新刊予定(西ロマ)の冒頭 雲ひとつない空の下、陽の光を反射した海面が輝く。フェリーの甲板に立つアントーニョの頬を潮風が撫でる。
「おーい兄ちゃん。そろそろ中入れよ~」
もうすぐ島に着くという船員の声を聞き、手すりをつたってなんとか船内へと入ったアントーニョの気分は未だ優れないままであった。
「……うっぷ」
口を抑えて胃の中身が出そうになるのを堪えながら自身に宛てがわれた部屋へと足を進めていく。
──あかん……こんままやったら、吐いてまう。
部屋に戻れば水が置いてある。それを飲めばアントーニョの船酔いも……たぶん、きっと、マシになると信じたい。
海には強い方だと思っていたが認識を改めるべきなのかもしれない。ふらふらとした足取りのままなんとか部屋へとたどり着く。アントーニョがペットボトルに口をつけたのと同時に場内アナウンスが流れ出す。
この船の目的地である『リミナ島』は美しい海と美味しいレモンが有名でバカンスにはもってこいの島だという。この時期は観光客も多く海辺にはいくつか店が出るらしいとも聞いた。どちらもアントーニョの友人であるギルベルトが話していたことだ。
──彼にこの島の写真を見せてもらった日が自然と頭の中に思い浮かぶ。
「……リミナ島?」
「あぁ、知り合いがそこに住んでるから写真送ってもらったんだよ。綺麗だろ?」
ギルベルトが持ってきた写真には太陽に照らされて輝く美しい海が写っていた。たしかに、彼が言う通り綺麗だ。
──アントーニョはその写真から目が離せなくなっていた。
初めて見るはずなのにどこか懐かしくて、胸の奥がざわざわと波立つ。まるで誰かが待っているような。あるはずもないのに、そんな気分に陥ってしまう。
「──でさ、ここからが本題なんだけど」
ギルベルトの声で現実へと引き戻される。
「本題?」
隣に座るフランシスが尋ねる。
「ああ。知り合いがいるって言っただろ? 夏は毎年そいつんところに手伝いに言ってたんだけど、今年はどうしてもバイト外せなくてよ。だからどっちかに行ってくんねぇかなぁって」
彼にしては珍しく歯切れの悪い物言いだった。真面目な男であるから厄介事──というほどではないが──を頼むのに引け目を感じているのかもしれない。
「バイト代は弾むってよ。仕事さえすれば飯代も宿代もタダだ」
「それ、雇い主が美人なお姉さんだったりしない?」
「んなわけねぇだろ」
ギルベルトがフランシスの頭を叩く。ペちん、と軽い音がした。
「だったらお前らなんか誘わねえよ……ま、年上じゃあるけど」
「……なぁギルちゃん。それ、俺が行ってもええ?」
ギルちゃんが困っとるならしゃあないな、とか。バイト代弾むんやったら、とか。そんなごまかしの言葉が出ないほど強烈に、アントーニョはその海の青さに惹かれていた。
『皆様、本船はリミナ港にただいま只今着岸いたしました。係員の指示に従い、下船ください。本日は、本船をご利用いただきありがとうございました。またのご乗船を心からお待ちしております』
透き通る波が船の側面を濡らす。島に降り立つとほのかなレモンの匂いが鼻を通り抜けた。
雇い主の青年は街の広場で待っているという。港から広場までの道のりは教えてもらっていた。スマホを見れば一発だ。
尻ポケットからスマホを取り出し電源を入れる。
「……あれ?」
────つかない。
カチッ カチッ
何度押しても画面は真っ暗のまま。電源が入る気配はない。
昨日、部屋についてからちゃんと充電器に繋いでいたはず──不意に、乗船した際のスタッフの言葉が脳裏をよぎった。
『先日電気系統のトラブルがあって以来コンセントの調子が悪い時があるので、もし何かあったらお申し付けくださいね』
昨日は部屋に着いてすぐに寝てしまい、今日は船酔いで充電の確認なんてしている余裕はなかった。どうやらアントーニョはその不調のコンセントとやらを引き当ててしまったらしい。
「……まあ、歩いたら着くはず……やんな?」
──どこや、ここ……。
港から歩くこと十数分。アントーニョは完全に道に迷っていた。歩けど歩けど同じような建物が見えるだけだ。こんなことになるのであれば港で道を聞いておけばよかった。一度戻った方がいいのかもしれない。
島に降り立ったときと同じ、ほのかなレモンの匂いがアントーニョの鼻をくすぐる。
「おい、お前。迷子か何かか?」
その声は後ろから聞こえてきた。振り返った先には青年が立っていた。
背丈はアントーニョと同じくらいだろうか。潮風が彼のチョコラータ色の髪を揺らす。光を宿したオリーブ色の瞳がやけに印象深かった。
初めて会ったはずなのに、ひどく懐かしい。そう感じてしまうような魅力が彼にはあった。
「……困ってんじゃねえのか?」
「へ……あっ! そう! めっちゃ困っとる!」
彼に見惚れていて危うく道を聞く機会を失うところだった。
「兄ちゃん、アルマ広場までの道知っとる? 迷ってしもうてん」
「あそこまでの道で迷うってことはこの島来るのは初めてか? 案内してやるよ。……ま、高くつくけどな?」
「えぇ⁉ 金とるん⁉」」
「はは、冗談だよ。今日から来るバイトってお前だろ? ギルベルトから話は聞いてる。俺はロヴィーノ、よろしくな」
そう言って、オリーブの瞳の青年──ロヴィーノは笑った。
「お、俺はアントーニョ! よろしゅう!」
ロヴィーノは予定していた時間をすぎても一向に現れる気配のないアントーニョを探してくれていたらしい。
「ほんまにありがとうなぁ」
「いや、別にいいよ。いなかったら俺も困るしな」
「それはそうやけど……でもロヴィーノがおらんかったらもっと迷っとったと思うし」
彼はアントーニョよりもいくつか歳上で、観光客が増える夏の間だけ海の近くで店をやっているのだという。
バイトは明日からとのことで今はロヴィーノの家に向かっていた。
待ち合わせ場所であった広場を通り抜け、彼はどんどん進んでいく。海に近づくにつれ家の数がまばらになっていく。ゆったりとした坂を歩いていくと赤い屋根の建物が見えてくる。
「着いたぞ」
まっさきに屋根が目についた。赤とオレンジが混ざりあった屋根。そして二階の端、アントーニョから見て右手の海側にベランダがあった。ガレージの中には屋根よりもさらに鮮やかな赤い車が収まっている。玄関まで続く短い道の両端はオレンジと黄色のかわいらしい花で彩られていた。
──ロヴィーノらしい家だ。
彼について何も知らないのに、そう感じた。
「早く来いよ。中入るぞ」
声がかけられる。
海に見守られるこの家での、アントーニョの一ヶ月がはじまる。胸の奥が震えるのは果たして期待か不安か。
彼の声に答えるように足を踏みだした。
玄関の中に入るとすぐにリビングダイニングが待ち受けていた。部屋の奥のドアはバスルームへと繋がっている。
「お前が使うとこは二階にあるから」
バスルーム横、少し幅の狭い階段を二人でのぼっていく。真っ白な扉が四つ。手前の二つの部屋には木のプレートがはめこまれている。
「……フェリシアーノ?」
案内された部屋に掲げられたプレートにはそう記されていた。丸っこい、かわいらしいとも子供っぽいともとれる文字だ。
「フェリシアーノ、って知り合い?」
「弟。前一緒に住んでたんだよ」
今はいねえから気にせず使えよ、と、ロヴィーノ。
「ロヴィーノって弟おるんや」
少し意外だった。歳上であるはずの彼はなぜか子供っぽい印象があるから、てっきり兄がいるかそうでなければ一人っ子だと思っていた。
「今はもうあんまり会ってねえけどな」
「そうなん?」
「あいつ島の外に住んでるから」
「へえ」
思ったよりも気のない返事になってしまった。
***
「飯の用意してくるから好きにしとけ」
そう言い残し彼は階下へと降りていってしまった。
フェリシアーノ──ロヴィーノの弟が過去に使っていたらしいこの部屋は目立った汚れもなく小奇麗に保たれていた。アーチ形の窓から漏れ出した夕日の明かりが真っ白なベッドシーツを照らす。アントーニョから見て右側の壁沿いに置かれているシンプルなタンスも中は空のようだった。タンスの横には年季の入った机が並び立っていた。床には椅子で擦れた跡が薄く残っている。
ベッドのすぐ横、フローリングの床の上にキャリケースをひろげ、荷解きを行っていく。荷解き、と言ってもたいがいのものはロヴィーノのほうで用意してくれていると聞いていたためたいした量ではない。
衣類はとりあえずかばんに入れたままで、歯ブラシは……洗面所に置いてもいいかロヴィーノに聞いておこう。
「あとは…………あっ」
をあれこれ整理していると今朝テキトーに突っ込んできた充電ケーブルが中から現れた。
「コンセント、コンセント……っと」
机の脚のすぐそばにあったコンセントにプラグを突っ込みその反対側をスマホに繋ぐ。すぐに赤い電池のマークが画面に浮かび上がる。
ロヴィーノからは好きにしておけと言われたもののやることなどたいしてない。外に出てみるのはありかもしれないが、スマホが充電中であることを考えると控えておいた方が良いだろう。
少し勢いをつけてベッドに寝転がると、軽い音がした。
目を閉じると瞼の裏にロヴィーノの姿が浮かんでくる。男に対してはあまり愛想が良い方ではない。そう聞いていた。家を案内するときのぶっきらぼうな口調からもそれはうかがえる。……でも。
「……最初んときの笑顔はかわいかってんなぁ」
冗談だと言って笑っていた。かわいい、というのが正しい表現なのかはわからなかったが、彼のあの表情はアントーニョの胸の奥にまで響いていた。
「……もういっぺん、あの顔してくれへんかな」
ロヴィーノの笑顔が頭の中をぐるぐると渦巻いていく。旅の疲れがあったのだろうか、彼のことを考えているうちにアントーニョの意識は夢の世界へと沈んでいった。
***
「……い……おい、夕飯できたぞコノヤロー!」
薄暗くなった部屋の中、オリーブの瞳が二つアントーニョを覗き込んでいた。
「へ……?」
「だから夕飯! できたって言ってんだろーがチクショーめ。せっかくの俺の飯が冷めちまうだろうが」
「え……自分口悪ない?」
コノヤロー。チクショーめ。少なくとも今日会ったばかりの相手に使う言葉ではない。
「うるせーぞ、このっヴァッファンクーロ!」
「えぇ……」
「大体、口調って言うならお前だって敬語くらい使えよな。呼び捨てだし。俺のが年上なのに」
「え~……それはその……ロヴィーノはなんかロヴィーノって感じやん?」
「はぁ……俺に同意求めてくんなよ。……とりあえず飯だから下行くぞ下」
「お~」
木製の階段を小さく軋ませながら降りていくと甘く少しの酸味のまじった匂いが鼻腔をくすぐる。
「……トマト?」
「ん、正解」
ロヴィーノの声はどこか嬉しそうだ。
「俺のパスタが食えるんだから感謝しろよコノヤロー」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らす。
──この顔も、かわええな。
昼間の笑顔にはかなわないが、自信ありげなロヴィーノの表情はぐっとくるものがある。相変わらず口は悪いけど。
「ロヴィーノのパスタかぁ。ギルちゃんがうまいって言うとったし楽しみやなぁ」
トマトのパスタにオニオンスープ、サラダにはハモンまで入っている。ロヴィーノ曰く「今日は特別」とのことらしい。
「お前、もう酒飲める歳か?」
「せやで」
「んじゃあいいやつ飲ませてやるよ。とっておきだ」
そう言って彼が取り出したのは暗い紫色のビン。おそらく……いや、確実にワインだろう。それも学生のアントーニョではとうてい手が出せないほどの値段の。
「……ええん?」
「今日は特別だって言ってるだろ? ま。酔わない程度にしろよ?」
少しの酒が入った夕食は楽しくすすんでいった。ロヴィーノは耳が赤く染まっている。
「ん~じゃあそろそろ片付けっからお前は先に上がってろ」
「手伝おうか?」
「いや、大丈夫」
アントーニョの提案は断られてしまった。彼の言葉に甘え、未だ明かりの灯るダイニングをあとにする。
不思議な気分だ。一人暮らしをはじめてから、片付けをしてくれる誰かも料理をつくってくれるような相手もいなかった。
「ロヴィ!」
思わず名前を呼ぶ。
「なんだよ」
開けっ放しの扉から彼が顔をのぞかせた。
「星! むっちゃ綺麗やなぁ!」
階段の下。ロヴィーノがまぶしそうに笑う。
「気に入ったんならよかったよ。……今度、もっといいもん見せてやる」
彼の声はひどく穏やかで、なぜだかそこから動けなくなってしまった。