【すれちがいの午後】
暖かな陽気。穏やかな風に、やわらかい日射し──。前日の肌寒さが嘘のように、今日は朝から春めいた良い天気だった。屋敷前の木々へ羽を休めに来たらしい小鳥のさえずりも、心なしか賑やかだ。
そんな変化は窓の外だけにとどまらない。普段は日当たりが良いとはいえないこの執務室にも陽光が射し込んできていた。ささやかな恩恵程度ではあるが、窓際に飾った一輪挿しの花瓶越しの光が今座っている机の所まで届くのは初めて見る。もう少し暖かくなってきたらこの部屋のまた違う一面を見られるのかもしれないと思うと、それはそれで楽しみだ。
一方で、机の端に積んだ要望書の量は昨日や一昨日と何ら変化はなかった。放置しているのではない。処理出来た分と同じくらいの枚数が翌朝に届く為、一向に減っていかないのだ。作業自体は一枚一枚に目を通して可否のサインをしていくだけではあるものの、その可否を決めるのに手間取る案件も当然混在していて気も抜けない。
部下の誰かに任せる事ももちろん考えた。しかし、結局は自分がチェックする事になるのを思えば二度手間になるわけで、そもそも他者へ己の仕事を投げっぱなしにしておくわけにも──
「放っておけばいいんですよ、そんなもの」
見透かしたような頭上からの声。文字に落としていた視線を上げると、苦虫を噛み潰したような顔で薄い紙の束をひらひらさせていた参謀役──ルイと目があった。昨日見舞いに行った時はまだ青白い顔でベッドに座っていたが、今朝になって定刻通りにここへ現れてからはいつも通り。具合が良くないと伏せっていた男にはとても見えない。
まあ元気があるのは良いことだ。
安堵を表情には出さないよう努めつつ、事務的に応える。
「仕事をぞんざいにするのは私の主義に反する。で、お前は議事録のまとめは終わったのか」
紙山のてっぺんから引っ張り下ろした要望書に否のサインをしながら問うと、すぅ、と短く息を吸った音の後で言葉が散弾のように放たれた。
「各々の意見や主張をまとめてそれらの検討を進めるのに必要な資料の諸々を添付、一枚一枚の角に番号まで振って赤子以下の低能でも読めるようにした書類を必要数綴じて冊子化、ついでに詳細をわかりやすくまとめた一覧をわざわざ貴方用に作成して今に至りますが何かご不満でも?」
……ものすごい早口で一息だった。一瞬、早口言葉でも聞かされたのかと錯覚しかけたほど。それにしても毒混じりの報告がよくあんな速さで紡げるものだ。妙な感心をしてしまう。
「報告相手が私という上官である点を加味しなければ全て完璧だ。ご苦労」
「それはどうも。仕事のやり方は、あの方が全て指導して下さいましたからね。抜かりがある訳がありません」
私に冊子を突きつけてふいとそっぽを向く。黙って様子を見つつ提出物を受け取ってみると、空になった手はそのまま腕組みへ組み替えられた。やっていることは反抗期の子供と同じだが実にわかりやすい拒絶だった。
ルイの言う『あの方』とは、先の事件で失脚し、軍の牢へ投獄されている元大臣の事だ。二人の間でどんなやり取りが交わされてきたのかは知らない。ただ、ルイは元大臣の考えに賛同する姿勢を未だに崩そうとしないのだった。この優秀すぎる男がどういう経緯でそこまで心酔することになったのか興味はあったが──現状がこれでは聞いたとて答えてくれはしないだろう。
さりとて、これはこれで困る事もある。
紛失してしまわないように冊子を机の引き出しにしまいつつ、真横を向くルイに苦言を投げた。
「お前に思うところがあるのは理解しているが、他者の前では控えるんだぞ。あまり人の目につくと、その首をはねなければいけなくなる」
ただの忠告のつもりだった。ほんの少しでも発言に気をつけるようになれば、程度の。ところが老婆心は見事に空回り、単に火に油を注ぐだけに終わったらしい。一瞬を境にルイの目尻と柳眉がキリリとつり上がり、こちらを見下ろして吐き捨てるように言った。
「私は元々お伝えしていましたよね。『私の主は生涯あの方だけで将校どのや他の人間に仕える気はない、だからさっさと殺して頂けますか』と。なのに更正と監視の大義名分を掲げて、強引に庇護下へ入れたのは貴方でしょうに」
「…………そうだな」
私はうめき同然に答えて口をつぐむしかなかった。
……ルイの言葉通りだ。ぐうの音も出ない。
事件後の状況は、はっきり言ってあまりはかばかしくなかった。森の民と町の民の和解が成ってもまだ問題が山積していた事に加え、国の方も、件の元大臣が抜けた穴を早々に埋めるのが難しそうだという状況だったからだ。だから──優秀な人手は一人でも多い方が良いだろう──軍本部にそう提案を持ちかけてルイの処罰が軽くなるように手を回した。
そう、表向きは。
(一番の理由は違う)
こちらを睨みつけたままのルイの顔から視線を下ろす。
いつもきちんと整えられた衣服。だが、その下には数えきれない多くの傷跡があるのを知っている。
明るい所──私がつけた傷の治療時だ──で確認したが。傷跡は上肢、下肢、性器にいたるまで、服で隠れそうな場所が多いものの全身に残されていた。特に多かったのは鞭の跡や火種を押しつけられたような跡。しかし、それは明らかに戦闘では負わない類いの傷跡でもある。刻んだのが誰かなど容易に想像できた。……罪の片棒を担いだのは事実とはいえ、そんなキズを幾度も負わされている者を『罪人だから』の一言で切り捨てるなど出来るわけがない。
そんなことを口走ろうものなら──同情は止めてください──と汚物を見るような目が向けられそうなので、本人には口が裂けても言わないが。
(同情、だけでもないんだがな)
最初は恐らく同情も含まれていただろう。でも最近は、明らかに違うものを感じている自覚がある。昨日ルイを見舞った時もそうだ。平常通りを装いながらも心の中はもどかしさでいっぱいで、ルイの部屋を後にしてからもずっと一つの事を願っていた。
──もっと近くで寄り添えたなら──と。
いや、それこそルイは嫌がるか。
胸中でひっそり自嘲し、堂々巡りをしそうな思考に終止符を打った。視線を再び机上へ戻して作業の続きを始める。
「次は書棚に押し込んだ書類の仕分けを頼めるか」
念の為にちらりとルイの様子をうかがう。
睨みつけていた目はすぐに棚へと向けられたが、今度は怪訝そうに眉根に皺が寄った。
「……将校どの。あれ、城下町にある軍本部管轄の案件がほとんどでしょう。こんな僻地にいる貴方の仕事外じゃありませんか」
よく見ている。先月この執務室の整理を頼んだ時に見たのだろうか。正直、どれも似たような紙束ですっかり見分けなどつかなくなってしまった私に、是非分けてもらいたい記憶力だ。
サインを終えた書類の山に新しく一枚を加え、返す手で未処理の山からまた一枚つまんで嘆息した。
「しばらくはそちらの雑事も手伝わねばならん。私は今大きな借りがある状態だからな」
「借り? 全く、何をしたんですか」
「やましいことはしていないぞ。先程のルイの嫌みの──」
「っ……!」
──びくんっ!
長身が大きく震えたのが視界の端に見えた。突然の異変に何事かと咄嗟に目をやれば、そこには──目元を朱に染めて、しまったと言いたげに目を見開いたルイの姿。
私とがっつり視線がぶつかるや否や、ルイは慌てて口元を手で覆った。
「……? どうした。やはりまだ体調が悪いのか、ルイ」
「っ、その…………」
「その?」
月色の瞳がわずかに宙をさまよう。それだけでも珍しかったが、普段なら射貫くように合わせてくる事の多い視線も虚空に外して、もごもご言葉を紡いだ。
「…………将校どの、なぜ、名前を」
「ん? もう表立って参謀役とは呼べんだろう?」
対外的にルイは罪人で、それは私の監督下にあっても変えようもない。昨日は別れ際にそう呼んだが、言えたのは二人きりの部屋だったからだ。誰か一人でも他者の目があれば口にしなかっただろう。
──そういえば、面と向かって名前を呼んだのは初めてだったかもしれない。様子がおかしいのはそのせいだろうか。
「もしかして名前を呼ばれるのは嫌か?」
「は?」
「お前の態度がいつもと違うからな。嫌なら控えるが」
「っだから貴方は──……っ」
きゅっと唇が噛みしめられる。
これは怒涛の口撃の前兆か。私はひっそり心の防御体勢を整えて状況を見守るに徹した。……が、予想に反して、ルイはいら立ち混じりの息を吐いただけで再びふいと顔を背けた。
「……嫌という訳ではありません。貴方にそうやって呼ばれるとは思わなくて動揺しただけですので、どうぞお構いなく」
長身はさっさと踵を返して棚に向かい合った。
書棚は、背の高いルイすら越える大きな物だ。細かい彫り物も随所に施されていて、立派な代物であるのは素人目にもわかる。しかしながら内部は──自分がやった事ながら──実に混沌としていた。書類を綴じた束やその他の資料がまとめてドミノ倒しになっていたり、平積みでみっちり積み上がっていたり。中には棚からだらんと半身ほど垂れた紙も見える。
多忙を理由に雑に突っ込んだ末の、この有り様だ。流石に怠惰だと罵倒される覚悟くらいはしていた。
しかし、ルイは沈黙を保ったまま、棚の中を占拠している物達を次々引っこ抜いては床に積んでいく。先月の部屋の整理時には絶え間ない小言と苦言がこぼされたのを思えば、恐らく言うのを堪えてくれているのだろうが──情けないかな、その背中からは怒っているのか呆れているのか、それとも名前の件を引きずっているのかすらわからなかった。
(これでは上官面は出来んな)
ルイとの間にある分厚い透明な壁。寄り添いたいと思いながら触れもしない、そんな己の不甲斐なさから目をそらすように作業を再開させた。
──室内に静けさが戻った。
………………。
…………。
それから五分が経ち。
十分が経ち……。
三十分が経つ頃には目の前の仕事に集中していて、沈黙を含んだ空気が気にならなくなっていた。
耳に届くのは紙上へペンを走らせる単調な音だ。それを、ばさっ、ぱらぱら、という色んな紙の音が不定期に彩っている。陽光は残念ながら少し傾き始めていた。そのせいで光量はやや落ちてしまったものの、窓は閉ざしたままなので暖かさが健在なのはありがたい。だが。
まだ寒さの方が際立つこの時期に──暖かさが大敵なのをすっかり忘れていた。
見えない敵の策にはまったと気付いたのは、知らず知らず手が止まり、ミミズがのたくったようなサインを六回ほど書いた時だった。
(……眠すぎる、なんだこの睡魔は……っ!)
連日の平均睡眠時間は三時間。食後に眠くなって十分前後の仮眠をとる事もあるが、それ以外で日中眠気を感じたりはしないのだから適正範囲内ではあるはずだ。なのに──いま感じている眠気はあまりに異様だった。
まぶたというより脳が重い。動かしてもいないのに視界がぐらんぐらん揺れる上に、一秒かそれ以下の自覚がない気絶を挟んでいるのか、まばたきほどの一瞬でペン先が明後日の方向へ線を引いていたりする。このままでは、否と書くべき紙に了承のサインをしかねない。
(……諦めよう)
私はなけなしの意識と理性を振り絞った。まずはペンをペン立てに戻し、不測の事態に備えて書類の一切合切を机の端ギリギリへ避難させる。そして腕を組んでそのまま机へ伏せ、白旗を上げて睡魔に屈するだけ……だった。
ところが腹をくくった途端、睡魔の猛攻はわずかばかり緩んだらしい。眠りの沼の数歩手前で意識が踏みとどまった。まるでこちらの万全の準備と覚悟を睡魔に嘲笑われているようで実に腹立たしい。かといって、こんな中途半端な状態で仕事に戻ったとて、またすぐに頓挫するのは火を見るより明らかだ。ここは一度決めた覚悟のままに、大人しく居眠りの態勢は継続する事にした。
その時だ。
「ん。将校どの、この書類は──っと、お休みですか」
コツコツ、と靴音が間近に寄ってきた。
「全くこんな無防備に……私が番犬をしていなければとっくに死んでますね、この人」
番犬。何のことだろうか。あの一件以降、ルイには事務的な仕事しか任せていない。私の目の届かない所で有ること無いこと吹き込む輩からも遠ざけておく為に鍛練にすら参加させていないから、人と相対する機会もそう無いはずだが。それともまだ何か秘密裏に──
夢と現の合間に漂う思考を無理やり動かしていると、靴音が真逆の壁際へと移動した。またすぐに戻ってきたが、今度は私の斜め後ろで音と気配が止まった。
ぼそりと小さな声が降る。
「……だから、そんな誰でも出来る雑事なんて私にでも任せて、さっさと休めばいいのに」
肩にぱさりと何かがかけられた。鉛のように重いまぶたを必死に持ち上げて薄く目を開けてみると、起毛した茶色の布に刺繍されたアーガイル柄が目に入る。
見間違える訳もない。これは、いつだったかにルイから貰ったブランケットだ。
確か──市場で見つけた安物だとか、自分用に買ったが使い心地が悪かったから使っても構わないだとか──色々まくし立てられながら強引に渡された品だ。本人は贈り物ではないと力説していた。だがその後、非番の日に市場の店で二時間近く悩んでいた姿を見たという話を他の兵士達から聞いたので、私は勝手に好意的に解釈をしているのだが。
どちらにせよ、せっかく貰った物には違いないのだからどこかに埋もれてしまっては意味がなかろうと、壁のフックにひっかけておいたのだった。
……と。色々と頭を使いすぎたのかもしれない。いよいよ増してきた、どろりとした眠気で意識が朦朧としてきた。現実かどうかも判然としなくなってきた中、チッ、と舌打ちが小さく響く。
「見てて腹が立つくらい真面目で、誰にでも優しくて、誰にでも気を遣って……。本当にあの方とは違いすぎて困るんですよ」
はぁ、と深いため息がもれ、
「…………どうしたらいいのか、わからなくなる」
苦しげに絞り出すような声だった。
……ああ、この睡魔。邪魔だ。今、きっとつらそうな顔をしている。怒りでも何でもいい。何か応えれば少しでも和らげてやれるかもしれないのに、もう目を開ける事すら出来ない。
こちらにまだ意識があるとは思ってもいないのだろう。初めて聞くような優しい声で、ルイが独白を続ける。
「私という道具の使い方もわからない貴方の為に、口やかましい駄犬のまま側にいてあげます。だから──」
頭に手のひらとおぼしき温もりが触れてきた。
そして──二度、三度と──ゆっくり撫でられる感触。
「必要な時にはちゃんと私を切り捨てて、逃げるんですよ」
待ち遠しさを隠しきれない。そんな風に聞こえた。
ルイの言葉の意味を考えるのも理解するのも、今は叶わない。ただ頭に浮かんだ思いはたった一つ。
──そんなこと絶対にするものか──
しかし、睡魔の力はあまりに圧倒的だった。強く思ったそれすら何の形にも出来ずにぐずぐず溶けて、眠りの闇に引きずり込まれていく。
遠くに聞こえる紙をめくる音を最後に。
意識は現実から切り離され、落ちた。