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    gekkeij_u

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    gekkeij_u

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    三月進捗

    新刊予定 序章
     
     随分久しぶりの名前が左馬刻の端末へ映し出された。秋の足音が少しずつ遠のいていく、秋の暮れのことだ。
    『ねえ、飲まない?』
     絵文字も何もない、簡素な言葉は随分とらしくないなと、普段なら既読もつけずに放置するメッセージを開いた。画面に横たわるグレーの日付が左馬刻の指先で上に下にと動き回る。
     既読数は二、返事の前に時間と店のURLが続けて現れた。日付は明日、場所は何度か訪れた覚えのある店名だった。
    「カシラ、お車の準備出来ました」
     事務所はどこかピリついている。先月起こった小さな諍いの後始末で若い衆はみんな駆り出され、普段事務所に詰めることのない奴らが席を埋めているせいだ。左馬刻としては男ばかりでむさ苦しいこの上ないが、これも自身の身から出た錆だと思えば文句の言いようもない。
     柔らかな椅子から身を起こし入り口のドアを開けて待つ部下へ足を向けると、数人が立ち上がって頭を下げる。何人かの頬には湿布がべったりと付いている。
     携帯がひとつ震え、視線を落とした。目のデカい女がオーケーと言っているスタンプが飛び跳ねている。
    「明日、なんかあったか」
     左馬刻の後を追う腹心の部下は「リスケします」とだけ応えを返してエレベーターのボタンを押した。きろきろと動く視線は鋭い。
    「頼むわ」
    「迎えはどうしますか」
     軽快な音を立てて地上へ降り立った箱から出れば入り口のガラス越しに如何にもな車と数人の舎弟が頭を下げて左馬刻を待ち構えている。
    「……いらねえ、が、寄越せ。連絡すっからよ」
    「お気遣いありがとうございます」
     本来、左馬刻は仰々しい出迎えなど権威を示すためだけの無駄な行動を好まない。迎えなら運転手だけでいいし、今のような乗りもしない部下を外に待たせるのも怠いと考えている。だが今回ばかりは、というか二、三ヶ月は仕方ないのだ。
     後部座席に乗り込み、運転手が腹心と入れ替わってようやく扉が閉められた。エンジンが重く震えて動き出した鉄の箱は安全に、左馬刻を新居へ送り届けるだろう。
     煙草に火をつけ吸い込んだ煙がふわりと車内を薄白に染める。
    「あ」
     左馬刻は携帯を持て余した長い指でぽちぽちとタップした。
    『店、こっちにしてくれ』
    『こないだかちこまれて個室じゃねえと』
     URLは面倒で店名だけ送りつける。小さな直方体は左馬刻と相性が悪く、『と』だけが気持ち悪いピンクの風船みたいな字になった。
    『ウケる、予約しまーす』
     返事は乱数から、既読は三に増えていた。
     
     
     大人になって最初に学ぶべきなのは住民税だの所得税だのではなく、アルコールというのは万能ということだ。
     ちなみに左馬刻は約束の時間から五分がすぎた店前で四人全員がかち合い、ぎこちない挨拶と絶妙な気まずさを払拭しようと、個室に入ると同時に怒涛の勢いで酒と酒と酒とジュースを頼み、乾杯もそこそこに一気にアルコールをぶちこんで強く実感した。経験に勝るものなしである。
     短距離走ばりのスピード感で空きグラスを作り、それが全部料理の皿に変わる頃には吐く息が酒精に浸されていた。掘り炬燵を前に席順すら気まずくて立ったまま左馬刻と乱数は日本酒を一合一気したし、一郎だってコークハイを飲み干した。寂雷だけが「私奥がいいな」といそいそ最奥に座ったが。
    「レモンかけたら怒る?」
    「乱数くん、それは私の携帯だね」
    「枝豆なんか三つもある」
    「一個俺様の」
     なし崩し的に寂雷の横に乱数、一郎の横に左馬刻が座ったが大男が並んでも充分な広さがあった。そこそこに値段が張ることもあって壁も分厚いし飯もまぁまぁ美味い。逐一店員に言わずともタブレットから頼めるのも楽だ。手を伸ばすと一郎がタブレットを左馬刻の前に置いた。
    「まだ何か頼むの」
    「あー? 足んねえだろ」
    「オムそば」
    「米な、焼きおにぎり」
     テーブルには唐揚げとポテトフライ、枝豆が三つに焼き鳥の串が十本ほど積まれている。左馬刻のフラフラ揺れる指を掻い潜って一郎がオムそばを追加した。
     乱数はゲラゲラ笑い、すぐに真顔になって一郎の方を見てキョトンと目を丸めた。
    「まって、一郎が酒飲んでる」
     ほとんど氷だけになったグラスを一郎が持ち上げて「二十歳なんで」と自慢げに言った。
    「うわ、うわうわうわ左馬刻聞いた? 二十歳だって」
    「俺は二十六」
    「聞いてないよ。え、おめでと〜」
     乱数が寂雷のジンジャエールを一郎のグラスにぶつけ、かろんと涼しげな音が鳴る。乱数のハイボールはもう空だった。左馬刻も、グラスをほんの少し持ち上げる。
    「そっかぁ……一郎、成人してたんだ」
     左馬刻の手からタブレットを強奪して乱数がまた酒を頼む。一郎は肩をすくめて壁に背を預けた。
    「まあな。今年の夏」
     一拍の沈黙がテーブルの上に降り立った。重くもない、しかし軽くもない沈黙の中で、きっと各々が最後に顔を付き合わせた日のことを思っていた。
     中王区が失墜し、後にも先にももう二度と来ないだろうステージに立って、そして。
     左馬刻は枝豆を口に放り込んだ。
    「早いものだね」
     寂雷が微笑みながら串に手を伸ばす。簡単に言葉にできない確執と憎悪と戦いがあって、それが終わった途端颯のように過ぎていった今日までの時間。その最中で一郎は成人したようだった。交わらない最中に、大人の称号を手にしていた。
    「わ〜……まって、僕、なんか、わ〜……」
     テーブルに突っ伏した乱数に一郎が笑いかける。横顔はもう、左馬刻の知る子供の顔ではない。それが嬉しくもあった。きっと、寂雷も似たような心地なんだろう。ふとぶつかった視線のあとそっと頷かれる。
     愛想のいい店員が追加の酒とオムそばを持ってくるまで、個室を懐かしさのある静けさが包んだ。
     
     
     と、このまま飲み会が平和に終わるなんてことは、世界から全ての諍いがなくなるほどあり得ないことなのである。追加した酒を皮切りに、乱数は笑い泣きながら何度も一郎に乾杯を求めたし、その度に酒を飲み干して他人顔を貫いていた左馬刻にもそれを要求した。左馬刻は勧められた酒を断らない、男らしくないからだ。途中から一郎が諌めるから、さらに飲んだ。焼酎ロックを三連したあたりから記憶に靄がかかっている。
     能面みたいな顔をした店員がラストオーダーに顔を出すと馬鹿みたいに飲んだ男が二人と酒より頼んだ料理の後始末をさせられたやつとシラフが待ち構えていた。
    「左馬刻ー、立てっか」
     三角座りで中空を眺める眼前で一郎が手を振る。とりあえず笑うと一郎がダメだなと呟いた。
     寂雷が床に倒れ込む乱数を肩に担いで扉を開ける。たらふく飲んだ人間に酷では、と思ったが飲んで潰れた乱数が悪いので一郎は口をつぐんだ。
    「私は先に支払いを、一郎くんは左馬刻くんを」
    「あ、これ」
     尻ポケットから財布を出した一郎だったが、振り返った寂雷が底の見えない目で首を傾げるのでそっとしまい直した。乱数の靴と本体を担いだまま寂雷は易々と個室を後にする。一郎が振り返ると左馬刻は相変わらず中空を見ていた。
    「出るぞ〜」
    「オー……」
    「こっちな」
    「オー……」
     乱数は有無も言わさず寂雷に担がれていたが、残念ながら同じ体格の男は易々と担げないのが普通のため、一郎は左馬刻の腕を掴んで引きずることにして背後から両脇に腕を通すと案外するりと立ち上がり、一郎より先に靴へ足先を突っ込む。
    「迎えくんの?」
    「オー……」
    「ほんと? 嘘じゃねえ?」
    「オー……」
     左馬刻は足を突っ込んだまま諦めたのか、そのまま座敷の端に座り込んだ。数秒待って、動かない背中を追い越して一郎は厄介なブーツの紐を解く。
    「結べる?」
    「オー……」
     とりあえず履かせて立ち上がると寂雷が遠くのレジから手を振っているのが見えた。時間をかけて靴紐をどうにかしたらしい左馬刻の腕を掴み、出口に向かう。車で来たらしい寂雷がキーを手に眉を下げた。
    「送って行こうか」
    「迎え来るらしいっす」
    「一郎くんは?」
    「まだ電車あるんで」
     時刻はまだ二十三時を過ぎたばかりだ、寂雷もそれ以上言うことなく駐車場へ足を向けた。
    「また」
     何の衒いもないセリフに一郎は少し面を食らった後、大きく手を振る。
    「また、ぜひ!」
     担がれていた乱数にも聞こえたのか、腕が上がって力なくぱたりと落ちた。
     その背が見えなくなるまで見送り、一郎は横で立ったまま中空を見つめていた左馬刻から勝手に携帯を拝借する。
    「指借りんぞ」
    「オー……」
     無抵抗の左馬刻の指紋で開けると着信が数件来ている。一番上のものをタップすると部下らしい人がカシラと呼ぶ声がした。
    「すません、一郎です。迎えの人っすか」
     店の前にいることを告げるとすぐ行きますと電話が切れる。終電には充分に間に合いそうだと左馬刻へ振り向くとフラフラ店前にあった灰皿に近寄って行く背が見えた。
    「すぐ来るって」
    「オー……」
     相変わらずの返事しかないが、煙草に火をつけられるくらいに酔いは覚めているのかボロいベンチに座り危なげなくニコチンを摂取する左馬刻が一郎に財布を渡した。
    「なに?」
    「タク代」
    「……終電あんだけど」
    「うるせえ」
     言い出したら聞かないので、とりあえずぎっしり詰まった紙束から一枚抜くと睨まれ、もう二、三枚抜くと満足らしい。左馬刻が小気味よく灰を灰皿に落とした。
     
     一本吸い終わる頃にはもうすっかり酔いが覚めた左馬刻が足先で数度地面を叩く。立ちっぱなしもなんだと一郎は横に腰掛けカバンを覗き、あ、と声を上げた。
    「これ」
     出てきたのはくしゃくしゃの茶封筒だった。ちらっとカバンを覗けばさもありなん、整理整頓と程遠い中身であった。一郎はなんだよ、とカバンを背中側に回す。
     一旦受け取り、軽く振った後そっと封筒を傾けると出てきたのは真新しい鍵だった。指で擦っても何も起こらない、息を吐いた。
    「ビビらせんなや、なんだこれ」
    「何でだよ、普通に鍵」
    「なんのだよ」
     見覚えのない、傷ひとつない鍵は左馬刻の手のひらの中で街灯を吸い込んでキラキラと光る。
    「ウチの。こないだ鍵変えたんだよ」
    「あ?」
     一郎がポケットから携帯を取り出す。ぺけぺん! と目にもうるさいゲーム画面が表示されていた。前屈みに、両膝に腕を置く一郎の肩越しにそれを見つめる。知らない女が左馬刻を見返していた。
    「大家さんに言ったら届けてくれってよ。あんた住所変わったのか届かないって言ってた」
     諸々省くが、一郎たちが住むマンションのオーナーは左馬刻で、管理を全く別の人間に預けている物件だった。ちなみに郵便が届かないのは左馬刻の前の家は先月かちこまれて突如として廃墟になったのが原因だろう。
    「届けもんだし返されても困んだって」
     パーカーのフードに突っ込もうとしたら身を捩って一郎が鍵を持つ左馬刻の手ごと押し付けてくる。左馬刻はしばらく指先で鍵を弄びキーケースを取り出してから、お、と思った。
    「ハイ、どーぞ」
     一郎が携帯の画面に集中している隙にフードにそれを突っ込んで立ち上がると遠くから慣れた迎えの車のハイビームが見えた。
     一郎がばたばたフードから取り出したのは鍵だった。一郎が渡したものとは形の違う、高そうな感じのそれにえ、と間抜けな声が上がる。
    「交換こ」
     左馬刻は固まる一郎を置いて寄ってきた車のドアに手をかけ、返事も聞かず乗り込んだ。窓の向こうで一郎が立ち上がるが、その手が車に届く前にアクセルが踏み込まれた。
     左馬刻は僅かに酒気の残る息を吐いて、キーケースをそっと撫でた。








     第一話
     
     世の中、想定外のことが起こるのは仕方がないのである。ただ、その対応には往々にして正解というものがあり、例えば見ず知らずのやつに絡まれれば警察を呼べばいいし、腕っぷしに自信があるなら応戦すればいい。真っ当かどうかは差し置いて、やり方というのは案外固定化されていて、長く生きればその分狼狽えずに対応できるものは増えるものだという。
     
     ただ、今の状況をして。
     たまの休日に昼まで寝ていた中、扉を叩く音で目を覚まし苛立ちのまま開けると大粒の涙をぼたぼた溢す知り合いの弟が視界に飛び込んできた場合、どう対応するのが正解なのか、左馬刻はまだ正解を知らないでいる。
     
     
     
     冬の昼下がり、今年は厳しい寒さが続きますなんて真面目な顔のアナウンサーが言った言葉を、左馬刻は吹き込んだ風の冷たさに思い出して目の前のガキを上から下まで眺めた。
     ぐすぐす鼻を鳴らして顔を拭う知り合いの弟、山田三郎は開け放たれた扉を潜るわけでもなく、かといって帰るわけでもなくそこにいて、左馬刻は唸った。
     泣いている未成年と、ヤクザ。何もしていないが左馬刻の分が悪すぎる。通報でもされようものなら一発アウト、取り調べもなく牢にぶち込まれる。
     脳内で、眼鏡をかけた警官が大声で「最低ですね!」と左馬刻に手錠をかけるのが易々と想像できて寝乱れた髪をガシガシを掻き回した。
    「……あー、入る、か?」
     扉をさらに開き横に避けると案外大人しく中に入るので、左馬刻は一郎外に誰もいないことを確認して戸を閉めた。振り向くと既に三郎はリビングに向かっていて、ちょこんと端に寄せられたスニーカーが馴染まないまま佇んでいるだけであった。
     
     
     左馬刻の家は大変シンプルだ。リビングにあるのはソファとローテーブル、壁掛けのテレビくらいでダイニングに至っては四人がけのテーブルのみ、おかげで毎日ルンバが快適にくるくる働く。
     先にリビングに入った三郎はがらんとした空間で棒立ちのまま、動き回るルンバを目で追っていた。
    「座ってろ」
     生憎独り身のヤクザの家にオレンジジュースなんぞあるわけもなく、コーヒー一択である。豆から挽くか迷ったが、誰よりも左馬刻が混乱する頭をスッキリさせたくて戸棚からインスタントコーヒーを取った。
    「僕、砂糖なくて平気です」
     冷蔵庫を開けた左馬刻の背に声がかかる。さっきまでの涙はもう止まったらしい、落ち着いた声の三郎がキッチンの入り口に立っていた。
     かち、と沸いた湯を不揃いのマグカップに注いで片方を渡して、左馬刻はその場でマグを傾ける。苦味の強い安っぽい味にいつもなら物足りなさを覚えるが、今だけはありがたい。行儀良くダイニングテーブルに座り直した三郎も一口啜り、息を吐く。
    「……急に、すみません」
     しばしの沈黙の後、三郎が俯きながら言った。正しく急な来訪だったため、左馬刻は何も言わず換気扇に手を伸ばした。ごお、と動き出すと同時に至る所に置いてある煙草を咥えて火をつける。煙は現れた先から吸い込まれて消えていき、数度繰り返して白筒を半分ほど燃やしたあたりで左馬刻は舌を打った。
    「まどろっこしいのは好きじゃねえ。何でうちに来たのかと理由を言え」
     煙草を押し消し、三郎の対面に座る。
    「嘘はつくなよ。手間だからな」
     じっと睨め付けると記憶よりも少しばかり成長した子供はゴソゴソとポケットを漁り、剥き出しの鍵をテーブルの上に乗せた。
     まっさらな、使われた形跡のない鍵に左馬刻はやはりな、と肩をすくめた。
     曲がりなりにもヤクザの役席に座る左馬刻が住むここはオートロックかつコンシェルジュが常駐している。侵入するには鍵を持っている必要があり、前の住人に続いて中へなんてそんなことをしようものならカメラを監視しているコンシェルジュにとっくに止められているはずだ。故に、監視を越えるための鍵を持っていることは予想がついた。
     その上、左馬刻には去年の秋暮れ、戯れのように鍵を明け渡した記憶もある。三郎が持っていても不思議はない。
    「お前くらいなら、鍵から住所の割り出しぐらい出来らァな」
     聞きたいのはどうやったか、ではなくなぜ来たか、である。
     左馬刻の反応に一瞬驚いた顔をした後、三郎は頷いて言い淀むように鍵を指先で弄んでいたが、追求をやめない視線に唾を飲み込んだ。
    「……来た、理由、は」
     三郎が縋るような目で左馬刻を見て細く息を吸い、そして。
    「一兄と、喧嘩しちゃって……」
     左馬刻が言葉の意味を理解するまでに要した時間がおおよそ一拍あり、理解した瞬間思わず天を見上げた。
    「……はぁ…………?」
     左馬刻の反応に三郎は頬を膨らませ、もうすっかり冷めたコーヒーを口に運んだ。
    「なんですか、くだらないとでも言うつもりですか」
     心外だ、と書いている顔で言うが、一言一句その通りの言葉が頭にあったのできちんと「くだんねぇ……」と声に出すと琴線を弾いてしまったらしくますます膨れた三郎は僕だってねぇ!と立ち上がった。
    「僕だってわかってますよ! ていうかここの住所調べてる間に何回か冷静になりましたし!」
     がたた、と急に動いた椅子の足にルンバが引っかかるが、三郎は止まらない。
    「でも外で泣くわけにもいかないじゃないですか! 今でも微妙に顔バレしてるし!」
    「確かに……」
     特徴的な二色の目はヒプノシスマイクがなくなったとは言え二年程度では人の記憶からは消えないだろう。左馬刻の反応にさらに三郎はヒートアップして机をばん! と叩いた。
    「ていうか喧嘩したのも僕が悪いんですよ! なんか最近イライラするなって自覚してましたし! 多分これ反抗期だなってわかってましたし!!」
     頭のいいやつは反抗期も自覚してるもんなんだなと左馬刻は頭の隅っこで思った。
    「ただわかってても無理だったんです! うっかり言っちゃったんです、一兄なんて嫌いって!」
     三郎はふうふうと荒く息を吸い、胸を押さえる。暖房の効いた部屋のせいで額に汗が浮かんでいた。
    「お前……」
     まだ興奮冷めやらぬな三郎を見上げる。
    「一番ダメージデカそうなやつ言ったな」
    「ほんとはそんなこと思ってないです!!」
     犬もかくやな勢いで噛みついてきた三郎だったが、瞬く間に眉を下げて「ほんとに、思ってないんです」と、崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。俯いた顔は見えないが、小さく鼻を啜る音がして、左馬刻はため息をついた。
    「……あー」
     まん丸の頭がくすんと揺れ、仕方ないかと肩を落とす。本来奉仕精神とは程遠くガキの面倒を見るなど真っ平だと生きているのだが、残念ながら黒髪のガキには甘くなってしまう、そんな悪い癖が左馬刻にはあるので。
     空になった自分のマグを手に立ち上がり、片手に収まってしまうまん丸を掻き回す。
    「……兄貴に連絡だけしといてやるよ」
     背を向けた後三郎がどんな顔をしていたかは知らないが、キッチンで煙草を二本吸っている間に机に突っ伏して寝てしまったので、左馬刻は寝室へ引っ込むことにしたのだった。
     ちなみに電話口で反抗期らしいぞ、と伝えたところ一郎は「反抗期でヤクザのところに行くのって、どう思う?」と聞いてきたので、「その辺で喧嘩するよりマシじゃねえか?」と返すとうめき声か肯定かわからない返事があった。
    「ガキらしくていいじゃねえか」
    「嫌味にしか聞こえねえよ」
     ハハ、大人になったもんだ、全く。
     
     
     夕刻、三郎は自身の背骨が軋む淡い痛みで目を覚ました。
     オレンジに染まった、モデルルーム然とした部屋を見渡し、ぼうっと目を擦る。ぱりぱりと、下まつ毛が剥がれるくすぐったさとともにここが左馬刻の部屋だと思い出した。
     視線を動かすとルンバも左馬刻も居らず、しんと静まり返っている。目の前には冷め切ったコーヒーが少しだけ入ったマグが三郎と同じように置き去りにされていた。
     ポケットから取り出した携帯の電源を入れると数件の着信とメッセージが起動とともに表示され、恐る恐る開く。
     『兄ちゃんが悪かった』『どこにいんだ? 行かねえから場所だけでも教えてくれ』『電話、出れねえか? 大丈夫なのか』
     連続した吹き出しにをなぞり、三郎は乾いたはずの目がまた少しだけ痛むのを感じた。
     
     喧嘩の原因なんてもう思い出せない。ただここ数ヶ月三郎はずっとイライラしていて、一郎は気を遣ってくれていたが今日はなぜかそれすら煩わしく感じてしまったのだ。
     嫌いだ、なんて生まれてこのかた一度も思ったこともないのに、口を吐いて出た言葉に自分が一番びっくりして取り繕うこともできずに飛び出した。
     どうしよう、と混乱したまま玄関の鍵入れから適当に掴んで硬いスニーカーの踵を踏みつけて走り、そして駆け込める場所も友人もなく、半端に顔の売れた自分が泣けるところなんてないと気づいて愕然とした。
     ただ、掴んだ鍵を見下ろして、あ、と声が出た。
     前に、一郎がビルのオーナーから受け取ったと言っていた鍵だったのだ。濁していたが、三郎は既にオーナーが誰かも知っていて、縋るみたいに携帯で調べて電車に乗った。
     優しい姿なんて一つも浮かばないが、酷いだけの人間じゃないと漠然と確信していた。だって、だって一郎が慕っていた男だから。
     
     吹き出しはまた数個続いたが最後のあたりは左馬刻が連絡を入れたのだろう、『いつでも迎えに行くからな』『晩飯、カレーだぞ』と綴られていた。
    「カレー……」
     くる、と鳴いた腹を抑えるのと同時に遠くの方でがちゃりと金属音がして、足音と共にリビングの戸が開かれる。薄着のまま現れた左馬刻はコンビニの袋を持って「起きたか」とキッチンへ向かっていく。
     ぱきぱきと固まった体を動かしてキッチンへついていく。袋の中身はカップ麺だった。
    「食うか?」
     うどんと、塩ラーメン。三郎は塩ラーメンを手に取った。軽食にも満たない小さな塩ラーメンだった。
    「あの、さ」
     手際よくフィルムを剥がし、水をケトルに注いだ左馬刻はスイッチを押すと振り返る。
    「食ったら帰れよ、送ってやっから」
     三郎は頷いて、フィルムを剥がした。一郎みたいだと思った。
     お湯が沸くまでの間、左馬刻は煙草に火をつけて換気扇を回す。二人して黙っていたが苦しくはなくて、ただ短くなっていく煙草を眺めていた。
     
     食べ終わってすぐ、三郎は左馬刻の車に乗せられてマンションを後にした。夜になりきらない時間、高速は空いていて景色は風のように右から左に消えていく。
    「ゆるして、くれるかな」
     静かなエンジン音の中、呟いた言葉に左馬刻がケタケタ笑ってスピードが一瞬ぐんっと上がった。
    「何で笑うんだよ!」
     一瞬百キロを超えた車に三郎の頬は引き攣ったが、左馬刻は笑ったまま言った。
    「許すって、なあ。怒ってもねえよあいつ」
     景色はまだ知らない街で、三郎は無責任なセリフにシートベルトを握った。
    「わかんないでしょ、急にキレられたら誰だって嫌だし」
     挙句、嫌いなんて、言ったし。
     俯いた三郎に左馬刻は視線もくれず断言する。
    「怒ってねえよ。つか仮にキレてても一兄のご飯食べたくて帰ってきました〜って言えば許しちまうもんなんだって」
     声に出さず疑いの目を向けた三郎だったが、左馬刻があまりに自信満々で言うものだからそれ以上は何も言えず、窓の外が徐々に見知った姿に変わっていくのを見つめていた。
     夜は、少し遠い。
     
     
     左馬刻の車が萬屋の下にたどり着き、三郎が降りるとすぐ一郎が飛び出してきた。
     ごめんなさいも、僕が悪かったですも言えないまま、飛び出してきた一郎に抱きしめられてしまって、三郎はまたちょっと泣いた。
     カレーが食べたくて、帰ってきました。
     細切れの、震えた声で言うと一郎は笑って「すぐあっためるからな」とまた三郎を抱く腕に力を込める。高校生にもなって兄に抱きしめられるのは少し恥ずかしかったけど、嫌いなんて大嘘だと、食べながらちゃんと言おうと決めた。
     ぶる、とエンジンの戦慄きが聞こえてはっと後ろを振り向いたがその時にはもう、左馬刻を乗せた車は走り去ってしまった。一郎もあ、と声を上げたが間に合わず、二人並んで黒い車が消えていく姿を見送った。
     一郎へ視線を移したが、尽きかけた夕日に覆われて何も見えない。
    「一兄」
     呼びかけると、一郎はまた笑って行っちまったな、と呟く。
    「思ってたよりいい人でした、碧棺左馬刻」
     かけた心配を取り返そうと、とりあえずそれだけ伝えると一郎はなぜか眩しいものを見るみたいに目を眇めて「そーだろ」と三郎の頭を撫でた。
     一郎の横に立って家に帰る。ポケットの中で左馬刻に家の鍵がちゃり、と鳴った。
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