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    sgrk_dangan

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    モブエナ END②
    同居してる2人の最終回の真エンドです。
    END①から読むのがおすすめです。
    まったく同じ1日のまったく違う展開の話

    夢のなかで彼がみぃみぃと泣き怒っていた気がした。
    現実でもしょっちゅうあることなのに、夢のなかでまでそうしていて飽きないのだろうかと思いながら目が覚めた。

    左腕が暑い。彼がぴったりと身を寄せて眠っている。
    起こさないよう慎重に上体を起こす。しばらくのあいだ寝起きの頭でぼうっとしていると、横ですやすやと寝息をたてる無防備な唇になんとなく目がいった。
    彼のことを明確に好きだと思ったことはなかった。というより、そういうことを考えないようにしていた。どうせ期限つきの関係になることは分かりきっていたから。

    でも、朝陽に照らされた半開きの唇を見たとき、衝動的にそこに吸い付きたいという気持ちがわきあがって、ゆっくりと顔を近づけていった。
    彼だって夜、布団に入ったあといつも僕の手のひらをにぎにぎと手慰みにして遊んだりしているのだ。こっちだって寝ている間に口付けるくらいは許してほしい。

    でも、寝息のかかる寸前のところで、やっぱりやめよう、と思い直して顔を離した。これ以上彼に対して秘密を上乗せすることに後ろめたい気持ちもあったし、妙なところで勘の鋭い彼に気づかれても困る。
    気の迷いをふりはらうように身支度を始めた。

    10分もすると彼ももそもそと起き出した。手の甲で目をこすり、ややおぼつかない足取りで台所へと向かう。
    冷蔵庫からエナドリを取り出した彼が、すでに着替え終わって机の前に座っている僕のところに戻ってきた。そして、僕のあぐらの上に勢いよく腰を下ろした。朝食代わりのエナドリをストローで飲みながら、何食わぬ顔でナマコフォンをいじり始める。
    無言で座椅子にされた僕はいちおう声をかけてみた。

    「ねえ」
    「あ"?」

    寝起きだからか目つきも機嫌も悪い。一瞬で心が折れた。

    「……何でもない」

    彼は用がないなら話しかけるんじゃねぇよと言わんばかりに鼻を鳴らしたのち、身体ごとくるりと振り返るとのしっと上体を僕の胸にもたれかけさせた。そして、小さなあごを肩に乗せてきた。

    「5分後」

    そう謎の要求をしたきりそこから動きがなくなったと思ったら、なんとその体勢で二度寝を始めていた。
    あたたかい体温とおだやかな息づかいを感じながら僕はため息をついた。このイカらしい奔放さにいつも振り回されている。内心では彼に呆れながらも行動は裏腹で、いつのまにか両腕が勝手にやわらかい身体を守るように抱きしめていた。


      *  *  *


    その日もいつもと同じようにバイトをした。
    具体的には、いつもと同じようにザコちゃんが死にまくり、ヤニタコくんが納品のことしか考えず、エナドリ狂いの彼がブチ切れて、そして、いつもと同じようにカンストできずに商会へ帰ってきた。

    彼は大層おかんむりだった。
    編成が悪くはなかったから今日こそはという気持ちが強かったのだろう。
    他のメンバーたちが疲労の余韻にぼんやりする中、わあわあ怒るのとさめざめ泣くのを交互にくりかえし、最後に勢いよく商会を飛び出そうとして、しかし入り口で何かにぶつかり「ふぎゅ!」とナマコのつぶれたような声をあげた。
    全員がつられてそちらを見る。

    日に焼けた肌。深い青色のゲソ。
    彼の同期にあたる優秀なアルバイターがそこに立っていた。
    その屈強な胸板に可哀想にも彼の低い鼻は押しつぶされたのだった。

    「あ、ごめん。大丈夫かい?」

    同期のイカは普通に申し訳なさそうな顔をして謝った。室内を駆けだして死角に飛び込んだのはこちらのイカのほうなのだから彼に何ら非はないのに。

    「……大丈夫」

    非のあるほうのイカは痛めた鼻をおさえながら何でもないような声色で返答した。
    その反応と涙の跡も気になったのだろう青いゲソの男が心配そうに手を伸ばそうとして、僕はそのことに気を取られて身を隠すのを怠ってしまった。何かを感じたのかふと前を向いた彼と目が合う。群青の瞳が見開かれる。

    「ん? 君はどこかで……もしかして、あの時のタコか。久しぶりだね!」
    「あ、あぁ」

    明るい声で話しかけられて、動揺しながらも頷く。

    「そうか、君はこのチームに入っていたのかぁ。全然気がつかなかったよ」
    「……あ? お前ら知り合いなのか?」

    目をぱちくりとさせた彼がふつうに尋ねたので、僕もなるべく平静を装って答えた。

    「昔、一度だけ組んだんだ」
    「そうそう。そのとき僕も彼をチームに誘ったんだよ。フラれちゃったんだけどね」
    「はぁ……??」

    彼は見るからに脳内に疑問符をうかべている。
    僕は自分が背中からじわじわと冷や汗をかいているのを感じた。

    「それにしても良かったじゃないか。君は今もカンストを目指してるんだろ? 何てったって彼は……」

    まずい。その先は本当に言ってほしくない。
    無駄だとわかっても祈るように青いゲソのイカを見ると、もう一度ばちっと目が合った。おそらく切羽詰まった顔をしていたと思う。言うな。言わないでくれ。そんな願いを込めて見つめると、男はふっと目をそらし、笑顔で言った。

    「……とても腕が立つからね。きっと君の力になってくれるだろう」

    そして、ふたたび僕のほうを向いた。

    「それじゃ、また一緒にバイトする機会があったらよろしくね。君と組むのは正直楽しみだ」
    「……ああ」
    「久しぶりに会えてよかった」

    優秀なイカは爽やかに微笑むと受付のほうへ歩いていった。

    僕は内心胸を撫で下ろした。まさか秘密にしてほしいことに気がついてくれるとは思わなかった。僕の表情と目つき、それと状況から何となく希望を読み取ったのだろう。まったくとんでもないイカだ。強いだけでなく頭も良いとは。つくづく僕たちとはかけ離れている。

    会話内容もいたって自然だったし、さすがに彼にも悟られていないだろう、と同居イカのほうを見ると、疲れたのかわからないがぼうっとたたずんでいる。
    やがて、ふっと顔をあげて、先ほどまでの癇癪がうそのように凪いだ表情で口を開いた。

    「……オレ、先帰る。おまえ悪いけどマーケットで晩飯買ってきて」
    「あ、ああ」

    彼はさっさと外へ出ていってしまった。
    重苦しい空気から解放された残りのメンバーたちが口々に喋りはじめる。

    「機嫌リセットされてラッキーだったな」
    「み! 先輩のお友達が来てくれてよかったですぅ」

    クソザコちゃんは彼があの優秀なイカと仲良しで、楽しくお話をしたため機嫌が治ったと思っているようだ。訂正するのも面倒なので放っておく。
    僕は彼の態度になんとなく引っかかりを感じないでもなかったが、ひとまずは指示に従って寄り道をすることにした。
    誰にだって一人になりたいことはあるだろうから。


      *  *  *


    買い物が終わり、無事に家へと帰りついた。
    扉を開ける直前、虫の知らせというやつだろうか、なんとなく嫌な予感がした。

    部屋に踏み入って思わず息を呑んだ。
    フローリングの床に散らばる紙幣。中身をぶちまけられた小物入れ。
    部屋の中心で茫然と座りこむ彼。その目線の先には、見覚えのある金色のバッジが転がっていた。

    「おまえ、これ、なに?」

    僕を一瞥することもなく彼が問うた。

    それはアラマキ砦の金バッジだよ。カンスト者だけがもらえるんだよ。と、もちろんそんな事を聞きたいんじゃないということは分かっている。

    「……君たちよりだいぶ経験が長いから。今のチームに入るより前に取ってたんだよ」

    開け放たれたクローゼット、そしてちゃちな鍵を無理やりこじ開けられた小物入れを見やる。
    彼がこれを開くことは絶対にないと思っていた。いや、今までの彼と僕との関係性であれば実際、開くことはなかったのだと思う。僕にまったく興味のない今までの彼であれば、あの優秀なイカの言うことに僅かの違和感も覚えなかったはずだ。この数週間の同居生活で、何かが彼を変えてしまった。それは、たぶん自惚れでなければ、情のような何かだった。

    「ふざけんなよ、死ねよ、ずっとオレのこと馬鹿にしてたんだろ、」

    彼の爆発が徐々にはじまっていく。

    「自分はとっくにカンストできてたんだもんな。全然バッジとれないオレのこと陰で笑ってたんだろ」
    「……冷静になってくれ。そんなわけないって君なら分かるだろう」

    あれだけ一緒にいて色々な話をして身体まで重ねたというのに、そんな奴だと思われているとは信じたくなかった。
    だが、何を言い返しても、完全にスイッチの入ってしまっている彼はまったく聞く耳を持たない。

    「あいつと取ったんだろ。でなきゃあいつが知ってるわけないもんな。よりによってあいつと!!」

    隈の残る目元をぼろぼろと涙がつたう。
    憎悪にも見える強い感情をのせてこちらをにらむ彼を見て、身体が縫い止められたように動けなかった。

    「オレがあいつのこと大嫌いなの知ってて黙ってたんだろ! お前なんか……」

    彼が大きく息を吸う。

    「お前なんか大嫌いだ!!」
    「……君だって!!」

    自分でも驚くほどの大声が出た。
    彼がびくりと身をふるわせる。

    「君だって、僕に隠していることがあるんだろう。秘密があるのはお互い様じゃないか」

    はっきりとそう言い返すと、彼は強気だった表情をとたんにしおしおとしぼませて、ひっく、としゃくりあげた。
    彼はそうやってしばらく泣いていた。居心地の悪い沈黙と悲痛な泣き声だけが部屋の中に満ちていた。だんだんと音量がすん、すん、と小さくなっていき、やがて静かに泣き止んでゆっくりと顔をあげる。
    ひとしきり泣き喚いたり思わぬ反撃を受けたりすると少し平静を取り戻す。そんなところは出会った頃からまったく変わっていない。

    「じゃあ、教えてやるよ」

    かすれた声で彼が言った。

    「オレの秘密は、」


      *  *  *


    僕は何も言えなかった。
    与えられた情報を脳が咀嚼して、しばらくしてから、指先が冷え込むほどに血の気が引いていった。
    頭の中が真っ白になって、それから一転、脳内のすべてが真っ赤に燃えあがった。

    僕の表情を見た彼が小さく息をのみ、数歩後ずさる。自分がどんな顔をしているかだいたい想像がついた。が、抑える気にはなれなかった。

    もう一人のタコの彼が借金のために働いているという話は聞いていた。その理由がクマブキを壊してしまったからだということも。でも、まさか、そこに彼が介入していただなんて思いもしなかった。それも最悪な形で。

    脳がくらくらして、目の前のイカの姿が二重にぼやける。
    自分が何を守りたかったのかわからなくなった。自分が彼を守りたかったのは、そうだ、彼が自分よりも哀れな善人だと、結局はそう思っていたからだ。でも、実際はそうではなかった。

    ゆるせなかった。とても無理だ。

    僕の境遇をすべて知りながら、よくそんなえげつないことを黙って、何食わぬ顔で同居していられたな。
    バイト中、すぐ側で苦しむ友人に対して、一体どんな気持ちで隣に。

    でも、何よりも一番ゆるせないのは、おずおずと伸ばされた腕に生理的嫌悪を催して払いのけ、胸を突き飛ばして転倒させながらもなお、彼に嫌われてしまうという懸念を心の奥からぬぐいされない自分自身だった。
    怯えた顔でこちらを見る彼を助け起こさなければならない。いや、突き飛ばしたのは自分だ。オリーブ色の瞳が揺れている。安心させたい。違う、怒りをぶつけたい。相反する感情がほとばしって渦を巻く。

    こんなことを黙っている罪悪感を僕に対して抱いていたからこそ明かしてくれたのかもしれない、などと、彼が善人であるかもしれない可能性を脳が必死に探っている。もうそんなはずはないのに、駄目だ、もうとっくに心が堕ちている。この後に及んでなお、まだ彼に好かれようと考えている。
    どうして最初から明かしてくれなかった。
    この想いが呪いのように胸の中に巣食う前に言ってくれたら、そうさえすれば、君に対して純度百パーセントの軽蔑を向けることができた。まるで恋人のように過ごした日々の記憶が、途端に黒く塗りつぶされたように不明瞭になっていく。思い出すことを心が拒否している。
    限界だった。

    床に散らばった紙幣の何枚かを無造作にわしづかみ、ブルゾンのポケットに突っ込む。
    座り込んだままの彼をその場に置き去りにして、僕は部屋から逃げ出した。


      *  *  *


    寄せては返すさざなみを見ていた。

    バンカラ街から電車で数十分かけて海に来た。
    整備された海水浴場とは違ってクラゲの立ち入りが少ないからか砂浜には無骨な形の小石が混じっている。もう何年も海風にさらされているのだろう色の剥げかけた遊泳禁止の看板が物も言わずに佇んでいる。

    僕は一人で座って、海を眺めていた。
    イカとタコは海に入ると浸透圧の影響で身体が溶けてしまう。まさに死に直結する場所。それなのに陽の光を照り返してちらちらと輝く水面を美しいと感じてしまうのは、その下で遠い祖先が暮らしていたからなのだろうか。

    ざ、ざ、と背後から足音が聞こえた。
    数歩後ろで立ち止まり、僕の背をじっと見つめる気配を感じた。

    海は苦手なはずだ。でも彼は来た。

    「どうしてここにいると分かった?」

    振り返らずに問いかけると、ためらうような間のあと、弱々しい声が聞こえた。

    「オレが……一番行きたくない場所にいると思った」

    その中でも、一番安く行ける駅。そう予想して賭けたと彼は言った。

    僕は何も答えなかった。
    さざなみの音が耳を打つ。白い水しぶきが次々と砂浜に打ち上げられて、小さな泡だけを置き去りにして引いていく。取り残されたその泡もすぐに消えてなくなる。

    後ろに佇むイカは距離を詰めてくることもなく、じっと待っていた。きっとズボンの太ももあたりをきゅうっと握りしめて所在なさげにしているのだろうと振り返らずとも想像がついて、つい乾いた笑いが漏れた。

    「こんなに感情が滅茶苦茶になったのは数年ぶりだよ。"あの時"以来かな」

    片手で隣のスペースをとんと叩く。
    彼がそろそろと近づいてきて、ちょこんと正座した。むきだしの脛が砂にまみれてしまうだろうと思った。

    「君は本当にすごいね。毎日こんなに情緒を揺さぶられても生きていられるなんて」

    嫌味ったらしく聞こえたかもしれないが、まぎれもない本心だった。バイトのたびにこんな感情のジェットコースターに乗せられていてはとても身がもたない。
    感情の発露を長らく失っていた僕には彼のように怒り散らして泣き喚く術がない。
    彼が遠慮がちに手を伸ばしてきて、いつか僕がそうしたように、目元を優しくぬぐった。
    涙は出ていなかったと思う。
    彼がぽつりと言った。

    「あいつに謝るよ。金は少しずつでも返す」

    いつもの傲岸不遜な様子からは想像もできない、しゅんとした表情でうつむく。

    「お前に嫌われたくねえから……」

    彼に申し訳ないから、じゃないんだ。
    ここまで来ても自分本位な考え方に呆れてしまって、いっそ口元がゆるんだ。
    そして、それを嬉しいと感じてしまっている自分も同類だった。

    「金は僕も出すよ。一緒に弁済しよう」

    そう伝えると、彼がぱっと顔を上げた。
    2人きりのときにだけ見せる、子どものようにあどけない表情だった。

    生傷の絶えない腕がもう一度伸びてくる。
    触れる寸前、少しだけためらいを含んでさまよったその手首をつかみ、ぐいっと引き寄せた。
    反対側の手を丸い後頭部に回し、強引に唇を奪う。口内で遠慮がちに縮こまった舌を引きずり出すと、彼は目をつむって小さく身体をふるわせた。僕に応えるように短い舌を絡ませてくる。いつもの奔放に吸いついて翻弄する舌遣いとは違い、こちらに従順に合わせて甘える動きだった。

    「すき」

    息継ぎの合間、消え入るような声で彼が言った。
    胸がかっと熱くなって、底からマグマのように込み上げてくる感情があった。一瞬怒りと勘違いしたけれど違った。僕はきっと、ずっとその一言だけが欲しかった。

    彼が哀れできれいな善人じゃなくてももう良かった。
    どうせ自分の人生は光の届かぬ深海を漂っているようなものだ。
    彼もそこに落ちてきたというのなら、共に海の底を這いまわれば良いだけ。
    自分たちの祖先がそうして生きていたように。



      *  *  *



    翌日。
    ずっと騙していた友人に謝りに行く、と言って彼は家を発った。

    僕も一緒に行こうかと言ったのだが、これは自分がしでかした事だからひとりでケリをつけたい、彼氏同伴で行くなんて誠意が感じられないだろと返されて、それもそうかと納得した。

    やがて陽が落ち、夜になった。

    彼は帰ってこない。

    僕はそわそわとして外へ出た。
    だが、そもそもあのタコの家を知らない。
    クマサンに聞こうにも、夜だから商会も閉まっている。

    そのまま陽がのぼり、朝になった。

    彼は帰ってこなかった。



      *  *  *



    数日後、僕は久しぶりに高揚した気分で街を歩いていた。
    つい先日自然解体されたバイトチームのことを考えながら。

    あのチームには本当にどうしようもない連中しかいなかった。最悪なチームだった。
    友人を陥れて借金を負わせた挙句、僕を置いて居なくなったあの子も。
    友人を利用し、バイトの手を抜いて精神をさらに病ませたあの子も。
    心優しく一生懸命なのに、他ではとても雇われないようなポンコツのあの子も。
    ずっと黙っていれば良かったのに、余計な干渉をしてすべてを滅茶苦茶にしてしまった僕自身も。
    全員が彼を破滅へと追いやった。
    僕が……守りたかった彼を。

    失敗した。何もかも明確に失敗だった。
    彼を許すべきではなかった。信じて一人で送り出すべきではなかった。
    一丁前に信頼関係を築いた気になって、心が通じ合ったのだから物語のようにすべての事がうまくいくなどという馬鹿げた思い違いを犯した。まるで自分が主人公にでもなった気でいた。いや、違う。僕の罪は事実、主人公になろうとしたことにあった。モブであることを放棄して、彼の前でだけ、彼だけのヒーローであることを望んでしまった。
    だから碌な目に遭わなかった。

    でも、もう何も恐れることはない。だって自分にはもう本当に何もない。


    目当てのアパートへたどり着いた。
    それなりの築年数がたっていそうな外観ではあるが、最底辺という印象までは受けない。おそらくだが手洗場も共用ではなさそうだ。
    慌てて引っ越しただろうに、まとまった金があったのだろうな。

    前方を歩いていた人物が錆びついた鉄筋の階段をカンカンと音を立てながら上っていく。
    その音に、彼の部屋に始めて来たときのことを思い出した。疲弊した彼に泣きつかれて家まで送ったんだった。
    あの時の彼はすっかり疲れ切ってイカ形状のまま爆睡していたっけ。
    今は僕がタコの形をとって、音を立てないようぬるぬると階段を上っている。

    階段を上りきり、外廊下の先でさきほどの人物が部屋の鍵を開けたのが見えた瞬間、僕は人型をとって走り出した。

    部屋の主が驚いて振り向く。数日ぶりに見る不愉快なゲソ形がその動きに合わせてふるりと揺れた。

    「なっ、何でお前、ここがっ」

    元チームメイトのタコは慌てて部屋の中に入ろうとした。扉が閉まりきる前に片足を突っ込んで止める。
    手で縁をつかみ、むりやりこじ開けた。力で負ける気はない。

    可哀想なくらいに動揺して風呂場へ逃げ込む彼を見て本当に愚かだなと思った。何かを隠しているのがばればれだ。
    だから同時に絶望した。一緒に過ごしたあの部屋に恋人が戻ることはもうないのだろう。
    片手に持った改造ブキの銃口を、トン、と床に当てた。抑揚のない声で呼びかける。

    「暴きに来たよ」

    海のさざなみが聞こえる。
    あの海辺で聞いた遠い汽笛、ウミネコの鳴き声、寄せては返す波の音。
    数日前からずっとうるさいのだ。
    開け放たれた玄関に立ち、西陽を部屋に流し入れ、背後には、海。

    「暴きに来たよ、君の秘密を」




    (おわり)
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