曇天から射し込む淡い光を受け、銀灰色に浮かび上がる部屋の中でミスタは目を醒ました。
寝返りを打てなかったせいか、強張った筋肉や関節があちこち軋むような感覚を覚える。頭の下に敷いたクッション越しに、扉を閉てるかすかな物音を聞きつけた。程なくして床板を踏む控えめな足音が響く。リビングへ立ち入った人影は、家主に気を遣ってか照明を点けないまま薄暗い部屋の中で荷物を下ろした。ソファに横臥したままミスタが名前を呼ぶ。薄暗がりに紛れて姿が見えていなかったのか、はたまた眠っていると思い込んでいたのか、シュウは小さく声を上げた。
「寝るなら寝室に行きなって言ったのに。そんなところじゃ体が休まらないよ」
愕かされたのを根に持つ風でもなく、ソファの傍らへ駆けつける。ブランケットの裾から半分ほど顔を出したミスタは、気遣わしげなきょうだいの表情を確認して満足そうにほくそ笑んだ。
「だって、それじゃシュウが帰って来たのがわかんないじゃん」
シュウは呆れたように肩を竦めながらも、ベッドへ追い立てようとはしなかった。何も言わずにリビングからひと続きになったカウンターキッチンへ向かい、買い物袋の中身を黙々と冷蔵庫へ移す。
「……なんか多くない、それ」
ソファの上から首だけを伸ばしてキッチンをうかがい見る。カウンターを陣取る巨大な袋が視界に入るなり、ミスタは口を挟まずにはいられなかった。
「何が口に合うかわからなかったから、とりあえず手当たり次第に買ってきた。お腹空いてる? アイスにヨーグルト、プディング……いろいろあるよ」
合理的なようで妙に豪快なきょうだいらしい返答だった。ミスタはしばらく天井を仰いだまま考え込む。低い唸り声を上げながら散々迷った末に、温かいものが食べたい、と呟いた。シュウは了解、と買い物袋の中から牛乳のボトルと缶詰を取り出し、早速調理に取りかかる。
調理台の下からミルクパンと缶切りを探り出す。鍋はすぐに見つかったものの、缶切りは戸棚や抽斗を隅々まで改めても出てこなかった。ミスタに所在を訊ねても、まるで心当たりがないらしい。結局、食洗機の中に置き去りにされているのを見つけたはいいものの、手の中におさまってしまうほど小さいおもちゃのような代物で、おまけにところどころ錆びついていた。ひとまず布巾で目立つ錆を拭い、缶のふちへ刃をあてがう。軽く力を込めながら手前へ動かすも、まるで手応えがなかった。
「ミスタ、この缶切り、使いづらい」
「そりゃそうだよ。左手用だもん」
キッチンで格闘するシュウの様子を遠巻きに眺めていたミスタが、あっさりと言い放つ。持ち替えるといくらか刃が進むようにはなったが、今度は指を切らないよう苦心した。慣れない作業にさんざん神経をすり減らした挙句に、ようやく蓋が開く。
「シュウは具合が悪いとき、いつもそうやって料理してるの」
カップに一杯分の牛乳と缶詰の中身を移した鍋を火にかけながら、シュウは首を横に振る。
「いや。不調の度合いにもよるけど、大抵はそのとき喉を通るものを適当に食べて寝る。それだけ」
身も蓋もないが事実なのだろう。素気ない返事に、ミスタは独特の細く息を吐き出すような声を洩らして笑う。
「オレもそれでよかったのに、シュウはわざわざメシ作ってくれるんだ」
くつくつと鍋の煮えたつ音と、薄く立ち込める湯気がキッチンをやわらかく満たす。シュウは底が焦げつかないようヘラでかき混ぜながら、独りごとのようなミスタの呟き声へ律儀に応じた。
「そうだよ。ミスタは何も要らなかったかもしれないけど、僕が何かしたいと思ったとき、これくらいしか考えつかなかった」
スープが沸騰する直前でコンロから下ろし、大きめのマグに注ぐ。汚れていないスプーンを見つけるため、またしてもカウンターじゅうを引っかき回す羽目になった。
「それに、料理っていうほどのものじゃないよ。缶詰温めてるだけだし」
ミスタは眠たげに瞬きを繰り返しながら、運ばれてきたマグとそれを捧げ持つシュウの顔を交互に見比べる。マグを受け取るかわりに両手をおもむろに差し伸ばすと、シュウはたちまち眉をしかめた。
「流石にそこまではしないからね」
「冗談抜きできついんだって。……なあ、頼むよ」
ただでさえ掠れがちな声は、寝起きの気怠さも相俟ってさらにか細く響く。シュウは渋々ながらローテーブルにマグを置くと、ミスタの薄い背を支え起こした。しばらく互いに腕を回したまま気息を合わせる。
とにかく今はこの白くつめたい頬をしたきょうだいが、一刻も早く熱を取り戻しますように。やがて降りはじめた雨が窓を打ち、明かりの乏しい室内が一層暗く沈んでも、彼等は抱き締めた体を手放せずにいた。