気の迷い「危ないっ…!ゆうさくっ…!!」
身を、引き寄せられる。兄は顎と両腕に引き寄せた身体を包み、その頭を胸に抱え、木と木の隙間、倒れる木材と同じ方向に身を投げた。
轟音を響かせて、次々木材が倒れていく。
非番の尾形に、これまた非番だった花沢少尉。
被ってると聞いて、花飛ばしながら追いかけてくる弟をどのタイミングで撒こうかとしていた矢先だった。兵舎ではもはやなじみの光景、誰も止めはしない。
「昼飯ご一緒しませんか!あ、夜酒のみに行きますか!?買い物なら付き合います!荷物お持ちしますよ!兄様っ」
「結構ですお断りします、今日はどこにも行きません。兵舎に籠って誰とも会わない予定です。」
「せっかくいい天気ですし、甘味とか食べに行きませんか!?」
「甘いもの苦手です。」
「では俺の部屋でお茶でもどうですか!茶請けは甘くないものをご用意します!」
「いりません、茶も苦手です。」
「この前鶴見中尉とお茶してたと聞きました!」
「…」
「兄様!」
うっぜぇ…しつこい…しかも近いし足早い。
競歩並みの早歩きについてくる弟に辟易しながら、角を曲がる。
その先には、建て増し工事中の兵舎。材料の木材が並べられていた。
その前を突っ切る。勇作もまだ追ってくる。
よし、こうなったらその先の訓練所までダッシュで逃げー
と、尾形の思考に別の気配を察知する。
まずい!
尾形がそう察したのは、本能なような、カンのようなものだった。何故と言われたら説明しがたい。
逃げろ。危険だ身を守れ。ここから離れろ。
だが、尾形は次の瞬間とっさに後ろを振り返った。
突然自分の方を向いた兄に勇作は驚いた顔をし、そして冒頭の事故に至る。
「…無事、ですか…?」
「あ、にさま…?」
鮮血が、尾形の額に筋を描いていた。
「兄様っ…血がっ!!」
「…大したことは、ありません。かすり傷です。」
「…あ、にさまっ…!」
勇作は狼狽えた。かなり。そうだろう、お優しい勇作殿はだれかが自分のために傷つくなんてだろう。
表情は豊かだが、それは尾形が初めて見る面だった。
「申し訳ありませんっ!私をかばってっ…!」
今にも泣き出しそうなその面に、何故か少し感じたのは満足感。
「勘違いせんでください。謝るのも筋違いだ。上官に、花沢少尉に怪我をさせたとなれば怒られるのは自分ですから。」
「あに、さまっ…」
それでも、その血を拭おうとする手を止めた。
「兄様は止めてください、規律がと前にも言ったでしょう。少尉ともあろう方がいちいちこんなことで騒がないでください。戦地で兵が負傷するたび旗手が騒ぐんですが?進軍できませんよ。情けない。」
これが、「この人のためなら死ねる」か?
はっ、そんな偶像崇拝に俺は騙されない。
こいつのために死ぬなんざ御免だ。
「…いえ、すみません。」
勇作は、察して手を引っ込めた。当たり前だと思う反面、少し残念な自分に疑問を感じる。
「ですが、やっぱり私にとって貴方は兄だから…特別ですから…。」
それが理解不能なんだ。
お前にとって、血の繋がりでどうしてそこまで心配できて愛せるのだ。そもそも命の重さも違うのだ。それに、お前の父は、一度も血の繋がった俺に会いには来ないというのに。
「…一応、足や腕に異常がないか見てもらってください。」
「はい!!では兄様、共に医務室にっ…」
再び延びる手を払い除けると、良いのか悪いのかのタイミングで歩いてきた人影に目をやる。
「大丈夫!?あれ、ヒャクノスケ?」
「宇佐美上等兵。」
宇佐美は尾形を覗き込む。
「失礼します…うわー痛そ。血、出てるじゃん
こいつ俺が連れていきます。花沢少尉の軍服に血がついたらですし。歩ける?百之助?
花沢少尉殿は特に今異常ないなら、先に行って軍医に見てもらってください。」
「ですがっ…兄様は私のせいで怪我されたのですからほっとけません!」
「花沢少尉。一兵卒に必要以上に構わんでください。こちらが迷惑する。貴方にとっては兄でも、隊では上官と部下です。」
「尾形上等兵は、責任持って手当しますから。」
にっこり宇佐美に微笑まれ、医務室の方を指差されて勇作は手を引く。
「お願いします。先に医務室行ってください。
…出来れば軍医に事前に伝えといてもらえると助かりますがね。」
そう言われてはもう勇作は引くしかなかった。
「…尾形上等兵、上官命令です。必ず後で現状報告を。」
「…はい。」
そうして勇作は先に医務室へ行き、尾形は宇佐美に肩を貸されてゆっくり歩き出す。
何てことだ申し訳ない、情けないと思いながらも、もう一方では喜びを隠しきれない自分がいる。
兄の、顔。
あの腕に抱かれ、あの胸の中見た兄の顔。
やっぱり、兄様はお優しい。
ゆうさく、と呼んでくださった。敬称なしで。
ああ、兄様。
思い出してはあの腕の強さに、あの凛々しい横顔にドキドキした。守ってくださった。この私を。
あの傷を思うとぎゅうっと胸が痛いが、それでも、とても嬉しい自分を隠すことなどできない。嫌われてるのでは、とずっと不安だったのだ。しかし、そんなことはないと確信した。
だが、それとは別で怪我をさせてしまったのは本当に申し訳ない。
あにさま。
消灯前に、会いに行こう。
ちゃんと礼を言って、怪我の状態も確認して。
それから…それから…
『兄に守ってもらって嬉しい、次は私が兄様をお守りします。』
そう言おう。
「俺じゃないよ。」
宇佐美はそう澄ました顔で言う。尾形はそれでも宇佐美を睨み付ける。
「事故だって。こんなとこで殺さないよー、そんな命令出てないし、しかも不確実だし。巻き添え出したら大変じゃん。まあ、…百之助が勇作殿を助けるなんて意外だったけどね。」
そう茶化すようにいう声に、尾形は低く答えた。
「…命令通りに監視してただけだ。利用価値が、あるんだろ?」
「だったら手当も一緒に行けば良かったのに。たらし込むチャンスだったじゃん。あーあ、お前はやっぱり使えないねー。」
バカだねーと宇佐美が言う。
しかし尾形には聞こえていなかった。