杪夏 今年の夏は例年にない猛暑になりそうです、熱中症にご注意ください、と朝のニュースで報道されていたのを思い出す。たしかに異様な暑さだ、と二宮は実感する。本部の中は空調が効いていて涼しい。汗が流れる不快感がないだけで随分と楽だ。人気のないランク戦ブースを通り抜けて作戦室に向かう。日中は人の多い場所だけにその静けさが少し不気味だ。自分の足音が耳元でやけに大きく反響している。
「二宮? どうしたこんな時間に」
呼び止められた声の方向を向こうとしたとき、一瞬、ぐらりと脳内が揺れた。平衡感覚が狂って地面がどこかわからなくなるように錯覚する。一度ゆっくりと瞬きをすると幾分かましになった気がした。やがて地震の揺れが収まるように、視界が元に戻っていく。目の前にいる太刀川に気づかれないように小さく息を吐いた。
「……防衛任務だ」
「なんだ、任務か」
太刀川が残念そうに言った。なんだとはなんだ。いやどうせこいつのことだからランク戦がしたかった、とか言うに決まっている。
「ちょっと前までランク戦してたから、二宮とも久々にやりたくなった」
二宮と太刀川はしばらくランク戦をしていなかった。ポジションの違いが理由ではない。三か月前、二宮隊がB級に降格になってから、正確には鳩原が隊務規定違反を犯してから、かつて二人が戦っていたA級ランク戦で会うことがなくなっただけの話だ。二宮隊は今期のB級ランク戦には参加する権利を持っておらず、来期からの参戦になる。すぐにA級に上がって叩きのめしてやる、と決意を固めている。
お互いに隊を持つ前は、個人でランク戦をすることもあった。ふつう、攻撃手と射手でランク戦をすることはめったにない。味方の援護が基本的な役割である射手にとって、自分が直接攻撃手を倒すというのは考えにくい状況だからだ。しかし、二宮は自分が主体となって戦う射手で、太刀川はより強い相手と戦いたい性分だった。今よりずっと隊員が少なかった頃は、好戦的な太刀川が二宮を誘う形でランク戦が成立していた。月だけが二人を見守る夜に、あるいは休日の日中に堂々と。まるで、恋人たちの逢瀬のようにそれは繰り返された。
「あ、おまえのとこの辻もいたぞ」
思考は太刀川の声で唐突に打ち切られた。ぼんやりと思い出されていた光景が消えていく。二宮は告げた。
「鍛えてやってくれ」
攻撃手一位との個人ランク戦は辻にとってもいい経験になることは間違いない。一度気に入られると長いので面倒なところもあるが、上を目指す以上強さは必要だ。
「ああ、そろそろマスターランクに上がると思うぞ」
太刀川は顎髭をさすりながら言った。賢そうに見えるという理由で生やしているらしい髭は、今ではすっかり太刀川の顔に馴染んでいる。
「そうか」
二宮の声には僅かに喜色が混じっていた。ギリシアの彫刻のような表情にはほとんど変化がない。少し時間を置いて二宮が言った。
「用がないならもう行く」
「急いでるのか? 交代の時間までまだあるだろ」
太刀川が目をしばたたかせた。確かに交代の時刻までまだ余裕があった。急いではいないものの、どうしてかこの場を離れなければならないような気がしていた。
「ないんだな」
問いかけを切り捨てるように二宮が告げた。そのまま二宮隊の作戦室の方に足を向けて一歩目を踏み出した。
はずだった。
くらりと二宮の身体が倒れた。足に力が入らないまま崩れ落ちる。ゴツンと鈍い衝撃音が廊下に響いた。二宮の頭が壁と衝突した音だった。
少し遅れて太刀川が動く。軽く肩を叩いて意識を確認しようとした。しかし反応は薄い。
「二宮? おい、二宮!」
珍しく、必死そうに名前を呼ぶ太刀川の声すらも耳に届かないまま、二宮の意識は闇に飲まれていった。
* * *
見慣れないベッドの上で二宮は目を覚ました。視界に天井と布団の白が映る。目に優しい淡い緑のカーテンがかけられていた。視線を彷徨わせていると、すぐ近くにいた太刀川と目が合った。
「お、よかった。目ぇ覚ましたんだな」
そう言うと太刀川は立ち上がった。なにやら話す声がしたかと思うと、老年の男性医師を連れ立って戻った。いくつか質問をし、二宮を診察する。そして熱中症だと医師は結論づけた。こまめに水分をとるように、今日はもう帰るか本部の宿泊室を利用すること、と言い含めると去っていった。
今見えるところに時計はなく、時間を把握する手段がない。どれくらいの時間が経ったのかすらわからない。今何時だろうか、と考えたところでハッとする。
「っ、防衛任務は」
急に身体を起こそうとしたからか、脳が揺れる。少し待てば症状が治まった。慌てて太刀川が告げた。
「落ち着けよ。休めって言われたばっかりだろ」
二宮が就く予定だった防衛任務はシフトが変更になり混成部隊扱いになったそうだ。
「あいつらには」
「俺が知らせた。連絡もなしに隊長が来ないんじゃ心配するだろ」
太刀川は凪いだ目で二宮を見つめている。表情からはなにを考えているのか読み取れなかった。
二宮はしばらく黙っていた。静寂を破ったのは二宮が諦めたように息を吐いた音だった。
「そうか」
倒れたことを部下に伝えて、動揺させるようなことをしたくなかった。しかし黙って欠勤することも、無理に換装して任務に就くこともできない以上、彼らに伝えるのが誠実だと、そう思う。
「悪かった。手間をかけた」
そう言って二宮は頭を下げた。ゆっくりと二度、瞬きをして太刀川は答えた。口角が僅かに上がっている。
「目の前で倒れたら助けるだろ」
どう返せばしたらいいのかわからなくなって、二宮は返答を保留にした。近くにおいてあったペットボトルを手に取る。ぱき、という音と共にフタが開いた。一般的なスポーツドリンクを薄めたような味が口内に広がる。
時間をかけてそれを飲み切ったあと、二宮は呟いた。
「帰らないのか」
「ん? おまえと帰ろうと思って」
当然のように太刀川が言った。
「なにを言っている?」
意味がわからない、と表情が語っていた。表情筋こそ動きにくいが二宮の考えることはわかりやすい。
「なにって、二宮がちゃんと帰れるか心配だからついていくって言った」
「余計なことはしなくていい」
「余計だって言うけど、倒れたばっかりなのに急に起き上がろうとしたし、放っといたらまた無茶するだろ」
太刀川の言い分には筋が通っている。間違ったことは言っていないはずなのに、自分が駄々をこねる子どもになったみたいで嫌だった。少し過保護にも思えるけれど上手に断る方法も思いつかない。
「……わかった」
二宮は渋々了承した。太刀川は満足気だった。
「ん。落ち着いたなら帰ろうぜ」
「ああ、そうする」
ベッドから降り、鞄を探して視線を巡らせる。二宮が訊ねるより早く太刀川が荷物を差し出した。倒れたときに回収しておいてくれたらしい。中身を確認して太刀川に声をかけた。礼を言うのはなんとなく癪だった。
「行くぞ」
夜の街を二人で並んで足を進めた。肩と肩の間を夏の湿った風が通り抜ける。歩調を合わせなくてもいいのは楽だった。二宮は隣の男の足元をちらりと見て、自分の足元にも目をやった。身長が近いからか、同じくらいの歩幅だった。何度目かの信号待ちで足を止めて、太刀川が口を開いた。
「二宮、家にちゃんと食べるもんあるのか?」
一人暮らしの子どもを心配する母親か? と言いたくなった。こらえた。家になにがあったか考えて、冷蔵庫がほとんど空だということを思い出した。
「俺が作ってやろうか」
太刀川の言葉に二宮は目を瞬かせた。太刀川が料理をできるとは思っていなかったので、とても意外だった。
「おまえ料理できるのか」
「簡単なやつだから大丈夫!」
自信満々に答える太刀川に、訝しげな目を向ける。
少し考えて、太刀川が失敗しそうだったら俺が止めたらいいか、と思い至る。きな粉をこぼして怒られるようなやつができる料理なんだから、簡単なものなんだろう。
「……わかった。任せる」
* * *
彼らが二宮の暮らすアパートに着いたのは、数十分後のことだった。歩くのが遅かったわけではない。買い物の途中で揉めただけのことである。二宮は決して口数が多いほうではないので、今日だけで一週間分以上喋った気がしていた。小さくため息を吐きつつ鞄から鍵を取り出した。差し込んで回せば小気味良い音が鳴る。ドアを開けて中に入る。
「おじゃまします」
太刀川は物珍しそうにまだ電気も点けていない玄関を眺めていた。壁際のスイッチを押すと天井の電球に光が灯って明るくなり、暖かいオレンジが室内を照らした。同い年の隊員で飲み会をしようという話になって、この部屋に数回集まったことがある。一人暮らしをしているのが二宮だけだったからだ。来馬は鈴鳴支部で共同生活をしているし、他の三人は実家暮らしのままだ。太刀川はまっすぐに冷蔵庫に向かうと、ビニール袋から食材を取り出した。
「それで、結局なにを作るんだ?」
「そうめん」
それは料理を作るうちに入るのだろうか、という疑問はあれど、茹でるだけで簡単に出来上がるので、太刀川が失敗することもまずないだろう。その点は安心だ。
二宮もキッチンに入ると、コンロの下の棚から鍋を出した。蛇口をひねって鍋に水を張る。そういえば前にこの鍋を使ったのはいつだろう。インスタントラーメンを茹でたときだろうか。鍋を洗うことすら面倒に思えてカップラーメンばかり食べていた気がする。なんなら、課題に追われて寝食を疎かにしていた。倒れるわけだ、と密かに自省する。
「たいして手間かからないから、二宮座ってていいぞ」
包丁どこだ? と付け足された言葉に不安がよぎる。間違って自分の指を切って血を流す太刀川の様子が目に浮かぶ。
「トマト切るだけだって。そんな顔するなよ」
「気をつけろよ」
棚の開く部分の内側を指し示す。買ってみたものの、包丁を使うのなんていつぶりかわからない。
太刀川に料理を任せたことで、二宮はやるべきことがなくなってしまった。手が空くとなにをしたらいいのかわからなくなる。久しぶりにソファに腰を落ち着けるとふんわりとしたクッションが二宮の身体を受け止める。身長の大きい二宮に合わせて選んだソファは一人暮らしの部屋に置くには少し大きい。そのぶん、足を伸ばして横になることができるのでお気に入りだ。忙しいときはそのまま寝落ちてしまうこともあった。
(倒れるとは。しかも、太刀川の前で)
二宮は、自分の体力に自信があった。ボーダーの活動と学業、どちらも優秀な成績をキープできていた自負もあった。自分でも気づかないうちに実力を過信していたのだろうか。それとも、思っていた以上に精神に負担がかかっていたのか。二宮にとっての一番の悩みの種は、どう考えても鳩原のことだ。三か月前、二宮隊の狙撃手だった女は一般人にトリガーを横流しして近界へと密航した。二宮には、鳩原がひとりで計画を立てて実行したとは思えない。彼女をそそのかした誰かがいるはずだ。それが誰か知りたくて、ボーダー全体の捜査が打ち切りになったあとも独断で痕跡を探し続けている。
考えごとをしているうちに眠気が襲ってきた。思考が鈍っているのが自分でもわかった。ゆっくり呼吸すると一段と身体がソファに沈み込むような心地がした。徐々に力が抜けていく。
「二宮、そうめんできたぞ」
時間にして五分ほど。二宮はソファで眠ってしまったらしい。少し昼寝をすると頭が冴えることがあるように二宮の思考はすっきりしていた。
「……悪い、寝ていた」
「いいんだよ。伸びる前に食べようぜ」
そう言いながら太刀川が持って来た皿にはそうめんが盛られていた。混ぜ合わせられたトマトとツナが中央に乗せられ、青ネギが彩りをよくしている。レストランのメニューにありそうなくらい見栄えが美しかった。暑さで食欲の落ちた二宮でも食べやすそうだ。
「……いただきます」
「いただきます」
箸でひとくち分をすくってすする。めんつゆの味だけでなく、ごま油の風味が効いていておいしい。トマトの酸味との相性もよかった。
「美味いな」
太刀川は笑って答えた。料理を褒められて嬉しそうな子どもみたいに見えた。
「そうだろ? たんぱく質? とビタミンも摂れて健康にいいって母さんが言ってた」
なんでたんぱく質に疑問符がつくんだ。三大栄養素の勉強は小学校の家庭科でやったはずだろ。栄養バランスもよく、簡単に作れていいと思ったのに。
「おまえ、たんぱく質がなにか分かってるのか」
「肉とか魚に入ってるやつだろ?」
「……まぁ、それでいい」
アミノ酸がどうとか説明しても、太刀川はどうせ理解しないだろう。太刀川が覚えられるのはボーダーに関係したことだけだ。戦術ができるくせに勉強は苦手ということが、二宮にとっては理解しがたかった。実例を目にするとそういうこともありえる、と認識するしかない。
「そうめん食べると夏って感じするよな」
確かに、うどんやそばと違って、そうめんは夏にしか食べない。季節感のある食べ物のひとつだろう。目の前の男がうどんを食べているところにはよく遭遇する。
「もう八月だぞ。他に夏っぽいもの食べなかったのか」
「夏っぽいものって、たとえば?」
「すいか、トマト。あとはかき氷とか」
夏になると水分が多くてさっぱりしたものが食べたくなる。きゅうりやナスも夏野菜か。
「かき氷って祭りで食うと美味いよな。今度二宮も一緒に行くか?」
「行かない」
「即答かよ。二宮くんつめた~い」
冷たいと言われても、二宮には太刀川と一緒に祭りに行く理由がなかった。幼いころ行ったことがあるもののもう何年と祭りには行っていない。ドンドン、と身体に響くような和太鼓の音色も、焼きそばの焦げた匂いも、ずっと縁のないものだ。人ごみが得意なわけでもないし無理に連れ出そうとする友人もいない。防衛任務の途中で花火が見えて、今日は祭りの日だったと知る。
「あ、なら花火は?」
「行かない」
先手を打とうと断りを入れると、太刀川が違う違う、と続ける。
「手持ちのやつ。なんか色変わったりするのとかあって楽しいぞ」
「どこでやる気だ」
「あー、ここのベランダじゃできねぇか」
言いながら太刀川がベランダの方を見た。広くもないアパートのベランダでは激しく炎が噴き出すような花火はできないだろう。
「……線香花火くらいならできるだろ」
「じゃあ今度持ってきていいか」
「好きにしろ」
「わかった」
流されているうちに、太刀川がまた来ることになってしまった。なにかがおかしい気がするけれど、今は気にしないことにする。
* * *
そうめんを食べて、食器の片づけが終わっても太刀川はまだ二宮の部屋にいた。世話になった自覚はあるぶん早く帰れとは言いにくかった。
「あ、そうだ。二宮、今日泊めてくれ」
「……帰らないのか?」
「歩いたらすげー時間かかるし、あと親にもう泊まってくるって言っちまった」
ここから太刀川の家まではバスに乗る必要があるが、最終便はもう発車している時刻だった。歩けないほどの距離ではないが、太刀川の言葉通り長い時間がかかる。帰らせるのも悪いので、泊めることにした。
「……わかった。泊まっていけ。ただ、人を泊める用意はない。俺がソファで寝るからおまえはベッドを使え」
そもそもあまり人を家に招かないので、泊まれる用意なんてもちろんない。そして太刀川をソファに寝かせるつもりはなかった。
「二宮がベッドで寝た方がいいだろ」
太刀川が不満げに言った。体調が悪い二宮がベッドを使うべきで、急に来た自分がソファで寝ると主張した。二宮はそれを聞いていた。こういうときの太刀川は一度決めると譲らない。なんと答えようか、と言葉を探す。太刀川のことをじっと見る。目が合った。格子状の瞳がこちらを見ていた。見透かされるような心地がする。
はぁ、と小さくため息をついて、二宮は話した。
「……このところベッドで寝ても眠りが浅い。うとうとしてもすぐに起きるのを繰り返している。どうせ今日も眠れないからおまえが使え」
鳩原がいなくなってから、ずっと彼女のことを考えている。上司として、隊長として。自分が見落とした兆候はなかったか。弟を探しに行きたいという目的を知っていたのに、それを軽んじていなかったか。上層部に遠征部隊合格を取り消されたことを伝えたとき、かけた言葉が悪かったのか。犬飼の誕生日に焼肉屋に集まったときおかしなことを口走っていなかったか。どれだけ思考を巡らせても、二宮には答えがわからない。答えを知っているのは、空に見える星のうちどこかに行ってしまった鳩原未来だけだ。わかっていても、ずっと思考について回る。自分はそういう性分なのだと二宮は諦めている。
「二宮の言い分はわかった」
太刀川が口を開いた。どこを見ているのかわからない瞳に見つめられながら、二宮は次の言葉を待っていた。
「なら一緒に寝よう。そうしたら早いだろ」
「…………は?」
二宮がたっぷり間を取ってから、ようやく発せた一言は疑問符だった。どうしてそうなる、と二宮は思った。
「なぜそうなる」
「二宮は俺をベッドで寝かせたい」
頷く。
「俺は二宮にベッドで寝てほしい。両方とも叶えるなら一緒に寝るのが一番早いだろ」
間違ってはいない。間違ってはいないのだが、なにかが致命的におかしいと思う。太刀川があまりにも当然のことのように言うので、二宮が間違っているのだろうかと思えてしまう。違和感を上手く言葉にできないまま、かろうじて反論を絞り出した。
「……暑いだろ」
「こんだけ冷房効いてれば大丈夫だろ」
部屋の中は冷房が効いていて涼しかった。ここ何日か熱帯夜が続いていて、今日も例外なく暑かったからだ。もし冷房を消してしまえば、熱中症になりかねない。
二宮の困惑をよそに、太刀川はあっけらかんと笑って風呂入って寝ようぜ、なんて言っていた。もうなんでもよくなってきて、了承してしまった。
順番にシャワーを浴びた。一度了承してしまったので二宮は腹を決めてベッドに先に入っていた。風呂場から戻ってきた太刀川の態度が妙によそよそしい。
「なぁ、二宮、本当に一緒に寝るのか」
太刀川がどこか緊張した面持ちで尋ねる。同じ匂いがするのが少し不思議だった。同じシャンプーを使用したのだから当たり前のことなのに。
「おまえが言い出したんだろ。俺は別に構わない」
なにをそんなに気にしているのかわからない。中高の修学旅行で雑魚寝したこともあるだろうに。
「嫌なら俺がソファで寝る。早くしろ」
「……二宮、男前だな」
そう言うと太刀川もベッドに入った。ソファと同様に長身の二宮に合わせて選ばれているので、二人が並んで横になっても眠れそうだ。せっかくベッドで眠ったのに身体が痛い、ということもないだろう。ただ、予想通りというか人の体温がそばにあると暑かった。まず自分が奥に詰めてから太刀川に声をかける。
「太刀川、できるだけ端に寄れ」
「? これで大丈夫か?」
太刀川が動くと、ずっと身体のどこかが触れ合う距離から少し離れる。冷房が効いていても、触れたままでは体温が移ってしまう。太刀川に背を向けているとあまり意識せずに済むような気がする。
「大丈夫だ」
「そうか。じゃあおやすみ」
二宮が照明を落とすより早く太刀川は告げた。直後、背後から寝息が聞こえはじめた。
「もう寝たのか……?」
返事はない。わざわざ嘘をつくメリットがないので、本当に眠っているのだろう。直接は触れ合わない位置にある体温と呼吸音につられて、二宮も眠気に襲われる。意識が徐々にまどろんで、思考が重く、回らなくなっていく。どうしてか、今日はよく眠れそうな気がした。
* * *
「二宮、にのみや。……うん、寝てるな。おまえ、俺の寝たふりにだまされてて大丈夫か? そういうとこ純粋だよな。まぁ、今回は助かったけど……おやすみ」
翌朝、二宮は鳥のさえずりを耳にして目を覚ました。寝返りをうったからか、目の前に太刀川の背中があって動揺する。どうして、と考えたところで昨日成り行きで家に泊めることになったことを思い出した。落ち着いて時刻を確認して、十時間近く眠っていたことに気づく。ここ最近で一番よく眠れた。頭はすっきりしているし、身体も軽くなった気がする。
「お、二宮おはよう。よく寝れたみたいだな」
目の前にあった背中がくるりと向きを変え、こちらを覗き込んだ。
「……ああ」
「顔色だいぶよくなったな」
伸ばされた指先が二宮の前髪を触った。顔色が見えるようにかきわけたかと思うと、くしゃりと撫でられる。悪くない気分だったのでしばらく好きにさせておく。
「……そうか?」
「最初、真っ青だったぞ」
顔色を自分で認識するのは存外難しい。食事も睡眠も疎かにしていたから、酷い顔をしていただろう。
「そうか」
太刀川は頭をかいた。少し言い淀んでからゆっくりと言葉を紡いだ。
「元気になってよかったよ。本当に」
「なんだ、改まって」
二宮は太刀川の目をじっと見つめた。そうすることでなにを考えているか理解しようとした。どうして太刀川がそんなことを言いだしたのかわかりたかった。
「そのまんまだよ。急にふらって倒れたから心配した」
太刀川の声と、瞳と、表情で、今の言葉が紛れもない真実だと訴えていた。同級生が急に目の前で倒れたら、どんな気持ちになるだろう。きっと二宮は怒る。それは相手のことを心配しているから怒るのだ。
「…………悪かった。心配かけて」
心からの謝罪だった。平時の自分ではありえないほど弱気な声が出た。𠮟られた子どもみたいだった。
「あんまり驚かせないでくれよ」
「……善処する」
終