〇.七ミリメートル 隣の体温が消えたとき、レイジロウは目が覚めた。目を開ければ、隣にいたはずのラッキーはいない。確かに強く抱きしめたはずなのに、と疑問に思いながらぼうっとしていると、暗闇に目が慣れたようでぼんやりと影が浮かんできた。時間は深夜の一時。ベッドサイドに置いてあるデジタル時計の電気が毎秒点滅しているのが視界の隅にとらえられた。
ベッドの横に置いてあるスリッパはレイジロウのもの一つだけ。ラッキー用のものは、足が生えてしまったのかどこかに無くなってしまったようだった。
まさか、こんな夜中に外に出た、とか? レイジロウは不安になって、部屋にあるクローゼットに向かう。そこには確かにラッキーの服が一揃いあったし、コートやジャケット、パーカーなど簡単に羽織っていけるものもそのままだ。ただ、ここ以外にだってラッキーの服は置いてあるし、まだ玄関だって確認していない。レイジロウに黙って部屋を出ていくとは思えなかったけれど、確認するだけしてみよう。そう思ってレイジロウはそうっと部屋から出ていった。
果たしてラッキーは出ていっていなかった。両の靴は揃いで確かにある。レイジロウは疑問に思いながら、ひたひたと冷たい廊下の上を歩いた。ううんと唸って、不思議に思う。レイジロウはラッキーのことを全面に信頼しているから、外出しているはずはない。
そう疑問に思っていると、どこからかバリバリとした音が聞こえる。薄い何かを破っているような。薄い何かを食べているような。
はたとレイジロウは気が付いて、そっと奥の部屋――キッチンに、向かってみる。ドアの隙間から薄く光が漏れていて、音がそこから聞こえてくることがわかった。
――なるほど、そういうこと。
レイジロウはそう思って、ドアを開けた。今度は「そっと」ではなくて、むしろわかりやすいように。
ドアを開けた先には、キッチンカウンターの上に袋を開けて、頬杖をつきながらポテトチップスを自分の口に運ぶラッキーがいた。ドアの音に驚いたラッキーは目を丸くしてレイジロウを見ている。寝間着のまま出てきている、
「――ここにいたんだ、」
レイジロウがそう零すと、ラッキーは少し申し訳なさそうな顔をする。そうして近くに置いてあったウェットティッシュを一枚出して指を拭ってから、「だって」と小さく言う。
「腹減っちゃったんだけど、レイジロウに付き合わせるのは申し訳ないかなって」
大きな体を小さく丸めてそう言うものだから、レイジロウだって強く言えない。ぐ、と言葉に詰まっているとラッキーはさらに言葉を続けた。
「レイジロウも食う?」
ラッキーがそういうと同時に、レイジロウの腹がぐうと鳴った。燃費の悪い身体はラッキーと再会する以前はちゃんとした食生活を送っていなくても、空腹があっても特に何も感じなかったのに、再会してからというもの、確かにその存在感を放つようになっていた。
レイジロウの腹の音を聞いて、ラッキーはくすくす笑う。そうして無言でレイジロウの方へ袋を向けた。顔は少し誇らしげだ。レイジロウはそんなラッキーの顔とポテトチップスの袋を交互に何度も見て、動こうとしない。不思議に思ったラッキーが、小さく「……食わねえの?」と言ってから、はっと気が付いたように動き始めた。
正直、レイジロウはこんなことをしたことがない。もう歯を磨いているからそれの後に何かを食べるなんてしたくなかったし、こんな夜中に糖と油でしかできていないような、そんな身体に悪いものを食べることに対する忌避感が強くあった。
それでも、レイジロウの鼻腔を擽るのは、薄く切られて揚げられている芋のいい匂い。揚げ物は冷めたらおいしくないというけれど、既製品のそれは確かに冷めていてもおいしいはずだった。昼間、二人でゲームをするときなどに時折つまむことがある。
「食わねえんだったら俺、食っちゃうけど」
袋が揺らされると、控えめに中身が音を立てる。少しだけ残ったポテトチップスが袋の口から飛び出そうになっていた。 ぐう、と先ほど鳴った腹がまた鳴る。今度は先ほどよりも大きな音だった。
ん、とラッキーが言って今度はさらに袋が揺らされる。もうラッキーは一枚を口にくわえていた。
「……い、一枚だけ。歯だって磨いちゃったし……身体に悪いし」
「ん!」
ラッキーに近づいて、(なぜか)そっと手を袋の中に入れる。探らずともすぐそばにあったそれを手に取れば、油と塩で指が汚れた。当然だ。さくり、さくりと口に入れて噛みしめる。当然、美味しくないはずはないが罪の味がした。こんな健康に悪いことをするなんて。
ラッキーと再会するまではいつ死んでもいいとまで思っていたけれど、再会してからは違う。不健康な食生活はやめて、きっかり一日三食、夜遅くに食事はとらない、といった生活をしばらくは続けていた。
それでも、一口食べてしまえばその決意だって簡単に決壊する。今までこんな生活をしていなかったレイジロウなら、なおさら。
「うまい?」
もっと食ってもいいよ、とラッキーがレイジロウに袋の口を向ける。もうラッキーは食べ切ったような姿で、残りをすべてレイジロウにあげる、といったような姿勢だ。
「……おいしい、けど」
「けど?」
「健康に悪いね、これ」
「はは、当然じゃん! 俺たち共犯だよ、母ちゃんに怒られちゃうかもな」
口を開けて笑った姿がどこかミーミンと重なる。そんなひどく幼い顔をしてラッキーは笑った。時折見せるその表情は、レイジロウに幼少期のラッキーを思い出させる。どこかにいるはずなのに今は見えないその子どもは、気分がよくなると出てくるようだった。
「――昔さ、俺とレイジロウでパンケーキ食ったときあったじゃん」
「……ん? ああ、昔……日本にいたとき?」
「そそそ。母ちゃんと父さんが離婚する前で、お前がまだ泣き虫だったとき」
あ、泣き虫なのは今も変わんないか。
見慣れないおどけたような表情を浮かべるので、レイジロウはほんの少しだけ戸惑いながら「そうだね」と返した。ポテトチップスの塩気に舌が慣れていく。味の濃いものはもとから好きだから、食べている時間さえあと十二時間ほど早ければよかったのにと思った。
「あのあとの夜さ、お前が寝てるときにいきなり『パンケーキ食べたい』って泣いたの覚えてる? 『今食べたいんだ』って泣いてたやつ」
「ああ……二人で部屋抜け出したんだっけ」
「そう! キッチンに忍び込んでめちゃめちゃ怒られたやつ」
けたけたと心底楽しそうにラッキーが笑う。口元に手を持っていって、いたずらをした子どもが裏でくすくす笑うように。
「あのときの母ちゃん怖かったよなあ、レイジロウはそれでまた泣いてた」
「しょうがないじゃん、お腹減ってたんだよ」
「そういやあのときと逆じゃん。俺が夜遅いのに、って言ったけどお前はどうしてもって」
「……本当だ」
適当な言葉の応酬と懐古をしていると、手を伸ばした先には何もなかった。「あ」とどちらかともなく声が出る。
「まだ食う?」
「僕はともかく、ラッキーはこれ以上食べたら朝ご飯も食べられなくなるんじゃない?」
「……確かに。寝よ」
「明日の朝ご飯、焼き鮭だからね」
「味噌汁は?」
「つきます」
やった、とラッキーが笑う。笑顔が多い日だった。それも、無邪気な。
ポテトチップスの袋を畳んで捨てて洗面所に向かいながら、健康的な朝の食事を思い浮かべた。いま、お腹が減っていたってそんなの朝になるまで待てばいい。らしくないことをしたと思って、歯ブラシを咥えているラッキーの隣に立った。
夜食を食べなくたって、微睡みながら二人でベッドで昔話をしていればいつか眠っているだろう。