鋼の翼 俺は子供らしくない子供だった。
我慢するより諦める方が楽だと早々に知ってしまったのだ。
初めからなかったのかもしれないと思えば、全てが不必要なものに感じられた。
生きていく上で必要なものはだいたい漫画とゲームが教えてくれた。人間の口から出るきれいごとが大嫌いだったし、俺が欲しかった言葉は同意でも否定でもない。現実だ。
無情で残酷で、たまにほんの少し優しくて、時に色んなことがどうでも良くなっちまいそうな、そんな現実。
泣かない子供の頃に比べて、今は身体と共に声も大きくなった。
あの日、俺は初めて自分の本当の声の大きさを知った。
全身から絞り出すように声を上げ、ただひたすらに名前を呼んだ。周りの目も気にならないほど夢中で、声にならない音が叫んでいるのを聞いたまま、咆哮を腹の底から唸らせ続ければ、顬がぎゅっと痛んで鼻の奥の苦味が降りてくる。
血の味が奥の方から広がって、金切り声がキィと鳴った喉は、やがて掠れた呼吸音しか出なくなった。
あの電車でしか行けない場所に左馬刻の妹がいると知ったのは二週間前のことだった。
あの電車とは中央区が運営し、女性のみが乗車を許された中王線だ。
女性のみとは言ったが、例外は幾つかある。
中王区指定の男性研究員には改札を通るパスが発行されていて、ごく稀に研究対象の護送時にも使われたことがある。
もっと多い例外は収容所入りを自ら志願する者だ。中王区の収容所は教会と呼ばれ、生涯をそこで過ごす代わりに税金は免除され、修道士として一生奉仕活動をする男性のみが入る場所になっていた。
税金を払えない者や、更生を誓った罪人が審査の後、送られるケースもあるという。
あの電車は一般人は乗れないものであり、乗ったら最後なのだ。
普通の電車とは違い、改札さえ普通の男は見たことがない闇の産物。
昔の左馬刻のセーフハウスの一つだった都内のタワーマンションの窓から時々見える車両はいつも無人だった。
今日も帰りが遅くなると連絡が入り、鍋の火を止めた。どちらともなく飯を作っては、相手の帰りを待つ。そんな当たり前の幸せに少し、いや、かなり油断していた。
中王区のニュースに合歓ちゃんが出なくなったのは半年前、それまで月一の民法放送で安否を確認していたが、内閣総理大臣補佐官の口から直接伝えられた体調不良、裏情報にも尾鰭が付いて一時期話題となった合歓ちゃんの安否。
心配はしていたが、何せ連絡が取れない以上確認のしようがなく、今日までなんとなく過ごしてしまった。
「おかえり。思ったより早かったな」
無言のまま目線で飯が出来ていることを確認したのがわかる。そのぐっと疲れた身体が近付いて腕が肩に回された。
「風呂入りてぇ」
冗談交じりに一緒に入る?と聞いた数秒後、服の裾を持ち上げられバンザイさせられる。
スウェットで遮られた視界が開けた瞬間に、触れた唇に思わずニヤけてしまって、やっぱりどうもカッコつかない。
でもこれでいい。これが俺と左馬刻の日常なんだ。
何日も顔を合わせなくたって、言葉もなくたって、身体がぴったりと重なればこれほどまでにしっくりくる身体はないと思い知らされる。
互いに多くを求めないようで、何よりも望んでしまっていた。
同じ浴槽に浸かるのは久しぶりだったが、またサウナに行きたいとか温泉に入りたいとか、そんな話を笑って左馬刻も聞いていたのだ。
「今日は歌わねぇのか。アニメのオープニングだかエンディング」
何故だか恒例になった今期一番ハマってるアニメのオープニングを披露するのはいつも風呂で、アニメの内容は退屈そうに聞くくせに、歌だけはいつも楽しそうに聞いていた。
俺の作った飯を食い、同じベッドで眠る。
そんな左馬刻の異変に俺は気付けなかった。
「今日はゆっくりなんだな」
ベッドで寝返りを打ちながら、中々出ようとしない左馬刻を抱き寄せると力の抜けた腕がだらりと腹に乗っかった。
「もう少しぐれぇいいだろ」
いつもなら押し退けられるはずが、左馬刻は俺のTシャツの首元を掴むとぐっと鼻先に近付けて吸い込んだ。
「ハハ、ガキくせぇ」
たまにこうして鼻からいっぱい匂いを吸い込むのは、いつも俺だった。
左馬吸いと言って、ぐっと腕の中に閉じ込めて鼻を押し付けると、じっとしながらも少し嫌そうに眉間に皺を寄せる。
その顔も見たくて、俺は顔が見える胸元に鼻を押し付けていた。
午後、左馬刻が仕事に出ると、俺はすぐさま夕食の用意に取り掛かった。
簡単で美味くて、左馬刻にも好評のカレーだ。
俺が一番最初に作れるようになった料理で、弟達も大好きなカレー。
左馬刻の作るビーフカレーも好きだが、いつものポークカレーにした。
いつも通り人参は一つだけハート型に切った。
これだけは左馬刻も食べてくれるのだ。
今日も不貞腐れた顔で人参を口に含む左馬刻を想像しながら、鍋を掻き混ぜた。
その日の夕方アプリに一件のメッセージが届いた。
俺は17時の電車に乗る。
まるでいつも通りだ。
昨日は21時には帰る。だった。
ただ、いつもと違うのは電車というワードの意味を俺が瞬時に理解してしまったことだ。
中王線のどの駅から乗るか、それすら考えず頭に浮かんだ駅へ向かう。
あと一時間もない。
車のキーを持つ手が震え、家の鍵もかけずに飛び出した。
高速を走る間、タイヤがコンクリートに擦れる音も風も、全てが邪魔でラジオのボリュームを上げる。DJの落ち着いた声が時間を告げると、ずっと引き結んできた口元が緩んでやっと息を吐く事が出来た。
浅い呼吸を繰り返し、再び奥歯をこれでもかというくらいに噛んで耐えた。
あと少し、絶対に連れ戻す。
ウインカーを上げて、減速する向こうの信号は赤だ。
前には三台車が止まっている。
焦りを抑えきれずにハンドルをバンバン叩いた。
それでも足はブレーキを踏んでいるのだ。
こんなにも心とは裏腹に身体は操作され、社会という枠組みの中で俺は生きている。
その昔、左馬刻の助手席でカーチェイスをした時は遠くからクラクションを鳴らし、前方の車を避けさせて二車線の道路の真ん中を戦車の如く走らせる横顔を驚きながら見ていたっけ。
俺はただ赤信号の前で止まっている。
そんな余裕は無いはずなのに。
唸れ俺のホワイトチャリオッツ!!
戦車とは似ても似つかない愛車の白いバンはのそりと発信した前方の車に続き、しばらく走ると駐車禁止の駅のロータリーに車を乗り捨て、駅の門へ走った。
マイクを取り出し、ワンバースで門番のIDを奪い中へと進むと、もう一つドアがある。
サイレンが鳴り響く中、駆け付けた警備員を蹴散らし、中へ進むとやっと改札が見えた。
またしても数人が両腕を広げて俺を制止するも、改札横のドアを蹴破り突破した。
エスカレーターを駆け上がる途中で発車ベルの音が聞こえた。
息が切れても走れ、駆け上がれ、1秒でも早くホームにたどり着け、走れ、走れ。
ホームへの最後の一段を駆け上がった時、左馬刻の顔が見えた。
鉛のように重い太腿を持ち上げて、一歩、あと一歩、どうして動かない俺の足。
手を伸ばした先で閉まり掛けたドアに向かって今までで一番大きな声を上げ、叫んだ。
左馬刻ーーーー!
けたたましい発車ベルにも掻き消される事無く鳴り響く声に、眉をひそめた左馬刻が一歩近付いた。
それでも無常に閉じかけていた数十センチのドアがぴたりと閉まった。
ドアに張り付いて何度も名前を叫ぶ。
涙が流れていることなど気にも止めず、走り出した車両から手を離さなかった。
ドアの向こうで俺の名を呼ぶ声がする。
加速する電車に併走しても、数メートル先はもう道が無い。
振り落とされるように手を離せば、遠ざかっていく電車はだんだんと見えなくなった。
左馬刻、左馬刻、左馬刻...行かないでくれ。
その場に座り込んで呆然とする俺は、駅の係員に取り押さえられ、取調べを受けた後、一夜明けて帰宅した。
玄関を開けると昨日作ったカレーの匂いがほんのり漂っていた。
ソファーにはいつも左馬刻の肘置きになっていたアニメキャラのぬいぐるみがこっちを見ていた。
キッチンに向かうと、俺は鍋ごとカレーをゴミ箱に捨てた。
この匂いを嗅ぐと思い出してしまう。
大切な人が居なくなった日を、また強く思い出してしまうから。
完全に喉を潰しちまった俺は病院に来ていた。
問診も儘ならぬ状態で今はマイクも使えない。
しばらくは安静で、仕事も休まなければいけなくなった。
弟達に事情を伝え、仕事は分担することになったが、こうしてる間にも俺は左馬刻のことを考えている。
家を出て、左馬刻と暮らし始めてからも仕事を分担してくれている頼れる弟達に、真っ先に感謝すべきで、今ある状況が恵まれていることにも気付いてはいるが、それ故に俺だけがこの環境に取り残されたことが許せなかった。
早速三郎と入間さんや毒島さんにも協力してもらい、俺は教会のありったけの情報を集めた。
どんな暮らしをしているかまでは分からなかったが、集団生活の中で衣食住は与えられるが、完全に軟禁状態なのは確かだった。
規則正しい生活や慈善活動等、どう考えてもあの左馬刻には不似合いで想像がつかない。
ここまで情報が掴めないのは、セキュリティに関して相当厳しいというのがわかる。
教会に入ったのは左馬刻の意思だ。
だとしても、その目的くらい話して欲しかった。
多分、自分が頼りないとかそんなんじゃない。
自分で確かめたいことがあったんだろう。
わかったようなフリをしていても始まらない。
もう一度、どうしても会いたい。
帰らぬ人を待つことは俺には出来ない。
会って、自分が納得してこの恋を終わらせる。
いや、本心は全くもって違う。
偽善者野郎はどっちだよ、勝手にいなくなりやがって。そんな思いの丈を本人にぶつけて、何がなんでも左馬刻の目的を達成させて取り戻すんだ。
今日はとある人との待ち合わせでヨコハマに来ている。中華街とは離れた、飲食店が立ち並ぶ通りの奥に目的地はある。
いくつかの飲食店を通り過ぎるとほのかにカレーの匂いが漂ってきた。
あの日からこの匂いを嗅ぐと、何か大切な物を失う恐怖に苛まれるようになり、俺はカレーを避けてきた。
大好きだったカレーは呆気なく悲しい記憶へとすり変わってしまった。
どこにいたってこの匂いが思い出させるのだ。
当たり前に帰ってくるもんだと思っていた馬鹿な俺を。
情報収集する中でわかったのは事前にMTCのメンバーには教会へ行くことが伝えられていたこと、二人が協力していたこと、俺には絶対に言うなと言われていたことの三つだった。
「こうなることは事前にわかっていたんですがねぇ」
そう言って俺に資料を手渡してくれたのは入間さんだった。
「あとこれは理鶯から預かった特区の地図データです。航空撮影されたものなので不明瞭な部分は解析が必要ですが、そちらは身内で解決出来るかと」
「入間さんありがとうございます」
「ご武運を」
スーツ姿の男が最後に投げて渡したのは、不自然にもほどがある、ごく普通の御守りだった。
「いち兄出来ましたよ」
「おう、悪ぃな」
「いいえ。ただ改札を通るための研究員の偽のIDと虹彩認証用のデータは作れたんですが、実在する人物との遭遇や差異のない特殊メイク技術をもってしても見破られるリスクはあります。声のデータまでは入手出なかったので」
「まぁやってみるしかねぇだろ」
明日はいよいよ潜入だ。
特殊メイクは乱数の知り合いのメイクさんにお願いした。
「いっちろー!この子が一郎のファンだって言うから後でサインあげてね!」
「よろしくお願い、します」
キラキラした女子...ではなく心做しかゴツい。
もしかしてオネェなのか。
「やだぁそんなに固くならないで!アタシはずーっと一郎くん一筋のオフクロなんだからぁ」
そう言って肩を揉まれる手が綺麗なのにとてつもなくデカい。
一抹の不安を他所に作業は淡々と進んでいった。腕は確かだったようで、写真の人物と全く見分けのつかない仕上がりに驚いた。
「これが、俺」
「元の方がずーっとイケメンだけどねぇ」
礼を言ってサインを渡すと、少し俯いて「絶対帰ってきてね」と手を握られた。
その後、IDの本人がいつも利用する駅では平常心を装い、パスを提示した。
中身がすり変わってることには一切気付かれず、最初の門を突破する。
ここまでは順調だ。
最後の門を通過する時だった。
「今回の乗車目的は」
こんな質問がされるとは思ってもいなかった。
一瞬震えた肩に違和感が残らぬよう平静を装って、ゆっくりと口を開いた。
「研究所での仕事で」
「今日は出勤の日か」
「やり残した仕事を思い出して」
「そうか、良かろう」
飛び出そうな心臓を抑え、なんとか改札の前まで来た。
カードリーダーにIDを翳し、ホームへのエスカレーターを上る。
あの日駆け上がった階段から見た景色がもうすぐ見えてくる。
あの日は夕方で、今日はまだ午前9時。
全く違う景色がそこにはあって、きっとこの先の未来を照らして・・・いるはずないか。
扉が閉まる瞬間の左馬刻の顔がはっきりと蘇ってくる。
ベッドで抱きしめた感触さえまだ思い出せる。清々しい空気の中、どんよりとした影が覆いかぶさってきて自分が立つ場所だけが暗い。
アナウンスが流れ、遠くから電車が近付いてくる。
今日この駅から乗車するのは俺だけだ。
誰も乗っていない車内でぼんやりと車窓からの景色を眺めている。
眼下には見知った街並みが、初めて見る景色となって目に映る。
通り過ぎるビルの中には働く人々の姿があって、それぞれに向き合っている人の人生がそこにはあった。
働く目的なんて人それぞれでも、結局は金だと今も思っている。
ただ、いくら金を積んでも死んだ人は帰って来ない。
「生きてりゃまたどっかで会えんだろ」
そう言ったあの人の言葉通り、空却にも親父にも会えた。
今回は諦めのつかない死、同然だ。
逸る気持ちを抑えても、流れる景色の煌めきは全く目に入ってこない。ただただ焦りだけが掌を湿らせていく。
木漏れ日に揺れる緑の木々が脈々と生を感じさせる度、その煌めきは一郎の心を波立たせ、怒りは募っていった。
初めて降り立つ駅、前だけを見て自然に改札を通り過ぎ、そこを後にする。
頭の中で地図を広げ、研究所までの道をゆっくりと歩く。
監視カメラの位置も把握済みだ。
視覚から路地に入り、教会まで待ちきれず足が急ぐ。
鉄格子の城門の向こうに教会はあった。
この先に左馬刻がいる。
今一度、監視カメラの位置とルートを脳内で検索していると、真後ろに人の気配を感じ思わず脇道に隠れた。
少しのミスさえ命取りになるこのミッション、どうしても冷静になれない自分の太ももを二度叩いた。
ガキの頃みたいにスッと冷静に諦めが付くかと、あの頃の気持ちを思い出してみた。
天を仰ぎ、胸に手を当てる。
初めから無かったことになんて、出来るはずもなく、このおまじないは左馬刻に限って通用しなかった。
何度やってもこれが通用しないのは左馬刻だけで、目頭が熱くなった。
二年前にも味わったこの悔しさに、俺は拳を握りしめた。
監視カメラの視覚を縫って、裏手に回ると奥に畑が広がっていた。
広大な畑の奥にはビニールハウスがあり、幾つかの納屋と煙突がある建物が一つ、その奥には教会が鎮座していた。
農夫のような姿の男が数十人、農作業をしているのを遠目から一人一人顔を確認するも左馬刻の姿は無かった。
更に外壁沿いを進み、煙突のある建物に近付くと修道服に身を包む人々の群れがあった。
その中の一人に左馬刻の姿を見つけた。
じっと身を潜め、その姿を追えば荷物を抱え、連なって建物の中へ入って行った。
まずは逃走用の車を調達へ向かわなければいけないのに、俺はそこからしばらく動けなかった。
確かにここにいる。それはわかった。
ただ、もう一度この目で姿を見ておきたいと思ってしまった。
ここでの暮らしを選んだ左馬刻に、ここを離れたらもう二度と本当に会えなくなってしまうような気がして、踏み留まった。
ほどなくして扉から一人の修道士が現れた。
煙草を取り出すとジッポライターで素早く火をつける、もう何度と見てきたあの仕草。
「左馬刻」
こっちの視線に気付いたようで目を丸くした左馬刻がじっとこちらを見ると近付いてきた。
「左馬刻」
小声で呟くと向こうも声は聞こえないが口の動きで いちろう と呟いたのがわかった。
手招きをすると鉄柵の近くまで走り寄ってきた左馬刻に手短に作戦を伝えなければ、残された時間はもうあまりない。
存外落ち着いた左馬刻はこっちの言葉も聞く前に
口の端を吊り上げて笑いながら丁度いいから萬屋さんに依頼頼むわ、と手にしていた煙草を放るとブーツの踵で揉み消した。
合歓ちゃんの安否を確認出来た左馬刻は、ここからどうやって出るか模索中だったと言う。
こっちの言いたいことも聞きたいことも後回しだと唇に当てられた人差し指、そして告げられた手短な指示と合図。
理不尽な扱いに、顔を顰めながら俺は全速力で走り出した。
元々の作戦とはまるで違う。でも身体が本能がそうしろと言っている。一気に身体の血が巡り出したかのように足は動き、心が宇宙を駆けるように目の前に青空が広がった。
どうしてこんなにも世界が違って見えるのだろう。あの人のいる世界は、あの人の言葉はこんなにも俺に意味を与えてくれるのだろうか。
目尻から空へ風に吹き飛ばされた雫はたった一粒でも俺にとっては価値のあるもんだって、あいつはわからなくていい。
誰にも見せたくない、左馬刻本人にも見せたくない、俺だけの大事なものだから。
指示通り抜け道から教会の敷地内へと侵入し、その奥の自動車整備工場の裏手へ抜けると、作戦で調達するはずだった車両が所狭しと並んでいた。
ただ、俺も知り得なかった工場の地下にある武器庫から銃を二丁調達しろという左馬刻の指示にまずは従った。
ここは中央区が押収した武器を格納している倉庫だと、先程知らされた。
特区の中の隠し扉の中にあるため、入室にIDやパスワードは無かった。
ただ、誤算だったのは入ってすぐにわかった監視カメラの台数だ。
こんなんどうやったってカメラの死角を縫って棚から銃を持ち出すのは厳しい。
時計を見ると、左馬刻が脱出用の車を調達して待ち合わせ場所に来る時間まであと五分を切っている。
意を決して壁に沿うようにゆっくりと進むが、どうせ何かが動いていることは監視カメラの映像に映り込んでしまっているだろう。
目に見える武器の性能など知る由もないが、今までゲームで扱ったことのある銃を手に取ると、出口まで走って、そこからはまた大股で走り抜けて車両の待つ倉庫の入口へと駆け抜けた。
ジリっと砂を蹴る足音が倉庫内に響いて、高い窓から差し込む光が僅かな安息を与えた。
ここを出たら一か八かだ。
息を切らした俺を待ち受けていたのは、運転席で煙草をふかしながら、修道服のままのんびりと座っている左馬刻だった。
「あんたなんでそんな余裕ぶっこいてんだよ!こっちは監視カメラに映っちまってもう余裕こいてる時間ねぇってのに!!」
「おぅ、それでいい。もうすぐ中央区の奴らがこの門を開けて飛び込んでくる。その隙に突破する」
「え?じゃあ俺?隠れ損かよ?無駄に壁伝いにメタルギアしただけかよ!!!」
「んなこたぁ知らねぇわ。まぁ座って落ち着けや」
左馬刻が車のエンジンを掛け、アクセルを吹かすと、さっき言った通りに門が開いた。
「一郎、窓全開で一応銃構えとけ。いざとなったらぶっ放つ準備しとけよ」
実際に銃を扱ったことはない。だが、俺もどうかしていた。瞬時にスライドを引いてコックを起こし、照準を定め、門の先を見据えた。
砂利をタイヤが擦りながら一気に車が前進する。
重力に負けて後退する体を起こして、門の先をスコープから覗くと、その先に見えた姿は見知った小柄な女性一人だった。
気付くより早く隣で小さな声を聞いた。
「合歓・・・」
アクセルから足を離した左馬刻が、見開いた目で真っ直ぐに前を見つめている。
減速している車に向かって叫んでいる声に聞き覚えがあった。合歓ちゃんの声だ。
「早く!一郎くんもお兄ちゃんも行って!!もうすぐ人が来る!だから早く!」
「おい!左馬刻早く!ここから出ねぇと」
助手席から左馬刻の膝下を何度蹴っても、左馬刻は前を見つめたまま、減速し合歓ちゃんの場所へとゆっくりと進んだ。
「お兄ちゃん、後のことは任せて。私は大丈夫だから。一郎くん、お兄ちゃんをお願い!」
その言葉を聞いてゆっくりと微笑んだ左馬刻を見て、俺は掴んだ襟首から手を離し、振りかぶった拳を収めた。
「合歓、困ったらいつでも呼べよ。俺がまたいつでも来てやるからよ。萬屋使ってな」
口角を上げたと同時にアクセルは全開で、砂埃が巻き上がる。
俺はまた重力に逆らえずシートに縫い付けられ、がくんと首を前後した。
「んの野郎!左馬刻!!」
その先に待ち受けていたのは正に中央区の特殊急襲部隊、マイクと特殊な盾を装備した軍団が待機していた。
「一郎やれ!空にぶっ放せ!んで突破したらその武器を窓から捨てやがれ!」
迫り来る敵と進むスピードがやけにスローだ。
窓に乗り出したまま、俺は空に実弾を放った。
修道士ナンバー千百十三番止まりなさい。
拡声器を通した音声はあっという間に遠ざかっていた。
空を切る玉の衝撃を腕から全身に感じながら、敵地を通過したと同時に俺は銃を窓から捨てる。
「神様はお留守だぜ」
修道服を纏った左馬刻が、煙草をくわえたままご機嫌に呟いた。
航空地図は頭に入れてきたが、怒涛の展開過ぎて今どの道を走っているかはわからない。
一旦ポケットから取り出した地図と地形から今居る場所を照らし合わせてみる。
ポケットには航空地図と入間さんにもらったお守りが入っている。
これの中身は何かわからない。ただ、最終手段な気はした。
終わりよければすべてよし。このまま家に帰れたら、いや帰れなくても終わりがこれなら、一人家に取り残されたままの自分よりずっといい。
最後の瞬間までと、決めたから。
左馬刻は不本意でも、天国でも地獄でも俺が連れていく。
「左馬刻、最初の分かれ道どっち曲がった?」
「覚えてねぇ」
俺らはきっと最初の道から分岐を間違えている。
出会って、まず距離感を、間違えた。
そして、空想でしかないがこの人の前では全てを許されたいと願ってしまった。
ままならない日常に顔を合わせている時間だけは、拳をぶつけてでも本心をさらけ出してもいいと思ってしまった。
ざわざわと揺れる木々が、舗装されていない道路をどんどん狭くしていく。
更には遠くから聞こえるサイレン。中央区の追っ手が迫っているのは薄々左馬刻も気付いているのだろう。
「今のうちにテメェの遺言聞かせてみろオラ」
「つーか、さっきの台詞エダかよ~好きなら言えよ!シスターハーコー!俺円盤全部持ってるから」
「あ?なんの話だオタク野郎」
「素で言ってたのかよ?!あんな台詞!神様はお留守だぜってやつ」
「知らねぇな。歌えよ。オープニング」
「ここで?つーか歌えねぇし」
「リサイタルは風呂じゃなきゃ無理か?ハハハ」
「帰ったら絶対ぇ見ろよ。名作だから」
「いいぜ、帰れたらな。おい、前見ろよ」
急ブレーキで止まった先は二股に分かれている。
仮にどっちかが行き止まりだった場合、引き返すガソリンはない。
「どっちだ」
「知らねぇよこんな道。ナビもねぇしよ。このクソ外車が」
「もう地図はどこ走ってるかわかんねぇし、じゃあこっちだと思った方指指そうぜ!せーの」
指先、視線、互いの指した方向は真逆で、車内にはどっと笑い声が響いた。
あとがき
最高のフィナーレをYeah!
ずっと某虹バンドの🪛ズハイみたいな一左馬を書きたいと思っていたのと、今回タロット企画でいただいたお題が戦車だったのでお題が決まった日に一瞬で閃きました。
戦車
正位置: 勇敢/飛躍/即断即決で進む/瞬発力/ハイパワー/挑戦する/積極的に動く/問題を解決する
逆位置: 行き詰まり/困難にぶつかる/敗北/トラブル/疲れ/制御不能/遅れる/悪戦苦闘する
正位置逆位置どっちで書いたかは読み手しだいにしました。どっちの要素も入ってるので解釈は自由です。
脳内着せ替えしていた時に思いついたシスターハーコーという台詞を一郎に言わせたい願望と、昨年末、今生の別れと言わんばかりに、電車のドアの前で大人に押さえつけられながらも中の女性に向かってお母さんと叫んで泣きじゃくる子どもの声があまりにも印象的な場面に出くわしたため、自分の目で見聞きした場面も作品に盛り込みました。リアルに伝わってると嬉しいです。
今回は素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました!
来世でまた会おうYeah!