綺麗だってことは見りゃわかる」
真意を探ろうと深読みする愚かな脳。弾き出した可能性に、どきり、と心臓が跳ねた。
ゴクリと生唾を飲み込む。ライムグリーンのグラスに透ける眼差しに、何もかも見透かされているのではないかと緊張が走る。
「さすがにキザすぎたか?」
俺の不安を尻目に、ニッと細まったオクタンの目。突然抱きつかれて疑心は吹き飛び代わりに戸惑いに襲われる。
「匂いも好きなんだ」
背に回された腕に服越しに感じる人肌の体温が心地良く、気付けばつられて彼を抱きしめていた。
「もしかして……俺を花に見立てているのか?」
「自惚れすぎだろ!」
顔を見合わせ二人して笑った。
「……花の名前を知りたいと思わないのか?調べようと思えば、不可能じゃないだろう?」
抱き合ったまま尋ねてみる。甘い雰囲気に浸ったまま腹の探り合いをするのは滑稽だ。
「教えたくなったら花の方から名乗るんじゃねえか?」
「……口が無いのにか?」
花の話と俺の話を綱渡りする。
「別名がある花もあんだろ?どっちにしたって美しさは損なわれねえし変わりゃしねえよ」
「案外ロマンチストなんだな。お前に花を愛でる一面があったとは、」
「花じゃねえ。……アンタの話だぜ?」
意味深な言葉にマスクを下げて現れたオクタンの口元は笑みを浮かべていた。追求しようと開いた俺の唇は塞がれ、口付けられたのだと認識してすぐに温もりが離れる。
「…………」
何事も無かったかのように椅子に座ったオクタンが、テーブルに頬杖をついて俺を見上げていた。
「何だっていい。アンタはアンタだ」
立ち尽くすクリプトから目を逸らしたオクタンが僅かに唇を突き出し、光に透ける薄い花びらを持つ名も知らぬ花にそっと口付けた。