対岸は遠い「あんた、人生の何割を水槽の中で過ごすつもり？」
テスラはバスローブ姿の男の眼前を仁王立ちで塞ぎ、頭何個分か上にある彼の顔を鋭く睨みつける。

「……テスラ博士」
ポット型生命維持装置から解放されたばかりのネゲントロピー盟主は、髪からぽたぽたと水滴を零しながら、やんわりと苦笑を浮かべた。

量子の海からの帰還を果たした盟主の身体は、アインシュタインが顔を顰め、テスラが言葉を失うほど酷い状態だった。外見こそ人の形をしているが、中身はガタガタのスカスカ。子どもが作った機甲でももうちょっとマシだろう。この状態の肉体が実数世界に渡って来たこと自体、奇跡と言ってもいいくらいだ。
そんな訳で、盟主は帰還早々、生命維持装置という名の縦型水槽に閉じ込められていた。おかげでテスラも、このバカに直接バカと言うまで何日も待たされたのだ。

「だいたいね、一人でなんとかしようだなんて、生意気なのよ。あんたは歳を取った気でいるかもしれないけど、あたしたちにとっては、あんたなんてちょっと縦に伸びただけで、実験室で遊んでたチビの頃から全っ然変わってないんだから」
テスラが苛立ち任せに捲し立てても、彼は薄く微笑みをたたえたままだった。
「テスラ博士は手厳しいな」
穏やかな声はいっそ呑気すぎて、つい数日前までほとんど死んでいた人間のものとは思えない。
テスラは怒りで喉がつまるのを感じながら、なんとか息を継ぐ。──ああ、そう。あんたは、
「待つしかない人間が、どれだけみじめな気持ちになるか知らないんでしょうね」

自分でも驚くほど、低く平坦な声が出た。
テスラは怒りで震えていた。心底呆れていた。この男を失う覚悟をしたのは今回で何度目だろう。行方不明も生死不明もいつものことだからもう慣れたと、周囲の人々に言ったことがある。しかし、こうして生死の境から帰ってきた彼を見て思う。そんなのは嘘だ。慣れてなんかいるわけがない。いつも、怖い。臓腑がせり上がる感覚がして、息が浅くなって、唇が震える。

さすがの彼も、いつもと異なるテスラの様子に息を呑んだか、榛色の瞳に真剣な色を含ませて、
「……テスラ博士。律者コアはもうここにない。今後は、無茶をするようなことにはならないよ」
言って彼は少し微笑み、胸に手を当てる。
理の律者のコアは、カカリアの孤児院出身の少女に受け継がれた。彼は幼き日から傍にあった三万人の意思の不在に寂しさを感じながらも、”ヨアヒム”の選択に満足しているようだった。
ヴェルトはコアが抜けた空白を慈しむように、胸の中の静けさに耳を傾けるように、目を伏せた。

そんな彼を眺めながら、テスラは考える。理の力を手放した今、もう”彼ら”の手は借りられない。何度も死を経験した彼だが、次こそは当然、死は本当の死として、命に終止符を打つだろう。

「……どうかしらね」
テスラは吐き捨てるように呟く。信用なんかなかった。
コアを手放し律者という立場が無くなったとて、何が変わるとも思えない。きっとこれからだって、世界のため、人のためと戦い続けるに決まっている。──あの英雄の影を追いながら。

テスラはゆっくりと深呼吸をした。少しの逡巡の後、結局口を開く。
「……あのね。あたしたちが言えることじゃないのは承知で言うけど。あんたはもう、ジョイスにならなくていいの」
だから、ジョイスのようにあたしたちを置いて行かないで────と。最後までは言えなかった。 代わりに、ぎゅうと、胸にしがみつくような格好で、バスローブを強く強く握った。

「分かっている。大丈夫さ」
見上げると、そこには優しい微笑みがあった。そうして、テスラの心はまた重くなる。
分かっていない。あんたは分かってないのよ、ヨアヒム。あんたたちみたいな人間は、そう簡単に変われやしないんだから。

彼がどんなに優しく笑ったって、テスラはこれっぽっちも安心できなかった。ヴェルトの名を持つ英雄は、また遠くへ行ってしまうのだろうと、そんな確信ばかりがテスラの胸を縛って、消えてくれないのだ。