Love U like that 「結婚しないんですか?」
麺をずるずると啜っていた俺は、その言葉に一瞬動きを止めた。結婚。また結婚の話か、と頭の中で反芻して麺を最後まで啜りきった。
「なんでまた」
咀嚼して飲み込んでからそう答えると、隣の席で同じ豚骨ラーメンを啜っていた後輩が、うーんと唸る。
「だって深津さんの歳って、周り結構結婚してません?」
「してる」
「なんか焦りません?そういうの」
三つ下の後輩は、人によっては無神経だと感じらるような発言をなんて事ないように言った。焦るか、と改めて自分に問うて見る。確かに、高校時代の友人たちはほとんど既婚者だ。
河田は早々に学生時代からの彼女と入籍して3人のパパだし、松本はつい最近結婚したばかりだ。イチノは…、恋人はいるけどまだかなと言っていたような気がする。野辺も確か二年前に結婚式を挙げていたはずだ。そう考えると、学生時代につるんでいた5人の中で半分以上は結婚したことになる。まぁ、それもそうか。もう30を過ぎたのだからそういった選択をするようにもなる。
「おれ、周りがみんな結婚していくんすよね。こっちは彼女もいないってのに」
後輩は、同じ課で働く真面目な青年だった。東京出身だが、新卒で入社してからずっと地方の支所にいた。それが、今年の四月に東京支所に転勤してきた。それ以来、自分が何かと面倒を見ることになって懐かれている。今日も少し気難しいお客さんだから同行して欲しいと言われ、後輩の営業先に出向いてきた帰りだ。いい感触だったので、ここのラーメンは俺が奢ってやった。
「27・8か…まぁ、確かにそのぐらいの時は、すごい結婚式に呼ばれたな」
「ですよね。もう東京戻ってきてから、毎月のように結婚式の招待状来てやばいんですよ。前は、地方だからって断れたのにそれも通じなくなってきたし。はぁ…おれも結婚したいなぁ…」
彼女いないっすけど、と呟きつつどんぶりの中を箸でかき回す。結婚願望があるだけまだマシだな、と俺は思った。結婚したい、恋人を作りたい、という欲求すら覚えなくなった俺に、そんな相談をしてもどうにもならないだろうに。
「誰か紹介してくれませんか、深津さん」
「そんな人いない」
「えー、学生時代の友達とか!おれ、年上もいけますよ」
「高校も大学も男ばっかりだったから、いない」
「じゃあ、イケメンの友達とかは?いないっすか?」
「イケメン…」
ふと、ある男の顔が浮かんだ。イケメン、というには少し印象が違う気がするが、まぁ確かに顔は整っている男がいる。だが、あいつもそこまで交友関係が広いわけではないから、誰か紹介できるような人がいるとも思えない。いやそもそも、
「あ」
「ん?」
俺がつい声をこぼしたのを、後輩は目ざとく気づいたようで、体を乗り出してくる。
「誰かいました?」
「いや、…イケメンはいるけど、あいつも結婚してなかったと思って」
なんすかそれぇ…、とゲンナリした声をあげて、その後輩は箸を置いた。俺も、最後にスープを飲み干して箸を置く。後輩はさっさと荷物をまとめて、ご馳走様でしたと笑った。本気で悩んでいるのではなく、この場の小さな愚痴として話せたら良かったらしい。
俺もごちそうさまでした、とカウンターを挟んだところにいる大将に挨拶すると、はいよー!と元気な声が飛んでくる。ここのラーメンは美味しいしスタッフも活気があって良い。
「うまかったっすねー」と上機嫌な後輩とラーメン屋を出ようとした時、ピコンと携帯の通知音がなって俺は立ち止まった。通知欄に、見慣れた名前とともに「勝ちました」のメッセージ。Vサインの絵文字。ニュース速報より早いそれは、先程まで頭に浮かんでいた男からのものだった。
ふ、と無意識に笑いが溢れる。いつまでも律儀なこの男は、学生の頃からこうやって何かと連絡してくる。
「え、なんすかなんすか。深津さん、彼女っすか?」
その様子を見られていたのか、後輩が矢継ぎ早に捲し立てる。そういうのじゃない、と咄嗟に返すけれど、後輩は目を細めて「ほんとっすかー?」と茶化した。
そういうのじゃない。本当だ。こいつが結婚したら、その時は俺も諦めて結婚を考えようかと思うような存在ってだけだ。そう思ったけど言わずにおいて、俺は携帯を懐にしまった。
「帰るぞ、明日も仕事なんだし」
言いながら駅方面に向かう。明日も仕事、明後日も仕事、その次は週末で、俺には予定がある。恋人より親友より、なぜかずっと大事な位置にいる男と会う予定だ。
週末は全国的に晴天となり、爽やかな快晴が続くでしょう。初夏とは思えないほどの猛烈な暑さです。東京は晴れ、気温が急上昇しますので水分補給をしっかりとしてください。尚、所々でにわか雨の可能性もあり───。
予定の時間より3時間も早く、準備が終わってしまった。今日着る服は事前に決めていた。起きてシャワーを浴びて、軽く朝飯を食べて、部屋の観葉植物に水をあげたらあとはもうやることがない。時間を潰すために、ソファに沈んで普段はあまり見ないテレビをつけた。たまたまやっていた天気予報を眺める。晴天なら傘はいらない。気温が上がるのか、なら行く途中で水でも買うか。あいつは持ってこなさそうだし。
そう思いながら俺は、リモコンのチャンネルボタンを押してザッピングする。週末のおすすめスポット紹介、将棋解説、天気予報、芸能人の離婚騒動。見たいものがない。大人しくニュースでも流すか、と再度ボタンを押しかけたところで、俺は手を止めた。
「次は、Bリーグ情報!昨年日本リーグに復帰した沢北栄治選手、今シーズンを最高の形で締めくくりました!」
甲高い声の女子アナウンサーがにこやかに言って、画面が切り替わる。試合中を切り取った、ユニフォーム姿の沢北の姿が映し出される。俺にとっては高校時代から変わらない、生意気な後輩でしかないのに、こうやって大々的に取り上げられるとまるで知らない人のように感じる。
「いやー、すごい動きですね。まさにアメリカ仕込みのパスです」
「沢北選手は、自分でしっかり点も取りに行けるのが強みですよね」
コメンテーターの上っ面のコメントを聞きながら、いや、そうじゃないだろうと俺はつい思ってしまう。今のは、パスがすごいんじゃなくて味方の動きを見てから落ち着いて判断しているのがすごい。昔のあいつならできなかった。とにかく点が取れればいい、とかそんな考えが見え透いているのが丸わかりだったからだ。
「さて、CMのあとは恒例の聞いてみたのコーナー!沢北選手に、気になるあの質問してみました!」
試合の場面もそこそこに、試合後のインタビュー映像に変わる。沢北栄治選手(30)とテロップが出て、まだ汗を浮かべている試合後の沢北がアナウンサーにマイクを向けられていた。
「沢北選手、お疲れ様です!今回もすごい試合でした!」
「そうですね、ありがとうございました。良い内容で終われたのは良かったっす」
「さて、この番組恒例の質問コーナーなんですが、よろしいですか?」
アナウンサーの高いテンションとは裏腹に、沢北は苦笑いを浮かべながらも淡々と質問に答えていく。試合後で疲れていても、愛想笑いはちゃんとできるようにしろと俺が以前伝えたのをちゃんと守っているようだ。
「えーっと、はい。答えられる範囲で…」
頬をポリポリと掻きながら、沢北は首にかけたタオルを取って姿勢を正す。こういうのができるようになったのも、褒めてやってもいい。いつもダルそうにしていたから、ここはアメリカじゃなく日本なんだからと何度か叱ったことを思い出す。
「ズバリ、今年叶えたい夢はなんですか?」
「え、えー?夢、ですか…うーん。バスケだと…」
「バスケ以外でお願いします!」
「えぇっ」
突然こんなことを聞かれるとは思っていなかったのか、目が右に左に泳いでいる。アメリカでも成功を収め、日本でも華々しく活躍するこの男に、今更叶えたい夢なんてないだろう。小さな悩み事はあるだろうが、誰がみても充実した日々を送っている。あと足りないものは一体なんだろう。長年の付き合いなのに、沢北がどんな夢を持っているのか、今の俺には想像がつかない。
「えっと、…大切な人に感謝を伝えたいです」
俺は思わず吹き出してしまった。悩みに悩んで出てきたのはたったそれだけの言葉で、まぁ沢北らしいと言えばらしいが、テレビ的には面白くないだろう。案の定、アナウンサーが少し微妙な顔をした後、気を取り直してマイクをさらに沢北に近づける。
「それは、具体的には!」
「えー、具体的に…そうですね、うーんと…家族や友人もそうですし、あとは大事にしている人に、こう…今までの感謝とこれからも的なことを伝えたいというか…」
「大事にしている人…というのは?」
「いやまぁ、…それはいいじゃないですか。感謝を伝える!で!お願いします!」
誤魔化したな。
俺がそう思ったのと同じように、アナウンサーもそう感じたのかさらに深掘りしようとしていたが、映像はそこで切れてしまい、スタジオに戻ってしまった。
「いやぁ、意味深ですねぇ」
「何かいい報告とかあるんですかね」
にやにやとコメンテーターが示唆しているのは、ここ最近沢北のチームでは結婚報告が相次いでいるからだった。まさにお祝いラッシュ、試合も順調に勝ち進んでいて、チームは過去最高にいい雰囲気なのでは、と取り沙汰されることも多い。なるほど、いい報告というのは沢北自身の結婚や熱愛を期待している、ということか。
アメリカから戻ってきて、沢北にはまだ熱愛などの報道が一切ない。ネット上では女優と付き合っているとか言われていたが、バラエティで共演したツーショットが切り取られ、その写真が出回っているだけで噂の域を出ない。
世間では、沢北栄治の活躍ぶりにさらに熱愛まで加わればいいネタになると思われているのだろうが、そういった話は一切出てこなかった。だからこそ、あぁいう一言だけでも大きな話にしたいのだろう。
沢北の大事にしている人、か。と俺は頭をひねる。そんな人がいただろうか。試合結果でもなんでも、何よりもまず俺に連絡してくる男だ。大事な人ができ、結婚したいと思っている相手ならば、それこそいの一番に俺に言いそうなものを、全くそんな話は聞いたことがない。
まぁ、ただの友人だし、と思うことにする。
社会人になって競技バスケもやめて、ただの一般人になった俺は、沢北にとってはもうバスケ仲間でも先輩でもない。友人にしては距離感が近い気もするが、高校の時の先輩後輩、というだけの関係でもない。この微妙な関係に名前がない。便宜上、友人ということにしているが言葉にするといつも違和感があった。正直、なぜあいつがこの歳になっても俺と交友関係を続けているのか謎だ。
沢北が結婚したら、俺も諦めて結婚しよう。
先日の、ラーメン屋で会社の後輩と話した時に思ったことを思い出す。もしかして、もうすぐその時が近いのかもしれない。
「続いては、新コーナー!今回は秋田県の秘境に…──」
番組はあっという間に別のコーナーにうつっていた。俺はリモコンの電源ボタンを押して、テレビを消した。静かな部屋に、時計の秒針の音だけが響いた。
まだ約束の時間まで2時間もある。
あんなに今日が楽しみだったのに、なんだか嫌になってきたな。
そう思って俺は目を閉じた。沢北、俺を惨めにさせないでくれ。祈るようにそう考えて、俺は深く息を吐いた。
「なんか、機嫌悪いですか?」
沢北にそう言われて、俺は目線を上げた。目の前には、ゆるいシャツとハーフパンツで、優雅にコーヒーを傾ける沢北がいる。おしゃれなサングラスはブランドのロゴ入り。首元があいていて、鍛え抜かれた胸筋がセクシーだった。いや、何を言ってるんだか。
「別に普通ピョン」
「えーそうかな、なんかいつもと違いますよ」
俺は、ミルクの入ったカフェラテを小さなスプーンでかき混ぜる。さっきからずっと混ぜ続けるだけで、特に味も変わらないのにやめられなかった。黒と白が混じり合って、独特のブラウンが出来上がっていく。どんなに混ぜてもどっちかの色にはならない。
頬杖をついてサングラスをずり下げた隙間から俺を見つめる沢北の目は、口調とは裏腹に優しいものだった。
「飲まないの」
「飲むピョン、混ざったら」
「ふーん」
もう十分混ざってるでしょ、とは言わない。以前のこいつだったら、もう混ざってるよなんで回し続けるんですか?深津さんてやっぱ変、とでも言ってきただろうに、最近の沢北はじっと俺の様子を眺めているだけで、特に口うるさくいうことはなかった。
「まだお腹空いてます?追加頼みましょうか」
「いい。腹一杯ピョン」
「そっか。じゃあデザートは?ケーキありますよ、深津さんの好きなミルクレープ」
メニューを開いて眺めているだけでも絵になる。綺麗な鼻筋が下を向き横顔のラインを縁取り、どの角度から見ても綺麗なように作られた造形に、一瞬目を奪われそうになる。こんなにいい男だったか?沢北って。
「聞いてる?」
「聞いてるピョン。ケーキ」
「そ、ミルクレープね。でもここじゃなくてもいっか。移動する?」
「する」
「じゃあそれ飲み終わってね」
にこ、と笑った顔に気まずくなって、目線を逸らした。
今日は昼前にバスケコートで沢北と軽く運動した。運動するのは二週間ぶりぐらいで体が鈍っていたし、相手は現役のプロ選手だから全然ついていけなかったけれど、楽しかったからそれでいい。沢北は「深津さんこんな上手いのにもったいないよ」とお世辞を言ってくれたが、側から見たらどちらがプロでどちらが一般人か歴然だっただろう。思うように動かない体にうんざりした。すぐに息は上がるし腕も上がらない。もう少しジムに行く回数を増やすか、と呟いたら「えっ、やだ。オレと同じとこにしてよ」と言われ、なんでだよと突っ込んだのは面白かったが。
「深津さんとバスケできてご飯食べれて幸せ」
ふと沢北が呟いた。外に向けていた視線を戻すと、沢北が頬杖をついてこちらを見ていた。昼過ぎの日差しが差し込み、爽やかな風が吹いている。鳥の鳴き声と、遠くの方で子供たちがはしゃぐ声がした。バスケコートのすぐ近くにあった隠れ家的なこのカフェは、庭のテラスがちょうどよく歩道から隠れる位置にあって沢北のような有名人でも気付かれにくい。
沢北とバスケして、カフェで遅めのランチをとって、中身のない話をして二人で笑い合う。アラサーの男二人がやる事にしてはつまらない週末だが、確かに俺も幸福感を感じていた。やっていることは学生時代と変わらない。バスケをする場所が秋田から東京に変わって、ランチをする場所がファストフード店からテラスのあるおしゃれなカフェに変わっただけだ。
世の中の大人がやることと言えばなんだろう、仕事の愚痴か家庭の愚痴か。俺と沢北は職業も違うし、お互いに今はシングルで話すような愚痴もない。そうだ、結婚。こいつの結婚話はどうなったのだろう。
大事な人に感謝を伝えたい、という夢があるのに、こんな所で俺と貴重な時間を潰していていいものか。
「深津さんも楽しい?」
「…まぁ、それなりにピョン」
「素直じゃないなぁ」
笑った目尻に小皺が見えて、あぁ沢北も歳をとったのだと急に実感する。いつまでも子生意気なイケメンではない。いい男にはなったけれど、仕事では冷静に判断できて俺のつまらない意地の張った発言にも笑って流す余裕を兼ね備えている。ますます、こんな所で俺に時間を使っていていいのかと不安になってくる。
「いつまでも学生みたいピョン、俺たち」
「そう?いいけどなオレはこれで。深津さんに会うために試合も頑張れたし」
「それはいいが…もっとやるべきことがあるはずピョン」
「たとえば?」
たとえば…、と鸚鵡返しをして俺は黙り込む。喉の奥がつっかえる感覚。いい人がいるんじゃないのか。もっと時間を割くべき相手がいるんじゃないのか。そう聞いてしまえばいいのに、この話をしたらこのなんでもない関係が終わってしまいそうで少し怖い。こんなことに怯えているなんて、やはり俺はおかしくなってしまったのだろうか。
「たとえば…、身の回りの整理とか」
「え、引越しする予定ないよ、オレ」
「あとは…、将来的なこととかピョン」
「将来…?うーん、体が続く限りはまだプロやるつもりだし、来シーズンも居てほしいって言われたばっかりだしなぁ」
「仕事はいいけど、プライベートは…」
「プライベート?」
沢北の目がきらりと光った。あ、やはり何かあるんだと俺の心臓が冷たくなる。今まで俺からこんな話を持ちかけたことはなかった。いつもこういう話を聞いてくるのは沢北の方で「深津さん恋人できた?」とか「好きな人できたら教えてね」とか言ってくるたびに「そんなやついねーピョン」と答えていただけだったから。
「なんかあったの?」
「いや、俺じゃないピョン。お前は、…もういい歳だろ」
「あー30なったもんね。てか、深津さんもじゃん。オレより一個上」
沢北のなんでもない言葉に気持ちを落ち着けながら、俺は無意識に下唇を舐め湿らせる。さっきからカフェラテを混ぜるばかりで飲んでいないので、唇が乾いていた。
「…結婚して、早く俺を安心させろピョン」
沢北の動きがぴた、と止まった。
「なんで」
聞いたことのないくらい、怖くて低い声に俺は反射的に顔を上げた。沢北は、サングラスをかけたままでその奥の瞳は見えない。でも、唇がへの字に曲がっていて、一瞬で機嫌を悪くしたのだと分かる。でも、今更俺はこの話を切り上げられそうにもなくて、堰を切ったように頭の中で考えていたことを口から吐き出した。
「日本に来るまで付き合ってたっていう、あの子はどうなったピョン?いい子そうだったピョン」
「もうとっくの昔に他の人と結婚して、子供二人育ててるよ」
「じゃあ日本に戻った頃に噂になってた、あの…」
「その話、したいの?深津さん」
あ…、と声が漏れて息が止まった。沢北は鋭い視線でこちらを見て、不機嫌そうに深くため息をつく。やっぱり失敗だった、と今更気づいてももう遅い。
「出よう」
徐に席を立った。さっき、それ飲んでね、と言われ待ってくれていたカフェラテがまだ残っている。財布から乱雑に万札を引き出してテーブルに置いた沢北は、俺を待たずに出口へと向かってしまう。
ありがとうございましたー、という店員の声を無視して、ズンズンと進んでいく沢北に、俺も慌てて荷物を取りその場を離れた。沢北のシャツが遠くなっていく。
「沢北」
背中に向かって問いかけても、沢北は立ち止まらなかった。
「沢北!」
二度目に大きな声を出して、やっと沢北は立ち止まった。けれど振り返らなかった。怒らせてしまった、と俺は泣きそうな気持ちになる。こんなことで、と以前の自分なら思うかもしれないが、沢北がこう言った態度を取るのは初めてで、柄にもなく動揺していた。
沢北は、こんな話をされたくなかったのに、踏み込んでしまった俺が悪い。
「ごめん、沢北。こんな話いやだったピョン?」
「……」
「でも、いつまでも俺なんかに時間使ってたら、お前のためにならないピョン。大事な人がいるんだろ?だったら、俺と学生みたいに遊んでないでもっと有意義に…」
「俺なんか、って思ってるの?」
いつの間にか振り向いた沢北が、眉を歪めてそう言った。泣きそうなのは俺じゃなく、沢北の方だった。サングラスをしていても、その目に涙が浮かんでいるのが手に取るようにわかった。こんな顔をさせたいわけじゃなかったのに、どうして間違えてしまうんだろう。
「オレは、深津さんのことそんなふうに思ってない」
「…沢北」
「深津さんが、こうやってオレと会うのを学生のお遊びみたいだって思ってても、オレはそうじゃない」
「分かってる、俺だって嬉しいピョン。でも…」
「でも?」
お前の重荷になりたくない。
言いかけて声が出なかった。重荷か、そうか。ずっとそう思っていたんだ。沢北が、俺がいるから恋愛ができない、俺への連絡や会うことを義務のように思っていて、それで恋愛することに支障が出るなら、身を引きたい。そう思っていたのだ。言葉にしようとして気付くなんて馬鹿らしい。でも、どうやらそうらしい。そして、そう願いながらも沢北が誰かと幸せになるのを見ていたくない、という小さなエゴも混じっている。
「お前が他の誰かと幸せになるの、黙って見ていられる自信がない」
言いかけて言えなかった言葉は、別の言葉に噛み砕かれて結局出ていってしまった。沢北はどう思うだろうか。ずっと先輩だと思っていた男に、突然こんなことを言われ、しかも道端で、なんの脈絡もなく。
「俺は、お前のそばにいたいけどでも、邪魔にはなりたくないピョン。俺のせいで、なにか支障があるなら…他に大切な人がいるとして、その話をしてこないのも俺に気を遣わせたくないからなら、それなら俺はいっそ…」
自分で言っていて、何を話しているのかわからなかった。何を伝えようとしているんだ?
どうすればいいか分からなくなり、そのまま口をつぐむ。
「深津さん」
沢北の声は優しかった。てっきり強い口調で、なんすかそれ気持ち悪い、とでも言われると思ったのに、予想に反したその呼びかけに俺は浅い呼吸を繰り返して次の言葉を待つことしかできない。
「自覚してたんじゃないですか」
「…自覚?」
地面を見つめていた視線を上げる。なんの話か分からない。沢北は、ふぅと息を吐いてサングラスを外し、胸ポケットにしまってからゆっくりとこちらに近づいた。
「なんの話ピョン」
「いいから。深津さん」
「ん?」
「抱きしめてみてもいい?」
思わぬ発言に、俺は目を見開いて呆然とした。なんだって?
「なんで…」
「試してみて。ドキドキするなら俺が言ってる意味、分かると思うよ」
何を試すんだ、と思っている間に、腕を取られて抱きしめられた。今日会った時、セクシーだと思ってしまった胸板に、自分の顔が押し当てられる。サボンのような、柔らかいけど甘い匂いがした。沢北の香水だ、と気付いた。ぶ厚いその体の奥で、心臓がトクトクと早鐘を打っている。
「沢北、見られるピョ…」
「いいよ。ねぇ、ドキドキしますか?」
大きな体に包まれるのは初めての経験で、心臓は確かに甘く跳ねたけれどそれよりも落ち着きの方が優っていた。まるで、最初からこうなるのが決まっていたかのように、不思議と密着した部分がしっかりと合わさる感覚。
「ドキドキはしない…ピョン…」
「…そっか」
「落ち着く、ピョン」
パズルのピースがピタッとハマった時のような、不思議な安心感をさらに強めたくて、俺はそのまま大きな背中に腕を回す。するとさらにぎゅっとされる。嬉しくなって、でもこんな場所でこんなことをしていいのかという葛藤も相まって、なんだか俺はパニック状態だった。
「オレはこうやって深津さんをずっと愛してたのに、気付かないなんて」
耳元でそう吹き込まれ、えっと体を離そうとした瞬間、顎を撫でられて顔が近づく。あ、キスされる。そう思った時には、乾いた唇に柔らかい感触。沢北とキスしている、と気付いた時、すでに唇は離れてしまい、目の前には綺麗な瞳が潤んでいた。
「今のも落ち着く?」
確かめるように沢北に問いかけられて、俺は小さく首を振る。
「おかしいピョン。落ち着かない。ドキドキした」
それはもう、びっくりするぐらいに。顎を撫でて顔を上げさせたのも、腰に回った逞しい腕も、キスの瞬間に耳をそっと撫でていったのも、全てにドキドキした。
固まっている俺を、沢北はふわりと笑って見つめた。さっきのカフェのテラス席で、頬杖をつきながら俺を見ていたあの顔に戻っている。
「オレの大事な人なんて、深津さん以外いないよ」
そう言ってからもう一度俺をぎゅっと抱き締めて、そのままするりと手を取られる。
「さ、沢北…」
咎める俺の声を無視して、沢北は歩き出した。どこに向かっているのか、なんて聞くほど流石の俺も野暮じゃない。繋いだ手は熱くて、まだ昼過ぎだというのに全身から汗が吹き出して止まらない。その上、一歩歩くたびに地面がふわふわとマシュマロのようになってしまったのかと思うくらい覚束ず、沢北の手に縋ってどうにか前に進むことしかできない。
一瞬で、沢北に火をつけられてしまった。このまま部屋に行くんだろうと思った。そして、存分に沢北の愛を与えられて、俺は今度こそ分からせられるんだろう。それでいい、そうしたい、と熱に浮かされた俺はぼんやりと思う。
バスケして、食事して、そこまでは学生時代と一緒だ。それに、愛を囁いて、一緒にいて、抱き締め合う、が加わるだけ。ただそれだけなのに、どうしてこうも胸が高鳴るんだろう。ずっとこうしたかったのか、と俺は自分に言い聞かせた。
自分のことなんて何も分からない。ただ、沢北のもっと近くにいたい、ということしか分からない。
「結婚したんですか?」
白米をかきこんでいた俺は、その言葉に一瞬動きを止めた。結婚。またその話か、と俺は口いっぱいに含んだ白米を咀嚼して、ごくんと飲み込む。
「してない。まだ」
そう答えると、今度は真向かいでステーキを頬張っている後輩がえー!と声を上げた。
「それ結婚指輪じゃないんですか?」
「婚約指輪。結婚はまだしてない」
「うわぁもう、深津さんまで…。もうおれ、どうしよう」
頭を抱える後輩を横目に、俺は黙ってセットの味噌汁を飲み干した。指輪を職場につけて行くようになってから、この話題は何度目だろう。
「そういえば、芸能人でも最近ありましたよね。婚約。えっと誰だっけ、北…北沢?バスケの」
「沢北」
「そうそれ!おれ、あの人年下だと思ってたのに、二個上でビビりました。やっぱ三十路越えると焦るなー」
そうだな、と適当に返事をして、俺は食事を続ける。後輩はまだ、うーんとかえぇーとか唸っているが、俺にとってはその悩みも可愛いものだと思ってしまう。
「焦らなくてもいいと思う」
「へ?」
「いつかタイミングが来るだろ」
慰めのつもりでそう言ってやったのに、後輩は「そんなの全然当てになんないっすよー」と泣いている。ステーキが冷めてしまうのに、まだ全然この話は終わりそうにない。昼休みも残りわずかだ。
「結婚式呼んでくださいね、深津さん」
「招待がやばいんじゃなかったのか、ご祝儀がーとか言ってただろ」
「そんなぁ、深津さんの結婚は別っすよ!こっちきてからお世話になりまくってるんで」
へへ、と笑った後輩は、気が済んだのか食事を再開した。
「あ、でも。結婚してもおれのこと、面倒みてくださいね。あとやっぱ、イケメンの知り合いとかで可愛い子いたらお願いします」
「どうだろうな」
「えー!ひどいっすよ、そのイケメンもまだ結婚してないとか言ってたじゃないですか」
「さぁ、あいつも結婚したらしいから」
「えぇ〜…」
結婚結婚て、そんないいもんかよ…、とぶつぶつ呟きながら食べ進める後輩に、俺は微笑ましくなって笑みが溢れた。焦らなくてもいい。本当のことだ。沢北にもそう言ったのに、ここまで漕ぎつけるのに時間がかかったからとかなんとか言って、あっという間に指輪を買って来てしまった。
「さっさと食べて出るぞ、午後も仕事なんだし」
そう言って伝票を持ち、先に席を立つ。
「ちょ、待ってくださいよー!」
後輩の声を聞きながら、俺は会計を済ませて先に外に出た。コンビニでコーヒーを買って、オフィスに戻って、それから午後の仕事を片付ける。そう考えながら何気なく携帯を見ると、沢北からメッセージが来ていた。
『帰ってくるの待ってますね。午後も頑張って』
無意識に頬が緩む。見えないハートマークが付いているかのようだ。今日は金曜日。午後の仕事が終わったら、親友でも旧友でもなくなった恋人と、二人きりで家に籠る。そのためにもう少しだけ頑張れる気がした。
外は日差しが強く、気温が高くなってきていた。沢北と、初めて恋人として迎える夏が近づいている。