おと夏ヒロインとSSLヒロイン小さな駅を出ると、目の前に広がる青い空と連なる緑の山脈のコントラストに目を奪われる。
もうこの町に通って1年になるが、それでもやはりこの景色には毎回感動してしまう。
やっぱり無理してでも来て良かった、と私はホッと息をついた。
電車に乗っている時は少し憂鬱な気持ちだったが、あの人がいるこの町に着くと、やはりうれしさと安心感が込み上げてくる。
時刻は15時過ぎ。まだまだ残暑の残る季節で日差しはまだ強いが、都内と比べると風が少し冷たくて気持ちいい。
さてどうしよう。巌さんには、「到着は17時過ぎ」と連絡を入れていたので、2時間も早く「駅まで迎えに来て」とは言いづらい。駅から村の中心地へのバスは1時間後だった。1時間待ってから、バスに乗って彼の家に向かえば、17時前には着けそうだ。
駅ではなく彼の家に直接行けば、優しい巌さんのことだから驚きながらも喜んで迎えてくれるだろう。
「うーん、でも逆に迷惑かも…」
強い日差しに耐えかねて、駅前のバス停の待合室のベンチに腰掛ける。
誰もいない待合室には、遠くどこかで鳴く蝉の声とときどき風が凪ぐ音だけがして、のどかだった。
迷惑かも、と私が思うのには理由がある。
去年の夏の人材交流研修で巌さんと出会ってからはや1年。
出会ってから1週間で付き合って、それからすぐに遠距離になってしまったからこの1年でも会えた時間はそんなに長くない。それでも、巌さんはたくさんの愛をくれるし、私自身もびっくりするほど彼への愛情が深まっていくのを感じていた。
都内の友人に「出会ってから1週間で付き合った」と話した時は、それはもう驚かれて、自分としてもスピードが早すぎるかなと思って戸惑った事はあったが、いつの間にかそんなの気にならないくらいにどんどん彼を好きになっていった。
会えないながらも、それなりに遠距離恋愛を楽しんで半年と少しが過ぎた頃。
とある友人から、「その人と結婚するの?」と言われたのがきっかけで、私はそれから抜け出せない迷路の中にいるような気持ちになっている。
「結婚って…まだ付き合って1年も経ってないよ」
「そうかもしれないけどさ、彼氏って30歳だよね?結婚考えてる歳じゃないの?」
「……」
正確には巌さんは31歳だ。ついこの間、一緒に誕生日祝いに温泉旅行に行ったばかり。
「今すぐ結婚じゃなくても、いずれ結婚するならこの人!って決めてるんじゃない?しかも農家でしょ、周りからもプレッシャー凄そう〜」
同じ都内出身のはずの友人の言葉は的確で、巌さんは確かに、村の人から「彼女はまだか」とか「優良物件なのに勿体ない」とか言われ続けていたのだ。
その後私と付き合ってからは、収まったとは聞いていたのだが。
「絶対、次は結婚だなって言われてるよ」
そうかもしれない。
会った時にそんな話をされたことは無いが、多分私には言わないでいるのだと思う。
結婚なんて、考えてもいなかった。
大学を卒業してからは怒涛のように毎日が過ぎていった。
ただ教師として一人前になる事を目標に毎日こなして来た。でもそれもうまくいかなくて、教師という仕事を続けるかどうか悩んでいた矢先に巌さんと出会ったから、周りの友人が結婚したって話を聞いても、あまりピンと来ていなかったのに、思わぬ形で彼氏ができて、ましてや結婚適齢期と呼ばれる年齢の人と付き合うことになるなんて思ってもいなかったから、まさかこんな形でこの問題に悩む事になるなんてと不意をつかれた気持ちだ。
巌さん自身から、結婚についての話を聞いた訳でもないのに勝手に悩んで勝手に落ち込んでいるなんて馬鹿な話だ。
彼はどうしたいのだろう。
それすらも聞けないまま、この1ヶ月間はお互い忙しくて会えないままだったから、こうしてひさしぶりに巌さんの所へ行くという時に、いつもより早起きして1本早い新幹線に乗ってしまった。
悩んではいるけれど、巌さんに会いたい気持ちには勝てなかったのだ。
と、その時一台の車が駅のロータリーに入ってきたのが見えた。
あまり利用者数の多い駅では無いし、次の電車の時間まで結構あるのに珍しいな、と思って顔を上げると、綺麗な女の人が車から降りて来た。
この町の人だろうか?
それにしては、茶色い綺麗な髪をまとめて、黒いリボンのついたカンカン帽が可愛らしい、都会的な香りのする女性だった。おそらく同年代のようだ。
「この村にあんな人がいたんだ…」
呟いて、つい目で追っていると、ふとその女性と目が合った。
あちらも不思議そうにこちらを見た後、駅に入っていった。
私と同じように、都内から来てる人だったりして、とは思ったが、おそらく彼女自身が車を運転して来たようだったので、多分ここに住んでいるのだろう。荷物も少なかったし。
しばらくして、その女性が駅から出てくる。トートバッグに何か仕舞い込んでるように見えたので、切符か何かを買いに来ていたのかもしれない。
私も免許があればな、と思ったが、今すぐ車を持ったところで現実的じゃないな、と考え直した。
そんな事をぼんやり考えていると、先程の女性が駐車場ではなく待合室に向かって来た。
どうしたんだろう、こっちにも何か用事があるのかな。
あまり見ていても失礼だなと思って目線を逸らしていたら、声を掛けられた。
「すみません」
見た目の通り、鈴を転がすような可愛らしい声だ。
「はい、私ですか?」
「そうです。もしかして、お困りですか?」
誰もいない待合室に、明らかに旅行者のような出立ちで座っている私を心配してくれたらしい。
「いえあの、バスを待っていて…」
「次のバスは1時間後ですよ。もし村の方に行くなら、私の家も近いのでお送りしましょうか?」
えっ、と驚いた。優しい人が多い村だとは思っていたが、たまたま見かけた人を車に乗せて送ってくれるなんて。
「あっごめんなさい、突然声かけて怪しいですよね。私、この近くで果物農家をやっている吉田っていうんですけど、私もよくこの町に通ってきてたから、村までの交通手段がちょっと不便なの分かるんです。貴女ももしかしたらそうかなって思って…」
私が黙ってしまったのを不審に思われたと感じたのか、吉田さんは優しく微笑みながらそう言った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。あんまり早く着きすぎると、今日会う人に迷惑がかかっちゃうので」
巌さんと会うのは17時頃を予定していたので、いま村に着いてしまうと文字通り行く所が無い。巌さんに連絡してしまおうかとも思ったが、勝手に早く着いてしまったのはこちらなので、彼にも予定があるかもしれないと思ったら憚られた。
「会う人っていうのは、お友達ですか?」
「いえ、彼氏です。ちょっと予定より早く着いちゃったので、バスで向かう方が時間的に都合が良くて」
「それなら、その…家でお茶していきませんか」
「えっ」
「私、都内出身でこっちに嫁入りして来たんですけど、おなじ都会出身の友人がいなくて、もし良かったら話したいなって思ったんです。彼氏さんはこの村の人ですよね?」
「そうです、お花の農家をやってて…」
「やっぱり!私も旦那さんと結婚する前、よくこうやって迎えに来てくれるの待ってたなあって思ってたんです。あの頃の私と似てます」
優しそうに笑う吉田さんに、私も親近感が湧いてくる。しかも吉田さんは、都会からこの村に嫁入りしてきた、いわば先輩のようなものだ。いままさに、巌さんとの結婚について悩んでいる私にしてみれば、相談できるチャンスかもしれない。
「ね、ここだと暑いし熱中症になっちゃいますよ。うちで取れたレモンを使ったレモネードもあるんです。彼氏さんのお家までお送りしますから、私の話し相手になってくれませんか?」
「その、ご迷惑じゃなかったら…」
「迷惑だなんて全然!良かった、レモネードがなかなか減らなくて困ってたんです」
吉田さんはそう言うと、行きましょう、と言って私の荷物を半分持ってくれた。
知り合ったばっかりなのにいいのかな、と思いつつ、そういえば巌さんに初めて会った時もこうやって巌さんの車にすぐ乗っちゃってたな、と思い出して苦笑してしまう。
この村の人は、みんなこうやって親切にしてくれるのだから、それに甘えてしまうのも良いかもしれない。
吉田さんの運転で車を走らせ、村の中心地からそう遠くない場所に着く。
広い畑の中に大きな屋根のお家がポツンと建っていて、それが吉田さんのお家だった。
畑には、レモンや葡萄などの低い木が、手入れされて綺麗に並んでいる。巌さんのお花農家とはまた違う光景だった。
「どうぞ、そこのスリッパ履いてください」
「ありがとうございます。お邪魔します」
外観は立派な日本家屋といったところだが、内装は何度かリフォームされているのか、清潔感のある造りだった。部屋数も多く、この家がそれなりに大きいことが分かる。
「広いお家ですね」
「あはは、そうなんです。今は旦那さんと2人だから余らせちゃってるんですけどね。もともとお義父さんとお義母さんも居たんですけど、今は2人は別の所で暮らしてるんです」
吉田さんの旦那さんは居ないようだった。確かにこの広いお家に1人でいると、話し相手も欲しくなるかもと思った。
「縁側で飲みましょう、風が通って気持ちいいですよ。」
吉田さんお手製のレモネードは、市販のものよりレモンの味が濃くて素材の味がしっかりとしていてとても美味しかった。
「すごい!とっても美味しいです」
「よかった。私たち2人じゃ飲み切れなくて。たくさん飲んでくださいね」
「ありがとうございます。吉田さんのおうちは、レモンをメインに作ってるんですか?」
「いえ、レモンもありますけどメインは葡萄です。あとはリンゴとかもやってるけど多くはないかな。一昨年からは葡萄を使ったワイン作りもしてるんですよ」
「そうなんですか。手広くやってて大変ですね」
「葡萄は旦那さんが殆ど見てるんですけど、ワインに関しては私も手伝ってるんです。元々は町おこしの一環で始めたワインで、それがきっかけで私もこの村によく来るようになって、いつのまにか結婚してました」
ふふ、と笑う吉田さんだがその表情からは幸せそうな感情が溢れていた。
「もともとのご出身は…」
「あぁ、都内なんです。そっちでずっと働いてて、こう見えてライターだったんですよ、私」
「ライターさんだったら、結構忙しい生活だったんじゃないですか?」
「そうですね、取材に行って記事にして、編集して…仕事は楽しかったですけど、生活は不規則になりがちでした」
「今とは全然違う生活じゃないですか?」
「そうですね、時間の流れが違いますから。でも、今は旦那さんと2人でのんびり農業やって、ワイン醸造っていう新しいチャレンジもあるし、結構楽しいですよ。この村の人たちも優しいですし」
「そうですね、私もそう思います」
昨年の研修の時、いろんな人が手助けしてくれたのを思い出す。生徒たちだけでなく、村の婦人会や市役所の職員の方々まで、みんなが私に親切に接してくれた。
「貴女は、以前からこちらに?」
「はい。といっても去年の夏に初めて来たんです。そこから今の彼と出会って、時々休みを取ってこっちに来るって感じです」
「遠距離恋愛ね、大変でしょう」
「大変ですね。初めてなんです、こんなに遠いの」
「遠いよねぇ。私も旦那さんと付き合ってる時にすごく思いました。大きな駅までは新幹線であっという間だけど、そこから乗り換えてここまで来るの、大変ですよね」
「そうなんです!やっと県内に入ったと思ってもそこから結構時間かかりますよね。でも、あと一踏ん張りだと思って頑張っちゃうんですけど」
「わかるわかる。ここまで来たらあと少しで会える!って思っちゃいますよね」
自分ひとりで密かに思っていた難儀な部分を、こうやって分かり合える人がいるだなんて思ってもいなくて、私は少し楽しくなった。
遠距離恋愛をしている友人もいないし、嫌ではないけど不便だなと思っている所を話せるのはとても気が楽になる。
「お仕事は?忙しいんですか?」
「中学校の教師なんです。連休もあるんですけど、休みの日でも部活とかテストの準備とかで忙しいですね。だから、彼に来てもらう事の方が多くなっちゃうんです」
「そっか、先生だったらなかなか時間取れないですよね」
「彼にも悪いと思ってるんですけど…」
なにしろ、ここから東京までは車でも3時間以上かかる。新幹線や飛行機で来る事もあるが、流石に毎回来てもらうのは負担をかけすぎていると思っていた。
「でも、来てくれるんでしょう。彼氏さん」
「はい、そうなんです。私が行くって言っても、会いたいからって…」
あれ、なんだか惚気みたいになってる気がする。
途中から恥ずかしくなって、頬がほんのり熱くなるのがわかる。いくら共通点が多いからって、出会ったばかりの人に話しすぎたかもしれない。
「その彼氏さんってもしかして…」
吉田さんが言いかけた時、不意に玄関の方から扉が開く音がした。
ただいまー、と男性の声がする。
「あ、旦那さんかも。思ってたより帰ってくるの早いなー」
吉田さんが腰を浮かせて、玄関に向かおうとする。さすがに私も挨拶しなきゃ、と思って手に持っていたレモネードをお盆の上に戻したところで、ちょうど旦那さんが縁側に面した部屋に入ってくる所だった。
「あれ、お客さん?珍しいじゃん」
旦那さんは背が高くてがっしりとした体型の、黒髪の若者だった。
私よりも2・3歳年上に見える。吉田さんと同い年だろうか。
「おかえり。この人はね、駅でちょうど会ったの」
「お邪魔してます、あの、わたし」
「あーーっ!!」
私が名乗ろうとしたところで、旦那さん───吉田勝利さんは驚いたように大きな声を上げた。
「な、なんでうちに徹平さんの彼女がおるん!?」
勝利が言うには、去年、彼女がこの村に来た初日の宴会で見かけた事があるそうだ。
人材交流には青年会のメンバーも手伝いで参加しているが、勝利はワイン醸造を始めたばかりだったため、青年会のメンバーには入っていたがほとんど忙しく手伝えていなかった。それは、妻である私も良く覚えている。
その宴会の日も、人材交流研修の新しい人が来るからと言って宴会に誘われてはいたものの、ほとんど顔を出すだけでろくに挨拶もできずに終わってしまったという。
「あんたの紹介も聞きそびれてなぁ、チラッと顔見ただけで。隣の徹平さんが、あんたに酒飲ませすぎないようにずーっと周りを牽制してたの覚えとる。今回の人は美人さんやし、徹平さん大変やなぁ、と思ったりしてな」
勝利は、遠い目をしてそう語った。
「ふーん、美人だと思ったの勝利は」
聞き捨てならないと思って、ついそんな事を言ってしまう。
「な、そ、そんなん、周りがそう言ってたからやろ!俺はその時にはもうお前と結婚しとったし、別に変な意味じゃないって」
案の定しどろもどろになった勝利を見て、仲良いですね、なんて彼女は目の前で苦笑した。最初は勝利の反応にびっくりしていたものの、理由を聞いて納得したのか、彼女はわたしたちを見てニコニコ笑っていた。
「しかしお前と徹平さんの彼女が知り合うなんてなぁ」
私もそう思う。声をかけたのはたまたま、この村の人っぽくはない可愛らしい女の人が一人ぼっちでポツンと座っていたのが心配になったからなのだが、話を聞けば聞くほど私自身とも共通点が多く、しかも彼氏はあの巌徹平さんだというのだから驚きだ。
「そういや、徹平さんに連絡したのか?会う約束なんだろ?」
勝利がレモネードを飲みながらそう聞いた。時刻は16:30を過ぎている。確か彼女は17時頃に会う約束がある、と言っていた筈だ。
「そうでした。ちょっと電話して来ますね」
きちんと断ってから席を外すあたり、この子はすごく礼儀正しいんだなぁと思う。
部屋の外で電話をかける音が聞こえてきたあたりで、勝利に向かって質問を投げかける。
「勝利、あの子のこと知ってたの?」
「ん?うーん、まぁ、徹平さんから聞いてたんよ」
「でも、去年の宴会の時に見ただけでよく顔分かるよね?」
「それはなぁ、徹平さんがもう、自慢しまくってるのなんのってすごいから。写真見ては可愛い可愛いって言ってるんだぞ、そりゃ顔も覚えるだろ」
その言葉に少し驚いた。
勝利ほど巌さんと会う機会は少ないが、それなりに顔見知りだと思っていたのに意外だ。
「私にはそんな話は…」
「そりゃそうだ、青年会メンバーでも親しい人にしか話してないみたいだしな。本当は言いふらしたいんだろうけど、結婚するまで我慢って言っとった」
「結婚するつもりなんだね」
「するだろうなぁ、あの徹平さんが本気モードだし」
あの、というのは他でもない。巌徹平という人は、仕事に真面目で器量も良く、面倒見も良い性格で誰からも好かれ、リーダーシップもある素晴らしい青年だと昔から評判だったという。それなのにいつまでも彼女を作らない。出来ないのではなく、巌自身が本当に好きにならないと交際まで発展しないそうだ。それなのに、研修で都会からやってきた年下の女性にベタ惚れになり、出会って間もなく自分のものにしたというから、徹平と仲の良い友人たちは驚いたそうだ。
「でも彼女は、なんだか悩んでるみたい」
「悩んでる?」
「そう。なんだか沈んだ顔してバス停で座ってたから、心配で声かけたの」
「そっか。…優しいなぁ、お前は」
よしよし、と勝利が私の頭を撫でる。
私はこうやって、ちょっとした時に勝利が優しく撫でてくれるのが好きだった。
もう結婚して1年以上経つが、未だにこういう雰囲気で