【眠れない夜には】
真っ暗な部屋の中、無音設定にしてソファに放り出したスマホの画面が煌々と光って彼の名前が表示される。着信だ。急いで画面をタップして耳にあてる。
「……もしもし?」
作業部屋なので声を潜める必要はないのだが、つい小声になってしまう。皆が寝静まっている深夜だという意識がそうさせるのかもしれない。
一方の彼、司くんも──彼の場合は明らかにその必要があるからだろうけども──やはり小声で返してくる。
『眠れないとメッセージを送るくらいなら、電話をかけてくればいいだろう』
「さすがに深夜にそれは出来ないよ」
苦笑する。いくら交際している仲とはいえ常識か非常識かの判別はつくし、恋に盲目になってそれらを気に止めなくなるほどロマンチストでもない。何より、いたずらに睡眠を妨げて彼が体調を崩してしまったらと思うと、する気にもなれなかった。
もっとも、司くんは(僕に比べればだが)比較的常識がある。そんな付け足しの理由をあれこれ並べ立てなくても、それもそうだな、とすぐに納得してくれた。
『だが、電話をしたい時には言ってくれて構わんからな』
「ありがたい申し出だけれど……やけに通話を勧めるんだね。何か理由でもあるのかい?」
一瞬、微妙な間が空いた。何か触れてはいけないものに触れただろうかと黙って彼の言葉を待っていると 、やがてぼそりと声が響いた。
『オレが……類の声を聞きたいだけだ』
「…………っ」
返そうと準備していたいくつかの言葉を思わず飲み込む。
付き合い始めてまだそれほど経っていないとはいえ、彼の方からそんな風に言われたのは──初めてで。顔がかあっと熱を帯びていくのがわかる。
『……類?』
「あ、うん。大丈夫。何でもないよ」
本当は全く何も大丈夫じゃない。急に心臓がバクバクし始めたし、最近のスマホの高性能さのせいで耳元で囁かれているような気分になってしまって、ズボンの中がちょっとした一大事だ。でも彼がそんなことに気付くはずもなく、安堵の吐息が聞こえてきた。
『ならいいが。……その、お前の声を聞きたいのはもちろんだが、眠れないなどと言うから少し心配もあったんだ』
「心配?」
『眠れない時には色々と良くない想像をしがちだからな』
──それは、君がそうだから?
問おうとして止めた。聞くまでもない。普段の様子からは全く感じさせないが、彼にだって幾度もあったはずだ。意識を奪ってくれる睡魔など程遠く、ベッドの中で胸をかきむしられるような不安に独り苦悶するしかできない……そんな長い一夜が。
今はもう見ることも叶わない過去の彼を思い浮かべながら、僕は天井を仰いで目一杯に手を伸ばす。
「司くん。君が眠れない時は僕に電話してくれるかい?」
『はは……なんだそれは。さっきのオレの台詞ではないか』
「うん。でもまだ続きがあってね──」
伸ばした手を大きく広げ、見えない何かをぐっと強く掴んだ。
「もし電話をくれたら、すぐに君の家の前まで行くよ」
『は……? いやいやいや、夜中だぞっ?』
平時の声量を比べればまだまだ小さいが、少し上がった声量に思わず僕の口元が緩む。
「それでもだよ。僕は君の家の門前で、君は部屋の窓際で、逢瀬をしようじゃないか。ロミオとジュリエットみたいにね」
『……なんというか、お前に眠れないと一言こぼすだけで大変なことになりそうだな』
「フフッ、こんな男は嫌かい?」
再び手のひらを広げて、天井に浮かべた星形の風船の輪郭を指でなぞっていると、耳にあてたスピーカー部からくっくと押し殺した笑い声が聞こえてきた。
『いいや。──最高だな』
恋人からのこの上ない賛辞。僕は一度瞑目して、その栄誉と彼の楽しげな声を噛み締めた。
まぶたが少し重く感じる。
快い眠りの入り口が、すぐ側まで来ているようだった。