開錠 都内は昨日の夜から大雪で、主要交通網は大混乱だった。新幹線は運転を見合わせて在来線も大幅に遅れており、普段であれば20分しか乗らない電車に、今日は1時間も揺られる羽目になった。
スラックスの太もも部分まで、吹雪でじっとりと濡れてしまった。秋田に住んでいた頃は、雪が降る日に革靴なんて考えられなかったがあいにく準備していなかったのだから仕方がない。深津は、湿って気持ち悪い靴下を脱ぐ。玄関から風呂場に直行して、濡れたスラックスと靴下と上着を洗濯機の中に放り込む。ふぅと息をついて、風呂に入らずに寝てしまおうかと考えた数分前のことを思い出し、でもやっぱり濡れた髪や冷え切った体が震えて、シャワーを浴びようと給湯器のスイッチをつけた。
ピロン、と軽快な音を立てて、給湯器がオンになる。熱いシャワーを出し湯気で浴室内を温めて、ふと洗面台のボトルに目がいく。温感作用のあるローション。歯磨き粉やワックスと並び、当たり前の顔をして深津のスペースに堂々と立てかけられたそれは、ある男がいつも買ってくる銘柄で、でも使っているのは深津で、数日前に開けたばかりで中身が半分ほどに減っていた。
…やっておくか。
そう考えたが、いやいやそんな必要はないと頭を振る。ある男の顔が浮かぶ。いつもヘラヘラとしていて、深津の好きな顔で笑う。深津さん、と微笑んだかと思えば獰猛な肉食獣のように深津を食い荒らす男。
嫌な予感がした。あいつはいつも、こんな日にやってくる。風が強く吹く日や、大雨の日、台風が近づいていて不要不急の外出をするなとニュースで何度も言っているのに、けろっとした顔で「泊めてくださいよ」なんて言ってやってくる。いや、やめよう。考えないようにしようと決めたばかりなのだ。
深津は半分ほど減ったローションボトルをそのままゴミ箱に捨てた。もう使わない。数日前に決めたはずなのにその日中に捨てなかったのは、あの男に散々気力と体力を奪われたからだ。深津は最後だと思っていたのに、向こうはそんなことに気付いているわけもなく、いつものように好き勝手するから大変だった。もうしない。だからもういい。
十分に温まった浴室内に裸で入って、頭から熱いシャワーを浴びる。少し痛いくらい熱いのがちょうどいい。雪で濡れた髪があたたかい熱を持って、深津の額や首筋に張り付く。「髪伸びましたね」男の声。また思い出してしまった。あぁ、この伸ばした髪も切ってしまおうか。また坊主に、…いや、坊主はやめよう。余計に思い出す。
リンスインシャンプーで適当に頭を洗って、ボディソープで体をゴシゴシと洗う。冷え切った体にいきなり熱いシャワーを浴びたので、皮膚が火照って赤くなっている。「深津さんて、肌の色が白いから赤が映えますよね」思い出したくないのに出てくるな。
無心で体を擦っていると、玄関先でインターホンが鳴る音がした。帰ってきたのは夜の22時。こんな時間に来客の約束などあるはずがない。宅配便がくるはずもない。こんな日のこんな時間に来るのは、あの男しかいないだろうと見当をつけて、嫌な予感が的中したかと思いながらもっと丁寧に体を洗った。
ピンポーン、ともう一度インターホンが鳴る。オートロックだから、深津が解除しない限りはマンションに入れない。このまま無視すれば、もう思い出したくないあいつを忘れることができる。何度もノックされると苦しいから、こちらから遮断できるオートロックは便利だ。
2回インターホンが鳴って、それから静かになった。あぁ良かった、と口内の奥に広がった苦い唾液を飲み込む。もう来ないでくれ。もう一度鳴らしてくれ。2つの感情が深津の心を揺さぶって、考えるのをやめようと決めたのにまたこうやって振り回されてしまっている。
浴室を出て丁寧に体を拭いて、部屋着に着替えた。化粧水やボディクリームまで塗って、とにかく考えないようにしようと普段はやらないところまで丹念にケアをした。いつもなら濡れたまま寝てしまうことが多い髪もすぐにドライヤーをかけて、つやつやにして、分け目も変えてみたりして、そうだ髪型を変えてもいいかもしれない、と思った。
そうしたら新しい出会いがあるかもしれない。
新しい自分、新しい髪型。きっといい人に巡り会える。あいつなんかよりずっといい人に。
やり過ごせた、遮断できたと思った。
2回のインターホンに応えないのは、こんなに簡単だったのだ。
もう、寝てしまおう。そうすれば忘れられる。
今日は一日疲れた。仕事と、大雪と、センチメンタルな気分と、普段よりも長くなった帰り道でへとへとなのだ。
そうだそれから、明日の朝は少し早起きをして朝食を作ろう。
大好きな目玉焼きを特別にふたつ。
卵は買ってきたばかりだから、新鮮なうちに調理して、ベーコンも焼く。カリカリに。
茄子が入ったお味噌汁を作って炊き立ての白米と、それから───
ピンポーン
まるで死刑の執行が言い渡された瞬間のような、明るい視界が一気に暗くなるような絶望感だった。3回目は無視できない。そういう風にできている。深津はそこまで強くない。
応答のボタンを押す指が、まるで深津の意思とは別で動いているかのように見えて現実味がなかった。プツ、と繋がった画面にあの男の姿。あぁやっぱり、来ると思った。
「深津さん」
「…開けるピョン」
開錠してロビーの扉が開くと、キャップの上からフードを被ったその男は軽く会釈してマンションに入っていく。遮断できなかった。こんなにも簡単に開けてしまった、という気持ちと、やっぱり来たのかという喜びにも似た感情が湧き起こっていて、どうにかなりそうだった。深津の部屋は4階だ。エレベーターであっという間に着く。この数分がもどかしい。いつも心臓がバクバクして、でも思い返すとあっという間で、落ち着かない気分にさせられる。
ガチャ、とドアが開く。浴室と玄関の間の廊下に突っ立っていたままの深津は、その様子を諦めたような気持ちで見ていた。
「あー寒かった」
どさっと音を立ててコンビニの袋を置いて、沢北は玄関に座り込んだ。深津に背を向けて、スニーカーの靴紐を緩める。被ったフードの後ろにうっすら雪が積もっていた。歩いてきたのか、と思いながら眺めていたら、沢北が振り返って笑った。
「深津さん応答ないから、風呂にでも入ってるのかと思ってたら正解でしたね。その間にコンビニ行ってきました」
ガサガサと音を立てて袋の中を覗き込む。沢北は飲まないはずのアルコールと、味の濃いおつまみ。ゴム。ローション。いかにもこれからヤりますみたいなラインナップを、こいつは堂々とコンビニで買ってきたのだ。
「深津さん、あったかそう。オレも入っていい?」
立ち上がった沢北はそう言って、長い腕で深津を抱き寄せる。そのまま抱きすくめられて、沢北の冷たいパーカーから外の匂いがダイレクトに伝わってきた。遠くの方に沢北の洗剤と香水の匂い。すん、と鼻を鳴らすと嗅ぎ慣れた、不快感のある匂いも。女ものの甘ったるい香水と、酒の匂い。居酒屋でついたような、副流煙のタバコの匂い。またか、と思って苦しくなる。いつもそうだ、沢北は。
「行った女の部屋がエアコン壊れてるとかでさあ、ありえないよね。大雪予報の日に暖房なしとか。タバコで暖取るとか言っていつも以上にスパスパするから、溜まったもんじゃなかった」
聞きたくもない言葉が深津の耳に流れ込んでくる。いつもなら聞き流す話だ。女、どの女だ、例のアイツか新しいやつか、どんな顔だ、俺よりも好きか、そっちの具合の方がいいのか。聞きたいことをグッと飲み込んで、曖昧に微笑むのには慣れている。今日もそうする。それでいい。沢北に、この気持ちがバレないように。
「深津さんいい匂い。オレの事もあっためて」
鼻先を擦られて、そのまま唇を重ねられた。顎に添えられた優しい指先が、深津の顔を少しだけ上に上げさせて器用にキスを落とす。セックスはあんなに凶暴なのに、こいつはキスだけは優しい。さっきの女にも同じようにキスしたのか、と考えて虚しくなるのもいつものこと。そのまま無になれば、あとは気持ちいいのが始まるからその感覚に浸っていればいい。
分かっているはずだった。でも今日はダメだった。センチメンタル。大雪のせいか。もう最後にしよう、と数日前に思ったせいか。嫌だ、と思った。あんなに嬉しかった沢北からのキスが、嫌だ。されたくない。優しければ優しいほど、自分が虚しくなっていく。
「…深津さん」
甘い瞳で見つめられて、腰に回された手をそのままに尻を撫でられる。
「風呂上がりってことはさ、もしかして待ってた?オレが来るの」
「…沢北」
「準備してた?応えてあげないといけないかな」
「沢北、やめろ」
「準備なんてしなくても、オレがしてあげるっていつも言ってるのにね。深津さん真面目だし、聞く耳持たないけど」
「沢北」
「…───何?」
深津の強張った声に、沢北は話すのをやめた。先程までの甘い視線とは一転、鋭い目を向けられて深津は少しだけ怯む。
「もう来ないでほしい」
絞り出したその言葉に、突っ張って沢北の胸板から距離をとった深津の腕が震える。言えた、遮断できた。二回目のインターホンを無視した時のように、苦い味が口に広がって呼吸が浅くなる。これでいい。もう考えないと決めた。沢北といると、もうずっと苦しい。
「なんで?」
「……」
「まずいことでもあんの?」
聞いたことのない沢北の冷たい声に、深津は沢北の目を見れなくなる。どうしてこいつがこんなに怒るのか。数あるうちの一人だ、付き合いは長いけれども男だし、年上だし、ちょっと体力のあるセフレが一人欠けるくらいで、何をそんなに嫌がるのか。
「他のやつが来んの?」
「だ、誰もいないピョン、そんなやつ」
「じゃあなんで?オレだけでしょ?」
「……」
「答えられないなら、了承できないです」
力の抜けた腕を絡め取られ、また深津は沢北の胸に抱き寄せられる。嫌だと思ったのに。
こいつが、他の人を愛したその腕で深津自身を抱くのがたまらなく嫌で、沢北だけの唯一になりたくて、そんな感情がグロテスクで目も当てられないから来ないでくれと言ったのに。
この胸に抱かれると何もできない。沢北に囚われると、苦しくて切なくて、甘くて嬉しい。もう突っぱねられない。いつから深津は、こんなに弱くなったのか。
「ここが嫌なら、場所を変えますか?いつも深津さんちだったもんね」
「…そういうことじゃ、」
「ホテルとか、旅館とか。深津さんが好きな場所、どこでも行きますよ」
「そういうところは好きじゃない」
「じゃあどこ?言ってよ。なんでそんな突然、もう来ないでとか言うの」
肩に埋められた沢北の頭が、深津の髪をくすぐる。はぁ、と熱い吐息が皮膚にあたって、最中を思い出させるその熱に深津の胸が切なく疼いた。
「分かった。ホテルも旅館もここも嫌なら、オレの家は?」
「…沢北の」
「うん。そう。それがいい。家族以外には教えないって決めてたけど、深津さんならいいよ。ね、そうしましょう。今までごめんなさい、もっと早くそうすればよかった」
痛いくらいに体を抱きしめて、沢北が深津の耳元で囁く。
「ね、オレの部屋においでよ。もう会わないなんて、言わないで」
遮断できないその声に、深津はまた囚われて苦しくなって、そして少しの優越感を感じていた。唯一にはなれないかもしれないけれど、極めて唯一に近い場所に行けるかもしれない。たとえそれが、体目的の関係でも、深津が沢北を拒絶することはできそうにないのだ。もう好きにしてくれ、と深津は体の力を抜く。沢北の、唯一の場所にはなれなくても唯一の場所に踏み込めるのなら、もう少しくらいこの関係を延長したっていい。
「深津さん、キスして」
沢北の甘えた声に、顔を傾けて唇を寄せる。さっきインターホンの応答ボタンを押した時みたいに、まるで現実味がなく、深津はただそれを眺めていた。