一年後に叶う願いを君へ今年も七夕の季節がやってきた。
小さな長方形に切られた画用紙の上にボールペンを置き、遙はううんと唸る。
昔から神様に願い事というものをあまりしてきたことがない。
大抵の願い事は自分で叶えてきたのだ、だけどと手に持ったままのボールペンは未だ文字を生み出すことを拒んでいた。
自分では叶えられない願い事がある。
いや、本当は自分でも叶えられるかもしれないが、思わず神頼みをしてしまいたくなるほど自分にとっては無謀な願いだ。
「はあ…」
思わず漏れたのは大きな溜息。
実を言うと自分には今、好きなやつがいる。
世間一般的には恋愛と呼ばれるであろうその感情に気が付いたのは一年ほど前のこと。
いつも怒ったような顔をして乱暴な言葉をかけるその男の何気なく見せた素の笑顔に心の中で何かが生まれたような、そんな感覚を覚えた。
ただでさえ人よりも恋愛ごとに疎い自分が恋、しかも相手は男だ。
気のせいだと自分を否定し続けてきたというのに季節が全て巡る頃にはすっかりこの心はあの笑顔の虜になってしまっていた。
素直に好きと言える度胸は自分には無い、だが時の流れは残酷だ。
渚からその悲報を聞いたのはつい最近のこと。
あの男が海外に短期留学するのだとか。
ただでさえ仲がいいとは言い難い関係であると言うのに、海外となれば顔を見ることすら難しくなる。
遠くからあの泳ぎを見ることも笑った顔を見ることも叶わなくなると思うと焦燥感に駆られ、たまたま寄った市民プールの玄関にぽつんと置かれた七夕飾りを前に足を止めたのだ。
かれこれ一時間、ペンを持ったまま立ちすくんでいた遙に施設のスタッフが閉館だと声をかける。
次々と消えていく電気に遙は意を決してボールペンを動かすと、書き終えた短冊を笹の葉に括り付けた。
『好きな人に好きと言いたい』
名前も無く書かれた言葉。
奥に括り付けたそれを横目に目を伏せると、遙はそっと市民プールを出た。
ーーーーーーー
数日後、ランニングを終え遙は再び市民プールへとやって来た。
練習施設では泳げる時間が限られているせいか物足りなく感じてしまうのだが、市民プールは朝に来ると人が少ないお陰でゆったりと泳げるのが嬉しい。
いつものように朝一番で市民プールの扉を開け靴を脱ぐ。
ふと目についた七夕飾り、そういえば今日は七月七日だ。
そんなことをぼんやりと考えながらそっと自分の書いた短冊に手を伸ばす。
我ながら恥ずかしいことを書いたものだ、なんて苦笑していれば裏に何か文字が透けて見えた。
裏側に何かを書いた覚えはない、首を傾げながら遙が短冊を裏返せばそこには小さな文字で一言文が連ねられていた。
『十二時発 羽田空港 ロサンゼルス行き』
見覚えのある文字、それを見た瞬間遙の足は出入口の自動ドアをくぐり抜けていた。
二つの可能性に胸を騒がせながら、遙は空港への電車に乗り込む。
いやまさかそんなわけはない、いやでももしかしたら。
不安と期待を胸に国際線の搭乗口へと辿り着き、息を切らしぐるりと周囲を見渡す。
探すのは愛しい背中、橙色の髪、金色の瞳。
呼吸を落ち着かせ確認した時刻は十一時三十分。
間に合わなかったかと握りこんでいた拳を緩めたとき、こちらを見つめる人の気配を感じ遙は後ろを振り返った。
「…金城」
飛行機から降り流れ込んでくる人の川を挟み、こちらを見ている金城と目が合う。
二人静かに見つめ合う時間はとても長く感じて、もどかしさに眉を寄せていれば人の川が途切れる。
スーツケースを手にゆっくりと近付いてくる金城との距離はたった1m。
先に口を開いたのは金城だった。
「俺に言うこと、あるんじゃねえの」
「…」
やはり裏側にメッセージを残したのはこの男らしい。
ああ、思い上がりも甚だしい。
お前が好きだなんて、書いてもいなければ言ってもいない。
そんな照れ隠しの憎まれ口を心の中で叩きながらいつから気が付いていたんだと問えば、一年前からと金城はあの時と同じ笑顔で微笑み遙の手を取る。
初めて触れた金城の手は、とても温かかった。
「…好きだ」
ぽろりと零れた本音。
口にしてしまうと胸の奥が軽くなって、遙が小さく息を吐けば金城は目を細めた。
「来年の同じ日に帰ってくる、その日はここで待ってろよ」
繋がれた手はゆっくりと指を絡め、二人は体温を共有する。
いってくる、そう呟いて離された手に少しの名残惜しさを感じながらも遙は頷いた。
いってらっしゃい、そう呟けば金城はあの日と同じ笑顔を見せて歩き出す。
意地を張っていたけれどたまには神様に頼むのも悪くない。
凛々しいその姿を目に焼き付けながら、次の再会の約束を胸に遙は温もりの残る手を振った。