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    yushio_gnsn

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    yushio_gnsn

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    2023年の10月のイベントで出したアルカヴェオメガバーズ本の再録です。
    現物が欲しい方は通販に在庫があります。
    https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/cot/circle/2UPA216Q8W7Ld269d687/all/

    Devote myself to you恋慕とは人間味の象徴で、時に美しく、時に醜く、宿した人を狂わせるもの。若き日の自分も例に漏れなかった。この後どうなるかなんて考えず、己を苛む罪悪感すら押しのけて、ありのままの本心を口走ってしまったのだ。柔らかな銀髪を撫で、キスをして、抱きしめながら。

    「僕のぜんぶ、君にあげる。だから……めちゃくちゃにして?」

    古より伝わってきた、男女とはまた異なる人間の性別。身体能力や頭脳に優れるアルファ性、これといった特徴を持たないベータ性、繁殖に特化し男性でも子供を産むことができるオメガ性。
    優秀なリーダーの素質を備え、崇拝されてきたアルファ性に対し、オメガ性は歴史の中で軽蔑の対象となることが多かった。オメガ性の人間は、発情期と呼ばれる特定の期間中、フェロモンによって他者を性的に誘惑してしまう。それが卑しいものだと誤解され、オメガ性は淫乱で、手酷く犯されても仕方ないのだと誤った認識が広がっていた。

    しかしスメールの民、少なくともシティに住む人間はオメガ性も含めて第二性に悩まされることは少ない。第二性を研究し、アルファ、ベータ、オメガと分類したのは他でもない教令院である。
    生論派の研究によって、第二性の認識はがらりと改められた。オメガ性のフェロモンや発情期は生理的なもので本人にはコントロールできないことが解明されたし、それを抑制するための薬も開発された。また、優秀だと褒めそやされてきたアルファ性の実力はオメガ性とパートナーになることでより強く発揮されることもわかった。婚姻ともまた異なるアルファ性とオメガ性の関係性は番とよばれ、アルファ性の人間がオメガ性の項を咬むことで成立する。

    このような知識は一般市民にも広く共有されており、アルファ性であるというだけで威張り散らしたり、オメガ性を軽視する発言をしようものなら、軽蔑と嘲笑の対象になる。学術の国であるスメールだからこそ、正理を伴わない暴論や迷信は自然と淘汰されるものだ。

    さて、カーヴェという人間がアルファ性であるとわかったのは学院の定期健診である。第二性への分化は第二次成長期と重なることが多く、対象の年齢の学生は月に一度という高頻度で検診が行われる。

    分化したばかりの人間は体調が不安定になりがちで、アルファ性はフェロモンに敏感になり性衝動をうまく抑えられない。オメガ性は突然発情期が始まって性的暴行を受ける危険がある。こまめな検診は、悲しい事故を防ぐための予防措置であった。
    カーヴェはアルファ性の父とオメガ性の母を持っていたので、自分の第二性がそのどちらかであることは生まれたときからわかっていた。
    そして自分がアルファ性であると判明してからも、特段気にすることはなく、いたって普通の学生生活を送っていた。

    それはいつも通り、ラザンガーデンの隅でスケッチブックに鉛筆を走らせていたときのこと。本を小脇に抱えて隣に座った後輩は、何の脈絡もなく切り出した。

    「……先輩は、アルファなんですか」
    「うん? そうだけど……」

    聡明で生意気で、それでいてどうしようもなく可愛い後輩―アルハイゼンに問いかけられて、久しぶりに自分がアルファ性であることを思い出した。なぜいきなり、らしくもないデリケートな話題を……と言いかけて、彼が本と一緒に持っている書類を見て何があったのかを察する。ビマリスタンの印がついたそれは、定期健診の結果が書かれているものだ。

    「もしかして、君、検査で」

    表情を変えないまま、彼はこくりと頷いた。続けて「アルファでした」と短く結論を述べる。二人の間に数秒の沈黙が流れる。

    「そうか、君も……」

    教令院には第二性に関係なく優秀な者が多く、アルファ性の学生が優秀なオメガ性に議論で負ける光景など珍しくもない。自分の性別を気にする暇があったら研究成果をあげろというのが教令院の風潮だし、第二性が研究の評価に影響するのは良くないとも思う。とはいえ、アルハイゼンがアルファ性だといわれると、しっくりくるものがあった。同級生どころか年上の学生を含めても、彼は抜きん出て優秀だったので。

    「……抑制剤は貰ってきた?」
    「念のため」
    「それがいいよ。理知的な君とはいえ、急にフェロモンにあてられたら最悪の場合ラット状態になってしまうかもしれないからね」

    発情期といえばオメガ性のヒートが有名だが、アルファ性にもラットと呼ばれる特有の発情期があり、それに対応した抑制剤が存在する。簡単に説明すると、自分がパートナーと認識したオメガ性の人間への庇護欲が過剰になり、その他の人間に対し異常に攻撃的になる現象のことだ。
    本来特定のパートナーを持つアルファ性にしか起こらないが、成熟し切っていない若いアルファ性がオメガ性のフェロモンにあてられると、誘発されることもあるという。そうでなくとも、若いアルファ性はフェロモンへの耐性が備わっておらず、体調を崩したり、衝動のまま相手を襲ってしまう危険がある。
    フェロモンによる誘引に抵抗しラット状態を阻止するため、スメールではアルファ性も抑制剤の携帯が推奨されているのだった。

    「もしものときのために、抑制剤は常に持ち歩くんだよ。まあ、君が理性を失うところなんて想像もできないけれど……」

    アルハイゼンはさっきと同じように、静かに首を縦に振った。言葉の通り、アルハイゼンが理性を失うところなど考えられず、何かあっても薬で適切に対処するだろうと本人でもないのに謎の自信があった。よくできた後輩だからと贔屓(ひいき)していたのかもしれない。

    第二性についてはそれっきりで、あとはいつも通りの議論や雑談―キングデシェレト文明とか、新しく提出された論文だとか、期日が迫った課題の話が始まる。アルファ性だのオメガ性だの、本当にどうでもよくて、道端のスイートフラワーよりも取るに足らないことだった。少なくとも、今の自分たちには関係ない。そうやって、頭の片隅からも消してしまった。後に、互いの心に傷跡を残すとも知らずに。

    ***

    瞼の向こうが明るくなるのを感じて、ゆっくりと意識が覚醒する。ステンドグラス越しの緑色は明るく鮮やかで、本日のスメールの空はご機嫌のようだ。きらきらと毛布に落ちる色彩を視認すると、気だるい身体がほんの少しだけマシになったように感じる。

    「(なんか……変な夢見てたな)」

    頭の奥がちらちらと瞬く。眠りが浅かったとき特有のそれと、頭に残る断片的な光景。なんとなく、自分が夢を見ていたのだと察した。

    「(アルハイゼンと喋っていたような気が……だめだ、思い出せない)」

    夢の内容は気になるけれど、このまま寝転がっていたらせっかく開けた瞼が閉じてしまう。シーツをぐしゃりと握りしめ、半ば強引に上体を起こした。

    スメールの民に夢が戻されてからというもの、浅い眠りの際にはたいてい何かしらの夢を見る。それは直近の仕事に関連していたり、過去の記憶の繰り返しだったり、まったく整合性のとれない摩訶不思議な現象の羅列であったりする。結局のところ夢は夢であって、現実に影響を及ぼすことはない。まばたきをしているうちに、さっき思い出したばかりの夢の断片さえも、おぼろげに形を失ってゆく。

    「まあ、いいか……」

    ひとりごちた後、サイドテーブルに手を伸ばし、スリープモードのメラックを起動した。その隣に放ってある封筒……ビマリスタンの印がついた診断書から反射的に目を逸らす。
    ああ、せっかく忘れていたのに。せめて引き出しの中にでもしまっておけば、もう少しだけ長く現実逃避ができたかもしれない。酒でも吹き飛ばせなかった悩みの種はテーブルの上に無慈悲に鎮座していた。

    おおよその人間よりは良く回る頭で考えても、これについての解決策はまったく見いだせない。どうしてこんなことになったのか、この先どうすればいいのか、頭の中の解答欄は白紙である。

    「(今は今日のプレゼンのことだけ考えよう。モラがなくっちゃ、なにも始まらないんだから……!)」

    時間はまだあるのだと言い聞かせ、昨晩調整したばかりの図面を引っ張り出した。問題の先延ばしであることに間違いはないが、建築デザイナーとしての仕事は疎かにできない。今回の案件はかなり大きく、完遂すればまとまったモラが手に入る。
    時間はモラで買えない。解決策の見えない問題に頭を痛め続けるより、気付のコーヒーでも飲んで図面の最終チェックをする方が建設的だ。

    「メラック、ここの立体図面を出してくれるかい?」

    ピポ、とテンポよく返事をする相棒に少しだけ元気づけられた。



    奇妙な体調不良を覚えたのは一ヶ月ほど前、ちょうど学院祭が終わったころだ。
    サーチェンの遺産を寄付する手続きが終わり、父の過去に関しても一応は心の整理をつけて、アルハイゼンとの関係もなんとなく落としどころが見つかったような、そうでもないような……とにかく、やっと仕事に専念できると思っていた矢先のこと。風邪の引き始めのような怠さが続き、時おり頭がふわふわするようになった。計ってみても熱はなく、咳や鼻水といった病気らしい症状もない。たまにぼんやりしてしまうくらいで、これといって不快感は無かった。

    気にせず過ごそうとも思ったけれど、本格的に体調を崩そうものなら同居人であり家主であるアルハイゼンからまた小言を言われてしまう。体調管理の落ち度を指摘されれば反論はできないわけで、後輩に生活指導をされるなど絶対に御免である。そう思って、これ以上体調が悪化しないよう、大人しく酒を我慢した。食事は栄養バランスを考慮したメニューを三食きっちり食べ、睡眠時間も規則正しく。ここ数年でいちばん健康的な生活を送ったんじゃないかと思うくらいの対策を試みた。しかし、症状は一向に改善しない。

    ティナリに相談して、滋養強壮に効く食品や特製の栄養剤を試してみたが、これもだめ。それどころか、ぼーっとする時間は長くなり、倦怠感に苛まれるようになった。こうも改善の兆しがみられないとなれば、重大な病気の前兆かもしれない。働けなくなる危機を覚えたため、仕事の合間をぬってビマリスタンに精密検査を受けに行った。
    検査結果に書かれていた内容は、余命宣告よりも受け入れがたいものだったのだが。

    ――第二性検査結果:オメガ

    これが奇妙な体調不良の原因であり、現在カーヴェの頭を悩ます残酷な事実であった。医師曰く、気怠さの原因はごくごく弱い発情期のようなものなのだと。
    ありえない、と首を横に振ったが、第二性の転化はごく少数ではあるが、確かに確認されている現象なのだそうだ。数年前に生論派の研究グループが論文を出しており、内容はアーカーシャにも登録されていた。卒論に追われた学生が出す付け焼刃のめちゃくちゃなレポートならまだしも、アーカーシャに登録されている研究となれば内容を否定することは非常に難しい。

    論文には、アルファ性からオメガ性への転化を誘発するものとして、ビッチングという特殊な行為が記載されていた。アルファ性の者が同じアルファ性の人間を完全に屈伏させ、項を咬むことで成立するのだが、屈伏させるというのは即ち性的な意味を含む。言葉を選ばずに言うのなら、相手を強姦してアルファ性としてのプライドを完全に砕き、強制的にオメガ性に堕とすということ。強制的に番にさせられたアルファはフェロモンを発するようになり、無かったはずの子宮が発達して最終的に完全なオメガと化す。

    聞いただけで鳥肌が立つ恐ろしい行為ではあるが、この現象はどう考えても自分には当てはまらない。なぜなら恋人もセックスフレンドもおらず、強姦どころか性的接触そのものと縁遠かったのだから。
    酒場で眠りこけている間に何かがあった可能性はゼロではないにしろ、仮に強姦されたとして記憶も相手の痕跡も皆無というのは考えにくい。酒場へ迎えにきたアルハイゼンから飲酒量を指摘されることはあっても、貞操に苦言を呈されたことは一度もなかった。

    結局、身体がオメガ化した原因は謎のままであり、担当した医師もお手上げ状態。おまけに転化中の肉体はアルファ性とオメガ性両方の性質を持っており、抑制剤が効きにくいのだそうだ。万が一にも、本格的なヒートを起こしてしまったら、薬で対処することが難しい。

    運が良いとはいえない人生を過ごしてきたし、過去の自分に色々と思うことはある。けれど、流石にこの仕打ちはないと思った。何度検査をしても結果は変わらず、三度目の検査の帰り道、迷わずお悩み吹っ飛びセット(酒)を購入した。そのくせスメールいちの建築デザイナーとしての矜持が仕事を投げ出すことを許さず、二日酔いに顔をしかめながら図面を引き、クライアントと打ち合わせをして、それが終わればまた酒を飲むの繰り返しで今朝に至る。事情を知らないアルハイゼンからは呆れの視線を向けられまくったが、事情が事情なので説明できるはずもなく。



    「……メラック、おつかれさま」

    カフェでの打ち合わせを終わらせると、疲労感と開放感が同時に押し寄せる。夕日に照らされた石畳を歩く脚は軽くもあり、重くもあった。

    「今月の案件は今ので最後だ。うん……よくがんばったよな」
    「ピポ!」

    メラックを見ると、内蔵された電子板が笑顔の表情を作っている。機械に慰めを求めてはいないけれど、軽快な機械音はやけに心地よく胸に響いた。
    今月は依頼が数多く舞い込み、しかも提出した図面は殆どリテイクなしでクライアントに受け入れられている。素人に専門用語で説明するよりは、メラックを用いて立体図面を見せた方が早い。プレゼン方法を改善した成果は確実に出ていた。

    「次もこの調子で……ああ待った、新しい依頼を受ける前に、メンテナンスが必要だな」
    「……ピ?」
    「明日はパーツを探しに行こう」

    口がきけないとはいえ、大切な仕事道具であるから、愛着も湧く。小さな光(メラック)とはぴったりの名付けだったなと過去の自分に拍手を送った。

    「(これで仕事はしばらく安泰なんだけど……)」

    今日の案件を含めれば、二ヶ月は返済が滞らずに済みそうである。今日は選り好みして、モンドの暁ワイナリーのワインを買ってもいいくらいだ。特大の不幸に見舞われている中、せめてもの救い。しかしながら、仕事の件が片付いてしまえば、先延ばしにしていた別の問題に向き合わねばならない。

    自宅の意識が芽生えはじめた後輩の家の前、ポケットからキーホルダー付きの金色の鍵をとり出す。人の気配がないことを認識しつつも、習慣として馴染んでしまった帰宅の挨拶が口から零れる。

    「ただいま……あぁ、また知らない本が」

    リビングの様子からして、アルハイゼンは一度自宅に戻ってきて、その後また出かけたとみえる。時間からして、夕飯を買いに行ったのだろう。
    テーブルの上には、見知らぬ荷物と共に本の山が形成されており一部はカウチの上も侵蝕している。あれほど片付けろと言ったのに、整頓するどころかまた増やすとは。ほとほと呆れてしまったが、今は指摘する相手もいなければ、文句を言う気力もない。積み上がっている荷物を放置して、大人しく自分の寝室へ向かった。扉を開けて部屋を見渡せば、ベッド脇のテーブルには診断書の入った封筒がそのまま置かれている。

    「(見られてるわけない、よな?)」

    自分の迂闊(うかつ)さに頭を抱える。封がされているとはいえ、出しっぱなしにしていたら見つけた家主がうっかり開けてしまうかもしれない。そんなところにも気が回らないくらい、余裕がなくなっている。
    メラックをいつもの位置に戻してから、乱れたシーツと毛布を直すことも無く、寝台に身体を横たえる。仕事が終わって気が抜けたのか、それとも目の前に置かれている診断書を見て意識してしまったのか。頭がふわふわして、身体を熱と気怠さが支配する。

    「(また変に熱いし、モヤモヤする……本当に、どうしちゃったんだよ、僕の身体は)」

    顔にかかった前髪を払うことすら億劫で、そのまま目を閉じる。医師からは、本格的な発情期が来るのはしばらく先だが、近くにアルファ性の人間がいると影響を受けかねない、と告げられている。
    家主であるアルハイゼンはアルファ性と確定しているのだから、一刻も早く距離を置かなければならない。彼が近くにいるせいで想定より早くヒートが来て、それにあてられたアルハイゼンが理性を失い……なんて、最悪の状況もありうる。

    「(離れるべき、なんだろうけど……)」

    何度考えても、思考はいつもここでストップしてしまう。いけすかない後輩の家。借金というやむを得ない事情によって転がり着いた想定外の共同生活。学院祭の前までは、一刻も早く出ていきたいと思ったことが何度もある。

    「(本当に、そう思ってたのに)」

    今は違う。違ってしまう。出ていく、という最善の選択肢をずっと保留にするくらいには、拗れて途切れたアルハイゼンとの縁を結び直そうとする何かが、胸の内で燻ぶっていた。

    「なんで、せっかく……ああ、もう……」

    正しいか、間違いか、それはもう話の核心じゃない。アルハイゼンは、そんなふうに言っていた。議論なのか口論なのかわからない言い争いは、結局のところ白黒つかなくてもいいらしい。
    それでいて互いの主張を辞める気はなくて、彼の主張は相変わらず受け入れがたいもの。この上なく腹立たしい。なのに、なぜだか息がしやすい。話すのは嫌いなのに、彼のことは嫌いじゃない。転がり着いた仮宿は、思いのほか居心地がよかった。

    「(今の生活も、悪くないなって思えたのに)」

    ようやく気づいたタイミングで、己の抱えたオメガ性によって彼との離別を強いられている。

    「(ああ、嫌だ……嫌なんだよ)」

    第二性によって人間関係が崩れる者は少なからずいて、相談を受けたことも多かった。アルファ同士で結ばれないことを嘆く者。アルファとオメガであったがゆえに友情を友情のままにできず関係が壊れた者。アルファ性とオメガ性の絆を前に、土俵に上がることすらできなかったベータ性の苦しみ。
    それらの苦悩を、葛藤を、言葉の意味を、今なら真に理解することができた。

    「……バースなんて無ければよかったのにな」

    生まれてはじめて、人間の身に宿る第二性というものを酷く恨んだ。

     カーヴェの傍にいるアルファ性の人間はアルハイゼンだけだった。いやいや、同級生にも先生にも居ただろう、と当たり前の指摘をされるかもしれない。そういうことではなくて、意識せざるを得ない人間が彼しかいなかった、という意味だ。そのくらい、本来の自分は第二性というものに興味関心が薄くて、アルハイゼンがとりわけ特別だった。

    第二性に限らず、ありとあらゆることにおいて彼だけが特別だったと気づいたのは、自ら破り捨てた論文をつなぎ合わせている最中だったのだけれど。

    転機は唐突に訪れた。勉学に励む日々の中、なんでもないと思っていた第二性を強く意識させられる出来事が。
    課題を提出して研究室へ向かう途中、ごく薄いがオメガ性のフェロモンを感じて顔をしかめる。通り過ぎる学生たちの会話の内容を拾えば、生徒が一人突然ヒートを起こして倒れた、と。
    その瞬間、なぜだか胸騒ぎがして、いつもより早い時間に研究室のドアを開けた。

    「……アルハイゼン?」

    呼びかけても返事はない。けれど、床にばら撒かれた錠剤と崩れた資料の山を見て、何があったかすぐに理解できた。

    「か、べ……せんぱい……?」

    微かな声を辿れば、研究室の片隅で、自分の手の甲に爪を立てながら震えているアルハイゼンがいた。彼を見つけたのが自分で本当に良かったと思う。

    「せんぱい、おれ……は……」

    彼の拳は、手のひらに爪が食い込むくらい固く握られていた。

    「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」

    そっと拳に手を添える。彼が大きく息を吸ったかと思えば、そのまま背中に腕を回してきた。

    「匂い、嗅いだら……あたまが……いっぱいになって、変な気分が……薬飲んだのに、効かなくて」
    「はじめてフェロモンにあてられて身体がびっくりしたんだろう。誰も傷つけないように、ひとりでここまで来たんだね?」

    うん、というか細い返事と、彼が鼻をすする音は同時だった。しなだれかかった彼の頬から一筋の涙が零れ、制服を濡らす。アルハイゼンなら何があっても大丈夫と思っていたけれど、実際は真逆だった。理知的であるからこそ、理性が遠のく感覚は耐えがたく、恐ろしかったのだろう。

    「偉いね、こんなに不安定な状態だったのに、君は理性を手放さなかった。安心して、君は立派な人間だよ。けだものなんかじゃない」

    大丈夫だよ、と繰り返すと、縋りつく腕の力が強くなった。同時に、身体の奥底から未知の悦びが湧き上がるのを感じた。さっき嗅いだフェロモンの影響はもう消えているはずなのに、きゅうっと胸が疼いている。アルハイゼンに頼られている事実。そこから生まれた感情は〝嬉しい〟を通り越した先のところにあって、何と呼べばいいのか言葉が見つからなかった。
     それを恋だと自覚しなければ、二人の傷はもう少し浅く済んだのかもしれない。

    ***

    「ふぁあ……っ⁉ くそ……僕、また眠って……」

    ふと目が覚めると、目の前には読みかけの書籍が中途半端に開かれた状態で転がっている。昼食後に資料を読んでいたらまた頭がぼんやりしてきて、そのままうたた寝をしてしまったようだ。また何か……昔の夢を見ていた気がするが、もう思い出せない。

    オメガ性への転化について、対策が何の進展もないまま二週間が経った。相変わらずときどき頭がぼんやりするし、最近は倦怠感を覚える頻度が上がっている。ゆっくりではあるが、確実に転化が進んでいるのだろう。第二性の転化に関する書籍や論文を漁ってみたが、ビッチング以外では仮説すら皆無であり、原因すらもわからないままだった。

    「……ご飯、作ろう」

    昼寝で時間を浪費した気がして若干の罪悪感に苛まれつつも、やるべきことを確認して気持ちを切り替える。椅子から身体を起こし、大きく伸びをした。家主が帰ってくる前に夕飯の準備をしなければならない。欠伸を嚙み殺しながらキッチンへ向かうと、時刻は午後五時を過ぎたところだった。本当ならバザールに買物に行って食材を仕入れる予定だったが、今からではもう遅い。少なくなってきたコーヒー豆を買い足そうと思っていたのに、また機会を逃した。

    「(家にある食材で作れるのはカレーかビリヤニ……玉ねぎを切ってから考えようかな)」

    無心で具材に包丁を入れていると、少しずつ思考がクリアになっていく。現在の自分にとって、アルハイゼンのために食事を作る、というルーチンワークは救いであった。〝しなければならない〟という何かに駆られないと、頭が雲を踏むような心地のまま、帰ってこない。

    「(はぁ、結局今日も寝てばっかりだった。最近ずっと家に籠りっきりだな……くそ、なんにもできてないじゃないか!)」

    切り終えた具材を炒める頃には、考え事をする余裕が生まれていた。正気に戻ってしまえば、じわじわと焦燥感が湧き上がってきて、理性が現状に苦言を呈する。本当に、なんにもできていない。実を言うと、二週間前にとりかかったメラックのメンテナンスですら中途半端な状態で止まっている。

    内部のパーツを新しいものにしようと思い、機械に詳しい同期に問い合わせをしたところで返答が返ってこないのだ。彼のもとを訪ね、パーツの件はどうなったのかと催促をすべきなのだが、家を出て何かするのが酷く億劫だった。

    「(いい加減外に出て身体を動かさないと……以前の僕なら、ちょっとでも時間が出来れば砂漠へ遺跡を見に行っていたのに)」

    外から刺激を受けることは創作においても健康においても大切なこと。家に閉じ籠ってばかりいないでもっと出歩け、と言ったのは他でもないこの口である。だというのに、ここ数日は食材や日用品の買物もアルハイゼンに頼んでいる。
    衣食住を同じくする相手に買い出しを頼むのは別におかしいことではないのだけれど、このままでは身体にカビが生えてしまいそうだ。今日こそは自分の足でバザールに行こうと思っていたのに、昼寝をして寝過ごしてしまった。

    思い返してみれば、最後の外出は第二性に関する資料を探しに知恵の殿堂を訪れたこと……それも三日前の出来事で、寄り道もせず、そそくさと家に戻った。先程読んでいたのは、あのとき借りて来た最後の資料だ。結局、その資料からも有益な情報は得られなかったのだけれど。

    「(明日こそ外に……でも、調子が悪いのに無理に外出するのは逆効果になるんじゃ……むしろ家に居た方が安全か? でも、このまま家に閉じ籠っていたらアルハイゼンの影響をより強く受けることになるよな。彼の傍にいることで、発情期が来るのが早まったりしたら……)」

    ぶんぶんと首を横に振る。最悪のパターンばかり想定するのはいたずらに不安を高め、思考を鈍らすだけだ。鍋をかき混ぜ、一呼吸入れてから、今置かれている状況を整理した。
    アルファ性からオメガ性への転化はありうる現象で、確実な例としてビッチングと呼ばれる暴力的な行為によって成立することがわかっている。

    しかしビッチングの成立条件……性的に屈伏させられてプライドを折られる、といった行為はまったく身に覚えがないし、相手がいない。何かあったとすれば酒場で酔っているうちに良くないことをされたかだが、これもかなり可能性が低かった。

    「(あとは……アルハイゼンか?)」

    現状、傍にいるアルファ性の人間といえばルームメイトであるアルハイゼンしかいないわけで。可能性だけで考えれば、彼に何かされたというのが一番ありうるのではないか。彼なら寝込みを襲うこともできるし、無理矢理酒を飲ませてこちらの記憶を消せば、完全犯罪は成立してしまう。やろうと思えば国をも変えてしまえる男だから、同居人ひとりをどうこうするなど、容易いのでは?

    「……それはないだろ」

    思い至っておいて、己の導き出した荒唐無稽な推論を鼻で笑った。いくらなんでもそれはない。

    「(だいたい、アルハイゼンが僕のことを求めてくるなんて――)」

    そのとき、ぶわ、と記憶がフラッシュバックした。ラザンガーデンの片隅、研究室、本棚の陰、誰も居ない廊下、静かな寝室。目を潤ませ、息を荒げ、必死に縋ってくる後輩の姿。胸の奥底にしまい込んだ、苦くて甘い記憶だ。在りし日の彼が、アルハイゼンが「せんぱい」と切なそうに呼びかけてくる。

    身体を捧げることに抵抗はなかった。彼と触れ合っているとき、絶えずこの身に纏わりついていた後ろめたい感情はぼやけていく。まろやかな頬を撫で、しっとりと濡れた髪を梳く。両手を広げて「いいよ」と微笑みを返して――

    「焦げるぞ」

    記憶とは全く異なる大人の男の声が、カーヴェを現実に引き戻した。同時に、じゅう、と鍋の中身が音を立て、くすんだ香りを漂わせる。

    「ぇあ……⁉ あ、あるはいぜん⁉」
    「ただいま」

    ぬ、と背後から湧いて出たルームメイト……アルハイゼンは帰宅の挨拶と共に鍋の底を覗き込む。

    「俺に構うより先に、火を止めて水を足すといい。鍋底の焦げを取る作業で腕の筋肉を鍛えたいのであれば、口は出さないでおこう」
    「もう出してるだろ!」

     相変わらず一言も二言も余計だ。「君ってやつは」といつもの言葉が出ると同時に、凝り固まっていた身体と心が弛緩する。

    「(はぁ、変なこと思い出しちゃったな。僕は何をやってるんだか……)」

    何もかもままならない中、アルハイゼンとの〝いつも通り〟が繰り広げられている間は自分を取り戻せている気がして、酷く安心してしまう。

    「……汁気が多いと嫌がる誰かさんのために、ぎりぎりまで水分を飛ばしてあげてたんだよ!」

     なんて、強がりを言えるくらいには、いつもの自分に戻ることができた。

    「盛り付けは君も手伝え。ほら、早く手を洗って!」

     無言で洗面所へ向かうアルハイゼンの背中を見て、ほっと息をついた。そして、先程思い浮かんだ不埒な考えを頭から追い出す。

    「(あれは過去だ、馬鹿なことを考えるんじゃない)」

    昔の彼を知っているからこそ、今は違うと言い切れる。アルハイゼンはもう立派な大人で、本能をきちんとコントロールできるアルファだ。ルームメイトに手を出すような真似はしないし、もう必要がない。本当に、くだらない妄想をしてしまった。

    「コーヒーを買い足すと言っていたが、バザールに行かなかったのか?」
    「え、ああ……」

     洗面所から戻って来たアルハイゼンに問われて、緩みかけていた身体がぎくりと固くなる。買物に行きそびれたとはいえ、今すぐ買い足さなくてはならない物品はない。怒られる要素はないはずなのに、妙な緊張が走って、カレーの皿を持つ手にじわりと汗が滲む。

    「……作業に集中してたら行きそびれて」

     訝しまれるか、それともちくちくした言葉が飛んで来るか。身構えていたが、彼は「そうか」と一言返してそれきりだった。ほっとして視線を外したとたん、足音が近づいてきて、間近に気配を感じる。何、と問いかける前に、真後ろからテノールが響く。

    「香水を変えたか?」

     近い。反射的にそう感じた。詰め寄られている気がして、でも、彼ににじり寄られる理由なんて思い浮かばなくて、二人の距離がルームメイトとしての〝いつも通り〟なのか、判別がつかない。

    「……っ、か、かえてない」

     ごくりと唾を飲み込んだのち、うわずりそうになるのを堪えながら、吐き出した返事はあまりにもぎこちない。彼はまた「そうか」とそっけない返事をする。アルハイゼンのおかげで落ち着けたのに、彼のせいでまた思考が乱れ、頭に熱が籠る。

    「今日はずっと家に居たから、つけてないよ……」

    心臓がばくばくして、思考力がじりじり焼かれていった。彼の声が……空気を介して伝わる振動が項にかかったとき、ぞくりと全身が粟立つ。

    「(こんなのなんでもない、なんでもないったら!)」

    言い聞かせても鼓動は速くなるばかりで、冷静な思考はどんどん失われて行く。オメガ性になりかかっているからか、それとも彼をアルファだと強く認識して変な暗示がかかったのか。うっかり、項を覆い隠そうと、左手が動いた。

    「別に、臭いと言いたいわけじゃない。香りが違ったから、単純に気になっただけだよ」

    ほんのりと呆れの混じった口調。あまりに挙動不審だったのか、他人に興味を示すことのない個人主義の塊からフォローのような台詞が飛んできた。

    「あっ、う……ぁあ、でも……昨日君のシャンプーつかっちゃったから……そのせいかも」
    「…………」
    「はは……昨日は酔ってなかったんだけどな! 僕としたことが、大きな仕事が終わって気が抜けていたかもしれない」

    気を遣われたことへの戸惑いと羞恥。ごまかしたいという焦り。貼り付けた笑顔の奥で、お願いだから何も聞くなと懇願する。胸の内で陣取り合戦をしているばらばらの感情は正常な判断を鈍らせて、しどろもどろに余計なことばかりを口走った。
    アルハイゼンは何か言いたげな様子だったが、それ以上の言葉はなく、黙ってカレーの盛り付けを始める。

    「(変に思われたか? いや、シャンプー使ったくらいじゃなんともない……よな? あいつもたまに僕のと間違えてたし!)」

     心の中でそれらしい理由をこねる。これもまた最近追加された新しい症状なのだが、どうやら香りの好みや体質が変化しているらしい。今まで自分が使っていたシャンプーや石鹸より、アルハイゼンが常用しているもののほうが肌に馴染むというか、しっくりくる。

    「(でもこれじゃ、まるで……)」

    オメガ性とアルファ性はそれぞれ異なる感覚を持つと言われているので、きっと知覚にも影響が及んだのだろう。そういうことにしておいてほしい。たまたま気にいったのが彼が使っていたものだっただけ。
    アルハイゼンの香りが落ち着くとか、恋しいとか、そういうのではなく。

    窓を叩く雨音が静かな部屋に響く。カリカリと紙の上を滑るペンの音に、持ち込んだ置き時計の秒針が混ざる。耳ざわりのよい環境音は、雑念を排する手助けをしてくれた。室内は晴天の日に比べるとどこか仄暗く、それでいて特有のしっとりとした穏やかさがある。雨の日は頭が痛くなることも多いのだけれど、今日は珍しく鎮痛剤の世話になっていない。

    雨音は時折強くなり、また弱くなるの繰り返し。昼過ぎから、スコールのような勢いと普通の雨の中間のような状態がずっと続いている。コーヒーカップに手を伸ばすとき、外を歩く人は傘を持っていてもたいへん苦労するだろうな、などと家の中の快適さをしみじみ実感していた。

    「メラック、ここの数値」

    隣で待機している相棒の工具箱に一声かければ、電子音の後にすぐに求めていた数字を表示してくれる。導き出された数値を紙の端に書き留め、一度ペンを置いた。

    「……今日はここまでにしよう」

    作業開始前に用意したコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。この部屋で仕事を始めて三時間が経っただろうか。新しく依頼された図書館の設計図面は、きわめて順調に進んでいる。いつもの癖でコーヒーを飲んではいるが、カフェインに頼らずとも頭は冴えるし、体調も良好。一ヶ月前から苛まれていた熱っぽさや気怠さも皆無だ。ずっとこの調子が続けばいいな、と願わずにはいられない。しかし問題は解決したようで、実のところ何ひとつ解決していない。

    「……ふう」

    息をついたのと同時に、頭の上からぱさりとタオルが落ちる。まだ少しだけ濡れているそれは、今朝アルハイゼンが顔を洗うのに使用したものだ。タオルを首にかけ直し、腰を上げる。木綿の布地から漂う彼の匂いを感じると、どうしようもない安堵感に全身が包まれた。

    「(帰ってくる前に片付けなきゃな……)」

    たとえこのまま作業を続行しても、集中力は切れないだろう。今日のうちに図面を完成させられる気すらしている。どうしてこんなにも調子がいいかといえば、ここが仕事用の書斎ではなくアルハイゼンの寝室で、彼の衣服に囲まれながら作業をしているからだった。

    彼の香りが落ち着くとか、恋しいとか、そういうものじゃない……なんて、苦しい言い訳を言っていられたのはたかが数日。気づけば脱衣所で彼のシャツを抱きしめていた。そして、彼の香りを感じているとき、身体にまとわりついていた倦怠感が嘘のように消え失せるのを実感した。

    アルファ性の香りに身体が反応し、求めている。皮肉にも、アルハイゼンの香りをたっぷりと吸った後の頭は妙に冴えていて、明晰な頭脳は現実逃避を許せなかった。この身体は確実にオメガ性に近づいている。
    それでも絶望に打ちひしがれている暇などなく、降りかかる不幸を己の力で打破してきたこともあって、立ち直るのもめっぽう早かった。

    「メラック、家具の配置を出してくれ」

     メラックが表示した通りに家具の位置を戻し、散らばっていた服を回収する。これらの衣服は脱衣所に残されていたもので、部屋の中の服には手を付けていない。衣服を洗濯機に突っ込み、部屋に戻って作業道具を片付ければ、寝室はアルハイゼンが出た時のままの姿を取り戻す。メラックの機能をこんなことに使うのは気が引けたけれど、背に腹は代えられない。

    「(……よし、今日も何とかなった)」

    アルファ性の香りで体調が安定するのであれば、利用してしまえばいい。思い至ってからの行動は早かった。昼間、アルハイゼンの寝室で作業をして、帰宅する前に証拠を隠滅する。この作戦を実行してから、何をしても改善しなかった倦怠感や熱っぽさは綺麗になくなり、面白いくらい作業は捗った。
    オメガ性への転化が日々進んでいるわけだが、いっそ完全なオメガ性になってしまえば、抑制剤をはじめとする様々な薬が効くようになる。

    教令院に勤める者や学者の中には、オメガ性であっても強力な抑制剤を用いて発情期中も仕事をしている者がいた。自分もそうなってしまえばいい。最初の不安定な発情期が来そうになったら、森の中か砂漠にでも小屋を建てて引きこもる。薬の効きにくい期間さえ耐え抜けば、こちらのものだ。

    「(薬で完全に体調をコントロールできるようになったら、今の生活を続けられる。そのときはいっそ、アルハイゼンに第二性のことを打ち明けても……いや、やめておこう)」

    コーヒーカップを片付けながら、ひとり首を横に振った。過ぎた期待をすれば、うっかり胸の内で疼く感情が溢れてしまうかもしれない。今のまま、程よい距離で寄り添うのがいちばんいいと思った。一度関係が壊れた者同士、これ以上を望むのは欲張りで、自分には資格がない。

    「あ、雨が……」

    ふと気づけば、雨音が遠くなり、外から明るい光が差している。窓を開ければ、雲の隙間から青空が覗いていた。窓枠から滴った雨粒の名残が袖を濡らすが、通り沿いの石畳はもう乾き始めている。これなら雨靴を引っ張り出す必要はない。

    「(せっかくだからバザールに……今日はアルハイゼンの好きなものでも作ろうか)」

    オメガ性になってしまったとか、出ていきたいと言っておいて、いまさら離れがたいとか口が裂けても言えやしない。それでも、同居人に何も告げず一方的に利用する状況は後ろ暗く、気づかれないように尽くして罪滅ぼしをしたくなるのは当然の流れだった。

    ――この人を、自分だけのものにしたい。
    身体が熱に侵されていなかったとしても、きっと心は変わらなかった。彼のことが好きだったから。

    「せんぱい」 

    甘くて苦い夢を見ている。切なく彼を呼ぶ少年の声が、自分のものだと気がついた。
    見覚えのある光景は紛れもなく過去の記憶。夢だという自覚がありながら、頭と身体は繋がっていない。夢というより、ただ昔の出来事を見せられているような感覚だ。そのくせ、酷く生々しい。早く覚めてしまえと念じても、目の前の光景は変わらない。

    「いいよ、おいで」

    自分よりまだ少しだけ背の高かった彼……カーヴェは惜しみなく両腕を広げ、免罪の言葉を口にした。縋らなければいけない自分に吐き気がする。善意に甘え、浅ましく彼を消費する一人に成り下がる事実に反吐が出る。それでも熱に浮かされた身体は、言葉が終わる前に、彼の身体に覆い被さっていた。

    狂ったように脈打つ心臓の音、飢えた獣のように荒い吐息。それら全てが自分のものであることが耐えがたく、屈辱だった。そんな感情を見透かしているかのように、彼の両腕はしっかりとこちらの身体を抱き締め返し、右の手で優しく頭を撫でてくる。

    「大丈夫だよ。僕はアルファだから、何も気にしなくていいんだ。全部君の好きにして……いくらでも咬んでいい」

    ――違う。

    過去と現在の自分が、全く同じ答えを頭の中で導き出す。それを口にできないのもまた同じで、終わらない悪夢の中もがくことすら叶わなかった。

    ***
     
    出来の悪い映画の雑な場面切り替えのように、唐突に景色が入れかわった。ここが自宅の書斎であることを認識するまでに三秒弱。目覚めた直後特有の酩酊感が引いて行くのを感じながら、深く息をついた。

    「(……また、面倒な夢を見たな)」

    仮眠で逆に疲弊するなどいつ以来だろうか。なぜ急に学生時代の記憶が……と思うのと同時に心当たりが頭を過り、もう一度ため息をついた。

    初恋は叶わないものだといわれる。
    それはアルハイゼンという人間の人生においては半分当てはまって、半分当てはまらない。自分にとって〝恋〟と定義できる感情を持った人物は後にも先にもカーヴェのみだった。たった一人しかいないから、本当に恋で合っているのか確かめるにはサンプルが足りない。それでも学生時代並々ならぬ執着を向けていたのは事実だったし、彼との決別は心に刺さって抜けない棘だ。
    皮肉でも恨みでもなく、純然たる事実として、カーヴェには人生を狂わされている。

    「……先輩、か」

    普段なら泡のように消えてしまう夢が頭の中にこびりついて離れない。
    先程見た夢の内容は、学生の頃……ラット状態に陥った際、欲の発散をする手伝いをしてもらったときの記憶だ。ラットとはアルファ性の発情状態であり、簡単に言えば庇護欲が異常に高まる事で他者への暴力性が増すという現象である。濡れた唇の艶やかさも、こちらを撫でる温かな手のひらの感触も、思い出さないように意識するほど鮮明になる。

    「(俺にはもう、必要ないだろう)」

    言い聞かせても、胸の奥にしまいこんで蓋をしたはずの感情が顔を出しそうになる。どれだけ目を逸らしたって、かつて彼に焦がれ、縋り、救われていた事実は変わることがない。

    アルファ性として目覚めたばかりの頃、オメガ性のフェロモンにあてられて正気を失いかけたことがある。自分が自分でなくなっていく感覚に気が狂いそうで、ただひたすらに怖かった。
    あらかじめ貰っていた抑制剤も効かず、研究室の隅でうずくまっていたところをカーヴェに助けられた。そのときから、彼に向ける感情を友情でくくれなくなった。

    そしてカーヴェもまた、友情や親愛以上のものがあったのだと思う。でなければ、いかに後輩のためとはいえ身体を許したりはしないだろう。リーダー気質のアルファ性であればなおさらに。あれはカーヴェがアルハイゼンという人間に与えた〝特別〟だった。

    口ではお互い処理だと言っていたけれど、あの頃の関係は初々しくも恋人同士のそれだったといえる。身体を重ねれば重ねるほど強く求め合うようになり、処理という理由付けが嫌になった。本能ではなく心で通じ合いたいのに、一度ラット状態に陥ればみっともなく彼に縋る自分が赦せず、抑制剤を一気飲みして倒れたこともある。当然、カーヴェには酷く叱られたが。

    もしもどちらかがオメガ性だったなら、フェロモンにあてられた気の迷いだと言い逃れできたかもしれない。けれど二人は番になることができないアルファ性同士で、そのくせラザンガーデンの隅や研究室のドアに隠れて口づけをした回数は両手でも足りなかった。
    身体を重ねるのでなくともただ一緒に眠り、連れ添って出かけては〝仲良し〟で片付けられないスキンシップをしていた。

    「(……その〝特別〟を壊したのは俺自身だったが)」

    遅かれ早かれ共同研究は続けられなくなっていただろう。互いに自分の意見を曲げる選択肢はなかったのだから。ただ、もう少し伝え方を変えていれば何か違ったかもしれない。
    互いの想いを察しておきながら、結局口にはできなかった。一人の人間として、彼のことを好いていたのに。想いを口に出して、友達以上の関係を……心の底から大切に思っていると伝わっていたのなら、彼の受け取り方は違ったかもしれない。確かなのは、あの日の自分は間違いなく幼く、愚かで、浅慮だったということだ。

    元よりアルファ同士なのだから、結ばれないのはわかっている……なんて言い訳をして、正当化しようとしたこともある。けれど時を経れば経る程、取り返しがつかないことを理解して、棘は胸の内の深いところへ取り込まれていく。

    やり直したいとも思わないが、抜けない棘であることに変わりはない。それでも大人になったので、蓋をして心の奥底に押し留めることができるようになった。だからこそ、酒場で彼と出会ったときに気兼ねなく話ができて、同じ屋根の下で生活できるまでに至ったのだから。

    甘苦い思い出を頭の中でひととおり反芻してから、もう一度深くため息をついた。答えの出ない問題を考え続けるのは時間の浪費である。

    「(……コーヒーでも飲むか)」

    雑念を振り払おうと椅子から立ち上がる。リビングへ出ると、テーブルの上には油紙に包まれたピタと、ドライフルーツが置かれている。カーヴェが出かける前に用意してくれたのだろう。今日は休日だが、彼はクライアントとの打ち合わせついでにメラックのパーツを探しに行くと言っていた。

    「(俺に借りを作ったわけでもないのに……随分とまめだな)」

    油紙を少し捲ってみると、芳ばしい香りと共に解されたスモークチキンが顔を覗かせる。カーヴェは酒で失敗した時や酷い喧嘩をした後、謝罪の言葉と共にこちらの好物を作ることがある。今日はたまたま機嫌がよかったのか、それとも何か別の意図があるのか。そのままピタを齧りながら、キッチンへ向かった。

    「(……またか)」

    キッチンに立ち入ったとき、僅かだが甘い香りが鼻を掠める。くしゃりと丸まったエプロンの横に、飲み終わった空のコーヒーカップが残されている。おそらく、家を出る直前までカーヴェがいたと思われる場所。

    「(軽食を作り終えてコーヒーを飲んでいたら打ち合わせの時間が迫っていると気づき、慌てて出かけた……といったところか?)」

    状況を分析しながらも、胸の内が奇妙なざわめきを覚える。彼自身や彼の触れた物品に近づくと、オメガ性のフェロモンを思わせる甘い香りがするのだ。石鹼やシャンプーを変えたのか、それとも新しい香水を買ったのかとも考えた。

    しかし先日、この香りは人工的なものではなく、彼自身から放たれているのだと確信した。丸まったエプロンを手に取り顔を近づけると、甘い香りはより強くなる。過去の記憶がちらつき、夢にまで出てくるのはこの香りが原因だと推測している。

    第二性を強く認識させる香りが、それが他でもないカーヴェから放たれている事実が、過去の情交の記憶を引きずり出したのだと。

    「(……他のオメガ性の人間と会っているのか?)」

    カーヴェはアルファ性で間違いない。もしもフェロモンがうつったのなら、他のオメガ性の人間と深く関わっている可能性がある。

    「(いや、最近のカーヴェは基本的に家にいる……俺に買物を頼むくらいだ。仕事以外で他所の人間とは関わっていないだろう)」

    近頃の彼はいつにも増して仕事熱心で、たった今咀嚼しているピタからも分かる通り、家事にも精を出している。少し前までは飲酒量が増えたり、ぼーっとしていることも多かったのだが、彼曰く「これはちょっとした燃え尽き症候群だ」とのこと。
    確かに、彼が大きな依頼を何件もこなしていたのは事実だ。カーヴェの言葉は理に適っているものの、なぜか違和感が拭えない。

    無言でピタを喉奥に押し込みながら考えを巡らす。

    「(そもそも、なぜ家にいるんだ? 仕事が行き詰っているならまだしも……いや、仕事が行き詰ったときこそ気分転換とインスピレーションを求めてあちこち出歩く性分だ)」

    家に籠らず外に出て行動しろ、と指摘してくる男だ。その彼が、生活必需品の買物すら他人に頼むというのは、よく考えると異常なのではなかろうか。
    ぼーっとしているようで、急に酒を飲み始め、仕事や家事に精を出すくせに家に籠る。カーヴェという人間を知っているからこそ、いつものせわしなさとは違うものを感じた。ピタを食べ終えた後、読みかけの本を探すがリビングには見当たらない。ベッド脇のテーブルに置きっぱなしだと気がついて、寝室の扉を開けた。そして、違和感は確信へと変わる。

    「……ッ!」

    家具も小物も部屋を出たときと寸分変わらぬ位置に置かれており、見ただけではなにも変わらない。けれどドアを開けた瞬間、キッチンとは比べものにならない甘い香りが漂い、反射的に舌打ちをした。同時に、先程夢に見た光景が頭を過る。

    ――いいよ、おいで。

    両腕を広げた彼が寝台の上に横たわっている。瞼の裏の鮮烈な光景が脳を焼く。身体を支配しようとしているのは紛れもなく彼への劣情だ。

    「(……俺は今、何を考えた?)」

    昔の関係を蒸し返そうとは思わない、絶対に。けれど香りを嗅いでいると煽情的な記憶がフラッシュバックして頭から離れなくなる。それどころか、遠い昔に閉じ込めた感情がまた顔を出しそうになった。

    「(どうしてこの部屋に……掃除に入ったのか? それにしては残り香が強すぎる。彼は長くこの場所に居た。間違いない)」

    窓を開け新鮮な空気を取り込むと、熱を持った身体が少しだけ冷静さを取り戻した。カーヴェはなぜこの部屋にいて、何をしていたのか。

    「(彼がここに来たのは俺が書斎で読書を始め、仮眠をとっている間だ。俺は一度も書斎から出ていない。物音さえ立てなければ、リビングだろうと俺の寝室だろうと、好きに行き来できただろう)」

    寝室にこっそり忍び込むこと自体は難しくないのだが、意図が読めない。
    ストックしてあった酒の瓶は減っていないし、掃除をした形跡もない。匂い以外は全て、着替えて部屋を出た朝のそのままだった。

    「(料理を始めたのは俺が寝た後だな。時間的余裕はあまりない。軽食を作る時間と残り香の強さを考えれば、キッチンに来る直前まで俺の部屋に居たことも考えられるが……余計に不自然だな)」

    ますます「理由がない」の一言に尽きる。クライアントとの打ち合わせ前なら、自分の寝室か書斎で図面のチェックをしているはずだ。掃除をするにしても、互いの部屋に入る前は必ず一声かけるルールである。ただでさえ他人への配慮だの礼儀だの、思いやりに厳しい男だ。本人が提案したルールを無視するとは思えない。

    結局、それらしい仮説すら導き出すことができず、文字通り両手で頭を抱えて寝台に腰かけた。
    木製の寝台は、重さのかかった個所からぎしりと軋む音がする。その音が引き金だった。

    ――僕のこと、めちゃくちゃにして。

    僅かに戻った思考の容量は潰え、理性との接続が断たれる。室内の匂いはもう殆ど消えかかっているのに、じくりとやり場のない熱がこみ上げた。甘い香りの正体は不明だが、間違いなく身体が反応している。

    「(俺の嗅覚が……アルファとしての体質がおかしくなったのか? 仮にカーヴェからオメガ性のフェロモンが放たれていたとしたら、他の人間が指摘するはずだろう)」

    アルファ性の人間からオメガ性のフェロモンの香りがするなんて聞いたことがないし、自分にしかわからないというのも妙だ。幸い、香りの薄まった部屋で不埒な熱は長続きせず、次第に頭が冷えていく。

    「(直接聞こう。また、ろくでもないことに巻き込まれているかもしれない)」

    ここにきて、ようやくそれらしい心当たりが頭を過る。変な薬を飲まされるとか、妙な秘境で呪いもしくは地脈異常をその身に受けたとか。あれは一般人からは想像もできない面倒事に巻き込まれるたちなのだ。

    「(本当に何もないというのなら、俺がビマリスタンを受診すればいい)」

    寝室から完全に香りが消えたことを確認すると、栞が挟まれた本を手に取り、リビングへと戻った。



    帰り次第話を聞こうと腹を括ったにもかかわらず、夕飯の時間になってもカーヴェは帰ってこなかった。手元の飲み物はコーヒーからハーブティーに変わり、窓の外にはぼんやりと、外灯の光が揺らめいている。
    彼が一杯ひっかけるつもりで、いつのまにか酒場の床と友達になるのは珍しくない。それでも「遅い」「まだか」と苛立つ言葉が浮かんでは消える。時計をちらちらと横目で見て、手元の書籍に視線を戻す。数時間前に読み始めた本であるのに、栞を挟んでいた場所から数ページしか進んでいない。

    「……遅い」

     ついに頭の中の言葉が形を成して零れ落ちた。同時に「いつものことだろう」と理性が苦言を呈す。酒でなくとも、捨て猫を見つけたとか、困っている老人を放っておけなかったとか、遅くなる理由はいくらでもある。今の自分はカーヴェのことを気にしすぎて、勝手に焦れている。正理のない苛つきや不安を覚えるのは愚かだと認識できるのに、一度考え始めてしまうと、わかっていてもとめられない。

    「(万が一、あの香りが、他のアルファにも感知されたとしたら……)」

     どこかで襲われていないか、なんて馬鹿げたことが頭に浮かんだ。体調不良を装った輩に路地裏に連れ込まれて、もしくは飲み物に睡眠薬を盛られて。シティは夜も明るいけれど、酒場の裏や民家の隙間は死角があるし、トレジャーストリート方面ならすぐに人気のない場所へ引きずっていける。

    「(ありえなくもない……むしろ、普段あれだけ泥酔しておいて、何も起きなかった方がおかしいんじゃないか? 優秀な子供を作ることを狙ってオメガ性がアルファ性を襲った事件もあったな。確か、マハマトラが注意喚起を……)」

     そこまで考えたとき、理性が「いい加減にしろ」と口を挟んだ。見計らったかのように、くう、と腹が鳴る。カーヴェを待っていたせいで、昼のピタとドライフルーツ以降、何も口にしていない。疲労は判断を鈍らせ、空腹はネガティブな感情を触発すると論文にも書かれている。

    「本当に……疲れていると、物事を理由もなく悪い方向に考えるものだな」

     仮眠で疲弊し、夕飯を食べ損ねた自分も血の通った人間なのだから、例に漏れなかっただけだ。買い置かれていた夕暮れの実を籠から取り出し、一口齧る。この場にカーヴェが居たのなら、みっともない、切り分けろ、と口を出しただろう。お気に入りの皿とフルーツ用のナイフを取りに行く姿が目に浮かぶ。

    「(……ああ、やはり疲れている)」

     この期に及んで彼を気にしてしまうあたり、思った以上に疲労困憊しているようだ。今の状態で話し合いをしても良い結果は得られないだろう。今日のところは諦めて、大人しく眠ることに決めた。
    本を閉じてカウチから立ち上がったとき、玄関の外から足音が聞こえる。ばらばらと落ち着きのないそれはカーヴェではなく、教令院から酒場へ向かう学生集団のもの。夕飯には遅く寝るには早い、そんな中途半端な時間に風呂を済ませて、寝室へ向かった。

     いつもより早く寝すぎたか、それとも遅くまでコーヒーを飲んでいたからか。ごくごく浅い眠りの中、夢を見ていることを自覚しながら意識は揺蕩う。頭の中で断片的に光景が流れては、自分が寝室で横になっていることを思い出すの繰り返し。時折、寝間着の衣擦れやら、肌に触れる毛布の感触を知覚する。

    夢と呼べるかもわからない、物語の形すら成していない断片的な光景は、最近の記憶を無作為に拾っている。腰掛け鞄の中身、先日届いたばかりの本のタイトル、仕事机に置いてきた書類の内容と処理の手順、買い足さなければならないコーヒー豆の銘柄、カーヴェとカレーの辛味についての言い争い、それから、本を片付けなくて怒られたこと。

    睡眠時間は脳が記憶を整理しているといわれる。やけにカーヴェが出しゃばってくるのは、直前まで彼のことを考えていたからに違いない……と微睡みながらも冷静に結論づけていた。目を閉じたまま何度目かの寝返りをうったとき、ちょうど意識が浮上しかけたタイミングで、足音が耳に届いた。

    「(やっと帰ってきたのか)」

    聞き間違えようがない、カーヴェが床板を踏む規則的な音。彼が酔っぱらっていたら、足音はもっと不規則で、時折何かを倒したりこちらを呼ぶ声が聞こえるものだ。だから今日は珍しく、深酒せずに帰ってきたらしい。ほどなくして、遠くで僅かに水の流れる音がする。風呂に入れるだけの理性も残してきたようだ。

    「(待っておけばよかったか)」

    早く寝すぎるのは、かえって睡眠のリズムを乱すし、結局浅い眠りのままうまく寝付けないでいる。ぼんやり後悔しはじめたとき、また足音がして、彼が自分の寝室へと向かうのが分かった。しかし、廊下を通り過ぎていくはずの足音が部屋の前でぴたりと止まる。続けて、きい、と扉の開く音がした。

    「(……カーヴェ?)」

    用事があるのか、それとも律儀におやすみの挨拶だろうか。ぼうっとしている間に、ぱたぱたと足音はすぐ隣まで近づく。酔っているなら悪戯を警戒しただろうが、足音が比較的まともそうだったので、待ちの姿勢をとってしまった。

    「(何、が…………ッ⁉)」

    仄かな石鹼の匂いの後、噎せ返るような甘い香りが鼻孔を満たす。目を開けていないのに視界が歪み、脳をかき混ぜられるような感覚に陥った。身体が震え、汗が噴き出す。異常事態に全身がありとあらゆる警告を発しているのに、甘美な香りは麻酔のように感覚を鈍らせ、目をあけて行動することを拒ませた。

    ぎしりと寝台が軋む音の後、ぼすん、と隣に人間の身体が横たわる。布越しに伝わる体温を感じれば、突沸したかのように身体の内側から熱がこみ上げた。

    「っ……あ……くっ……!」

    叫びたいのに息ができない。気を抜けば一瞬で正気を持っていかれる、そんな気がした。

    瞼を無理矢理こじ開ければ、明かりの消えた部屋の中、ステンドグラス越しの月明かりが床を照らしていた。視線を横へ向けると、薄い寝間着をまとったカーヴェが毛布に顔を埋め、寝息をたてている。
    気が狂いそうな状況なのに、寝室は不気味なほどに静かで、ばくばくと脈打つ心臓の音をより大きく感じる。呼吸を整えようと深く息を吸えば、脳髄が痺れ、ますます理性が遠のいた。

    「(くそ、これは……なぜ、今になって⁉)」

    この感覚にはよくよく覚えがあった。学生の頃何度も経験し、そのたび彼に縋っていた。間違いなく、アルファ性の発情期……ラットの症状が出ている。
    そして、その元凶は間違いなく隣にいるカーヴェだ。信じがたいことだが、状況からしてそうとしか考えられない。なにがどうなっているかわからないが、アルファ性であるはずのカーヴェからオメガのフェロモンの香りがする。

    ラット状態は番であるオメガ性を庇護、支配、独占したがる本能が暴走するものだという。かつては対象のいないラット状態に苦しめられていたが、今の自分は、オメガ性ですらないはずのカーヴェを明白に番だと認識してしまっている。
    彼はどうしてこの部屋に入ってきたのだろう。なぜフェロモンを放っているのか。やはり自分の身体がおかしくなったのかもしれない。今はまず抑制剤を取りに行かなければ。それより、カーヴェを部屋から追い出したほうがいいのか。このままだと襲ってしまう。咬みたい、自分のものにしたい。

    「っ……カーヴェ!」
    「…………んぅ」

    入り乱れる思考の中、どうにか彼の名前を絞り出す。名前を呼んでも、うにゃうにゃと形のない寝言を呟くばかり。それどころか、声でこちらの存在を察したらしく、夢うつつのまま縋るように腕を伸ばしてきた。

    「やめろ、くそっ……」

    揺すって起こしたいけれど、彼の肌に触れることすら憚(はばか)られる。一度でも触れてしまったらもう、抑えられない気がした。
    まずは邪魔な毛布を剥ぎ、薄い寝間着を引き裂けば滑らかな肌が露わになる。それから柔い唇を食み、胸の頂を愛で、耳のふちをなぞり……なんて、淫らな妄想に頭が支配されそうになった。

    「(ぁあ、ちがう、これは)」

    妄想ではない。今思い浮かべたのは、全て過去の経験、事実だった。堪え切れずに伸ばされた腕を捉える。それは引き剝がそうとするためであり、握ったまま絶対に離さないようにするためでもあった。今すぐ離れなければならない、いいや絶対に離したくない。矛盾する衝動のはけ口に、何度も彼の名前を呼ぶ。

    「……ん、ぁ……ある、はいぜん……?」

    薄明かりの中、ゆっくりと彼の目が開いた。同時に、直視したことを酷く後悔した。

    「(これは、おれのものだ)」

    蕩けて揺らめくサングイトの瞳は、最後の理性を食い破るのに十分過ぎた。

     呼び方が「先輩」から「カーヴェ」に変わったのはいつだっただろうか。敬語が消えた淋しさよりも、気難しい彼の懐に潜り込めた悦びが勝り、こそばゆかったのを覚えている。なぜそんなことを思い出したかといえば、夢の中で名前を呼ばれた気がしたから。

     寝台の上で、アルハイゼンのことを見上げている。ちらと目を逸らして部屋を見回せば、脱ぎ散らかした制服と、飲みかけのコーヒーが入ったカップがふたつ。ピタを包んでいた油紙、メモが挟まった本の山、書きかけの論文。すぐそばのサイドテーブルには蓋の開いた香油の瓶が置かれている。

    身体には前開きの薄いシャツを一枚羽織っているだけで、それすらも彼の手によって衣服としての意味を成さなくなっている。状況を察したとき、上に乗っていたアルハイゼンがぐいと身体を寄せた。

    「う……ッ、ふ、あぅ……はいぜ、ッ……」

    お腹の奥がじゅくりと音を立て、淫肉がうねる。ふわりと宙を舞うような感覚の後、言葉のなりそこないが舌足らずに唇から零れて落ちた。このまま彼に全部任せて気持ち良くなりたい。

    「(……懐かしいな)」

    酷く淫らな状況に身を置いていながら、頭の一部分が妙に冷静だった。今、自分が夢の中にいる自覚がある。ここはアルハイゼンの昔の家で、二人は繋がっている真っ最中だ。討論がひと段落して、ご飯を食べて、寝る前にそういう流れになったのだと思う。同時に、これが二度と戻らない過去の幸福であると理解した。

    「カーヴェ、こっち」
    「ん……うッ……」

    命じられたとおりに視線を戻せば、アルハイゼンが熱っぽい瞳でこちらを見下ろしていた。いつもの澄まし顔はどこへやら、耳まで赤くした彼の吐息が湿った肌をくすぐる。

    「(本当に、昔のままだ)」

    少年と青年の中間、柔らかさと鋭さの中に一匙の甘さが混ざる、そんな顔立ち。頭頂部だけ癖のついた銀髪は今と変わらない。汗の滲んだ生成色の肌着は、昔の彼が好んで着ていたもの。情を交わした翌日はいつも一緒に洗濯をしたから、よく覚えている。

    この頃は共同研究の真っ最中で、夜通し討論するために互いの家へ出向くのが当たり前だったし、討論だけで終わらなくなることも間々あった。アルハイゼンはラット状態だからと理由をつけるのをやめていたし、こちらから誘ったこともある。口に出さないだけで、互いの〝好き〟を察していた。

    「(いや、好きだけで済ませられなかったじゃないか)」

    アルハイゼンに向けていたのは、親愛、興味、恋慕、全部混ざっている。それら全てを彼との睦み合いで昇華していた。

    「(だからこそ、幸せだったんだな)」

     心のまま、処理という口実なしに繋がり合った記憶。後に彼との関係が壊れても、こっそりと包み隠して、胸の奥底にしまい込んでいた宝物だ。

    「……カーヴェ」

     呼び声ひとつで、意識がアルハイゼンに持っていかれる。全身が歓喜し、ふるりと震えた。言葉は生きている。同じ文字列でも、状況や声色でまったく異なる意味を成す。情熱と切望の籠められた呼びかけに堪らなくなって、彼の頬を撫でた。

    「君のことしか考えてないよ」
    「…………!」

     彼が口を開く前に答えを告げてやれば、眉間の皺が薄くなった。機嫌を損ねたのは、情事の最中に上の空だったから。眉間の皺が完全に消え切らないのは、心の内を言い当てられたのが恥ずかしいから。手に取るようにわかる。

    「(可愛いな……本当に、可愛かった)」

    視線ひとつで嫉妬する幼い彼に、愛おしさと寂しさで胸の疼きがとまらない。二人はまだ、袂を分かつことを知らない。どのような形であれ、この先ずっと一緒にいるものだと信じて疑わなかった。恋という狂気に任せ、心のままに身を寄せ合うことができたのは純粋さゆえか、それとも単に愚かだったからか。どちらにせよ、この時間が幸せだったという事実だけが残されている。

    「(せっかく夢だと気づけたんだ、心残りの清算でもしようじゃないか)」

     理に適った判断やら羞恥心が自然と遠のいていく。現実でないなら、何をしてもいい。このまま過去をなぞるだけではあまりにも甲斐性がない。

    「ん、アルハイゼン」

    両手を伸ばし、肩を引き寄せる。意図を察した彼は身体を繋げたままゆっくりと抱きしめてくれた。しっとりとした肌が触れ合い、鼓動と体温が伝わる。心地よい抱擁に微睡みそうになりながら、幸せな思い出とさよならをする決意をした。

    「僕ね、君のこと好きだったんだ」

     いやというほど察しておきながら、決して口に出せなかった本心は、存外あっさりと吐き出せた。

    「君になら、僕の全部をあげていいって思ってた。君が必死になって項を咬むから、僕がオメガだったら番になれたのかなとか……思ったこともある」

     アルハイゼンはこちらを抱きしめ、覆い被さったまま動かない。夢の中の彼がどう反応するかはたいして重要ではない。だって、ここは自分の夢だ。相手のことなんか気にせず、好き勝手に吐露しなければもったいない。後先など考えてやるものか。

    「君はいずれ僕のことを酷く傷つけるし、共同研究は最後まで続けられない。僕たちは友達じゃなくなってしまう。けれど君のこと好きだったのは本当だし……何なら、今も嫌いじゃないよ」

     好きだと伝えるだけでよかったのに、いつのまにか余計な事まで口走っていた。けれど言葉はとまらず、とめる理由も見つからない。

    「僕を家に置いてくれたこと抜きにしても、ようやく嫌いじゃないって思えたのに……いきなり、身体がオメガ性に転化したとか診断が出て……信じられるかい? 頭がおかしくなりそうだった」

     深く呼吸をすると、恋しい彼の香りが鼻孔を満たし、頭のてっぺんから指先まで満たされる。安堵は心の奥へと染みわたり、かたく閉ざしていたもの緩ませた。

    「ひとりでなんとかしようとしたけど全然方法が見つからなくてさ。アルファ性の傍に近づかないように言われて、でも家を出ていくのは嫌だし、それどころか、どんどん君の香りが恋しくなって……」

     つんと鼻が痛くなって、視界がぼやける。こんなことまで吐き出すつもりはなかったのに。

    「このままじゃまた、君のことを好きになりそうだ。いや、もうなってるのかも……はは。僕、どうしたらいいのかなあ」

     きっかけは第二性の変化だったけれど、気持ちは嘘じゃない。正真正銘、この夢が示している。

    「このまま、君の番になれたらいいのにね」

    夢の中なら、叶わない願いを口走っても笑われる心配はない。すると、ふいにアルハイゼンがこちらを抱く腕の力が弱まった。

    「……アルハイゼン?」

    彼がゆっくりと上体を起こす。夢の世界の住人が何を言い、どう行動するのかは想像がつかない。
    元より、夢など取り留めのないもの。自分の頭が生み出した幻覚なのだから、それらしい、都合のいい言葉を返してくれるかもしれない。例えば、「俺も好きだった」とか――

    「――今の言葉に嘘は無いな?」

    低い声が蕩けた頭に響く。残念ながら、降ってきたのは告白への返答ではなかった。見上げると、そこには可愛い後輩……ではなく一人の男が、見惚れてしまいそうな美丈夫がいる。

    その男の名前はアルハイゼンで、いけすかないルームメイトで、僕の可愛い後輩だったもの。どうしてこんなにかっこよくなっちゃったのかなあ、なんてお花畑な感想が湧いて出る。でも、こちらを見下ろす熱っぽい瞳と切なそうな表情は昔のままだ。なんていじらしい。

    「…………はぇ?」

     弾けるように視界が広がる。ちらと目を逸らして部屋を見回せば、ぐしゃぐしゃになった毛布のうえにバスタオルが落ちている。積み上がった本、パティサラの刺さった花瓶……この前アルハイゼンに瓶ごと押し付けたやつだ。椅子には洗濯の終わったシャツがかかっている。サイドテーブルの上には水差しとグラス、そしてセンスのない木彫り。どこもかしこも見覚えがある。ここは、アルハイゼンの寝室だった。

    「うぇ……ぁ、きみ、どうしてここに」
    「それを君が言うのか?」

     聞きたいのは俺の方だ、と彼は眉間に皺を寄せる。表情はそのまま、と言ったがあれは嘘だ、前言撤回する。昔の彼はこんな、肉食獣みたいな雰囲気を醸し出していなかった。それに、彼がなぜこうも荒々しく、不機嫌を滲ませているのかが謎だ。失言失態以前に、こちらはまだ何もしていない。自身を取り巻く状況すらも理解が追い付いていないのだから。

    「ききたいって、なに、ぉ……あ、ひッ⁉」

     ずくん、とお腹の奥が重くなり、くぽ、と水音が響いた。二人の身体はまだ繋がったままだ。まだ、という表現が正しいのかわからないが。

    「(なんで、どうして……いつから? ぼくは、きみと……アルハイゼンと、セックスしてるんだ⁉)」

    反射的に後ずさろうとすると、結合部からとろとろと蜜が零れて内腿を伝った。生々しすぎる感覚が思考を遮り、くらりと意識が揺れる。

    「まって、ぼく……」

    無我夢中で記憶をたどる。昼間、アルハイゼンが書斎にいるのをいいことに、寝室に忍び込んで彼の香りに満たされつつ図面のチェックをしていた。それから軽食のピタを作って、打ち合わせに向かい、その後はメラックのパーツの問い合わせをしに行った。パーツが手違いでオルモス港に届けられたことを知り、わざわざ取りに出向いて予想外に時間を食った。

    外に居るあいだ、ずっとアルハイゼンのことが気がかりで、早く家に帰りたいと逸っていた気がする。ようやく帰ったと思えばアルハイゼンはもう寝ていて、仕方なくお風呂で汗を流して……なぜか、アルハイゼンの寝室の扉を開けた記憶がある。

    「君は自分がオメガ性になったと自覚したうえで俺の部屋に来たんだろう」
    「じかく……」
    「チッ……まだ寝ぼけているのか」

     おそらく、自分はついさっきまで夢を見ていた。そして記憶が間違っていなければ、風呂に入った後自分はアルハイゼンの寝室に向かった。そして今、彼と身体を繋げている。

    「ぇあ⁉ 夢じゃ、ない……でも僕、君の部屋に来てからの記憶が」
    「発情期で理性が飛んで、本能的に俺を求めて来たんだろう」
    「でも、発情期が来るのははまだ先のはずじゃ……」
    「これだけ甘い香りを撒き散らしておいて?」
    「香り……?」

     そういえばアルハイゼンもこちらの香りを気にしていたような気がする。香水を変えたのか、香りが違った、と言っていた。

    「(まさか気づかないうちにフェロモンが……でも、シティで過ごしている間は何も言われなかったぞ⁉)」

     アルファ性の人間は数が少なくともどこかしらにいるのだから、フェロモンが出ていれば指摘されるはずだ。辻褄が合わない。
    けれどオメガ性としての本能は高まりつつあったし、現にアルハイゼンが引きずられて発情している。フェロモンにあてられたのでなければ、彼が無理矢理他人の身体を暴く状況など絶対に考えられない。理屈はわからないけれど、アルハイゼンが言うのなら、本当にフェロモンが出てしまっていたのだろう。

    「……ぁう、ぼ、ぼくのせいで……ごめん、君にこんなことさせて」
    「謝る前に質問に答えてもらおうか」
    「えっ、と」
    「さっきのは君の本心で間違いないんだな?」
    「――ッ⁉」

     さっきの、と記憶を辿った瞬間頭が爆発しそうになった。首から上が沸騰したんじゃないかと勘違いしそうになるくらい熱い。もはや痛い。

    「(寝言……違う、いつから現実だった? 僕……全部喋っちゃったのか⁉)」

    逃げようにも、物理的に繋がり組み敷かれている状況で身動きがとれるはずもなく、ゆでだこになっていく様を晒すことになった。

    「ち、違っ……ちが、くない、けど……そうじゃなくて、あの」
    「……悪いが、解答がどうあれ俺はこのまま君を抱く。その後、マハマトラのもとへ出頭するかどうかが変わるだけだ」
    「出頭ッ⁉ そんなの駄目に決まっ、て……んうっ」

     体勢がほんの少し変わっただけで、腹の奥が重く甘く疼き、四肢に力が入らなくなった。彼の剛直が、奥の奥まで届いている。がくがくと腰を震わせシーツに沈むのをアルハイゼンが支えてくれた。

    「はぅ、ん……ぁ、こぇ、苦し、ッ……ぬい、て……」
    「動かしていいのか?」
    「……へ? ぁ、ッ⁉ が……あッ――」

     水音が耳に届く前に、目の前で星が弾けた。頭と体が別々になって制御できない。腹の奥から広がり痺れるそれが快楽であると認識した頃には、アルハイゼンに背中をさすられていた。

    「ひっ、はっ……う、ッ♡ ぁるはい、ぜん……これ、なんで」
    「夢を見ていたというのなら、それは君が気をやって気絶していた間のことだ」
    「き、ぜつ……ぼく、そんなに……っ」

     セックスで気を失うなんて、官能小説などの創作物でしか聞いたことがない。でも、今のだって、気を失うくらい気持ちよかったし、一瞬本当に飛んでいた。少し動かされただけでこれなのに、彼はセックスを続けると言っている。

    「う、ぅ……昔とちがう、こんなの、知らないッ……あ、アルハイゼン……こわい」

    学生の頃に何度も身体を重ねたけれど、意識が飛ぶような快感など知らない。このままでは、思い出を塗り替えられてしまうような気がする。

    「同じなわけがないだろう」
    「ひぐぅ、ッ……あぁ♡」

     みちっ、という音と共に、中途半端に抜かれていたものが再び奥に収まった。快感に頭が追い付かないのに、身体は肉壁を押し拡げる剛直を健気に食い締めている。同時に、結合部からごぷんと音がして、愛液が滴った。

    夢の中とは異なり、サイドテーブルに香油の瓶は見当たらない。自らの身体から滴るそれは、オメガとしての身体が完成されつつある証だった。

    「あ、ぁ、だめ……っ、おもい、くるしッ」

     堪らず彼の胸板に縋る。身体が密着して、より深くまで繋がってしまうのを理解していても、身体は勝手に動いてしまう。彼の言う通り発情期で理性が飛んでいるのか、それとも全部わかって自分から求めているのか、熱に浮かされた頭では判別がつかない。
    ひとつだけわかるのは、アルハイゼンは明日の朝マハマトラのもとへ出頭する必要はないということ。

    「ごめん……ごめん、なさい……身体のこと隠して、それと、きみのことすきになって」
    「そうか、俺も好きだ」
    「…………は?」

     悔やむ暇すら与えられなかった。夕飯のリクエストを言うときみたいな軽さで、爆弾が返ってきた。ただでさえ理性が溶解蒸発している脳みそに過負荷をかけないでほしい。

    「俺は君が言うほど理性的な人間ではないよ。何もかも想定外ではあったが……君の言葉が本当なら、この状況を好都合だと思う」

    なにを言っているのかわからない。目の前で、アルハイゼンがぺろりと舌なめずりをした。とても悪い顔だ、おとぎ話にでてくる狼はこんな感じなのだと思う。なんということだ、可愛い後輩がけだものになってしまった。

    「(ああ……でも、嫌じゃないや)」

     戸惑いと緊張の中に期待が混じり、ごくりと唾をのむ。昔のアルハイゼンは、理性を手放すのを酷く嫌っていた。抑制剤の効きが悪いと知りながら、錠剤をがぶ飲みして体調を崩したこともある。けれど、理知的な彼が見せる野蛮さには逆に惹かれるものがあり、本能のまま求められるのはむしろ嬉しかった。

    そして今、待ち望んだ状況が目の前にある。

    「君の全部をくれるんだろう? なら、俺は遠慮なくいただく」
    「ぁ――」

     何が起こったのか、どういう状況かなんて、もう知らない。さっきの夢の続きが見たい。難しいことを何も考えず、好きな人と繋がって、気持ちよくなりたい。
    かぶりつくような口付けに、最後の理性が食べられてしまった。

    「(あぁ、これも、しらない――)」

     またひとつ、思い出が塗り替えられていく。拙かった口付けは濃厚で巧みなものへと変わり、こちらが溺れる側になっていた。舌先を吸われるだけで息をするのを忘れ、頭の中で何度も星が弾ける。
    意識は日向に置きっぱなしにしたナツメヤシキャンディみたいにどろどろと甘く蕩けていく。落ちそうになる寸前で唇は離されたが、息をつく暇もないまま注挿が再開された。

    「ゔっ、ひ……あぁ、ッ……!」

     ゆっくりと、けれど一番深くまで剛直を打ち付けられ、腰が震えた。ぐぽ、という鈍い音と共に下腹部が膨れる。

    「あっ……あぁ、これ……おくに、たまって、る……ゔッ♡)」

    既に何度か中に出されているのか、お腹の奥でドロドロと白濁が滞っていた。アルハイゼンのモノが大きすぎて、一滴も零れることなくお腹の中に溜まっている。彼もそれがわかっているのか、執拗に奥を攻め立て、味を覚えさせるかのように何度も擦り付けてきた。

    「は、へ……こんなの、ぜったい……孕まされ、っ」

     まだ子宮は完成していない。けれどもし完全にオメガ性へ転化してしまったら、絶対に孕まされてしまう。

    「孕みたがっているのは君だろう。今は大人しく俺の形を覚えろ」
    「ひ、っ……ゔぅ……♡」

    彼の先端が結腸の入り口を叩いた。男のオメガはここの先に子宮がある。未発達であるにも関わらず、入り口は彼の動きに応えるように吸い付き、快楽を拾っていた。

    「(僕の身体、もう、こんなに……)」

    はしたないと羞恥心が湧いても、求めるのをやめられない。アルハイゼンの手で、今までの自分を塗り替えられていく。そんな気がしたとき、ふいに、オメガ性に転化する要因を思い出した。

    「(……ぜんぶあげていいって、おもったから?)」

    ビッチングの成立条件は相手に性的に屈服させられること。屈服、というのは相手に従うことであるが、こちらから心も身体も明け渡そうとした自分はどうなのだろうか。
    学生の頃、アルハイゼンには何度も項を咬まれた。あくまで仮説ではあるが、もしかすると学生時代に半分ビッチングが成立していたのかもしれない。そして、アルファとして完成された彼と再度関わるようになったことをきっかけに転化が始まったのではないか。アルハイゼンにしかフェロモンが効かなかったことも、説明がつく。

     そのとき、どちゅん、とひときわ強く奥を突かれた。腹の奥が蕩けて弾ける感覚に、呼吸が止まる。とぷ、と結合部から蜜が零れたとき、ようやく自分が達したことを悟った。

    「かは、っ……♡」
    「この期に及んで考え事か?」
    「っき……きみのことしか、かんがえてないっ、てば……ぁ、っ♡」

    暴力的な快楽を逃したいのに、しっかりと腰を掴まれ成す術なく剛直を打ち付けられる。いつからセックスしていたのかわからないけれど、中はとっくに彼の形を覚えていた。彼のモノは規格外の大きさで、大量の精液を注がれて奥が苦しい。それでも、身体は媚びるように肉杭を締めつけて、次の吐精を強請っている。

    「……ぁ、あ⁉ また、大きく……ッ♡ 奥、くる、し……ッ」
    「くッ……自分で強請っている自覚はないのか」

     中の圧迫感が増し、荒い吐息が肌にかかる。彼も限界が近い。既に何度も出されているようだが、夢か現かわからない状況だったので直接流し込まれる感覚は未体験だ。身体は慣れ切っているはずなのに、頭が追い付かない。

    「う、ぁ、あるはいぜん、こわい……ッ、これ……ほんとに、中に……」
    「そうか、目覚めた君にとってはこれが初めてか」

     表情は見えずとも、アルハイゼンがふっと笑うのがわかった。腰を掴んでいた手が離され、両手を縫い留めるように寝台の上で重ねられる。彼が身体を寄せ、耳元で囁いた。

    「好きなだけ味わうといい」

     それが合図だと認識する前に、真上から押し潰されていた。限界まで押し拡げられていた場所がみちみちと音を立てる。頭の中がまっしろになって、プツンと意識が飛んだ。

    「ッぎ、あ……か、ひ……ッ♡」

    絶対に逃げられない体勢で、剛直の先端が白濁をかき分けて更に奥へとめり込む。それが何度も繰り返され、注挿が繰り返されるほどぎちぎちと圧迫感が増していった。

    「カーヴェ、っ……!」

    名前を呼ばれ、ドクンと脈動を感じた後、一番奥で熱いものが迸る。

    「あ、ああああああッ⁉ 熱、うぅ……っ、く、あぁ……は、へ……♡」

     意識が戻って来ても長い吐精は終わらず、中でびくびくと彼が脈打つ感覚に震えた。

    「(……しあわせだ)」

     頭を空っぽにしたせいか、素直に幸福を享受することができた。果てた後、抱きしめ合うのは昔と同じ。互いの存在を確かめ合うことが、至上の安寧をもたらす。抱き合ったまま息を整えていると、アルハイゼンが身体を起こし、汗で濡れた前髪を拭った。その仕草に見惚れていると、今度はこちらの前髪をよけ、額に口付けを落とした。

    「もう一度聞く。俺の番になっていいんだな?」
    「っう……うん……」

     自分でもびっくりするくらい、するりと本音が零れた。ここまで曝け出しておいて、いまさら取り繕っても仕方がない。ちゅ、と今度は唇にバードキスが落とされる。彼の手で身体を起こされると、翠色の瞳にまっすぐ射貫かれた。いつになく真剣な眼差し。これから何をされるかは、考えるまでもない。

    「マハマトラのところには行かなくていいから……おきたら、一緒にお風呂に入りたい」
    「咬まれる前に言うことがそれでいいのか? 君の大好きなロマンとやらは?」
    「お互い好きって言ったのに。いまさら口説き文句の添削が必要かい?」
    「遠慮する」

     背中に回された手が後ろ髪を除け、汗に濡れた項が露わになる。急所である首元が晒される感覚に身震いした。体質はもう殆どオメガ性になっている。今度こそ、咬まれたら番の関係が成立するだろう。

    「君がどこへ出かけて何をしようと勝手だが、君の身に危険が及ぶと判断すれば俺は容赦なく間に入る。一生手離すつもりはないので、諦めてくれ」
    「はは、なんだよ……君ってやつは。情熱的な告白、できるじゃないか……」

     アルハイゼンは何も答えず、項に顔を寄せた。お互い発情している状況でこれ以上のお預けは毒だ。覚悟を決めて目を閉じると、熱い吐息が項にかかる。ふ、と息をつく音の後、咬まれた箇所から全身に甘い痺れが走った。

    「ふ、ぁ……あ、あ……ッ♡」
     意識が溶ける。身体が形を保っているのかも曖昧になって、彼とひとつになったような気がした。

     乳白色の湯船がばしゃりと音を立てた。蜂蜜とミルク成分の入った入浴剤はカーヴェのお気に入りで、ツケを増やしてまでわざわざ取り寄せている。華やかな香りが浴室に漂い、とろみのついたお湯が優しく肌を滑った。しかし、番になったばかりのルームメイトは腕の中で不満を漏らす。

    「…………狭い」

     それなりに広い浴室ではあるが、成人男性二人が同じ浴槽に浸かれば当然手足のやり場に困る。それでも一人ずつ入るという選択肢はなく、カーヴェを後ろから抱きかかえる体勢に落ち着いた。白い肌には情交の後が刻まれ、ところどころ赤く痕になっている。

    「ああ、くそ……昔はあんなに可愛かったのに。図体も態度もでかくなっちゃって」
    「少なくとも、君よりは謙虚に慎ましく生きている。俺はツケで酒を飲み、泥酔した挙句、迎えに来いと呼びつける度胸はない」
    「うぐぅ……っでも、最近は飲んでないだろ!」

     このままじゃれ合いのような応酬を続けてもよかったが、ふと気が逸れた。緩くまとめられた髪の下、咬み痕の残った項がちょうど目に入ったので。

    「ちょ、っ……ん、ぅ⁉」

     彼を手に入れた証。口付けだけで済ますつもりが、堪え切れずに咬み痕を舌でなぞる。正気を失うほどではないが、ラット状態からは抜けきっていない。今は二人一緒にいるから症状がマシになっているだけだ。表に出さないようにしているが、カーヴェの姿が視界から消えると理由のない不安や苛立ちに襲われる。

    「ひゃ、っ……こら、アルハイゼン、っ!」
    「……ん」

     番の証を愛でていると、暴れ回るアルファ性の本能は潮が引くように消えていった。唇を離した頃には、カーヴェの身体は肩から耳まで赤く染まっており、小刻みに震えている。

    「ひぁあ、っもう……まだ、抜けきらないのか?」
    「うん」
    「あー……うう……いいよ、好きにして。それで君が落ち着くなら構わない」

     相変わらず、カーヴェは後輩面に弱すぎる。少ししおらしい態度を見せただけでこれだ。しかしまあ、自覚がないというのであれば、こちらは遠慮なく利用させてもらう。

    「籍を入れるかは君に任せるが、俺は入れたい」
    「はぁ⁉ きみ……な、なにを急に」
    「ラット状態に陥った際、熱に浮かされていたし、とても正気とは言えない状態だった。だが、君を抱くと決めたとき、俺はどんな形であれ必ず責任を取るつもりでいた」
    「責任って、そんな……君は僕のフェロモンにあてられただけで」
    「……というのは建前で、単に君をそばに置く口実が欲しいだけだ。それで、先輩は俺のわがままを聞いてくれるのか?」
    「な、っ……ずるいぞ!」
    「心外だな。俺は心を改めて、先輩を敬う決心をしたんだが」

    顔面にお湯がかかるのと同時に、ここ数日でいちばん元気の良い「君ってやつは!」が飛んできた。カーヴェは回されていた腕を押しのけて、くるりと反対側を向く。寝台の上であれば魅力的な体位だが、浴槽の中では狭さが勝る。

    「ふん。先輩を敬うっていうのなら……初夜のやり直しを要求する。それができたら婚姻届にサインしてもいい」

    そう言って、カーヴェは人差し指でぐりぐりと額をこねくり回した。この行動に何の意味があるのかは分からないが、彼が楽しいならそれでいい。

    「……いいだろう。理性を欠いて無体を強いたのは俺の落ち度だ」

    フェロモンにあてられていたとはいえ、最中の台詞や態度は思い出すだけで頭が痛い。カーヴェが寝ぼけて本心を口にした後からは目も当てられないほど酷かった。好き勝手に奥を暴いた挙句、俺の形を覚えろ、などと口走った気がする。彼の本音を知って聖樹のてっぺんまで飛び上がれそうなくらいには舞い上がっていたが、あれはない。

    「別に、本能のままの君は嫌いじゃないし、強く求められるのはむしろ……じゃなくて、違うんだ、重要なのはそこじゃなくて」

    むしろ、の続きが非常に気になるところだが、ぐっと堪えて言葉の続きを待った。カーヴェにはどうやら別の事情があるらしい。手慰みに湯を指で弾きながら、視線を泳がせている。

    「僕は……ほとんど無意識の状態で君の寝室に行って、夢うつつのまま君とセックスしてただろ。お互い正気じゃなかったし。だから、もっと、こう、最初からちゃんと……」

    ぽちゃん、と雫が湯船に滴る。カーヴェは頬を染めたまま、まごついていた。ここから先は、彼に代わって口に出してやろう。なにせ自分は先輩を敬う、よくできた後輩なのだから。

    「ほう。つまり、寝ぼけて前半の記憶が曖昧な君のために、前戯からピロートークまで至れり尽くせりの、ロマンティックな情交を提供しろ、と」
    「君ねえ……その言い方、既にロマンの欠片もないんだよ。やりなおしだ!」

    再びばしゃんとお湯をかけられ視界がぼやける。威勢がいいのは良いことだが、湯船の中限定だ。風呂場に運ぶ際、彼はまともに立てなかったし、湯に浸かってから暫くは身体を預けてしなだれかかっていた。浮力がなくなればまた小鹿のような足取りで縋ってくるだろう。だが今の自分は可愛い後輩なので、あえて指摘してやらない。

    「仕方ない。では風呂からあがったら、理想的な初夜の定義について討論をしよう」
    「望むところだ。ピロートークも含まれるなら、今度はきっちり添削してやるからな!」

    微笑みの後、自然と唇が重なる。彼が満足するのなら、口説き文句の補習を受けるのも悪くない。

    「……ご教授いただけますと幸いです、先輩。いや、カーヴェ先生?」

    べち、と鈍い音が浴室に響く。彼の手刀は、それなりに痛かった。
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    yushio_gnsn

    DONE獣人パロの続きのようなもの。
    秘境で小さくなってしまったアルハイゼンが番の役目を果たせないことにしょげたりお子様プレートを食べたりする話。
    ※男性妊娠表現有
    ユキヒョウ獣人(僕の後輩)は小さくても凛々しい秘境の調査に行ったアルハイゼンは、謎の地脈異常の影響を受け、身体が子供の姿に戻ってしまった。記憶こそ失われていないものの、凛としたユキヒョウ獣人はふわふわの子猫ちゃんとなり、今は僕にひっついて不貞腐れている。

    「アルハイゼン、そんなに落ち込まなくても……僕はどこにも行かないから」
    「ようやく馬の骨どもが君に寄り付かなくなったというのに、よりによってこのタイミングで……」

    失策だ、と幼く弱弱しい声が響いた。シルバーグレーの耳はぺしょりと垂れて、いつも元気に跳ねている特徴的なくせ毛はすっかりしおれている。本気で落ち込んでいる彼には申し訳ないのだが、身体の小ささも相まって、こちらが見ている分には大変可愛らしい。教令院で出会ったころは既に青年に近かったので、アルハイゼンの本当に幼い姿というのは見たことが無かった。ざっくり推定すると四歳か五歳ごろだろうか。走り回る分には問題ないが、まだまだ非力で親に守られるべき年頃である。耳や尻尾の毛はぱやぱやしていて、柔らかそうな頬ときゅるんとした瞳が愛らしさに拍車をかけていた。
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