(だって夢だからね!)妖精國マンチェスター領。その土地を治める逞しくも麗しき領主は、うつくしく整えられた屋敷の奥の奥。殊更に丁寧に設られた一室のドアを開く。
ランプがひとつ灯ったきりの薄暗い、けれど橙色の温かな光に満ちた部屋だった。
入り口のドアの正面には庭に面した窓があり、夜半の今は温かな色のカーテンがひかれている。そこから少し視線をずらせば、豪奢では無いがそのぶん上品な天蓋付きのベッドがある。
そこに半身を起こしたまま横たわる相手を見て、妖精騎士ガウェインは、ようやく騎士としての表情をすこし弛めた。
「ただいま、アドニス」
常から騎士として厳しく自分を律している彼女がこれほどまでに柔らかな声を出すのは珍しい。きっと彼女の部下ですら、こんな声は聞いたことがないだろう。
けれどそのとっておきの声を常日頃から聞くことが叶う『彼』────彼女の恋人のアドニスは、ふわりと微笑んで返答した。
────おかえり、ぼくの愛しいひと。
彼女は、寝台の横に設えた椅子に腰掛けて、彼の手元を覗き込む。
そこには異界からの漂流物である書物のコピーがある。アーサー王伝説。彼女自身もまた何度も読み返すほどに愛読している一冊だ。
アドニスはその本に若草色の栞をはさみ、枕元に置いて、帰ってきた恋人の顔を見返す。
────今日はずいぶん遅かったね。
「ごめんなさいね。西の森のモース狩が手間取ったの」
────大変だったんだね。ちょっぴり疲れた顔をしてる。
「嫌だ、本当?」
────うん。でも、そんな顔もとってもきれいだ。
そんな風に、明け透けに賛辞の言葉をよこされて、ガウェインはぱっと頬を染める。彼女の恋人は、無邪気な顔のまま、恋人に愛を囁くのだ。
────今日も大変だったんだね。疲れていない?
「少しだけ。でも、これが私の責務だもの。それにね、貴方の顔を見たら、疲れなんてどこかに行ってしまったわ」
ガウェインはくすくすと笑い、それから思い出したように顔を上げる。そのまま、何も持っていない右腕を軽く持ち上げると、指先を中空でくるくると回す。
と、彼女の妖精紋様が僅かに反応し、魔力が渦巻き、そうして瞬きの間に、彼女の手の中には、真紅のアネモネの花束が現れていた。
わあ、と目を輝かせる恋人に、彼女は微笑みかける。
「遠征先でね、それは見事な花畑があったのよ。花畑そのものは見せてあげられないけど、これならと思って。花瓶を持ってきて生けさせるわ」
────ありがとう。ねえ、その花、一輪だけ渡してくれない?
「?良いけれど…」
不思議に思いながらも、ガウェインは身を屈めてアドニスに花を一輪、渡す。そうすると、アドニスは、目が覚めるように赤い花をガウェインのこめかみに差し入れた。
まあ、と軽く目を見張った恋人ににっこりと微笑みかけて、アドニスは言う。
────やっぱりだ。君の金色の髪に、絶対に似合うと思ったんだよ。
ガウェインは顔を赤くして、ただの少女みたいに俯く。
「私がこんな可愛らしい物を飾っていたら、騎士としての威厳に関わるわ」
ちょっと拗ねたように、けれどそれもただのポーズに過ぎない。
────それは困ったなあ。じゃあ、こうして飾るのは、僕と二人きりの時だけにしよう。
ふざけたように言う恋人に、もうと怒ったような声を出して、けれど結局嬉しくて、ただの乙女のような顔で笑ってしまう。
「アドニス、病気が治ったらね、一緒にこの花が咲いている花畑にいきましょう」
────うん。それは、楽しみだ。
ガウェインはアドニスの肩に顔を寄せ、言葉を囁く。万感の、愛を込めた言葉を。
「…ねえ、アドニス。わたし今、本当に幸せよ」
────そうだね、ぼくの愛しいひと。
────きみがぼくと同じ気持ちでいてくれて、嬉しい。
彼女の瞳の中には間違いなく、恋人のやわらかい微笑みが映る。彼女の耳朶は、恋しい男の愛の囁きを受け取る。
確かに彼女には、そこにいる恋人の姿が、見えている。
まるで夢の中にいるみたいね。
美しい妖精騎士は、赤黒い物がこびりついた、空っぽのベッドに向かって、心の底から幸福そうに微笑んだ。