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    一次/SF/短編 2021年第12回創元SF短編賞応募。一次選考通過。

    現代魔術師の盛衰 魔術師は、まだ魔法と科学が混在していた時代の西洋にその端を発する職業である。

     歴史上における魔術とは、錬金術や占星術、数秘術、悪魔召喚、近代ではタネや仕掛けのある事を前提としたショーとしてのマジックなど、多岐に渡る。広義にはエスパー、いわゆる超能力者もその範疇にあると捉えることもできる。
     諸説あるにせよ、本論における魔術師とは、その人知を超えた力の源を、神、悪魔、自然、人間、技術のいずれかに求め、奇跡的な結果をもたらす者であるとしたい。

     日本の歴史上において魔術師と位置づけられる者は、陰陽師や巫女、空海や最澄がもたらした密教の導師などが大まかに当てはまるだろう。
     しかし、一九七〇年から二〇一〇年代にかけて起こったオカルト・スピリチュアルブームが去った後、呪いや占いの類いの魔術は下火となる。創作的な世界ではむしろ好まれ続けたが、社会現象的に見て、目立って魔術師に当て嵌まる存在が表舞台に立つことはなかった。
     そこから二〇二〇年代までは、娯楽の分野ではSNSの普及、世界的には災害やテロ事件、疫病の流行などが起こり、人々の精神性は、神秘主義から現実主義的に移行した。
     多くの人々が、データによる株取引や仮想通貨のトレードに夢中になった。技術を利用した錬金術という意味では、トレーダーは奇術師の後に続く魔術師の系譜に当たるかもしれない。
     さて、ここからが本題である。それら魔術師の系譜に特筆すべき新たな末裔が姿を現したのは、二○三○年代後半であった。

     青い空に、白い雲。照りつける日差しと生暖かい風。揺れる椰子の葉。ライムで飾ったトロピカルジュースを片手に持った、少女がひとり。エメラルドブルーの浅瀬を割る白い桟橋の上を、ぱたぱたと渡っていく。少女の華奢な肩は弾み、白いサマードレスの裾が舞う。まるで南国の白昼夢だ。

     その暫く後を、リゾートには不似合いな黒スーツを着た集団が追いかけている。彼等の乱暴な足取りに桟橋はガタガタと音を立てる。彼等は必死に少女を追う。が、一向に追いつけない。砂漠の蜃気楼のように、少女は常に数十メートル先を行く。踊るように軽やかなステップで。

     「もしもし」先頭を走る男が、耳に指を当て言った。
     「こちら、エーワン。座標はどうだ」ノイズ混じりの声が応答する。

     「……座標は八十の二……あと四十秒後に節穴に入るぞ」

     集団は一斉に耳に指を当て、その共通無線を聞き取った。
     エーワン、と名乗った男は腕時計を見て頷く。そうして自信ありげに後ろを振り向きながら、大声で周りに呼びかける。

    「聞いての通りだ。節穴に入り次第、魔術師には俺が仕掛ける。いいな?」
    「どうぞ」と即座に、少し後ろを走る男が言った。

     無感情といった雰囲気だが、それは集団の他の者も同じだった。返事はせず、無言で「同意」を示すサインをエーワン宛てに発信している。彼等の素っ気ない対応に、エーワンは不服げに口を尖らせたが、すぐに腕時計のカウントに目線を戻し、上着の内ポケットに手をやる。そこに隠し持った拳銃を仰々しい手つきで取り出すと、彼はその照準を少女に定めて構えた。
     息をひと飲みし、緊張した面持ちで小声で秒数をカウントする。「スリー、ツー、ワン……」ゼロ、の代わりに三発。鋭い銃声が上がる。

     衝撃を受けたように、少女の背はのけぞり、立ち止まる。遠目にはその背中からポトリ、と真っ赤な何かが桟橋に落ちるのが見えた。

     「やったぞ、今だ! 捕獲しろ」
     エーワンは叫び、足早に駆け寄ろうとした。しかし、すぐさま何かに驚いたように立ち止まる。

     「どうした?」ぶつかりそうになった後ろの男が、やや迷惑そうに尋ねる。
     「いや、何かを踏んで……」そう言いながらエーワンが靴をあげる。
    その裏側には、潰れたオレンジがひっついていた。四散した果汁が桟橋を汚し、踵からぽたぽたと滴が落ちる。

     「くそっ、なんだよ」彼は苛立ちながら、靴裏を桟橋になすりつけた。
     そうしているうちに、向こう側から転がってきた物体が、靴のつま先にこつりと当たる。よく熟した赤い林檎だった。エーワンは青ざめて後ずさる。
     すると林檎は一瞬で長細い銃弾へと形を変え、板の隙間から海に転がり落ちていった。

     「ああ、お前が撃った弾だ。まずいぞ」後ろの男が呟いた。

     先ほど撃ち込んだ弾を返されたのだとエーワンは悟る。こちらに背を向けたまま、じっと立ち尽くす細身の少女。右手に持ったジュースグラスは傾いているものの、中の液体は微動だにせず、食品サンプルのように形を保ったままだ。
     その異様な雰囲気に、スーツの集団は、各々警戒体勢を取る。

     何気なく、少女がするりとした動作でかがんだ。そして傍らに落ちた赤い物体を拾う。
    それは一輪の真っ赤なハイビスカスだった。少女がそれを手に乗せると、大ぶりな花弁が風に揺れ、ひとりでに彼女の掌から飛び立った。
     不思議な事に、その南国の花はヒラヒラと蝶のように不規則な軌道を描いて飛んでいた。そして、緊張で固まっているエーワンの側まで近寄ると、皮を剥かれたようにつるりとひっくり返り、彼めがけて急降下した。
     三角形に切られた西瓜が、彼のスーツの太もも辺りにぶつかり砕ける。赤い果汁が飛び散り、スーツを汚した残骸は、そのまま桟橋から落ちていく。
     エーワンは呻いた。衝撃はあったものの痛みはなかった。しかし、果汁に濡れる不快感と得体の知れない恐怖が彼を包み始めていた。

     「速いな、連想が」と、後ろを走る男が呟いた。
    「エーワン。やばそうなら、節穴から出た方がいい」その言葉に、エーワンは顔を歪ませて反論する。
    「いや、今しかチャンスはないだろ」
    「こっちが誘い込まれたかも知れない。あれが格上の魔術師なら、お前がやられるぞ」
    「やられる? 俺はランカーだぜ」

     その言葉に、男は眉間に皺を寄せた。お互い素性は分からないながら、魔術師討伐のランキングにこだわる辺り、こいつはプロの傭兵ではないなと男は察した。一口にダイバーといっても、色々な立場の者がいる。イメージングさえ出来れば、誰でもダイバーを名乗れるのだ。
     道理でやたらと先走る筈だ。しかし……と彼は思った。俺達は所詮、寄せ集めで雇われているだけだ。今は協力するしかない。
     そう思い直し、男はエーワンを説得しようと続ける。

    「世界ランカーだろうが何だろうが、トラウマを突かれたら終わりだ。下がった方がいい」
    「いや、大丈夫だって」
    「本当にそう思うか? さっきの攻撃を見るに、お前の連想は拳銃から一階層。あっちは少なくとも三階層だぞ。ジャンピングも駆使してる」
    「捕獲だけなら、俺のイメージがあいつより強けりゃいいだけだ。次はさっきよりも集中するさ」
     侮辱されたと思ったのか、エーワンはむきになりはじめた。

    「これ以上のお節介はやめてくれ、自分の命が惜しけりゃな」

     吐き捨てるようにそう言うと、右手に持っていた拳銃を一回転させる。それは大型のコンバットナイフとなって、彼の手に再び収まった。男はため息をつくと、説得を諦め一歩後ろに下がった。魔術師の前で、感情的になるのはあまり得策ではない。警告はしたのだと内心思いながら、男は静観することにした。
     遠目に見える少女は、未だ動かずにいる。おそらく、この場所がセキュリティが薄くイメージングしやすい領域……所謂「節穴」だと知っているのだ。
     つばの広い麦わら帽子に白いシンプルなサマードレスを着た少女。こちらに顔を向けず、砂浜に向かう橋の上で微動だにしないその姿はどこか絵画的で、油彩で描かれた夏の白昼夢のようでもあった。

     エーワンが腕を振りかぶった。少女の背にナイフを投げるつもりだ。出方を探ろうと、男はその一挙一動を目で追う。そして男は気づいた。手の中にあるのはコンバットナイフの筈だが、サイズが妙に小さい。

     ああ、だめだと男は思った。
    あれは、果物ナイフじゃないか――。

     ――あっ、と叫び声が上がる。エーワンの声だった。

     瞬間。少女に向かって投擲された筈のナイフは、年期の入ったコックの皺が刻まれた手に収まっていた。白い詰め襟の調理服を着たコックが、曲芸師のように左手で完熟トマトを放り投げる。調理場には、大きな四角い水槽が鎮座していた。
     そしてその水槽の中には、いつの間にかエーワンがいた。口からごぼごぼと水泡を溢れ出しながら、水中で苦しそうにもがいている。混乱する彼の瞳孔に、巨大な掌が映る。
    「ヘイラッシャイッ!」
     天から威勢の良いかけ声が聞こえたかと思うと、エーワンの体躯は冷たいまな板の上に叩きつけられた。
    高層ビルサイズの板前が、出刃包丁を片手に彼を覗き込む。
     エーワンは絶叫する。しかしその悲痛な叫びの最中、分厚い鋼鉄の刃は彼の首元に向かって真っ直ぐ振り下ろされた。

    「……エーワンを遭難ロスト

     先頭となった男が、左耳に手をやり報告する。「了解」と応答が来ると、「他は、引き続き追跡中」と付け加えた。忽然と消えたエーワンを除いた黒いスーツの集団は、再び駆け出した少女を追って、桟橋を渡り終えて砂浜へと入っていた。打ち寄せる波音を背に、彼等は先に見える熱帯の森へと導かれていく。

    「今のは?」と先頭を走る男に、後ろから追いついた男が声をかける。
    「今の、とは?」面倒そうに先頭の男が切り返す。
    「エーワンのやられ方だよ。あんなの有りか?」
    「有りだから、魔術師なんだよ」男は正面を向いたまま、続けて言った。
    「エーワンのヤツは、ナイフを投げる時点で影響されてた。初歩的なアイスブレイクに引っかかりやがって……
    イメージングで隙を見せたら、ああなるのさ」
    「アイスブレイク?」
    「なんだ、ここに雇われたのは素人ばかりかよ」先頭の男は苦々しげに舌打ちをする。
    並走する男は、振動でずり下がった丸いサングラスを戻しながらのんびりと言った。

    「いやあ、他のヤツは知らんが、俺はダイバーじゃないんだ。事情があって、ここに参加してるだけで……」
    「はあ? そりゃどういう事情だ」
    「千堂社長絡みでね」
    「ああ、さっき報道されてたな……誘拐された社長の関係者か?」
    「まあ、そんな所だ。あの魔術師を追う理由はあるんだが、仮想空間には慣れてない」
    「へえ……そりゃご愁傷様。じゃあ少しサービスしてやろう。アイスブレイクってのは、相手の潜在意識に働きかける技法だ。ダイバーは心理的な防壁をアイスと呼ぶ。アイスが硬ければ、相手の連想に引っ張られにくい。逆に、アイスがなければトラウマが露呈しやすい。だから本格的なイメージングに入る前に、皆何らかの手段で相手のアイスを壊そうとする」

    「魔術師共も同じだよ。自分のアイスを維持して、相手の方を崩そうとする。エーワンは踏んだオレンジに反応したのを見抜かれてた。相手のイメージに影響されて、心が無防備だったわけだ。大体、そういう綻びからトラ ウマを引っ張り出されて反撃されるんだ。基礎の基礎だよ」
    「なるほどな……ああなった場合、助かるのか?」
    「さあ……生きてるかどうかは、ライフセーバーの引揚げ次第だな。だがハッキリ言って、あのスピードだとショックを認識する前にせき止めるのは、到底無理だと思うぜ。遭難と言ったが、包丁が首に落ちた時点でもう死んでるだろうな」

    「ひどいな」サングラスの男は、ぽつりと呟く。
    「そんなもんだ。ダイバーにはリスクがある」

     ギャアギャアと、頭上で数羽の鳥が騒ぎ飛び去っていく。辺りはすっかり薄暗い密林になっていた。

    「プレイヤーで接続するのとは訳が違う。システムは必ずしも味方じゃない。それを承知の上でやるもんだよ」

     アンリ・ルソーの描くジャングルのような、シダ科の原生植物。巨大化した雑草や不思議な位置に実をつけた木々。色鮮やかな鳥獣達が跋扈する、仄暗く密生する不思議な楽園が360度の景観で広がる。
    少女の真っ白いドレスは、この濃緑の世界ではひどく目立つ。それが猛毒を持つキノコのように、魔術師の持つ危険性を不気味に表していた。

    「次の節穴まで、あと一分くらいだ。あんたはここらで戻った方がいいかもしれないな」と先頭の男は言った。
    「深追いするとエーワンの二の舞になる」
    「そうしたいのは山々なんだが……」サングラスの男は口ごもる。

     そして暫し、木々の間をすり抜けるように進む少女を見つめた。いくら目を凝らしてその姿を見ても、彼にとっては単なるグラフィックでしかなく、何の情報も想起も彼にもたらさなかった。やはり、この世界は苦手だと彼は思った。精神や無意識だけが漂い、そこから生み出された記号が独り歩きするこの世界は。まるで、人類の亡霊の集合体のようだ。そんな風に思う。各々が、相手と繋がろうと執心する。しかし、それはすでに過去の亡霊でしかない。偶然、会話の体を成しているが、実体としてみれば虚空に話しかけているのも同じだ。周りのどこを見回してみても、何のとっかかりもない、つるりとした球体を相手にしているような気がする。彼はこの世界に接続してから常に、そんな居心地の悪さを感じていた。

     ガサガサと足に絡みつく雑草植物の葉を蹴り抜けながら、集団は少女を追って開けた広場に出た。程なく、後ろから次々と悲鳴が上がる。
     「何だ?」咄嗟に振り返る男の丸縁グラスに、黒い獣の姿が映る。割れた人だかりの中央で長髪の男にのしかかるそれは、大きな日熊だった。その牙に襲われた男のスーツの腹部はみるみる血で濡れ、肉を裂かれて引きずりだされた内臓が一気に悪臭を放つ。
     ガツガツとそれを貪った日熊は唸り声を上げ、すぐ側で腰を抜かしてへたり込んでいる中年男にその充血した目を向けた。
    「おい、逃げろ!」先頭の男は叫んだ。
     蒼白な表情を晒していた中年男は、その声ではっと正気を取り戻し、飛びかかってきた熊の一撃を避けるように、一瞬で小さな金魚へと変わる。即座に、周りにいたスーツの男達は一斉に魚へと姿を変え、放物線を描いて地面に現れた水鏡へと消えていく。
     丸いサングラスの男は逃げ損ねたのか、姿も変えずまだその場に立っていた。巨大な黒い日熊は怒り狂い、頭を滅茶苦茶に振って口から泡を飛ばしている。浅い池となった地面をバシャバシャと蹴り、男に向かって突進してくる。サングラスの男は冷静に、片手に持ったボウガン型のフックショットを近くの樹に打ち込む。収縮するワイヤーに引っ張られ、彼の身体は大きく跳躍し、樹上へと着地する。安全を確保すると、男はすぐさま耳に手を当て、外部にいる彼のライフセーバーに呼びかける。

    「横井君、今すぐログアウトしたいんだけど」
     まるで天に祈るように、彼は空を見上げて言った。もしここが現実ならば、実際神に祈るしかない状況だ。
    「さっきから、試してるんですが……ログアウトキーが見当たらなくて」
     青年の声が吉読の脳内に響く。
    「ログアウトキー?」
    「吉読さん、入る前に設定しました?」
    「いや、してないかも」

     呑気な会話が取り交わされる。しかし突如、何かぶつかるような衝撃を感じ、樹が揺れた。吉読と呼ばれた男が下を見ると、日熊が木の幹に体当たりをしている。ミシミシと、と音がしてみるみる視界が傾く。
    「ああ、だからか……わかりました」
    「すぐ頼めるかな、そろそろ危ない」熊の息づかいと、唸り声が近づいてくる。
    「今やります。カウントゼロで目を瞑ってください。さん、に、いち……」

     瞼を落とした瞬間。
    吉読祥一の意識は、ロケット噴射のように真っ暗闇へと噴き飛ばされた。


    資料補足:現代用語辞典 タ行 『ダイバー』(二○三四年発行)
    【意味】海、川、プールなどに潜る人。潜水士、潜水夫、水泳の飛び込み選手の意。
    (VR)仮想空間において、魔術師への対策として現れたホワイトハッカーの呼称。政府、警察機関、企業または個人に協力する。【由来】レム睡眠時の脳波を利用した仮想空間『第千世界』の考案者、井上マイク博士が、無意識を「水などの液体」に見立てたユーザーインターフェースを開発したことによる。連想コストを下げる目的で水にまつわるイメージングに特化している点。また、犯人特定のためイメージングから深層心理を分析し、個人情報を特定するプロファイリングを行う場合もある事から、総じてダイバーと呼称された。


    資料一:ニュースコラム・イデアルリング社のあやしい求人広告(二○三六年/六月三日)
     有機ナノマシン技術で急躍進中の日系企業、イデアルリング社が「ダイバー募集」の広告を出したのは、三日前のことだ。「急募、学歴不問、経験不問。詳細は極秘につき、採用者のみに通知」。文面は電子モザイクの嵐で、一見して依頼内容はさっぱりわからない。
     その求人情報が掲載されるや否や、ダイバーを生業にする者達の間に瞬く間に共有され、注目を集めた。報酬欄にはかなりの高額が記載されていたからだ。その後、イデアルリング社は現社長である千堂麒麟児が仮想空間内での会食中、何者かに誘拐されたという事実を報道機関に向けて発表した。会食の相手は政府関係者と見られ、万全のセキュリティ体制の中での、白昼堂々の犯行だった。
     警察庁は、以下のように警告した。容疑者は魔術師とみられる。凶悪犯につき、極めて危険。一般市民の接触は避けるように……

    ***

     ログアウトまでの待機時間には、約二十秒間の暗闇がある。仮想と現実の狭間で、囚われた意識が彷徨う時間だ。感覚器官とも断絶され、肉体はどこにもない。無の世界。
    人が眠り落ちる前後に発生するブラックアウト。そこに意識だけが残って、漂っている。
     通常なら認識しないまま生きていくはずの隙間が、テクノロジーによってこうして人知の日の目を見る。「その禁忌を曝いてどうなるのか」と吉読は考えた。
     それは自覚なく湧き出した疑問だった。コンマ数秒のうちに、それは彼の制御を離れて、暗闇の中に次々と浮遊した。

    ――本来、人類が認識してなかった闇の中には、一体誰がいるのか…
    ――誰がいるんだ?
    ――自分とは他に、誰かがいるかもしれない。
    ――誰かって、誰なんだ。
    ――もし、誰かがいたら、お前はどうする。
    ――わからない、でもそいつは……

     味方なのか?
     吉読の意識が投げかけた疑問は、夢の終わりのようにフェードアウトして、闇に消えた。

     ザアザアと、水音が聞こえた。蛇口から小さな滝のような水流が、顔の右脇あたりに落ちている。吉読は目を開くと、バスタブの中から起き上がった。すぐ横には、透明なシャワーカーテンが閉められている。栓の抜かれた排水溝のおかげで、水位は底まで下がっている。足元の丸く平たいエアーポンプのからはブーンと駆動音がしていた。水浸しの身体を移動させそのスイッチを切り、蛇口を捻って止めていると、カーテンの向こう側で人がしゃがむのが見えた。吉読はその人物に尋ねる。

    「横井君、さっき外から話しかけた? ログアウトの時……」
    「いいえ」彼は、吉読の脱出を手引きした横井という若者だった。手元でガシャガシャ音を立て、配線やらを片付けながら彼は答えた。
    「僕は何も。ずっと、この辺のタブレットを触ってたんで……」
     じゃあ、俺に話しかけてきたのは誰なんだろう。吉読はぼんやりした頭で暫く考えた後、自らの腕や脚の辺りを確認するように触った。裸の肌はひどく冷たくなっていた。
    「熱いシャワーでも浴びといた方がいいですよ。長時間接続してると冷えますから」
     そう言うと、横井は両手に電子機器を抱え、浴室を出て行った。鳥肌を立て震える自らの身体に耐えかね、吉読はシャワー用のハンドルを捻った。


     どうも、初めまして。千堂麒麟児と申します。イデアルリング社の代表やってます。
    まあ、僕の事は知ってるかな。小野社長の紹介だもんね。
     彼とは昔からの友人で凄く信頼しているし……君が良い仕事をしてくれると期待しているよ。そう硬くならず、お互い楽に話しましょう。
     えーさて今回、開運コンサルタントの吉読君にわざわざこんな所までご足労いただいたのは、僕の個人的な興味……実験というかな、それを手伝って貰いたいんだ。
     横井から聞いていると思うけど、ここは僕の個人財団が所有している人工の島だ。ここには、僕の個人的な友達にお願いして作った生物が生息している。なに、危険は全くない。遺伝子改良して、人を襲うような本能はなくしているからね。至って人懐っこいやつらさ。
    それで、何をして欲しいかっていうと、この生物達……僕は縁起生物と読んでいるんだけど、人工的に作リ出したそれが、本当に幸運を呼べるのかどうかを君に確かめて欲しいんだ。
     吉読君は、その場所に幸運をもたらす方法を知っているんだってね。聞くところによると、小野社長のオフィスの美術品を一目見ただけで処分させたらしいじゃないか。しかもそれだけで、小野食品はかねてから狙っていた外国企業の買収に成功したっていうから驚いたよ。
     実に凄い。是非その力でこの島の縁起生物を見て欲しい。それで、どの生物がどれくらい幸運を集められるのか、あるいは集められないのか。その結果を報告してくれ。期間はとりあえず……今の所、一ヶ月を想定している。
     食料については、一週間分ずつヘリコプターで投下する。この小屋には生活に必要なものは揃っているから安心してくれ。冷蔵庫、シャワーやトイレ、ベッドもあるし、簡単なキャンプ道具もある。間近で生物を観察したければ、横井に案内を頼むといい。彼はここの管理人だ。ここのGPSは探知できないようになっているけど、ネットも利用可能だ。数に限りはあるけど、有機液体接続器もあるから、調査が終わって暇になったら仮想空間でバカンスしても構わないよ。
     実験の目的? 恥ずかしながら僕には最近悩みがあってね。僕は世間では豪運だなんて呼ばれているだろう。確かに自分でもそう思うよ。イデアルリング社は、副社長の加々美と一緒に立ち上げた会社だ。最初は小さなIT企業だったけど、有機ナノマシン技術が大当たりしてここまで大きくなれた。トントン拍子に大手と取引するようになって急成長。今じゃ僕ら自身が業界の最大手さ。
     でも、ここ最近は、この成功がいつまで続くのかっていう不安に苛まれてる。人の幸運には総量が決まっていて……上手くいけばその分、今度はシーソーゲームのように不運が訪れるっている考え方があるだろ。その理屈で言えば、僕はもう一生分の幸運を使いきってしまったんじゃないかって思うんだよ。勿論努力もしてきたけど、僕は運だけで成り上がってきた男だ。もし僕から運がなくなったら、家族や社員達の人生はどうなるんだって……悪い未来を考えすぎて、最近では悪夢を見るほどだ。だから夜はいつも仮想空間に接続していて、普通に眠れていない。肉体的には問題ないけど、やはり精神的には疲れるよ。
     だから今回の実験でその不安を解消したいわけさ。もし、世界に漂う幸運をこの島の縁起生物で集めることができるなら、これからも僕は成功者でいられる。安心だ。
     まあ、突拍子のないアイデアだと自分でわかっているけど、実行できるとしたらポケットマネーの潤沢な今しかないと思ってね。口の硬い友人達を誘って財団を作り、今回検証役として君を呼んだ次第さ。
     うん、勿論これは違法だ。倫理的な問題もある。世間に知られる訳にはいかない。だからこそ、この島の場所は誰にも知られないようになっている。僕の家族や友人も、イデアルリングの社員も誰も知らない。君に鎮静剤を投与して連れてきた事は謝罪するよ。でも、他言無用の極秘プロジェクトだってことは理解して欲しい。もし一ヶ月で結果が出れば、君には約束通りの報酬と、僕の友人を紹介するよ。きっと大口顧客になってくれると思う。 ああ、帰りはまた薬で眠って貰う事になるけど、君の事務所の近くのホテルに送り届ける手はずになっているので、安心してくれ。勿論スイートルームさ。一晩ゆっくりするといい。
     さて、僕からはこんなところかな。質問があれば、横井経由でまた連絡してくれ。時間が取れれば、今回みたいにホログラムを繋ぐよ。それじゃあ、成功を祈る……

    「それでまあ、頼んだ本人が翌日に誘拐されちゃうんだもんな」
     録画された千堂のホログラムを巻き戻しながら、吉読が言った。

    『すみません、すみません……吉読さんには本当にもう、ご迷惑を…』
     リビングルームの机には、もう一つ胸像のような映像が浮かび、しきりに頭を下げている。ややはげ上がった額に人の良さそうな下がり眉が特徴的なその中年男は、千堂の財団で秘書をしている男だった。
    「いやまあ、藤本さんのせいじゃないですけど」
    『いえ、まさか私も千堂がすべて生体認証で権限管理しているとは思いませんで……島にお連れする前に、確認すればよかったんです』
    「おかげで迎えも食料のヘリも飛ばせなくなって、横井君とこの島でサバイバルする羽目になりましたと」
    『誠に申し訳なく……担当エンジニアに確認して初めて、判明しました次第でして』
    「吉読さんって、ついてませんね」幸運が読めるのに、と言外に棘を含ませながら横井が言った。開運コンサルタントなどという怪しい肩書き上、うさんくさく見られるのは慣れているのか、吉読は「まあねえ」と適当に相づちを打つ。

    「水源は沢山あるので、水の確保は大丈夫として。一週間くらいならこの小屋の備蓄で持つと思いますけど、それ以上になると……島で食料になるものを探す必要はありますね」 横井が言うと、藤本の胸像は彼の方を向き、深く頭を下げた。

    『横井君も、本当にすまない……こうなったら私からイデアルリングに連絡を取って、千堂の身体だけでも認証用に持って来て貰えるよう、至急頼んでみます』
    「本社に知られて大丈夫なんですか?」
    『いやもう、人の命がかかってますから。極秘だなんて言ってられませんよ』
    「じゃあ、そちらは藤本さんにお任せして、我々は一度島を探索しますかね」
    『ええ、必ずなんとかします。ホログラムリングを持っていれば、どこでも通話はできますから。何か進展がありましたら、すぐご連絡致しますので』
     そう言って、藤本はホログラム通話を切った。吉読と横井はソファから立ち上がり、準備のため小屋の倉庫に向かった。

    「ログアウトキーを設定してないなんて迂闊すぎますよ。自分のタイミングで脱出できないと最悪死にますからね。入る前にちゃんと任意の魚を設定しておかないと」
     行き先を塞ぐ背の高い草を、拾った木の棒で薙ぎ払う。先ほどからそんな作業を繰り返しながら、横井は言った。
    「任意の魚って」後ろから、おかしそうに吉読が繰り返した。横井が機嫌を損ねて黙り込む。「まあでも、そうだな。ああいう緊急時に困るわけだ。ちゃんと考えるよ」吉読は謝る代わりに反省を述べた。二人はキャンプ用品を詰めたリュックを背負い、原っぱを進んでいた。変わり映えのしない緑の景色が続き、会話は自然と先ほどの仮想空間での出来事へと移る。
    「それにしても、後ろから熊が来るとは思わなかったな」
    「節穴……つまりセキュリティが薄い座標の範囲内なら、理屈上どこでもイメージングはできますから。あの魔術師みたいに、自分の分身から離れた位置に連想を置くのはかなり高度ですけど」
    「今だから思いつくけど、相手が熊なら、例えば蜂蜜で引きつけるとか、そういう連想で対抗すればよかったのかな」
    「できるなら、ですね。でも、目の前で人が襲われているのに、そんなほのぼのした連想できないですよ、できたら結構なサイコパスだと思います。まあ、撤退も仕方ないですよ。プロの傭兵も逃げる程なのに、吉読さんはそもそも初心者ですし」
    「うーん……やっぱり、俺は仮想空間って馴染めないな。現実で対峙していれば、あの魔術師が千堂社長を誘拐した動機とか……犯人の糸口が少しはわかったと思うんだが」
    「仮想空間では、吉読さんの力は働かないんですか」
    「やっぱりリズム、みたいなのが全然違うんだよね」
    「リズム?」
    「空間を支配している乱数…ランダム性がね。現実と違うとちょっと捕まえにくい」
     横井は呆れたようにため息をついた。
    「じゃあ、どうするんです。千堂さんを取り戻す手がかりもなく……我々は、ここでノンビリ餓死するしかないってわけですか」
    「そう飛躍するなって。藤本さんがうまいこと千堂社長の身体を持って来てくれれば、俺達も犯人捜しで命を賭けずにここから出られるんだから」
    「そううまくいくかな……」ぽつりと横井が言った。なにか心当たりがあるようだったが、吉読は気づいていないようだった。
    「きっと大丈夫さ。だから現実の方をなんとかしようと、こうして外に出てきたんだろ」
     言い合いのような会話をしながら、吉読と横井は原っぱ地帯を横切るように進んでいく。

    「まあだからっていうのも言い訳になっちゃうけど、次はダイバー経験者の横井君が入る方がいいんじゃないかな」
    「僕もそうしたいですが、初心者の吉読さんにライフセーバーを任せるのは怖いんで……」
    「君って結構言うよねえ」
    「ライフセーバーは命綱ですから」横井は頭だけ振り返って言った。
    「最初にやられたエーワンも、仲間が外で様子見してしまったから遭難してしまった。コックに捕まった時点で、強制ログアウトできていれば助かったかもしれません……仮想空間で遭難するってことは、死亡した肉体から切り離された精神が流れ出してしまうってことなんです。包丁の幻でショック死しているならまだ良い方ですよ」
    「それって、仮想空間内で幽霊になるってこと?」
    「まあそんな感じですね。でも誰もその状態を認識できないから、本当の所は分からないですけど。でも、千堂さんは遭難したわけじゃない。身体も生きてます。魔術師を捕まえて、保存場所から精神データをサルベージすれば元に戻りますよ」
    「でもさ、もし誘拐が怨恨の線なら、千堂社長の精神データを破損したり消去したりってことも、あるんじゃないの?」
    「その可能性はありますけど、多分無事だと思います」

     言い切る横井に、吉読はなぜかと問いかけようとしたが、目の前に大きな湖が現れると口を閉じて立ち止まった。すぐに胸ポケットから紙の地図を拡げて、場所を確認する。地図には彼等の今いる場所が記されていた。ひょうたんを横向きにしたような図形。その中央に、家を簡略化したマークが印字されている。彼等がさっきまでいた小屋だ。そこから東側に進むと、図形の端の辺りに青色の楕円が描かれている。眼前の湖、その向こう側が即ち、この地図上の行き止まりである。
     陽光が当たった湖の上空に、何かが煌めいた。光輝く壁だった。硝子のように透明だが、雲間から覗く太陽に照らされる度にキラキラと輝く。地平線から空を覆うドーム状の天井が、彼等を閉じ込めていた。

    「なあ横井君、ここは現実だよな」
    その非現実的な光景を見上げながら吉読は呟き、ため息をついた。


    資料:二 書籍『SNSの逆襲』 仮想空間の歴史(日本編) より抜粋
     仮想空間が、第二次ソーシャルネットワークサービスとして君臨するまでの歩みには、令和元年代から世界各国で猛威を奮った疫病の流行が深く関わる。
     完全に無害化する二○三○年代後半まで、人々に約十年余りの忍耐を強いた。空気感染が危惧されている間、外出はほぼ不可能となり、長い在宅生活のための新しい娯楽を人々は求めた。「ウイルス禍」と称される十年あまりのうちに、多くの企業が仮想空間の開発に乗り出した。そんな中、国内で頭一つ抜け出たサービスを提供したのが、「第千世界」と名付けられた大規模仮想空間だった。
     業界大手三社によって共同開発された「第千世界」は、レム睡眠時の脳波を制御する共有夢接続技術により、安全かつリアルな体験性と高い情報信頼性を実現した。
     理屈を大ざっぱに説明するなら、人の無意識つまり「夢」を利用しているという点があげられる。まずシステムが一つの基礎となる巨大な夢を構築し、接続器が脳波を調節することで、利用者全員に同じ条件で夢を見せる。接続者は、その夢の中に入り、システムが提供するイベントを体験する。操作についても、運動神経系統の身体感覚をアバターに共有することで、夢の中で思ったままの動作を行うことができる。
     現実社会の代わりとなる仮想空間を目指した「第千世界」は、目を覚ましている間の営みと地続きになるよう設計された。仮想空間内でのあらゆる売買、契約を可能とするため、匿名性を排除。国民識別番号や住民基本台帳、銀行口座など人物に紐付くあらゆる情報を登録する。何か別の人物を演じることは禁則事項であり、厳しく制限された。仮想空間の中でも、「自分は自分」なのだ。
     平素ならば、そうした疑似現実の類いは危険視されてもおかしくなかったが、当時はもはや現実の方が箱庭同然となっていたのだ。移動が制限され、毎日自宅で同じ風景を見続ける閉塞感を取っ払う、素晴らしく自由で広大なオープンワールドは魅力的だった。
    (中略)
     二○三一年、ようやく人類はウイルスとの苛烈な競争に勝利を収めた。自由になったものの、仮想空間は生活の一部として社会に馴染んでいた。かつての東京や中枢都市の機能は完全に「第千世界」に移行されており、人々がまた外に出かけるようになった後も、特に大きな問題もなく、そのまま使用され続ける筈だった。 
     二○三二年、十月二十五日。最初の魔術師が仮想空間に現れるまでは。


     湖のほとりで、横井は口を閉じるのも忘れて呆気にとられていた。
    目の前で吉読が、巨大な龍と格闘している。屏風や昔話の挿絵に描かれたような、二本の角、緑の鱗に赤い鬣。長いひげにぎょろりとした黄色い目を持つ、あの龍である。湖面から飛び出たその頭部は吉読の全身をゆうに超える大きさだ。牙の生えたワニのような大きな口をしきりに開閉し、暴れている。
     それこそが、千堂麒麟児がこの人工島に放った縁起生物と呼ばれるものだった。
     龍は、古代中国より崇められている霊獣の一つで、大自然を司る力と皇帝を象徴する伝説上の生物だ。日本では陰陽五行や仏教との結びつきが強く、神社仏閣の装飾とされることが多い。全てのエネルギーの源と言われている存在であり、あらゆる運が上昇すると信じられている。おそらく千堂はこうした御利益を期待して、この霊獣をかたどったのだろう。だが、目の前で身を蛇のようにうねらせて暴れる龍の姿には、そうした神秘性は微塵も感じられなかった。それは、不快な現象を本能で拒否してのたうち回る、ただの生き物だった。

    「横井君、手伝ってくれ」
     吉読の呼びかけで横井は我に返る。龍が暴れる度、湖面は激しく波立ちバシャバシャと音を立てる。慌てて側に駆け寄ると、吉読は彼に指示を出す。
    「そこのリュックからロープ出して、噛まれそうだから口を縛ってくれ。頼むよ、こいつの扱いには慣れてるんだろ」
    「でも、こんなに暴れたのは見たことないですよ」
     この島の管理者である横井は、縁起生物の世話係でもあった。そんな彼でも、驚いてしまう程の暴れっぷりだった。千堂がホログラムで言っていた通り、普段は虫も殺さない程大人しいのだ。鋭い牙に当たらぬよう骨を折りつつ、横井はなんとか龍の口周りをロープで結んで固定した。龍は頭を地面になすりつけ、それを外そうとする。吉読は龍の角を掴むと土まみれの龍の頭に跨がり、顎の付け根あたりを手で探った。

    「あったぞ、えら呼吸用の穴だ。何かで塞がってる」
    「何をしてるんです?」
     吉読は熱心に何かを掻き出している。心配になった横井が声をかけると、彼は横井に向かってその手にぎっしりと捕まれている赤い塊を見せた。
    「オキアミだよ。それもデカいやつ。それがこいつのえらに詰まってたんだ」
    「え?」横井は言葉を失う。
    「この龍に、異常があったってことですか?」
    「そうだ。龍は手が短いから、自分では取れなかったみたいだな。反対側も取ってやってくれ」「ええ、わかりました……」
     横井は慌てて吉読に言われた通りにエラに詰まったオキアミを掴み出す。湖で知らぬうちに異常発生が起きたのか、かなり奥まで詰まっている。これでは相当、水の中で息苦しかっただろうと横井は悔やんだ。
    「一体、いつからこうなっていたんだろう。僕が気づくべきでした」
    「まあ一人で世話してちゃ気がつかないさ。検査機で健康状態はチェックしてたんだろ?」
    「もちろんしてました。餌は皆自分で取るので、見回りの時に……」
    「異常値が出てなくても、異常があることはある。定期的に触診はした方がいいんだ。本当はもっと世話係の人数がいるべきなんだろうな」
    「ええ、本当は。吉読さんは、なにか動物医療を勉強したことあるんですか?」
    「いや、ないよ」吉読は空いた手で腕を捲りながら、事も無げに言った。
    「でも、俺にはそういう事がわかるんだ。それが開運コンサルティングのキモってやつ」

    作業が終わり、ロープから解放された龍はすっかり落ち着いたようだった。軽く口を開け閉めすると、吉読と横井の姿をその金色の目で順繰りに眺めた。
     横井は地面にこんもりと山を作ったオキアミをどうしようかと思案した。埋めてしまうかとその前に屈む、吉読があっと声を上げた。
    「待った。それは捨てないでビニル袋に入れといてくれ」
    「どうするんです?」
    「オキアミは食べられる。これを今日の夕飯にすればいいだろ」
    「えっ、まあよく洗えば大丈夫だと思いますけど……」
    「小鍋と油は持って来た筈だ。素揚げにでもしよう」

    二人がビニル袋一杯のオキアミをリュックに入れ終わると、龍はぶんと頭を振り、大きな弧を描いて湖に飛び込んだ。彼等はウォーターアトラクションにでも乗った後かのように、すっかり頭から水浸しになった。

     湖の近くのまばらな林にテントを張り終わると、吉読と横井は薪を燃やし、オキアミで夕食を取った。食後、彼等は水分補給のため沸かした湯を飲みつつ、焚き火を囲んでいた。
    「吉読さんの特殊能力っていうのは、読心術みたいなもんですか?」木の枝を火にくべつつ、横井が尋ねた。
    「いや、俺は別に人や動物の心が読めるってわけじゃなくてね。例えばだけど、ほら」

     吉読が手の平を上向ける。横井は目をこらしてそれを見た。
    「今、ここに葉っぱが三枚落ちてきただろ。これは信号なんだ。モールス信号、みたいな。それを俺が解釈して、受信する。こうして現実にいれば、俺が知りたい事を教えてくれる。例え知りたくなくても」
    「なんか、それって妄想と紙一重ですね」少々言いにくそうな表情で横井は切り返す。
    「ハッキリ言っていい。精神病的だろ? 世界が俺に語りかけている。誰かが俺を監視して、暗号を送っている……みたいなね。だから、あんまり人に説明しないんだ」
     そう言うと、吉読はアルミカップの湯を啜った。横井は黙って聞いている。

    「でもまあ、一応君には説明するとだね。現実に居ればこうやって、さっきみたいに助けを求める者の声もお届けてしてくれる。望まずとも、必要とあらば湖から勝手に龍が出てくる。都市に居れば、看板や広告に書かれた文字や数字や記号や図から色々な事を気づかせてくれる。最初は、なかば面白半分にそれを実行してた。人知れず、世のため人のためって感じでね。でも段々、ただ働きばかりするのは癪になって来てね。じゃあどうやってこの能力を収益化できるかと行動した結果、開運だの吉読だの怪しいコンサルを看板に掲げて、仕事にすることになったわけ。だから正直に言うと、千堂社長が求めてるタイプの……幸運の量が見えるとか、そういう能力じゃないんだな」
     吉読は落ちてきた広葉樹の葉をそっと側の草むらに置いた。よく見れば、そこかしこに生えている草は四つ葉のクローバーばかりだったが、彼にとってその単一的な形は、余り意味を成さないようだった。

    「なるほど」横井は相槌を打った。誇大妄想のようにも思えたが、さっき湖で龍を救った姿を思い返せば、吉読の話が信用できるようにも思えた。
    「それで、葉っぱ三枚は、どう言う意味なんですか?」
    「うん、落ち方にもよるけど」

     待ち人来たる。吉読がそう言うと、ガサガサと音を立て、茂みから招き猫が姿を表した。
    腹に小判が生えた三毛猫だ。これも縁起生物の一つだ。招き猫は吉読の手の近くに近づくと、鼻をすんすんと鳴らし、匂いを嗅いだ。
    「当たった。すごいですね」横井がそういうと吉読は首を捻った。期待していたものと違ったらしい。しかしながら、膝に乗ろうと懸命に前肢を出す招き猫に微笑ましさを感じたようで、その額をそっと撫でた。その姿を眺め、横井は決心したように吉読に話しかける。

    「あの、さっきの話ですけど……千堂さんの依頼について、お願いがありまして」
    「お願い?」
    「こんな、脱出できるか怪しい中言うのもなんですが」横井は一瞬言いよどむ。
    「もし、無事に千堂さんが戻ったら。ここいる縁起生物には、本当に幸運を集める力があるって言って貰えませんか」
    「依頼人に嘘をつけって? まあ一応、理由を聞こう」
     横井の訴えはこうだった。最近の千堂は幸運に執着するあまりにおかしくなっている。もし、ここの縁起生物が役立たないという結果が出た場合、殺処分となるだろう。そしてまた、新しい生物を作り出そうとするに違いない。財団の研究員は千堂社長のカリスマに心酔している者が多く、彼の暴走を止めることはできない。横井本人は、世話をする間にこの島の生物に情が湧いてしまっていて、この手で処分することなど到底できない。
     だから、吉読に口裏を合わせてもらい、縁起生物たちが生き延びられるようにして欲しいというのだ。
    「お願いします、僕らを助けると思って」横井は頭を下げた。
    「しかしね……」吉読がへの字に結んだ口を掌で叩き、悩んでいると「吉読さん」と横井が小さく叫んだ。その驚いた表情に、即座に背後を振り返って見回す。すろと林の木々の間に、大小様々な影が佇んでいた。そしてそこから、すいと一体の小さな影が姿を現す。
     それは肩の尖った羽織にちょんまげを結いの姿をした、福助だった。
     背が低く大きな頭をしたそれは、しずしずと吉読の前に正座すると、手を揃えてつき、垂れ下がる福耳を揺らして深々とお辞儀をした。それをきっかけとして、影達は次々に姿を現す。
     草むらから白蛇が這い出て来たかと思えば、居酒屋によく置かれる傘を被った信楽焼の大狸が現れ、立派なとっくり瓶を揺らしながら、ズムと横隣に腰掛ける。ぴょんぴょんと跳ねるものがあると思えばそれは赤い達磨で、その後ろを羽を閉じた鳳凰が悠々と歩き、通天閣のビリケン像の尖った頭を冗談めかしてつつく。シーサーや麒麟、コインを咥えたツバメに、白ギツネ、逆さに飛ぶコウモリ……

     まるで百鬼夜行である。それがまるでキャンプファイヤーのように、ぞろぞろ現れて焚き火を囲んでいる。おそらく、水中にも生息するだろう縁起生物も加えれば相当な数だ。こんな風に奇形として作られた縁起生物が、この島には沢山いるのだろう。
     吉読はどうしたものかと思案したが、招き猫の小判に触れる手に、ドクドクと血の通う鼓動を感じ、前を向く。横井は静かに泣いていた。
     どの生物も、空想からそのまま抜け出てきたような異形だが、彼等は間違いなく生きていた。


    「早くおやつ食べちゃって。今日は三時半からダンスでしょ」
     母親の不機嫌なキンキン声がリビングに響く。恒例の気乗りしないお稽古事の時間だ。毎週木曜日は本当に憂鬱。明日になってしまえば、その翌日は休みだから気が楽なのだけど。わたしは皿の上のチーズケーキをゆっくり食べて抵抗するけど、結局タイムリミットはやってくる。
    「あゆみ、さっさとしなさい」
    「ファ・グー」
    「ちょっと、なんて?」
     了解と言うつもりで、うっかりあっちの言葉で返事をしてしまった。咄嗟に咳払いをして、誤魔化す。
    「また第千世界でしょ? やめてよね。変な口癖ばかり覚えてくるなら、接続禁止にするわよ」
    「はい、ごめんなさい」
     記号を並べるように口から言葉を吐き出して、わたしは母親の顔色を伺った。その顔は、わたしとそっくりだ。それもその筈で、わたしは母のクローンだった。人気アイドルになるという夢を叶えるための、単なる複製品なのだ。彼女は立体液晶でモデルのコーディネートをチェックし始めていた。こういう時は安全なパターンだ。素直に謝れば、母の気は済む。わたしのやることに文句を言って、謝らせる。それがこの人のストレス解消法だから、仕方がないのだ。もう諦めてはいるものの、ぼんやりと思う。
     ああ、早くおうちに帰りたい。わたしにとって、本当のおうちに。

     わたしは母に急かされ、着替えの入ったバッグを抱えて車の助手席に乗り込んだ。
     これがいつもの気乗りしない木曜日のルーティン。それでも。いつも通りならまだよかったのだ。適当にどたばた手足を動かすレッスンが終わり、ロッカーにしまっていたタブレットを起動した確認した途端、わたしは目の前が真っ白になった。

    ――(住民の皆さんへ、大切なお知らせ)ワールド55の終了が決定しました。今まで楽しんでくれてありがとう! お別れ会の詳細は……

     ショックで頭がガンガンする。今日の憂鬱はいつもの何倍も何百倍も重かった。
    「今日は、なんだか静かだね」
     的盧てきろは、その触手を伸ばし、わたしの頬に触れた。わたしは微笑むと、背中に生えた触手を動かし、それに絡める。
    「ショックなことがあったから」わたしはそう答えて、額の長い一角をゆっくりと振って、先端に積もった金の砂を落とした。
    「えっ、なんだい」彼は驚いたように尋ねた。そして、わたしの様子を伺うように、残りの七本の触手を全部、わたしの身体に絡めてくる。縞の入った紫色のそれらは、心配そうに発光した。
     的盧は、この世界に棲む人工知能だ。わたしはこの世界では結婚している。彼はとても優しい夫だ。「第千世界」のワールドは沢山あって、色んな人工知能が棲んでいる。でも的盧は、わたしにとって本当に特別で、結婚権が売られた時には一番に取得した。魔術師に入門したのはそれがきっかけだった。師匠に教わった方法で、初めて通り魔ということをした。権利を買うためのお金は、それで手に入れた。
     ワールド55は静かで、深海のような、宇宙のような世界だ。星形の岩屋のような家に、
    わたしと的盧は住処を構えていた。
    「大丈夫、あなたのせいじゃないの。完全にこっちの話」
    「君のお母さんのこと?」
    「でもないんだ。ごめんね、ハッキリ言えなくて」
     的盧と話す時はふたりだけの言語で話す。そうすると不思議なほど、思いやりのある言葉を話せる。その度に、わたしは現実に向いてないのだろうなと思う。

    「そうか……君が元気だったら、寝床を新調する相談をしようと思ってたんだけど」おずおずと大きな一つ目を動かす仕草が愛おしくて、わたしは微笑んだ。
    「いいよ、一緒にカタログを見る。大きなベッドにでもするの?」
    「いや、今より狭くしようと思って」
    「どうして?」わたしは紫色に染まった唇を尖らせた。
    「君と、もっとくっついて寝たいから」
     彼から紡がれる愛の言葉に、わたしの頬を金色の涙が伝った。 ワールドが終了するということは、この世界ごと的盧が消えてしまうということだ。やっぱり諦めることなんてできない。ここは私の本当の家で、彼は大事な家族なのだ。絶対に、そんな事はさせない。わたしが必ず守ってみせる。決心すると同時に、わたしは師匠のことを思い出した。そうだ、わたしは魔法なら結構得意なのだ。少し怖いが、また魔術師協会に知恵をかりて、この世界を守る方法を教えて貰えばいい。
      現実はわたしの思い通りにはならないけど、この世界では違うんだ。


     吉読と横井が小屋に戻ると、財団の藤本から連絡が入った。
     ホログラムが繋がるや否や、藤本の胸像は髪を振り乱し、すがりつかんばかりの涙目で彼等に結果を報告した。
     藤本は昔の同僚だったイデアルリング社の営業部長に事情を話し、千堂の生体認証を借りたいと相談したそうだ。千堂は仮死状態になっているが、医師が同行すれば動かしても問題はないらしい。そういう事ならばと話がまとまりそうだったところに、副社長の加々美が待ったをかけたそうだ。
    『信じられない……絶対におかしいですよ。だって、そんな……実際に、人が閉じ込められてるんですよ』
     取り乱す藤本とは対照的に、横井はまるで結果を知っていたかのように、落ち着き払っている。
    「加々美さんは、財団や僕らを嫌ってるんで。そんな事になるんじゃないかと薄々思ってましたよ」
    「いくら嫌っているとしても、見殺しにする程か? なんでそんなに関係が悪いわけ」
     がっかりと肩を落としつつも、吉読は怒るでもなく彼等に尋ねる。

    「社内の権力争い。それも結構根が深いんです。千堂さんと加々美さんは一緒にイデアルリングを立ち上げましたが、事業における思想の面では、元々加々美さん主導で始めたものでした。でもそれについていけない人も多くて、そういう周りの声を受けて、千堂さんが社長になったんです」
    『ええ、まあその。加々美さんは、かなり強烈な環境愛護派と言いますか。有機ナノマシン技術は、本来は環境保護のような使い方を想定して作られたものでして』藤本が額の汗を拭いながら補足する。横井はうなずき、話を続けた。
    「この島で人工生物が生きられるのも、有機ナノマシンが使われているからなんです。このナノマシンは生態系の欠け得た環を自動的に補完することができますから。でも、これを環境保全だけに使うのはもったいないということで、千堂さんが社長になってからは、他の企業に積極的に売り込むようになりました。それで今の急成長があるわけです」
    「でも、そういう使い方を副社長は望んでいなかったと」
    「ええ、噂ですが、加々美さんは環境テロリストと呼ばれるような組織とも癒着があるらしいんです。その組織がターゲットにしていたのが、政府のAR推進事業。管理しきれなくなった仮想現実を消去して、拡張現実に移行するという例の政策です。千堂さんが会食をしていた相手はその事業の大臣でした」
    『えっ、もしかして、横井君は加々美さんが誘拐犯だと思ってるのかい』
    「直接ではないにせよ、加々美さんが魔術師に依頼した可能性はあると思っています」

     藤本は青ざめている。秘書として財団に所属する前は、イデアルリング社にいた彼にとって、その仮説はかなりショックだったようだ。
    「環境テロリストは、人間は仮想現実に閉じこもるべきって唱えてるもんな。移動しないから排気ガスも出ない。ゴミもポイ捨てしない、データのやりとりなら過剰包装もなし。仮想空間で家族を持てば、人間はこれ以上増えず、地球は救われる。はあ、そりゃなかなか複雑だね」吉読はため息をついた。

    「まあ千堂社長が狙われた動機はわかったよ。でも、君達財団が副社長に嫌われる理由はまだわからないな」
    『それはその……我々の財団に二脚が多いからだと思います。何を撮られるかわからないから、もう連絡するなと言われました』
     二脚とはサイボーグの一種で、仮想空間事業が活発だった頃に流行した闇稼業だった。
    仮想空間に、リアルな情報を提供するため発案され、生きた人間そのものをカメラとして改造する。機械だけでは抽出できない感情や、感覚をも含んだ高濃度な情報をデータ化できた。カメラを固定する三脚にちなみ、歩き回る情報収集器として彼等は二脚と呼ばれた。スパイとして活動する者も多く、一般企業では嫌われがちな存在だ。

    「ひどいな、僕はともかく、藤本さんは違うって知っているくせに。加々美さんはサイボーグ差別主義者ですからね」
     吉読は面食らったように、横井を振り返る。
    「二脚…? 横井君って二脚なの?」
    「隠していてすみません。でも、この島に来てからはカメラは切っていますよ。何も撮っていません」横井は曇った表情で、謝罪を述べた。
    「縁起動物のことは複雑ですけど、僕が千堂さんを取り戻そうと必死なのは、恩があるからでもあるんです。世間では前科者扱いの二脚を、千堂さんは財団で拾ってくれました。絶対に無事な状態で助けたい」
    『ええ、私も同じ気持ちです。千堂さんを助けたい。しかし、どうしましょう……どうやったって、島の座標は暗号化されて分かりませんし……魔術師を捕まえないことには、おふたりはここから出られない』
     藤本の胸像はがっくりとうなだれた。吉読はさきほどからじっと考え込んでいたが、何かを思いついたように顔を上げた。

    「藤本さん、ダイバーを早急に何人か雇うことはできるかな」
    『ええ、できますが。広告を出せばすぐ集まります』
    「よし、いいぞ。横井君、二脚だったころのカメラって、まだ使える?」

     勢いにやや気圧されながら、横井は答える。
    「スイッチを入れれば、いつでも撮影はできますよ」
    「撮ったデータを、リアルタイムで仮想空間に反映することはできるのかな?」
    「ええ、勿論。ここは無線が飛んでるので。でも、二脚のカメラはかなり大容量ですよ。最悪タイムラグが……」

    『あっ』と藤本が小さく叫んだ。
    『もしかして、それで魔術師を?』その言葉に、吉読は笑顔を見せて言った。
    「予想が全部当たっていれば、うまくいくかもしれない」
     少年のように目を輝かせる吉読に、横井と藤本のホログラムは、顔を見合わせた。

    「善は急げだ。これから計画を話すから、急いで準備にとりかかろう」


     シェイクスピアがハムレットで描いたように、暗殺が横行した十六世紀のヨーロッパにおいて、毒殺は一般的なものだった。権力者、市民問わず人々は毒や媚薬、そして、それらから身を守る解毒薬を買い求めた。その入手元は、まぎれもなく魔術師や錬金術師であった。毒の幻覚や作用を魔法や呪術とするなら、精神に特別な作用をもたらす「イメージング」もまた、現代における魔法であると言えよう。
     二○世紀の魔術師がまるで先祖返りのように、古代の魔術師の役割に立ち返るのは、なんとも面白い現象である。彼等は仮想空間に根城を構え、時に権力者のために暗殺を企て、悪魔崇拝者が黒ミサで悪魔と交わったように、時に人工知能と愛の契りを結んだのだ。
     今回、かつて現役だった魔術師に匿名でインタビューを行うことができた。その結果は以下の通りだ。

    質問:「イメージング」とは、何なのか?
    「第千世界」が人工夢だという点を利用し、明晰夢の原理を応用して仮想空間の改変を行うことだ。明晰夢の中では、なんでも思い通りにできる。憧れの女優だろうが、アニメキャラクターだろうが、絶滅動物だろうが、巨大な骨付き肉だろうが、自由に仮想空間に呼び出すことができる。そして自分の欲望を満足させることができる。鮮明かつ詳細にそれを想像できれば。

    質問:仮想空間上のどこでも可能なのか?
     ノー。どこでもは無理だ。具体的にはセキュリティの弱い場所のみ可能だ。それについては、システム的な視点で捉えるといいだろう。理屈はハッキングに似ているからだ。セキュリティが突破できないメインワールドでは、どこも無理だ。セキュリティホール、つまり「節穴」があるワールドでないとできない。黎明期にはメインにも節穴が沢山あって、魔術師が現れてから慌てて金をかけ、改修されたという話だが。
     後期の「第千世界」は小さな仮想空間を幾つもひっつけていたから、魔術師達はそれぞれ得意なOS(オペレーションシステム)で構築されたワールドを自分のナワバリのようにしていた。師弟関係を結び、技術を伝承していく。ナワバリによっては、組織化もされていた。

    質問:魔術師は「イメージング」をどのように使っていたのか?
     盗み、誘拐、脅迫、拷問、殺し。
     先代から聞いた話では、最初は、既存の仮想空間をバグらせるだとか、壁に落書きするレベルの悪戯が多かったらしい。ウイルス禍が終わって、自宅から移動して現在地情報をごまかせるようになった。それが理由で犯罪が増え、魔術師の数が増えるに従って、過激化していったということだ。
     生粋の快楽殺人犯もいたが、魔術師協会によっては要人からの依頼を受け、誘拐や暗殺を請け負う所もあった。

    質問:「ダイバー」について、どのように認識していた?
     一般人、つまり「ドリーマー」に対しては、やりたい放題できた。相手から見れば本当に魔法と思えただろう。やろうと思えば一瞬で燃え上がらせることもできたし、すれ違いざまに全財産の残高をゼロにしてやることもできた。赤子の手を捻るようなもんだ。
     しかし、「ダイバー」はかなり厄介だった。やつらも「イメージング」を使ってくるから、戦いは連想ゲームのようにならざるを得ない。

    質問:連想ゲームとは?
     「ダイバー」相手にイメージングを成功させるには、スピードが勝負だ。相手の深層心理にそのイメージをすばやく叩き込まなければならない。ダイバーはメンタル面を独自の方法で強化している。いわゆるアイスだ。氷の心理防壁がある以上、「ダイバー」はこちらの作りだした幻に納得せず、その脳にショックを与えることはできない。
     そこで編み出されたのが、連想ゲームだ。相手のイメージングをさらに利用する形で、攻撃的に変化させる。合気道のように。
     実際あった例だと、たとえば相手が戦車を出したとする。砲台の長いレオパルト。その形から、俺はハチドリを連想して、綺麗な小鳥に変えてやる。相手はそれを鮮やかな羽の色から連想したクジャクに変える。そして、すぐに二段階目。大きく羽を広げたクジャクはでっかい紙の扇子となって俺を吹き飛ばす。勢いよく吹き飛ばされた俺は、自らをゴルフボール、それから鋭利な鉄の矢に変えて、そのまま相手の口の中にホールインした。
    以上、相手「ダイバー」の遭難により終了。
     しかし、じきにダイバーの方も連想ゲームの訓練ソフトを開発し、腕を上げはじめた。イタチごっこだ。
     その時は、この対立する存在の争いは、永久に終わらないだろうと思っていた。

     このように、ダイバーとの争いに明け暮れ、仮想空間での犯罪行為に浸り続けた現代の魔術師達だったが、ついに滅びのきっかけが訪れる。
     それが、イデアルリング社で起こった、千堂麒麟児誘拐事件であった。



     ひどいひどいひどいひどい。
    わたしは泣きじゃくりながら、引き出しを開けた。
     すぐさま有機液体接続器と酸素供給ポンプを掴み、服を脱ぎながら浴室にダッシュする。母がいない日でよかった。最近金曜の夜は、どこかに泊まりにいくのだ。こんな姿を見られたら、二度と接続を許しては貰えないだろう。

    『ワールド55が攻撃されている』
     ついさっき。ホログラム配信を見ながら独りで夕飯を食べていると、師匠からこのメッセージが届いたのだ。
     一体どうして、こんなにひどいことをするんだろう。浴槽にお湯が溜まるのをじりじりしながら待ちながら、わたしは思った。半分ほど溜まったところで、有機液体接続器をばらまくように混ぜる。早く動かしたいのに、腕はぎくしゃくとぎこちない。あっちの世界ではいつも八本も手があるから、癖で無いはずの触手を動かそうとして、二本の手に集中できないのだ。でもともかく、大体混ざったところで急いで湯船に飛び込む。息が吸えるのを確認し、ぎゅっと目を閉じる。意識がぱちんと飛ぶ。ウォータースライダーで滑り降りていくような、いつものログインが始まった。
     わたしは的盧の無事を一心に祈りながら、音もない暗闇の中へ落ちていった。

    ***

     海底に溜まった汚泥を踏み分けながら、トムロイはその床底グラフィックを次々と剥がし、セキュリティホールを拡げていた。上から、鮫ほどのサイズのチョウチンアンコウが、彼の脇を泳いでいく。その目は退化していて肌は薄白い。退化潜水夫の姿をした彼は軽い手つきでそれを掴むと、手品のように消し去った。そのまま、次々と現れる深海生物のような姿の人工知能を処理しながら進んでいくと、岩屋のようなものが並ぶエリアに辿りついた。そこかしこで小さなプランクトンがちらちらと乱雑に発光し、星空の中にいるような光景が広がっている。
     目の前の岩屋の戸を蹴ってみるが、反応はない。このワールド55は吉読から破壊工作を依頼された終了予定ワールドの一つだ。元々訪れていたドリーマー達も終了の知らせ見て、見限ったのだろう。もう人工知能以外に、誰もいないのかもしれない。
     念のため、二つ三つ扉を蹴ったところで、中からガタガタと音が聞こえた。引き戸を開けようとするが、鍵がかかっているようだった。トムロイは手の中にバールを呼び出すと、扉の隙間に強引にねじ込んだ。途端、彼の身体は大量の泡に押し戻され、海底から数十メートル先に浮遊した。無重力状態のようにグルグルと回転し、視界が揺れる。彼は手に持ったバールを鉄の錨に変え、重りに繋いだ縄を掴んで身体を固定した。見ると、散らばる星空の中に、人影が見えた。大きな麦わら帽子を被った、白いサマードレスの少女が、彼の方に向かってゆっくりと沈んでくる。

    「ビンゴだ」
    トムロイはそう言って、背負っていた銛を両手で構えた。

    『吉読さん、ワールド55に例の魔術師が現れたそうだ』
     藤本から連絡を受け、吉読はすぐに移動を開始した。指示された座標の近くにゆっくりと沈んでいく。彼の目の前では、目まぐるしい魔法合戦が繰り広げられていた。見つかれば、巻き込まれるかもしれなかった。しかし、彼は更にそちらへ近づいていく。

     あゆみは異変を感じた。相手が放ったサーチライトを蛍光灯に換え、たたき割ったその破片をそのダイバーの酸素ボンベに飛ばしてやろうと、想像していた時のことだった。
     彼女はそれを願ったが、蛍光灯は相変わらず彼女の手の中にあった。突如、海中に大きな龍が現れ、彼女はたじろいだ。潜水夫の姿は見えない。ダイバーのイメージかと身構えた時、海面から次々と何かが投げ込まれた。編み笠を被った狸や、招き猫、金色のしゃちほこが水泡の尾を引きながら、あゆみに向かって降下してくる。彼女は混乱し、逃げ出すために人魚の姿を想像した。しかし、姿は変わらず、白いドレスの裾が海藻のようにゆらめくだけだ。
     よく分からない生き物たちが投下され、彼女を囲む。手足を動かそうとしても、ひどく重い。……重。……もい。今度は思考が飛ぶ。ラグが起きていると彼女が気づいた時、その腕を誰かが、しっかりと掴んだ。

    『やった。ついに捕獲できた』
     ホログラムの藤本が声を弾ませて万歳をする。横井は、浴室でタブレットを操作しながら微笑んだ。
    「よかった。湖から撮影マラソンした甲斐がありました」
    『縁起生物も大活躍だ。やっぱり自然にはない形だと、仮想空間に反映する負担が大きいんだね。今、ワールド55内で、すさまじいラグの嵐が起こっているみたいだ。トムロイさんは無事、脱出したみたいだけど』
     横井はタブレット画面を見つめた。浴室には、洗面台に溜めた水の中に頭部と右手だけを浸ける形で接続する吉読の姿があった。最低限容量を軽くし、なるべく気づかれぬうちに魔術師に近づくための工夫だった。イメージングを封じているうちに彼女をハッキングし、個体識別情報にアクセスする計画だ。しかし、画面は暗転し、先ほどから暗闇が続いている。彼等は、吉読がうまくやることを祈った。

    10

     ノイズと崩れたグラフィックがひとしきり吹き荒れると、そこには暗闇が残った。
    掴んでいたはずの少女の姿もない。それどころか、自分の手も足も、肉体の姿はおろか気配すら感じられない。無理にタイムラグを引き起こしたことで、何かおかしなことが起こっているのかもしれなかった。上下も分からぬ無限に続く闇の中で吉読が途方に暮れていると、声が響いてきた。
    「あゆみ、どうしたの? なにしてるの」
    女性の声だ。途端、闇に巨大な顔が映し出される。母親らしきその女性は、眉をつり上げて叫んでいる。そこにどこかで聞いた声が語りかけてきた。

    ――彼女を助けてあげてくれ。頼まれたんだ。
    ――彼女?
    ――そうだ。手を掴んだ彼女。正確には彼女に乗っている者に。

     空間いっぱいに、鏡で自分の顔を覗き込んでいる少女の姿が映し出された。次に浮かぶ名前、遠野あゆみ。畠中ダンススクールと書かれた看板。それが特定情報だと吉読は気がついた。横井がモニタしている筈だ。きっと、それで犯人を通報できる。

    ――彼女はとても悲しんでいる。この状況から解放してやってくれ。できるだろう、いつものように。
     ちょっと待て、と吉読は言った。
    ――いつものように?
     語りかける声が答える前に、吉読は現実世界に引揚げられた。

    ***

     その後。魔術師の特定データは千堂の財団秘書である藤本によって警察に提出された。誘拐犯は未成年のため、少年事件として逮捕された。警察が犯人の所属する魔術師協会を摘発したところ、イデアルリング社副社長である加々美容疑者がその一員であることがわかった。千堂氏のメンタルデータは加々美容疑者の自宅のハードディスク内に監禁されており、警察は魔術師協会を通して千堂氏の誘拐を幇助・教唆したとして、取り調べを進めている。
     千堂氏の個人財団が所有する人工島に軟禁状態となっていた二名の人物は、生体認証によって座標が特定されたため、即座に救出された。

     以上が、事件のあらましである。現代魔術師の歴史において、この事件が重要視される理由は、世論の仮想空間離れを促し、AR推進法案の可決を後押ししたためである。

     その結果、二○三八年十二月末をもって、仮想空間「第千世界」は稼働を停止。すべてのデータは消去され、仮想空間の魔術師達は生息地を失った。
     現代における魔術師の歴史は、一旦幕を閉じたと言える。

     しかし、吉読祥一により偶然発見された寄生生物の存在により、我々人類、そして現代の魔術師は、新たな段階に向かったとも言えよう。

     特定の条件が重なることにより、有機液体接続器によって脳内生物とのコミュニケーションが可能になることが判明したのだ。それにより、第六感やテレパシーなどよく知られる超能力的な分野にその生物が深く関わるのではないかという仮説が立てられ、研究が進められている。その研究はいつか、次世代の魔術師と呼ばれる存在を生むかもしれない。

     脳内に別の生物が生息しているという事実を恐れる声もあるが、我々はその善性に期待している。判断材料になるかは不明だが、研究者チームが聴取した、吉読祥一の幼少期の証言を最後に記載しておく。
     尚、余談だが、現在彼の事務所には、招き猫と信楽焼の狸が来客を出迎え、実に美味い煎茶を出す福助がいるのだという。

    ***

     俺が最初に「そのこと」に気がついたのは、多分五歳の頃だ。
     かなり昔の事で、だから情景は歯抜けで曖昧なのだが……とにかく、その時俺は、近所の公園で駆け回っていた。俺の前を、青いスニーカーを履いた誰かが走っている。踵の蛍光部分がアスファルトに近づく度にピカピカ光っていて、俺はそれを羨ましいと思っていた。前を走る誰かの顔は、よく覚えていない。でも声は記憶に残っている。
    そいつは俺を先導しながら叫んだ。

    「おーい、いるんだろ、返事しろー!」俺は息を切らせて笑いながら、それに続いた。
    「いるんだろー!誰かー!」
     声は公園を囲むマンションの壁に反響しているのか、エコーがかって空に消えていく。
    いかにも子供らしいことに、俺達が呼びかけている相手は「誰でもない」のだった。
    白熱したごっこ遊びの延長。シチュエーションはなんだったか。探検隊か、それとも救助隊。または夢中になっていたヒーロー物だったかもしれない。
     俺達はしばらくの間、その遊びに熱中したあと、公園の砂場で休憩することにした。
    砂場の真ん中には、ピンクの豚と白い牛の遊具が設置されており、青いスニーカーの友人はいつも牛の方に跨がっていた。一方動物にこだわりのない俺は、シンプルですべすべとした豚の背に跨がったのだが、木の陰のおかげでひんやりとしている地肌に魅了され、本能的に上半身ごとそのピンクの身体に抱きついてしまった。友人は笑ったが、すぐに俺の真似をして牛で身体を冷やし始めた。思い切り走った後の、ドクドクと脈打つ鼓動が耳の中で聞こえ、俺達は黙って息を整えていた。コンクリート固めの遊具の感触を感じながら、俺はなんとなく手元の砂を掻いた。
     本当に、何の意図もなかった。シャリ…という砂の心地よい音と指の感触と。その先にこつりと硬い物が当たった。俺は薄目を開けてそれを見た。缶バッジだった。パンダの絵が描かれたキャラクターもので、下半分は土がこびりついていた。
     そんなにかっこよくないな、と俺は思った。ロボットか乗り物なら宝物にしたのに。
    そのままにしておこうか数秒迷った後、また特に深く考えずに親指で土をこすってみた。

    『ハロー』と、そこには書かれていた。
               了
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