常用薄明の頃 獣の手足というのは、本当に足しに成らぬ。
とうとう膝を付き、蹲って動かなくなってしまった書生の、その付いた膝から伝う紅い生命の筋が地面へ落ちていくのを、唯々見ている事しか出来ないとは。
ゴウトは黒い芋虫のように手足を引っ込め、固まってしまった教え子の周りをうろうろと回りながら、声の限りに呼びかけた。
『ライドウ、ライドウ』
原因は解っている。
羅刹天の揮った刃が仙骨の少し上、命門の辺りを深く抉っていったのだ。
臓に達してはいないようだが――もしそうだったらこの量の血では済まない――刻々と流れていくそれは、もう赤い水溜りになり始めていた。
『目を覚ませ、ライドウの名が廃るぞ!』
常であれば、叱咤一つでその薄い瞼を抉じ開けて、すまない、油断した、とその両脚で聢と立ち上がり前へと邁進していく里の麒麟児が、今日ばかりは少しとも動いてはくれない。
(嗚呼、くそ)
短い手足では止血も出来ず、小さな身体では支えにも成らない。
みゃおう、と、仔猫が母猫に甘ったれる時みたいな、酷く情けない声が出た。
精神が身体に引っ張られている、とゴウトは忌々しく思った。
でなければこんな、泣き出したくなるような気分になるなぞ、ここ数百年と無かったのだから。
***
にゃあん、と鋭い獣の声に鳴海は顔を上げた。
見れば、普段から白い顔を更に白くさせたうちの探偵見習が、ドアの前でどさりと頽れるところだった。丁度、少し前に海兵にボコボコにされた自分そっくりに。
鳴海には彼が突然、戸口に現れたように見えた。
が、それはそう見えただけで、鳴海を始めとした昼の世界で生きる衆人には理解できぬ道理と手法で、彼がそこへ運ばれたのだろうと、鳴海は経験則で理解した。
声を掛ける間も惜しく、クロゼットへ仕舞おうとしていたジャケットも放って、床へ伏してしまった青年の許まで駆け寄ってしゃがみ込む。咽るような鉄臭さに、凡その状況を理解した。傷の場所と深度を確認すると、ワイシャツの袖口をびりりと破いて、傷口より少し上の、細い胴回りをきつく縛り上げる。嫌な思い出が多く付き纏っているので滅多に有り難がることはないのだが、今日ばかりは昔取った杵柄、と言う奴に感謝した。
明日の昼辺りに、破いて巻き付けたコレが一四〇番双糸のシャツだった事を思い出した自分が大騒ぎするやも知れないが、それは彼の無事が確認出来たら、山ほどしてやったらいい。
その為に、鳴海は意識の無い身体を担いで金王屋へ飛んで行った。
丑三つ時も過ぎ、朝ぼらけの方が近い頃合いで本当に良かった。
おかげで、シャツを血塗れにした男が書生を負ぶって街中を疾走する姿を見た者は、1人も居なかったのだから。
金王屋の地下に居た白衣に白髪の怪しげな男は、然し腕は確かなものだったようで、本来ならもっと時間の掛かりそうな施術をあっという間に熟し、次は悪魔合体をしに来い、と良く解らないことを言って鳴海を送り出した。
傷は塞がったがライドウは目を覚さなかったので、矢張り自室の寝台まで担いで運んでやった。
シーツと同じくらい青白くなってしまっている顔は、しかしきちんと呼吸をしていて、鳴海は胸を撫で下ろした。
夜中までほっつき歩いて、自分と彼の事務所へ戻る時間が被っていて、良かった。
本当に良かった。
みゃおう、と言う普段余り聞かない、か細い声に寝台を見下ろすと、いつの間にか上がってきていた黒猫がこつりとその小さな額を、眠るライドウの肩元へいじらしくぶつけているのが見えた。
止血をしている間も、担いで運んでいる間も、黒猫はずっと傍らを離れずぴったりと着いてきていた。
――自分の、厳格な目付役です。
彼が此処へ来たばかりの頃、そう紹介されたのを思い出す。
仔猫みたいな仕草をしている様子とその言葉が余りにちぐはぐで、思わず吹き出してしまった。
「それじゃ形無しじゃないの、お目付け役殿」
でもまあ、こんなにかわいい教え子の為ならそうもなるか。
細めた鳴海の瞳に、日の光が差し込んだ。とうとう暁日を迎えてしまったらしい。
すっかり明るくなった小部屋の中で、黒猫がにゃおうと一声鳴いた。