無題 来馬がそれを二宮に相談したのは、たまたま大学構内で行き合った二宮に「何かあったのか」と聞かれたからで、別の誰かに聞かれても同じように相談していた。しかし、二宮より先に声を掛けた人物がいたとしても、来馬の異変に気付くことはなかっただろう。
「ストーカーされているのか?」
「かも、だよ」
明け透けな発言をやんわりと否定された二宮の表情は変わらなかったが、二人並んで座ったベンチで組んでいた足を入れ替えたのは苛立ちを逃すためだった。
「日常生活で誰かの視線や気配を感じるんだろ?ストーカーじゃねえか」
「ずっとじゃないよ」
「じゃあいつなんだ」
「ボーダー本部のラウンジとか、本部と鈴鳴支部までの道中とかかな。あと最近は支部の周りでも感じる」
「お前の部屋や実家は?」
「それは今のところない。帰宅するときについて来てるかもと思ったことはあるけど、途中でいなくなるんだ」
二宮は、隣で淡々と説明する来馬を数秒じっと見つめたあと、俯いて大きくため息を吐いた。来馬は困ったように苦笑いを浮かべている。
「……ボーダーの隊員ってことか」
「たぶん、そうだね」
来馬が悩んでいたのは、日常生活で妙な視線や気配を感じるようになったこと自体ではない。それをしているのがボーダーに所属している人間だろうということだった。
「本部には相談したのか」
来馬が首を横に振ると、二宮の顔がぐしゃりと歪む。舌打ちしたい衝動を抑えているのだ。
「まだ確証もないし、大事にしたくないんだ。大学にいるときには感じたことがないから、高校生以下の学生なんじゃないかと思って」
二宮は押し黙ったまま、組んでいた足を解いて来馬を正面からとらえるように座り直した。ほとんど睨んでいると言っていい目で来馬を見つめる。それは、来馬に対してはじめて向けられた目だった。
正直に言うと、来馬はいまこの瞬間まで、自身が「ストーカーされているかもしれない」ということに対して楽観的に構えていた。視線や気配を感じるのがボーダー本部や鈴鳴支部周辺に限られることから、相手は高校生以下の隊員だろうと推測できたし、特に何かアクションがあるわけでもなかったので、そもそも自分の勘違いかもしれないとさえ思っていた。だが、二宮の怒りを滲ませた瞳が、その判断は早計で甘いと叱責している。
「お前、俺がいま聞かなかったらいつ人に話すつもりだったんだ」
「……二、三日前の防衛任務が終わった後、帰ろうと思ったら気配を感じて。防衛任務のシフトも把握してるのはさすがにちょっと、と思ってはいたよ」
来馬の声色が変わったことに気付いたのだろう。二宮はばつが悪そうに来馬から視線を外すと、ひとつ息を吐いてから、ゆっくりと諭すように言葉を紡いだ。
「何かあってからじゃ遅い。相手も目的もわからない状況のまま一人で抱え込むな。ちゃんと然るべき人間に相談しろ」
「ごめん。ちょっと甘く考えすぎてた」
「じゃあ本部に相談するんだな?」
「それはちょっと……」
「おい」
来馬は思わず両手を自分の顔の前に上げて二宮の視線から逃げた。
二宮が怒るのもわかる。言っていることはもっともだ。それでも、来馬も引けなかった。
「だって、もし本当に未成年の学生隊員だったら……ね?」
今回の件がたとえ大きな問題にはならないような――来馬に被害がなく、当事者同士の話し合いで解決する話だったとしても、本部に相談すればその隊員は問題を起こした人物として認識されるだろう。来馬が気にしているのはその点だった。
「じゃあどうやって解決するつもりなんだ」
「うーん……。話し合い?」
「相手が誰かもわからないのに、話し合いも何もねえだろ」
「たしかにそうだね……」
どうしたものかと悩み出す来馬を横目に、二宮は再びため息を漏らした。
「……わかった。俺が協力してやる。一週間で解決しなかったら、本部に報告するからな」
「えっ?協力って、何をするの?」
驚いて目を丸くする来馬の横で、腕と足をそれぞれ組み出した二宮は、いつもの調子に戻ったようだった。
「俺が一緒に行動して相手を特定する。一週間分の予定を確認するぞ。推測通りボーダーの学生隊員なら、本部にいるときが一番尻尾を掴みやすいだろう。俺が一緒にいられるときに本部に来い。それから基本的に一人でいないようにしろ。移動も、なるべく俺が送るようにする。部屋に帰るのはやめて、夜は鈴鳴支部にでも……」
そこまで言って言葉を切った二宮の、窺うような目に捉えられる。来馬は内心では「部屋に帰るな」というのはやり過ぎではと思ったが、これまでなかったからと言ってこれからもないという保障はない。二宮が本気で自分の身の安全を心配しているのはわかっていたので、黙って続きを待った。
「……いや。面倒だから俺のとこに泊まりに来い」
「迷惑じゃない?」
「一週間協力するって言っただろ」
さすがに二宮に負担を掛けすぎていると感じての言葉だったが、強い口調でピシャリと言われてはもう観念するしかない。来馬は「よろしくお願いします」と小さく頭を下げた。
* * *
来馬は少し緊張した面持ちで、二宮が一人暮らしをしている部屋に入った。何度か遊びに来たことはあるが、泊まるのは今日が初めてだ。
ストーカーされているかもしれないと二宮に相談した後、そのまま二宮に付き添われて自室に戻り、必要最低限の着替えと明日の授業で必要なノートなどを持ち出した。その一式が入った鞄は、先に部屋に入った二宮によってすでに持ち込まれてリビングのソファの上に置かれている。その二宮はといえば、姿が見えないので寝室に入ったのだろう。
二宮の部屋は1LDKで、一人暮らしには広く、普通の大学生が借りるには家賃が高い方だと以前堤に教えてもらったことがある。堤や太刀川の部屋は1Lか1Kという部屋が一つだけのもので、そのつくりに来馬は大いに驚いてしまったのだが、大学生ならそのくらいが普通だと言われた。
そんなことをぼんやりと思い出していたときだ。リビング横の寝室から、二宮が何かの衣類――おそらく来馬に貸すための部屋着を持って現れ、来馬を見るや眉間に僅かに皺を寄せた。
「なんでそんなところに突っ立ってんだ」
来馬は二宮に指摘されてはじめて自分がリビングの入り口に立ったままであることに気付いた。
「えっ……ごめん。いろいろ急だったから……」
正直に言って、展開の早さについていけていない。二宮の言うように対処が必要なのはその通りだと思うが、自分で十分に考える間もなく全て二宮に言われるがまま今に至っている。本当にこれが最善の方法なのか、ここまで来て不安になった。協力を申し出たのは二宮だが、やはりどう考えても二宮に掛ける負担が大きい。
「……お前が迷惑に思っていようが、俺は今更やめる気はない。最初に言った通り、一週間だ」
二宮は聡明で察しがいい。しかし今は違う方向に解釈したようだった。来馬は慌てて頭を振った。
「違うよ。迷惑だなんて思ってない。むしろ迷惑を掛けているのは僕の方だから、やっぱり二宮に負担を掛けるのが申し訳ないなって……」
「負担が掛かるのはお前もだぞ。四六時中とは言わないが、ほとんどの時間を俺と一緒に過ごすことになるんだからな」
「それは全然負担じゃないよ」
来馬が反射的に返した言葉に、二宮は眉間にぎゅっと皺を寄せて苦々しそうな顔をした。何か言おうとして開いた口から漏れたのはため息だ。
「……俺もお前も迷惑に思ってないし負担じゃないなら、もういいだろ」
二宮も僕もこの状況が迷惑じゃないし、負担じゃない?
二宮にサラッと言われた言葉を頭の中で繰り返す。じゃあ良かった、と一言で済ませることができなかった。それが一体何を意味するのかわからないまま、しかしこれ以上この議論を続けるつもりが二宮にはないのがわかったので、二宮の目に促されるままリビングのソファに腰を掛ける。適当にくつろいでおけと言われて渡されたのは二宮が抱えていた部屋着で、二宮はそのまま廊下に出てしまった。続いて水の流れる音が聞こえてきて、風呂を沸かしているのだと気付く。時計を見ると二十二時を回ったところだ。夕飯は外で済ませて来たし、明日の朝は二人とも一限目から授業がある。寝る準備を始めるには十分な時間だろう。
二宮は家主として客人の来馬の世話を十分にしていた。そのおかげで来馬は一つひとつの行為に遠慮こそあれ不自由に感じることはなく、就寝の時間を迎えた。そこで問題になったのが「どこで寝るか」である。
「お前はベッドを使え」
二宮はそう言って寝室のドアを開けた。リビングの明かりでほんのり照らされたその一室には、当然ながらベッドが一台しか見えない。
「二宮はどうするの?」
「ソファで寝る」
リビングの真ん中に置かれたそれはシングル用のコンパクトなものではなく、三〜四人掛けの一般的なサイズだが、長身の二宮が収まるにはどう考えても足りない。
「さすがにそれは悪いよ」
「こんな硬いとこで眠れるのか?」
「僕をなんだと思ってるの」
思わず言い返したが、不安がないわけではなかった。枕が変わると眠れないというほど睡眠に関して繊細なわけではないが、寝具ではないもので眠るというのは少々抵抗がある。しかしベッドを譲って自らはソファで寝ようとしている二宮には言えない。
「……性急だったのを悪かったと思ってる。頭を整理させるためにも休息はちゃんと取った方がいい」
今日、部屋に来たばかりのときに来馬が漏らした言葉をずっと気にしていたのだろう。あの二宮がばつが悪そうにしている。
「なおさらベッドを使わせてもらうのが申し訳ないよ。僕はソファで大丈夫だから」
話し合いが平行線を辿っていることには気付いていた。それでも来馬もここは譲れない。譲らないだろうということは二宮もわかったのだろう。
「じゃあ、ベッドで一緒に寝るか?」
二宮にしては珍しく、半ばヤケクソのように放たれた言葉だった。来馬が目を丸くする。
「いいの?」
今度は二宮が驚く番だった。
「いや、お前こそいいのか」
「僕はいいよ。二宮がそういうのは嫌がるかと思ってた」
「……セミダブルだから二人でも寝れなくはない。狭いとか文句言うなよ」
「言わないよ」
朝になり目が覚めた来馬は、急速に覚醒した頭で昨晩どうやって眠ったかを思い出していた。落ちたら困るとベッドの壁側に来馬を押しやった二宮は、それ以上会話する余地を与えずそのまま来馬に背を向けて布団を被った。二宮が横向きでいるせいで二人の間に大きな隙間ができてしまい、空気が通って少し肌寒い。来馬はその隙間をなるべく埋めるように掛け布団を調節しようとしたが、自分の体に掛かる面積が減ることに気付いて途中で諦めた。
セミダブルのベッドの横幅は二人でも眠るにはなんとかなるが、掛け布団は盲点だった。まだ夜は冷える季節だ。明日起きたら何か他に上掛けがないか聞いてみよう。そんなことを考えて眠りについた気がする。
そして今、自分が置かれている状況を努めて冷静に把握しようと、頭の中で言葉にしてみる。
二宮が、僕を正面から抱きかかえて眠ってる。
来馬は失敗した、と思った。言葉にしたことでより羞恥心に襲われただけだ。
寝ている間に掛け布団の取り合いでもして、寒くなってこうなったのだろう。もしかしたら抱き枕と間違えたのかもしれない。抱き枕なんて見当たらなかったし、使っているイメージもないけど。
二宮とはそれなりにたくさんの時間を一緒に過ごしてきたが、この距離間は今までにない。妙に緊張してしまい、心臓の音がやけに煩く耳に響いている。どうしたものか思案しているとき、数センチ先で二宮が息を詰めたのがわかった。開かれた瞳に驚きが見て取れる。
「お、おはよう」
二宮は二人の距離が異常に近い原因が自分にあることを瞬時に把握したようだった。来馬の背中に回していた自分の右手を素早く上げて身を引くと、そのまま上半身を起こして来馬との間に距離を作る。
「……悪い」
「大丈夫だよ。びっくりしたけど。何か他に上掛けとかあるかな?ちょっと寒かったのかも」
「出しておく」
ベッドから降りた二宮がクローゼットを開けて中を物色し始めている。ベッドの上で体を起こした来馬は、二宮に気付かれないように一瞬だけ布団に顔を埋めた。
* * *