【だから、今は】
風で窓がカタカタと音を立てる。
それだけでオレの意識は手元の小説から現実世界へと引き戻された。一旦、我に返ってしまえば色々なものが目につく。窓を覆い隠すカーテンの影。デスクライトで照らした机。その机の端に置いたスマホ。開きっぱなしにしていた台本とシャーペン、等々。……既に集中力が限界を迎えているのは明白だった。
最後まで読みきってしまいたかったが仕方がない。本に付属していた宣伝しか書かれていない栞を挟んでぱたりと閉じ、若干凝り固まってしまった肩をぐるぐる回す。と、背後のベッドから小さい声が聞こえてきた。
「……眠れないのかい、司くん」
「類? 起きていたのか」
振り返ると、ベッドから紫の頭がはみ出ていた。ぱっちり開いたシトリンの双眸と正面から目が合い、苦笑う。てっきり先に眠ってしまったのだと思ってベッドを抜け出したが、どうやら眠るどころか微塵も睡魔を感じていないようだった。
今晩は両親が旅行で不在。咲希も一歌の家に泊まるというので、オレも類を家に招いた。一緒にミュージカルなどを観たいというのもあったが、役で行き詰まっていた箇所や通常公演内での演出案の変更など話しておきたい事も積もっていたからだ。
だが、眠ってしまったならとベッドを抜け出しはしたが、起きているのなら来客を放っておくのは気が引ける。立ち上がって机のライトを消すとベッドへ舞い戻った。オレの寝場所どころか長い手足を伸ばして完全にベッドを占領していた類だったが、すぐにコロコロと転がってオレの分の場所を開けると、うん、とつぶやく。
「あまりこんな時間に寝る事がないせいかな。目が冴えてね」
「いや、もう深夜なんだが」
「まだ一時にもなっていないじゃないか。十分、ゴールデンタイムだよ」
「お前が度々学校で寝こけている理由がよくわかるな……」
半眼でうめきつつ、類の隣に潜り込む。どれくらい後ろから見つめていたのだろうか。温めておきましたと言われても納得するほどそこは温かかった。
「司くんは? やっぱり同じベッドは寝づらかったかな?」
「いや、やっぱりもう少し原作を読み込んでおきたくてな」
「フフッ。真面目だね。……今回はトルペや黒騎士ほどやりづらくはないだろう?」
「まぁそうなんだが。その……」
言葉を探しつつ、類の顔を見つめる。
こちらの言いたいことをわかっているのかいないのか。どうとも読み取れない表情だ。もっとも、今さら探り合いする仲でもない。心の中でひっそり白旗をあげて白状した。
「……恋など不要、恋人は邪魔だと言いきる場面がしっくりこない」
他は十分理解できている感触はある。類にも軽く見てもらったが、特に問題はなさそうだと言われた。ただ、その場面のその台詞だけが、喉につっかかるようでうまく出てこない。
すると類がくっくと肩を揺らした。
「なるほど。その点だけ自分と役をうまく切り離せてない、と。演出家としては叱責のひとつでもした方がいいんだろうけど、君の恋人としてはこれ以上ないほど嬉しいな」
「ぐぬぬ……」
半ば予想がついた結果にうめくしか出来ないでいると、不意に類が布団をはねあげて身体を起こした。そして、何を、と問う間もなくオレの上に覆い被さってくる。
ふ、と細められたシトリンの瞳に射貫かれて一瞬言葉を失っていると、演出がうまくいった時に見せるのと同じ笑みが浮かんだ。
「なら、今夜はどっぷりと恋人を堪能して、明日から気持ちを切り換える──というのでどうかな」
「ど、どうも何も、嫌だといってもする体勢だろうがっ」
「うん? じゃあ聞くけれど……司くんは、したくない?」
背中を曲げて、熱を帯びた吐息ごと囁きを耳に吹きかけられる。身体の芯をくすぐられたような感覚に思わず、んっ、と声を漏らしてしまったが、類はただ真っ直ぐにオレを見つめて答えを待つ姿勢を崩さなかった。
……恋人のお泊まり。そのイベントに全く期待しなかったわけじゃない。オレにだって人並みの性欲があり、人並みの下心を抱く事だってある。だから。
オレが答えられる言葉は、一つだけだった。
「………………したい」
よくできました。
その言葉を言い終わるのと同時に唇が塞がれたかと思うと、類の手が急くように身体を撫で回してくる。ここにおいて初めて類の下心が透けて見えた気がして、自分だけではなかったのかと勝手に胸が弾んだ。
──明日はまた役者に戻るから。
──明日には類も演出家に戻るから。
(だから、今は)
言い訳を踏み台に、オレは類の首に腕を回して自分からキスをした。舌も絡めて徐々に深さを増していく。
そうだ。せっかくの夜なのだから堪能しなければ。
恋人との夜のショウは、まだこれからだ。