爪先にブーゲンビリア「どうした、アルジュナ」
何処かふてくされた様子でこちらを見るアルジュナに、カルナは声をかけた。
花束を仕上げて、ひと段落ついたところだった。リボンをカットしたハサミを置き、手をタオルで拭う。その所作のひとつひとつをアルジュナの目が追う。
「別に、何も」
「そうは見えん」
花屋の店内には丸いスツールが一脚置かれている。本来それは、カルナが花を包んでいる間、客が座って待つためのものだ。ただそれは十七時半までの話で、それ以降は殆ど毎日、同じ男がこの場所に陣取っている。
「言わんと分からんぞ。何か不満があるなら聞こう」
カルナがそう言うと、アルジュナは胡乱な目を向けた。
「少し、苛立つだけだ」
「何に」
渋々とアルジュナが口にした言葉に、間髪入れずカルナは問いを返した。黒い瞳が作業机の花束を睨む。
「お前、仕事中には何を考えている」
「仕事のことだが」
「他には」
「花のことだな」
「……他には」
訊かれて、カルナは首を傾げた。どうも、アルジュナには欲しい答えがあるらしい。それは分かったものの、では彼が如何なる返答を求めているのかは、すぐには分からなかった。
神経質な様子でアルジュナは足を組み替える。仕事中に考えていること。客のことや、仕入れのこと、ランチのこと、夕食の準備のこと……。
「私のことを、思い浮かべる瞬間はないのか」
「ああ、それか」
言われて漸く得心がいった。確かに、アルジュナのことを想うときもある。綺麗な花が入荷すれば、アルジュナにも見せたいと思うし、仕事で悩んだときは、彼ならどうするだろうかと考えてみることもある。あまりにも自然に思考の中に居るから、すぐには思い付かなかった。
ということをカルナは説明しようとした。したのだが、彼がゆっくりと言葉を選んでいる間に、アルジュナは深々と溜息を吐いた。
「仕事中はいつもお前の顔が浮かぶ。デスクで書類を整理するときも、得意先でも、厄介な相手とのミーティング中も……、お前がもしここに居たら、どう対応するだろう。今夜は何時に店に行けるだろうと、気付けばお前のことを考えている。定時近くになれば、早く会いたくて心が急く。お前はそうではないのか、カルナ。まるで私ばかりがお前を好いている気分だ」
「自惚れるな」
これにはカルナもムっとする。間髪入れず言い返したが、お陰で言葉は完全に間違えた。
「仕事中に、敢えてお前について気を巡らすことはない」
言ってから、どうやら言葉が足りていないことには気付いた。だがカルナが訂正する前に、アルジュナは勢いよく席を立った。スツールが倒れて鈍い音を立てた。顔を顰めて、倒した椅子を起こしたアルジュナは、そのままカルナには一瞥もせずに店を出て行った。咄嗟に引き留めようと開いたカルナの唇は中途半端な形を作り、伸ばした手は空を切った。カランカランとドアベルの音が後に残った。
しまった、と思ったが、もう遅い。怒らせてしまった。違うのだ、言いたかったのはそういうことではないのだと、慌ててメッセージをスマホに入力する。だが文章を考えている間に、店に客が来てしまった。結局メッセージは送れず仕舞いだ。
焦りはあるが、それで仕事をおろそかにするわけにもいかず、無理矢理気持ちを切り替えて、カルナは閉店までの時間をやり過ごした。
「アルジュナ」
最後の客が会計を終え、店の看板をCLOSEに変えた。レジの処理をし、花の様子を確認して、そろそろ上がろうかというときにアルジュナが戻ってきた。手にはレジ袋を提げている。
先ほどの件について謝ろうとしたが、アルジュナがカルナの言葉を遮った。
「カルナ、手を出せ」
「手?」
アルジュナはツカツカと歩み寄ると、レジカウンター越しにカルナを睨み付けた。思わず聞き返しながらも、右手を差し出す。すぐに力強いアルジュナの手に手首をガッと掴まれた。そのままカウンターに押し付けられる。
「アルジュナ?」
「そのままじっとしていろ」
声が低い。彼はレジ袋を逆さまにして、中身を乱雑にカウンターへ出した。ゴトゴト言いながら転がったのは、三つの小さな小瓶だ。割れたのではないかとカルナは瓶を見るが、それなりに頑丈なようだ。
「マニキュアか」
「そうだ」
アルジュナが液体の入った瓶を開ける。キャップに付随した筆の先から、透明な滴がゆっくり滴る。動くなよ、ともう一度念を押してから、彼はその筆で、カルナの親指の爪を撫でた。
「冷たいな」
マニキュアなど塗るのは初めてだった。まして他人に塗られるのは。毛先が触れたそばから指先がひやりとする。ぬるりと、粘度の高い液体が爪の表面を覆っていく。
アルジュナは真剣な面持ちでカルナの爪にネイルを施していく。慎重な筆運びがくすぐったい。話しかけるタイミングを見失ったまま、カルナは黙って彼の作業を見ていた。口を挟む余地はなかった。
閉店後の店内に、時間だけが流れている。BGMも止めた後だから、本当に静かだ。冷蔵庫の稼働音くらいしか聞こえない。
右手が終われば、次は左手を要求された。十指すべてが透明の被膜で覆われる。これで終わりかと思えば、今度は色の付いた液を重ねて塗布された。肌の色と殆ど変わらない、薄いピンク色だ。着色のあとは、もう一度透明の液を塗り重ねられる。爪先が僅かに重くなった気がする。
「しばらく、固まるまでこのままで」
「……何のつもりだ?」
やっと終わったようで、アルジュナがカルナの両手を解放する。知らず詰めていた息をカルナはゆっくりと吐いた。静寂に妙な緊張があった。
目の前に手を掲げて、色の灯された爪を検分する。僅かにはみ出しがあったが、綺麗に塗られている。店に良く来る女性がこんな爪をしていたなと、薄ら思った。
「目に入れば、嫌でも思い出すだろう?」
「……ああ、そうか」
成程、とカルナは声を発した。つまりカルナがああ言ったから。目につく場所に印を残して、その度に自分のことを思い浮かべるようにと、これはそういう願掛けであり、アルジュナが時々見せる弟としての甘えだった。そう思えば笑みも浮かぶ。
「そもそも思い出す必要もない。……お前は常にオレの中に居る」
「知っている」
「では何故」
「お前の、そのひと言足りなさへの意趣返しだ」
腕を組み、ふん、とアルジュナは鼻を鳴らした。確かに、言葉が足らなかったのは事実なので、その点は内省する。
だから、そうか、と、これで話を終わらせても良かった。だが何処か腑に落ちない。つやりと爪の表面が光を弾く。平等である必要はないが、公平が良い。
「不服だ。お前も手を出せ」
「うん?」
アルジュナは訝しみながらも、素直に手を出した。こういうところが愛しいとカルナは思う。兎も角、アルジュナの右手をカウンターにつかせて、カルナはマニキュアのキャップを捻った。
「おい」
「時間は取らせん、一本だけで良い」
人差し指を選んだ。慎重に筆先を走らせる。褐色の指先に、透明を乗せていく。色は入れなかった。ベースコートと、トップコートと瓶に書いてあるものだけを、その爪に施した。
「これで条件は同じだ。お前もオレと同じくらい、オレのことを思考するがいい」
笑って言うカルナに、アルジュナは僅かに頬を赤くした。