「許す」なんて/離してやれない もうさ、知るのに疲れたんだ。お前の優しさも、それを知って悲しむ俺の心も全部全部抱えきれないんだ。お前の優しさは人とは違う。種別が違うんだから当たり前か。お前は人になら愛を囁くし、誰とだって寝る。その度俺の心は軋んでいって、もう辞めろよそういうのなんて何回言ったか分からない。それでもお前は「愛することの何が悪いんだ?」って、またその顔だよ。
それならさ、もういいよ。もういらないよ。お前の愛も傷も俺が大切にしていた恋心まで全部忘れてやる。
外は暗闇に包まれている。俺は当てもなくふらりと外に出た。かすかに海の匂いがする。風に乗って、こっちに来いって言ってるみたいだ。誘われるままに一歩、また一歩と歩を進める。夜の海は暗く深いのに月の光に照らされて、一筋の希望が見えるようだった。
あぁ、救われていいのかな。
ぽちゃんと足をつける。この息の詰まりが、胸の痛みが消えるならそれでいい。海の中は優しくて、波が俺を包んでいく。
俺が消えたってお前にはなんでもないことだろう。だからさ、楽になるぐらい許してよ。あぁ、でも
「許すほど俺って、お前にとって価値ある存在だった?」
嫌な予感がした。
その日はバーで出会った女と飲んでいて、たわいない話を一つ二つ交わしているところだった。急にぞわっと、背筋に悪寒が走った。これは鬼の勘だ。何か悪いことが起きている、そう本能が告げていた。
「…すまないが、今晩はここまでだ」
がたりと席を立ち、バーを後にする。女が何か言っていたが、関係ない。どうせ一夜限りの関係だ。
「ミスタ…?」
ぽつりと呟いた名前は、夜の静寂に溶かされていった。
がちゃり、性急に玄関の鍵を開ける。
「ミスタ!」
そんな慌ててどうしたの、ダディ。また女遊び?程々にしときなよ。そんないつもの声は聞こえてこない。それどころか、家の中はどこもかしこも真っ暗だった。この時間帯はいつもならばまだミスタも起きているはずだ。どくんどくんと鼓動が早まる。玄関を見ていれば、ミスタの靴はなかった。コンビニに行ったのだろうか?私が女と遊んでいるから、ヤケ酒をしていつものように酒の調達を?いや、馬鹿げた考えだ。そうあって欲しいと願っているだけだ。自分でも理解している。
「ミスタ、どこへ…」
ふと、海の匂いがした。ふわりと香っただけだが、足は自然と香りの先へ走っていった。ミスタ、ミスタミスタミスタ、どうか私の勘が外れていてくれ。愛しい子。
夜の海はどこまでも暗く、人一人飲み込んでしまう危うさがあった。到着した頃には息が上がっており、肩で息をする。しかし、愛しい子の影は見えない。項垂れ、踵を返そうとした時、げほりと音がした。急いで振り向くと、波打ち際に黒い影が見える。
「ミスタ!」
暗くて確証なんてない、それでもそれはミスタだと本能が告げていた。急いで駆け寄り、体を抱き上げる。冷たい。どこもかしこも青白く、びしゃびしゃに濡れていた。あぁ、死のうとしたのか。失敗に終わったようだけれど。
胸を強く押し、口付ける。体の水を抜いてやらなければ。何度も何度も、帰ってこいと念じながら繰り返す。そうすれば、固く閉じられていた瞼が薄らと開かれた。
「ヴォッ…クス…?」
「ミスタ! ミスタ! 気がついたか! 私がわかるんだね」
「はは、最悪。 死んでも浮かぶのはお前の顔かよ」
ミスタは力なく笑う。
「死んでなどいない、死なせるものか。 あぁ、ミスタ、無事でよかった」
ぎゅっと力を込めて抱きしめる。服が濡れることなんてどうでもよかった。
「ほんと、最悪…。 死んでないの?俺。 死ぬ事すら許して貰えないのかよ」
「許すはずがないだろう、愛しい子。 私はお前が無事かどうか気が気でなかったんだぞ」
「どうせ女といたくせに」
図星を刺され、酷く後悔した。ミスタは死のうと考えるほど、私が遊ぶことを許せなかったのだろう。
「もう見たくない、お前の顔も…。 もう一回やるから、離して」
「そんなことを言われて離せるとでも? もう離してやれないよ、こんな危うい子。 なぁミスタ、もう遊びは辞める」
「どうだか」
「本当だ。 本当に辞める。 お前が一番大切なんだ」
「ハッ、一番って。 つまんない冗談やめてよ。 それならもっと俺、お前に…」
そこで口を噤んでしまう。
「愛している」
告げて口付ければ、ミスタの顔がくしゃりと歪んだ。酷く傷つけられたようでいながら、一筋の光を求めるようで。
「信じられるとでも思ってんの」
「これから証明する」
抱きしめる力を強めれば、恐る恐る背中へ手を伸ばされる。心もとない指先が、私の上着を掴む。
「…約束。 破ったら今度はお前を殺してやる」
「あぁ、そうしてくれ」
波の音が聞こえる。先程までは聞こえていなかったのに。夜の静寂は、二人を優しく飲み込んでいく。
「帰ろう、風邪をひく」
「もうひいてるかも」
「そうしたら、付きっきりで看病するさ」
「うげえ、ヴォックスが付きっきりなんて変なの」
まだふらつく足どりをそっと支え、家路へと足を進める。これまでどれだけ苦しめてしまったのか、正直なところ理解はしきれていない。だが、私の行動で愛しい子を死へ追いやったのは事実だ。その重みを抱えながら、新しい生活は良いものにしてみせると心の中で決意する。この愛しい子が安心して私の胸で眠れるように。一筋に愛を注いでいこう。