貴方が嬉しそうにするから 夕暮れに染まる学校からの帰り道、近所の家の前。
じゃがいもと玉ねぎが煮込まれた匂いが鼻をくすぐっていく。シチューかな? と予想を立てて足は進む。
チリソースの香り。
卵の焼ける匂い。
トマトスープの香り。
肉の焼ける匂い。
焼きたてのパンの香ばしい空気。
ちょっと甘い香りはなんだろう。
どの家の夕飯も美味しそうだなぁと、素直にそう思う。
暖かな色が灯っていて、笑い声や叱る声に泣く声。いろんな音が溢れて弾けている。それだけでも食卓は彩られて、明るい顔が口いっぱいに料理を頬張るのだろう。
いいなぁなんて思いながら、ポツンと隙間があるように影を落とす敷地に足が少し重くなる。
今日は、電子レンジで温める冷凍のグラタンかな。
灯りのない真っ暗な家の中。外からの光りを頼りに向かったキッチンは、当然ながら料理されたものなんて何もない。
先程頭の中に浮かべた冷凍食品を温めて、その場で折り畳みの簡易椅子に座って食べる。いつもの行動。
美味しいと思って食べていたはずなのに、味がしない。たぶん美味しい。うん、美味しいんだ。
言い聞かせるように口に運んで、ちっとも味のしないそれに塩や胡椒を振りかけるけど、やっぱり塩味や辛味しかしなくて。でもこれはホワイトソースだと頭はわかっている。冷蔵庫から取り出したオレンジジュースは、甘味も酸味もわかるけど味がわからない。でもやっぱり、オレンジジュースだと頭はわかっている。
口に入れて噛んで飲み込んで。作業のようにそれを繰り返して、空になった器を見つめては大丈夫、食べたと自分に言い聞かせる。
キッチンからリビングに目を向けて、窓の外は綺麗なオレンジ色なのに、見える視界いっぱい真っ暗なそこにため息がこぼれた。
母が亡くなって、願書の件でマーヴェリックと仲違いをして、この家を出ると決めて。必要最低限にしか過ごさない家の中は、自分が育ってきた場所のはずなのに他人の家のような気がして、とても居心地が悪い。
誰もいない、誰の声も聞こえない、返事がない。薄寒く感じるそこは見ているままに真っ暗で。痛いくらいの無音に姿勢悪く背中を丸めた姿勢のまま、そこを見たくないと思ってゆっくりと目を閉じた。
飲食物の味がよくわからない。
それは大人になっても変わらなくて、大味のステーキであっても繊細な味付けの煮込み料理でも、口に入った物の味は甘いか辛いか苦いかしょっぱいか、その判断くらいしかできかった。それも年々わかりにくくなっている気がするけれど、気付いていない振りを続けている。
どうぞと差し出される料理は、食べれれば美味しいと口にし文句は言ったことがない。
酒類もそうで、味はわからないのに、喉が焼けるようになるし酔うことはできる、不可解で妙な飲み物だと思っている。
別に誰かに迷惑をかけるわけでもないし、不快にも思わせないだろう。美味しいと口にすれば、誰も彼も嬉しそうにしてくれるのだから。大きく口を開けてかぶりつくダイナーのハンバーガーだって、気持ちよく食べるねとウエイトレスは笑ってくれるのだ。
それなのに。
ハングマンに味覚がおかしいことを指摘されたのは、いつだったか。
何故バレたのかとその時は内心焦ったけれど、よくよく考えればあれは、突拍子もない味付けがされていたらしい、ボブ特製ドレッシングを口にした時だった。仲間たちと大騒ぎしながら食べて、普通に美味しいよと口にした際にありえないと伝えてくるたくさんの顔と一緒に、お前おかしいだろうと言われたのだ。味覚音痴程度の反応だったが、その知られた相手がまた何故ハングマンなのか、当時はため息ばかり吐いていた気がする。
けれど彼との関係が形を変えれば、知ったのがハングマンで良かったと思えた。意外にも特に言及もせず、ふぅんとその反応だけでことは済んだから。
味がわからないので、特にあれが食べたいこれが食べたいを言わないルースターの目の前には、ハングマンと会う時は彼の食べたいものがテーブルに並ぶ。本当になんでも食べるルースターは、定型分のように今日も美味しいを繰り返す。
「なあ、どうして俺がお前の味覚がおかしいって気付いたと思う?」
口にしたブロッコリーが火が通り切っておらず少し硬い。珍しいと思いながら、噛んで飲み込めば同じことだと喉を通す。
そんな時に当然言われ。目だけをハングマンに向けたら、硬ぇと眉を寄せる顔が見えた。
「ボブが作ったドレッシングだろ?」
「それは引っかかり。味覚音痴かよって揶揄っただろ」
自分で言うのかと目を細めたら、向かいの顔はきゅうっと口角を上げて首を傾けた。問いに対して、まだ答えろと言うようだ。
でも思い当たる節はそこしかない。あとは上手いことやってきたはずだから。肩をすくめて見せれば降参の意思は伝わっただろうか。
「さぁ、わかんない」
「ちょっと前一緒にメシ食った時に、砂糖と塩を間違えてドレッシング作った。急いでたからって味見しなかった俺も悪いんだが、お前、普通に食って美味いとか言いやがった」
「……それは、ごめん」
「別にいい。最初は気を遣ってんのかと思ったんだけどな。まぁお前は俺に対してそんなことしたことないし。……で、俺は無理だなって避けたけど、お前食べ続けてて完食してた。いくら味音痴でも、フレンチドレッシングが甘ったるかったら手が止まるだろ。ボブのに負けないくらい奇抜な味だったしな。でもお前は食べてた。さすがに有り得ないと思って、そのあともお前の食ってる様子を毎回見てたら、何食べても味の感想じゃなくて美味いしか言わないし、備え付けだろうが彩りようだろうが関係なく完食してて、なんだコイツって思ったわけだ」
だから突然「お前味がわからないのか」と、確信めいた言葉を向けてきたのか。
少し納得がいって頷くけれど、でもそれでハングマンに迷惑をかけたのだろうか。緩く首を傾げれば、疑問が口を出る。
「……でも、全部食べるのは悪いことじゃないだろ?」
「そうだな。美味いって言われるのだって悪くない。……けど、上手くいかなかった事を一緒に笑ってもらいたい時だってある」
もう一つブロッコリーを口にして眉を寄せるハングマンは、それを飲み込んでからフォークで、まだ皿に残る緑色の小さな森を示した。
「例えば今日のブロッコリー、火を通す時間ミスって硬いわけだが」
「うん」
「お前何も言わないだろ。硬くないかってくらい、味に関係ないんだし言えるよな」
「そうだけど……噛めないわけじゃないし、飲み込めば一緒だし」
言われたように、ハングマンに今日のブロッコリー硬いと口にして、嫌そうにされたら。もしくは、食べるなと言われたら。そのほうが嫌だ。だから荒波を立てないように、食べられないわけじゃないから食べている。
でもそれはルースターの想像でしかなくて、果たしてハングマンは違う返し方をしたのだろうか。
そう考えながら見つめると、俺は、と口が動いた。
「いつも茹でてるのを今日はレンジにしてみたとか、思ったより量が多かったから時間をミスったとか。……正直、言い訳をしたかった」
「……言い訳」
仕事以外もいつも完璧にこなすと自負している男のその言葉は、なんだか妙に浮いている。けれど、地に足をつけた人間なんだなと思えてくれば、ハングマンへの解像度が上がった気がした。
「食事中に話しをするのが苦手なのは知ってる。だから無理して話せとは言わないが、この食材は何だとか切ったのが繋がってるぞとか、いろいろ言ってほしいわけだ」
「え、なんで?」
キョトンと顔を上げれば、口に入れた肉で片頬を膨らませたハングマンが苦そうに顔を歪めていく。
苦いものがあったのかと目の前の皿を見るが、肉が焦げていたりしている様子はないし、名前も知らない野菜が苦いのかもわからない。
──あ、なんか。
「俺はその時間だって貴重だと思ってんだよ」
ふつ、と湧き上がった気持ちが、ハングマンの声にかき消される。
いつ呼び出されるかわからない。いつ、帰れなくなるかわからない。それが自分達の仕事。
ただでさえ所属の基地は大陸の端と端で、そう頻繁に会うこともできない。だからなんて事のない、他愛のない会話も貴重だと思っているらしいと知って、正直面食らってしまう。
「それに、食べることは一生続くんだぞ」
顔を向けると、未だ苦い顔がじいっとルースターを見つめていた。
一生続く。
その言葉が頭を回る。
この何を食べてもわからない感覚が、死ぬまでずっと。毎日の一食ずつをこなしている時には気付かなかった重いものを、突然目の当たりにした気がした。
だって、それはとてつもなく悲しい。
だって、昔は違ったのだから。
「……それは、やだなぁ」
「だろ。……少しでも興味持ったら変わるかもしれないって、前にカウンセラーが言ってたんだ」
「ん?」
「フライト後のカウンセリングで。ちょっと気になることがあるって、聞いた。だいぶ前に」
誰がとかは口にしていないと憮然とした表情を見せて、少しだけ視線を逸らしたハングマンはゆっくりと息を吐いている。
嫌味にならないようにと、気でも遣っているのだろうか。素直に見つめていれば、その顔はゆっくりとルースターへ戻ってきた。
「なんでもいいから、食べるものに興味が出たら、いいんじゃないかって」
だから、気になったことを口にしろと、ハングマンはむすっとした声を向けてくる。
興味と耳にして、先程湧き上がった気持ちを思い出すと少しだけ納得できる気がした。
「……さっきお前がさ、なんかすごい苦い顔してたの、肉が焦げてるのかこの野菜のどれかのせいなのかって思ったんだ」
「……ん」
「でも、肉は焦げてない。なら野菜かなって見ても、名前がわかんないんだ。小さく切られてるから、元がどんな形かもわかんない。……味も、わかんない。だから聞けない。なんかそしたらさ、俺、つまらないやつだなって思った……んだよな」
もしかしたら、知っている野菜なのかもしれない。でもそれを知る術はなくて、緑色という漠然としたものしかわからないから、他にもある緑色の野菜全部が当てはまってしまう。
聞きたくても聞けない。
味がわからなくなった頃、何でどうしてと聞こうとしてその相手がいなくて、口を閉ざしたのを思い出す。真っ暗な部屋の中で、一つだけ明るいキッチンでただ食べるだけの行動を続けていたあの頃から、今に至るまで。ルースターの体を維持し続ける食事は、ただの栄養補給だった。
疑問に思ったことの何一つ、返事は返ってこなかったから。
「つまらないかどうかは知らないが、今ここには俺がいて、向かいで同じもの食べてるんだから聞けばいい。一人の時に疑問に思ったなら、写真でも撮って聞いてこい。文明の利器を利用しろ、雄鶏くん」
「……そんなもん?」
「そんなもんだ。第一、自分を形成する為の食い物がなんなのかくらいは知っておけ。プロテインやレーション食ってるんじゃないんだから」
ルースターが疑問に思っていた様々な緑色の野菜が、ハングマンの口に押し込まれていく。「なぁそれ、苦い?」なんてポツリと聞けば、苦くないとなんでもない返事が返された。
ああ簡単なことなんだな、と思うと、ストンと腑に落ちるようで。だからといって味がわかるわけではないけれど、この野菜は苦くはないのだと初めて知る。
「このさ、この緑のは何」
「ほうれん草の、なんだ、ベビーリーフ」
「……そんなのあるのか。そっか、これ、ほうれん草なんだ」
口に放り込んでよく噛んでも、知っているはずの味は感じられない。少しだけ歯に引っかかるような違和感と、舌先へのぼんやりとした感覚だけが口に残る。
「……わかんないなぁ」
「よく料理に入ってるほうれん草より、えぐみはない」
「あー、だからちょっと違和感、か」
なんかキシキシする、と口を動かすと、それだけを味わえばそうだろうな、なんて笑う声が聞こえた。
これはきっと食べなくても大丈夫だろうと思う彩りを添える野菜も何もかも、綺麗に腹に収めてきたのはそれが嫌いなのかと問われるのが怖かったから。どこが?味?と問われれば何も言えないのだ。昔苦手だった野菜の感想は口にできるけれど、今は食べれてしまうから残す必要もない。
ただひたすらに口に入れて噛んで飲み込んで、胃に落として。食事なんてもうずっとそんな行動で。楽しいか楽しくないかなら、全然楽しくなくて。みんなといる時は、さっさと食べて終えて会話をするほうが好きだった。今でもそれは変わらないけれど。でも、探りながらでもこれは何と訊ねると返事がもらえて、それは確かに喜ばしいもので。味がわからない食事だけど、これは何かと考えると少しだけ違って見える料理たちが、キラキラしているように思えた。
「軍に入った頃さ、なんでも平気で食べるから、レーションの研究機関でも行ったらどうだって言われたことがあるんだよな」
「……なんだそれ」
「その時は、俺のこのバカになってる味覚でも、役に立つのかなとか一瞬考えたけど」
「おい」
「そっちには進んでないだろ。そんな顔するなって。……好きでこうなったわけじゃないし、うるせなぁって思いながら食堂でメシ食ったけど、やっぱ味しなくて落ち込んだこともあったなぁって、なんか思い出しただけ」
どんなに彩り鮮やかな食事がテーブルに並んでも、ライトや自然光に照らされて光り輝いても、美味しそうだとは思えても味がわからなくてただ飲み込むだけになる。かつて、まだ味がわかっていた頃に記憶している味を思い出して、こうだったと誤魔化しながら食べていた。
でも今、目の前にある食べかけの食事はハングマンが食べたいから作った料理で、きっと彼が満足する味付けになってそこにあるのだろう。自分は知らない味なのだ。それを分かち合えないのが残念で、申し訳ない。
少しだけ歯に引っかかるようなえぐみを持つほうれん草のベビーリーフと、火の通し時間をミスったブロッコリー。千切られたレタスと、細いキャベツに細い人参。黒胡椒っぽいものがかかっている肉は、鶏肉。
一つ一つ確認して口に運んで、味はしないけれど、それでも過去に食べた記憶があるものはなんとなく味を覚えている。今はしなくても、こんな感じだったと思い出せる。
そうしたら、やっぱり少しだけ、目の前の皿が輝いて見えた気がした。
そんなことが随分前にあって、ハングマンと会う日は一緒にスーパーに行くことが増えた。別に、一つ一つこの野菜がこうでと教えてもらうわけではない。聞いても知らなければわからないと正直に答えてくるのがハングマンなので、そういう時は二人揃ってセルフォンを覗き込むのだ。
スーパーに足を運ぶことが増えたからといっても、味覚に変化があるわけでもない。ただこれはなんだろうと思うことは確かに増えて、小腹が空いたと口にしていたお菓子の、そのパッケージに載る成分表をじっと見ることも増えた。ルースターの味覚のことを知らない仲間は、その様子を目の当たりにして健康に気を使いだしたのかとギョッとし、健康診断に引っかかったんだろうと、笑いながら問いただしてきたこともある。そんなことは全くないので、少しばかりいい迷惑だったが。
昼下がりのスーパーはそんなには混雑はしていないので、大柄な二人がのそのそと歩いていても大して気にされない。今日から五日、ルースターは西に腰を下ろす。
「あっちだともう厚手の長袖手放せないのになぁ」
「こっちはいいぞ? お前の好きなアロハ、防寒すりゃ年中着れる」
暗にこっちへ移動願いを出せと言っているような言葉に小さく笑って、ルースターはアロハシャツの下に着ている長袖を肘まで捲り上げた。袖口が伸びるかもしれないが、店内の空調がそこまでフル回転していないのか地味に暑い。少しでも肌面積を出せば涼しいかと思っても、それはその一瞬だけで結局ジワジワと暑さを感じるから困るのだが。
「おいブラッドリー、昨日何食った」
「え? えっと……昼になんか焦げ臭いエビ。夜は早く寝たから食べてないや」
「わかった……って、焦げ臭いエビってなんだそりゃ」
「ファンボーイがさ、ここのエビうまいぞって連れてってくれたんだけど、殻がすごい真っ黒で焦げ臭かった」
「……なに、お前、ファンボーイとメシ行くの」
「まあ、時々? 昨日は、イェールとハーバードも一緒だったよ。三人は焦げ臭いって言ってなかったから、エビの味したんだろうなぁ」
俺は焦げ臭い物体を食べてたとルースターは笑うけれど、ハングマンはどこか不満そうにふぅんと口にして、ゆったりとカートを押していく。なんだかその様子がずるいと訴えているような気がする。あの三人とエビを食べたことに対してではなく、おそらくは、あの三人と一緒に行ったことに対して。その背中を見つめてふ、と笑うと、大きく前に出た足の数歩で隣に並んだ。少しだけ不満そうに、視線がチラリと上がった。
「今度向こう来たら行く?」
「……お前は焦げ臭い物体を食べることになるぞ」
「いいよ。ジェイクがどんな感じか教えてくれるんだろ」
「ま、ぁ」
昔エビを食べたことがあったかな、と腕を組んで考えるけれど、大体どれもグラタンだったりスパゲティだったりに混ざっているものばかりで、それ自体を味わった記憶はおそらくない。なら、ルースターの中に記録として残す方法は、この優秀な恋人のレポートにかかっている。
「頼りにしてるからな」
ぽん、と肩を叩いてカートを追い越せば、嬉しいのかそうじゃないのかよくわからない、複雑な表情を見せているハングマンがいた気がする。でも知らないふりで売り物として積み上げられている野菜を、ただ見て歩く。
知っている野菜知らない野菜。これはどんな味だったか、こっちはどんな味がするのだろう。そう思うことを癖にしたルースターは、一つ一つの野菜を見るのが少し楽しい。魚や肉は切ってある為まだ少しレベルが高いから、姿丸ごと見られる野菜が今のところは貴重な勉強アイテムだ。
そんなルースターの視界に、また見慣れない野菜が飛び込んでくる。
思わず足を止めて、凝視してしまうそれ。
近くを歩いていた老婆も足を止めて、不思議そうに見つめて、そして去っていく。あの年齢生きてきても、不思議そうに思うということは滅多に出回らないか新しい野菜なのか。
腕を組んだまま顔を上げたルースターは、カートを押してくるハングマンを手招いた。
「どうした?」
「なあ、これなに」
「……なんだこれ、あ、いや、待て。見たことあるな」
ぎゅっと眉根が寄って、思い出そうとしているハングマン。何か取っ掛かりがないかと説明書きなど探してみるけれど、生憎とこの野菜の周辺どこにも、野菜の名称も品物の説明も書いていないのだ。読み取り用のバーコードは貼られているけれど、そこには非情にも野菜の文字しかない。それは見ればわかるだろうと強く思うが。
「あ、ロマネスコだ」
「ろ……、なに?」
「ロマネスコ」
「なんかすごく複雑そうな名前なんだけど」
「複雑かどうかは知らないが、ブロッコリーとカリフラワーの食感と味がどうのって、前に何かで見た気がする」
何とも攻撃的にも見える円錐が、言われてみればブロッコリーやカリフラワーのように房になって生えている。
丸みのある二つの野菜の味や食感を持っていると言うのに、なぜこんなに前衛的なのか。不思議だとルースターが口にすれば、そのロマネスコを一つ手にしたハングマンが、ニヤリと笑った。
「食べてみるか?」
「……そういうチャレンジは、ちゃんと味わかるやつとしろよ」
勿体ない。そう言うと、ハングマンはより笑みを広げてカートの中にその野菜をそっと下ろした。
「おい?」
「食感も重要だろ。それにこの量一人じゃ食い切るのに時間かかる。手伝えよ」
何とも後付けの言い訳を口にして、ハングマンはカートを押していく。
チラリと野菜籠の中に目を向ければ、仲間を連れていかれた残りのロマネスコたちが、次の買い手を待っている。ハングマンのように、この見慣れない姿を気に入って持っていく人がいるといいな。そう思いながら足を進めると、小さな子供がじゃがいもと人参と玉ねぎを一抱えにして前を横切った。
危うく蹴りそうになったどうにか足を踏み留めたら、驚いて同時に止まった子供の体は無事だっけれど、その手からはゴロゴロと野菜が落っこちた。
「あ!」
「あ、ごめん」
丸いじゃがいもや玉ねぎは転がり、人参はその場でぐるりと回り。慌ててしゃがむ子供の代わりに、少し遠くへ遊びに行くじゃがいもを広い一歩で掴み上げた。体を戻す際にもじゃがいもと玉ねぎを手に取り、両手に必死に抱える子供の前にしゃがみ込む。
「ごめんね、怪我は?」
「してない。……けど、落としちゃった」
しょんぼりと肩を落とす子供は、きっとピカピカの野菜を親の元に持っていこうとしていたのだろう。落としたからと言って食べられなくなったわけではないが、子供の心にはショックだったのかもしれない。
それでも、手にある野菜を戻して別のを持って行くなんてことをしない姿に、なんだかいじらしさを感じる。ルースターは柔らかく笑むと、手のひらを子供の前に差し出した。
「その野菜は俺が買うよ。ちょうど必要だったから。新しいの、ママに持っていきな」
「でも」
「いいから、ほら。ママ探してるだろ」
少し離れたところから、子供の名前を呼ぶ女性の声が聞こえている。最初にその声が聞こえたときにこの子供は顔を上げていたので、おそらくそうだろうと思う。
きっとお手伝いすると胸を張って野菜を取りに行って、それなのになかなか戻らないから心配しているのだ。
「……いいの?」
「うん。ちょうだい」
両手を器のようにしたら、戸惑うような子供はそおっと、抱えていた野菜をルースターの大きな手に置いていく。ゴロゴロと手からこぼれ落ちそうな野菜をしっかり胸元に抱えて見せたら、子供はようやくニコッと笑ってくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。新しいの取れるか?」
「大丈夫。ちゃんとできるよ」
すっくと立ち上がった子供は小さな手を振って、もう一度挑戦する様に野菜の山に向かっていった。
一回はちゃんとできたのだ。そこまで見守る必要もないだろうと体の向きを変えたら、少し離れたところで腕組みをしているハングマンが見えた。カートが滑らないよう、足の爪先に器用に引っ掛けている。
その顔が浮かべる、何してんだというような表情に対して曖昧に笑みを浮かべながら近付けば、抱えている野菜に当然目は向いた。
「どうすんだ、それ」
「いやぁ、あの子がさ」
「見てたから知ってる。だから、どうするんだって聞いてる」
「……えぇと、なんか、使える?」
「そりゃ、まぁ。予定外だが、日持ちはするし」
お前がこっちにいる間には消費できるだろうと言われて、少しだけホッとする。いらないとか戻してこいとか言われたら、意地でも買って向こうに戻る時に持って帰ってやるとか思っていたのだ。
味のわからない料理経験なしの手によって、見るも無惨な姿にならなくてよかったと、カートへ入れていく。
「なに作るかな……スープ?」
ブツブツと独り言を口にしているハングマンの隣を歩いて、カートの中で揺れる野菜たちにふと視線が移る。ハングマンならきっと、この野菜たちを素晴らしい料理へと変貌させるのだろう。それはとても楽しみだ。そんなワクワクとした気持ちが湧き上がったそんな時。ふと、記憶にある香りが鼻の奥を掠めた気がした。
「あ、のさ」
「ん?」
「俺が言うなって、話しなんだけど」
「なに」
言い淀むルースターを、畳み掛けるように口を挟むハングマン。別に怒っているわけではなく、ルースターのゆっくりとしたペースに巻き込まれると何を話すつもりだったか忘れると、以前ハングマンは言っていた。そうならないために、間に言葉を挟んでいると。だから気にしなくていいらしいけれど、話しを聞いてもらえているという確信が持てるから、実はこのやりとりが好きだ。
「シチュー、食べたい、かも」
「……ほぉ」
「あぁー、でも、食べても味わかんないし、やっぱお前が食べたいやつにして」
「別に気にしない」
「……な、なにを?」
ハングマンの返事がなにに対してなのかわからず首を傾げたら、薄く笑いながらカートを押して歩いて行ってしまう。答えろよと思いながら隣に並べば、チラリと視線が上がった。
「お前が味がわからなくても。それに、毎回俺の食べたいものっていっても面倒にもなる。なら、なんとなくでも言ってくれたら、そりゃ助かる」
「でもさ、俺味わかんないのに、嫌じゃないか?」
「……なあ、大進歩だと思わないか? お前がようやく、初めて、食べたいものの名前をあげたんだぞ?」
にいと口角が上がって、また少しカートのスピードを上げる。すぐに追いついても、ハングマンはその足を止めたりしない。その様子が何だかソワソワしているように見えて、逆に歩速が緩むルースターは呆気に取られながら頭をかいた。
「それは、喜んでるのか?」
なあ、肉何がいい。と呼ぶ声が聞こえる。
肉、肉、と口にして、「やっぱ牛?」とほぼ同時に声に出したら笑ってしまった。
この暑い西海岸で、寒い中食べるのが似合いそうなシチューを食べるとは。
そう言いながら調理を進めるハングマンは、高カロリー食でもあるシチューを久しぶりに食べるらしく、作り始めれば楽しそうにしていた。
ルースターは切られた材料を炒める役を任されていて、木ベラを片手に鍋から香る肉の焼ける匂いにスンと鼻を鳴らした。
「匂いはわかるのになぁ」
「覚えておけよ」
「それは忘れないけどさ」
「何故かビーフシチューにチキンぶち込めとか言い出す雄鶏くん、焦がすなよ」
「わかってるー」
スーパーの肉のコーナーで牛肉を切ってもらっていたハングマンの横で、ルースターの目を引いたのは鶏肉だった。昔、鶏肉のシチューも食べた気がするとポツリとこぼしたら、流石に二種類はとハングマンが苦笑して。そうしたら肉を切っていた恰幅のいい店員が、一緒に煮込んでも意外と美味いぞ!なんて買わせようとしてきたら、ルースターはそうしようと言い出してしまって。根負けしたハングマンが仕方なく折れて、今現在、二種類の肉が鍋で踊っている。
ジウジウと油を跳ねさせながら、その身を白く変貌させていく、予定になかった鶏肉。お前の仲間はお前の血肉になるわけだ、と言われた時にはなんだか食べづらくなるなと思ったけれど、まあその通りだなと思い直したら腹がぐうと鳴った。
味はわからないのに、腹は空く。
喜んだらいいのかよくわからないけれど、でも、今日の夕飯は久しぶりにワクワクとしている。それは嘘じゃない。
食べたところでこの口はいつものように、温かいとか食感が緩いとか、そのくらいしか認識はしないだろう。しょっぱくも辛くも甘くもないシチューは、いつも以上に曖昧に口に広がるはず。けれど、昔食べた朧げな記憶の優しい味が思い出せたら、それはとても幸せだと思うのだ。
「でもどうしてシチュー?」
「あー……なんか、じゃがいもと玉ねぎかな、煮込んでる匂いってそれを連想させてくるから?」
「なんで疑問系なんだよ。そもそも、あの場にそんな匂いはなかったぞ」
「そうなんだよな。俺も不思議。……久しぶりに触ったからかな」
「じゃあ今度から、買うときに野菜を取るのはお前だな」
笑うハングマンになぜと首を傾げたら、楽しげな目がルースターを見上げた。
「野菜を触って昔の記憶思い出すなら、また食べたいものが思い浮かぶかもしれないだろ」
大進歩だと思わないか。
そう店の中で言われた言葉が頭を過って、そうかもしれないと静かに思う。
ルースターにとって、もうどうしようもない事実であるこの失われた味覚は、初めの頃は抗ってもがいて取り戻そうと躍起にもなったけれど、何をしても戻らないそれを仕方がないと受け入れたら、必然的に向き合うこともしなくなった。
だから長年気にせず、付き合ってきたのだ。それを、おかしいだろうと一言突き刺して、向き合わせてきたのが隣の男だ。いい迷惑だと思うこともあったけれど、今こうして鍋の前に立って放り込まれる野菜を混ぜて、力加減を間違えて鍋の外に弾き飛ばしては肩を叩かれて。そうして笑っているのが、楽しいのだから不思議でならない。
食べたいと思い浮かぶものは、もしかしたらこの一回だけかもしれないし、またこんなことがあるのかもしれない。先のことはわからないけれど、食べたいと口にした時にハングマンが嬉しそうにしてくれたのは間違いなかったから、いつか気まぐれにでも思えたらいいなと、強く思う。
「水入れるぞ」
飛び散らないようにそうっと注がれる水が、炒めた肉や野菜を飲み込んでいく。せっかく熱く炒めたのに冷やすのかと思うけれど、遠い記憶の母もそんな文句を言いながら作っていた気もするので、少し面白く思いながらグルリと鍋の中をかき混ぜた。
「なぁ、こっちの鍋はなに?」
「ロマネスコ茹でる」
「レンジじゃないのか」
「初めてやるのに失敗したくない」
どうやら以前レンジで上手くいかなかったブロッコリーのことを、まだ引きずっているらしいハングマンは、確実性を取って茹でることにしたらしい。
小さな房に切り分けられていく円錐の野菜。一つ手にとってしげしげと見つめても、やはりブロッコリーやカリフラワーのようには見えない。
「ドリルだよな」
「まあ、見た目は確かに」
「子供の頃に出されてたら遊びそう」
「怒られるやつ」
「でもこれは……遊びたくなる」
「遊ぶな三十五歳児」
笑いながらの声に「はーい」と高めに答えれば、ハングマンは吹き出しながらナイフを置き、肩を震わせて息をしている。なんなの、と言うような眼差しに笑って見せたら、尻に当たるだけの蹴りを貰った。なんだか納得いかないとやり返せば「危ないだろ」とナイフを握るので、それはずるいぞとジトリとした目で見下ろすと追い払うように手を払われた。
「うるさい、あっち行ってろ」
「なんで」
「まだ煮込むから時間かかる」
「じゃあ見てる」
「なら邪魔すんな」
「してないだろ!?」
フツフツと鍋の中が揺れ始め、熱そうな湯気が換気扇に吸い込まれていく。なんだかんだと言葉の応酬が続いたけれど、そのあとは特に何も言われないのでそのまま鍋の前に立っていると、お湯に変わった水の中で具材が踊るのが見える。透明だったお湯が濁り始め、そして鼻を掠め始めるあの匂い。
「あ、これだ」
「なに」
「この匂い」
すぅっと吸い込む空気は懐かしい、母が鼻歌混じりに作っていた、シチューになる匂い。これが家の中に漂うと、必ずブラッドリー少年はシチュー!? と声を弾ませて。また? と母は笑っていた。
今その反応をよく考えれば、母は別の料理を作る予定だったのかと、今更ながらに焦りを感じる。
「……この状態から他の料理に変更するとしたら、なんかある?」
「は? 変えるのかよ」
「変えないよ。するとしたら、の話し」
眉を思いっきり寄せたハングマンに笑ってそう言うと、怪訝なままの顔は意味を探るようにルースターを見てくる。本当に変えるつもりはないのだと肩をすくめたら、小さなため息と共にそうだなと小さく声が聞こえた。
「肉がチキンだけならトマトも入れて、トマト煮込みになる…かも」
でもそんなに俺の料理のバリエーションはないとハングマンは首を振って、煮える鍋を覗き込んだ。
「あーわかるかも」
「ん?」
「この匂いが、シチュー系だって」
「ああ! だろ? そういう匂いする」
もう一度その香りを堪能して、立ち上る湯気でしっとりと濡れた髭をハングマンに笑われながら、ルースターは肩口で髭に付いた水気を拭い、お湯に投入されていくロマネスコを見送った。
「さらばドリル」
「茹で上がったらお前の腹に穴あけに行くってよ」
「負けねぇ」
「なんの勝負だよ」
笑うハングマンの声が響いて、ルースターもわかんないと口にしながら笑ったら、二人の腹の虫まで笑ってくれた。
温かな湯気をほこほこと浮かばせるシチューは、まだ暑さが大半を占めるカリフォルニアにはやはり少し似合わない。
野菜も肉も大きめにカットされた、食べ応えを優先させているメインディッシュは、実にキラキラとしていて一目で美味しそうだとわかった。料理は目でも楽しむと何かで読んだことがあるが、そう言うことなのかとようやく理解した気がする。
遠い記憶の味を頭に思い起こして、それはおそらくこのシチューとは違う味なのだろうけど、食べたいと口にしたものなのだから少しくらい楽しみたい。パンと、ロマネスコが乗ったサラダが並ぶと、いよいよ料理たちが主役の時。
「ドリル」
「違う」
笑いながら始まった食事は、相変わらずの無味だ。
少なからず期待していた気持ちはあった。気持ちが変わったら、味覚にも変化があるのでは、と。でもやはり長年忘れていたものを突然思い出すことはなくて、ルースターの舌は温かい液体と、細かく砕けていくじゃがいもの食感しか伝えてこない。
「……なんだ、うん、カリフラワーの味、っぽい」
「曖昧だな」
「食感は多分、ブロッコリーか?」
「そこも曖昧!」
「いや、食ってみろよ。俺にはブロッコリーとカリフラワーの食感の違いとか、いまいちわからん」
「えー……」
お前がわからないなら俺もだろ、と、ブツブツ呟きながら口に運んでみる、やたら前衛的なロマネスコ。舌先に伝わる食感は、ブロッコリーやカリフラワーと似通ったものだ。もちろん、ドリルのように硬くなんてない。
「……多分、俺はこれ、ブロッコリーだって言われても普通に信じる」
「だよなぁ」
「見た目のインパクトはとてもいいけど」
「いいのかよ、コレ!」
笑うハングマンは実に楽しそうにしながら、鶏肉を口にしている。
赤みのあるブラウンのシチューに浸かる白い肉に、何か面白いことでもあるのだろうか。少し肩を揺らしていたので気になって見つめたら、ちょうど目が合った。
「合うような、合わないような」
「そうなのか」
「まあ嫌いではないが」
そう言って食事の手を緩めないから、よっぽど変な味になっているとかそんなことはないのだろう。
同じように分かり合えたらよかったのに。
少し残念に思ってパンを齧ったら、こういった煮込み系の料理の時はいつも硬めのパンが用意されているのに、今日のは柔らかいパンで。なんでだろうかと少しパンを見つめていたら、どうしたと声がかかった。
何か入っていたとか思われたのだろう。ゆっくり視線を上げて、なんでもないと言おうとする口を一度、強引に閉ざす。
──前に、口にしろって言われただろ。
気にしないで食べ終えたってよかった。でも、聞けと言われたから。そんな言い訳を考えながら頭の中に並べた言葉を、ゆっくりと口にする。
「今日のパン、柔らかい、って思っただけ」
「あぁ、そりゃな」
なんだそんなこと、と少しばかり伺うようだった顔から瞬きで険が取れる。当然と主張するようなその言葉に小さく首を傾けたら、だってと続けながらハングマンは笑った。
「これ予定外だし」
「……あ!」
そうだった。このシチューは今日じゃなくてもよかったのに、今日のメニューにしてくれたのだ。ハングマンの頭にあった本日の食事は後回しになって、代わりにルースターが食べたいと言ったからシチューが採用された。家に置いてあったこのパンの本当の相棒は別の料理だったから、柔らかいのだろう。
「悪い」
「なにが」
「なんか、予定変えさせたな、って」
「別にそんなの気にしてない。たまにはこんな組み合わせだっていいだろ。毎回同じじゃ飽きる」
「まあ、そうだけど」
「それに、だ」
意味を含めたような言葉に少し眉を寄せると、きゅっと口角を上げた顔がルースターを楽しそうに見つめていた。
「お前はこのタイプの料理にはハードパンが好きって知れたから、なんにも悪いことはない」
「……そう、なのか?」
「そうなんだよ雄鶏くん」
首を傾げる仕草を愉快そうに見て、ハングマンは食事を再開している。
──別に、パンにこだわりは全くないんだけど。
そう思って、ちぎったパンを口に入れる。だって味がわからないから、と言い訳じみたことをまた考えて、目の前の男を視界に入れて。飲み込みながら、ルースターは思う。
──ジェイクが、その組み合わせが好きなんだろうなって、思ったからなんだけど。
じわ、と顔が熱くなる。
なんだかまるで、それは、相手の好みの色に自分が染まっているようではないか。
味がわからないからこだわりがないし、気にもしないけれど。それでも、なんだかそれはとても恥ずかしいような嬉しいような、柔らかい気持ちを膨らませてくる。
本来このパンが使われるはずだった料理が何かは知らないが、ハードパンを提案してみようか。そう思ったらなんだか照れ臭くて、心臓の奥がぎゅうっとする。苦しくも感じるそれを誤魔化すようにスプーンに掬ったシチューを口にして、ルースターは思わず椅子から立ち上がった。
ガタン、とテーブルが揺れて食器は鳴り、椅子はゆっくりと仰向けになるそのままに床に倒れて大きな音を立てた。突然鳴り響いた音のパレードに、向かいのハングマンは当然ながら唖然とした顔で、スプーンを握りしめたままのルースターを見上げている。
「ど、した?」
「……」
無言でいるのを訝しみながら立ち上がったハングマンは、とりあえず動かないルースターをよそに倒れた椅子を起こしてくれる。シチューの中に何かあったかと思ったのか覗き込んでいるけれど、そんなもの何もないのだから、ただただ不思議そうに首を傾げているのが見えた。
「ジェ、あ、……ね、ぇ」
「どうした? 落ち着けって」
水の入ったグラスが差し出されて、奪い取るようにして飲み干していく。テーブルに置いたグラスの底がカン、と小気味いい音を立てて。それを合図にしたように、ルースターは手に持っていたスプーンでもうひと匙掬い上げる。
パクリと口にして、動きを止めて。その様子を、本当に不思議そうに見つめているハングマンをゆっくりと見上げ。ルースターは、ぎゅっとスプーンを握りしめた。
「ジェイク、」
立ったまま呟く声に、ハングマンは実に不可解そうな顔をしている。意味不明な行動をどう受け取ったらいいのか、全くわからないという様子だ。
「おい、行儀悪すぎ……って、おい?」
とりあえず出てきた文句が、戸惑いに変わっていく。
それもそうだろう、ルースターは、大粒の涙をこぼしているのだから。
「ど、どうしたんだよ、大丈夫か?」
ティッシュを何枚か引き抜いて、顔を拭ってくれるハングマン。ルースターは口を戦慄かせながら、懸命に声を出した。
「味が、する」
「……え?」
「あじ、する」
また大粒の涙がボタボタと落ちていく。
「……マジか」
うん、と答えたくても声が出なくて、必死に何度も頷いたら涙が飛んでいく。ティッシュはすぐに使い物にならなくなり、また新しく顔に当てられた。
涙の膜が張って、ハングマンの顔はよく見えない。でも笑みを浮かべてくれているのはわかったから、ルースターはボロボロ泣きながらくしゃりと笑った。
「ああもう、ほら、泣くか笑うかどっちかにしろ。……味がわかるようになったんなら、ちゃんと食え」
「ぅんっ」
しゃくり上げながらも椅子に座れば、ハングマンはテーブルを迂回して向いに座り、ルースターがスプーンを震わせながらシチューを掬うのを、見守るようにじっと見ている。
見られているのを強く感じながら、そうっと口に運べば今までの食感を感じて。それから、ぶわりと口の中に様々な匂いが広がっていく。嗅いで感じていたそれに近いものが口一杯になったら、舌の付け根あたりがぎゅうっとして胃も動く。
食べた覚えのある味が、次々と記憶と結びついて、これは知ってるこれは知らないと枝分かれしていき。
「ビーフシチューに、美味いけど、鶏肉はないな……」
「だよなぁ」
そんな感想が飛び出した。
二人で肩を揺らして、ルースターはまた涙を拭って。大ぶりの野菜を口にしては、じゃがいもだ、にんじんだと嬉しそうに確認している。そのたんびにぼたぼた涙を落とすからキリがないと、ルースターの横にティッシュが箱ごと置かれた。
「肉、美味い……」
「だろ」
「全部美味しい」
「そうか。……ああほら、食えよドリル」
笑うハングマンから言われて見つめる先、ロマネスコがその先端をルースターに向けていた。勝負するのかとフォークで突き刺して口に運ぶと、なんとも独特の味が広がっていく。
「……正直、あんま好きじゃないかも」
「ハハ、了解」
あまり好みじゃないと口にしたのに、ハングマンは至極嬉しそうに笑ってる。その顔をようやくまともに見れて、ルースターはまたボロッと涙をこぼした。
だって、幸せそうにしてくれている。
つられて泣くわけでもなく、ただ心から喜んでくれた延長上の赤い目元はずっと目尻を下げてくれていて、柔らかい笑みを浮かべている。
口に広がる幾多の味以上に、一緒に良かったと思ってくれる気持ちが嬉しい。
「……ジェイク、ご飯が美味しい」
「そりゃよかった」
「美味しいんだっ」
「うん」
「嬉しい……っ」
「わかったから。……そうだよな、そうだよな」
伸びてきた手が、頬を撫でながら涙を拭う。温かいその手に顔を寄せたらハングマンは笑って、冷めるぞと子供に言い聞かせるように言うから。うん、と頷いて大きな一口を口にする。
「……しょっぱい……」
「当たり前だ、そんな泣いてたら涙食べてるようなもんだ」
「だって美味しいっ」
今までずっと、これからもずっと。味のわからない生活を続けるのだと思っていた。でもそれと向き合えとばかりにハングマンが隣に居座って、真面目に考えるわけではなく、ただ一つ一つの食材を見つめたり考えたり、料理に生まれ変わる様子を眺めたり。そうして少しずつ、同じものを食べているのに一緒の感動も気持ちも抱けないことが、寂しくて悲しいと思うようになって。それで。ハングマンが嬉しそうにする瞬間を少しでも増やそうと、疑問を口にして尋ねることを増やしてきた。
そうしたらまさか、本当に、そうなったらいいとぼんやり思っていたことが実現するなんて、正直信じられない。
これがもしも夢や、今だけのことだったら。そう考えが働いて、そんなの嫌だと思うから勝手に流れる涙をよそに食べ続けるのに、そのおかげでしょっぱいとは。
「焦るなブラッドリー。大丈夫、まだあるから。……なあ、よく頑張ったな、一緒にゆっくり食べよう?」
瞬きするたびに涙は落ちて、机に水溜りを作る。どれだけ長い間ルースターが苦しんで落ち込んでいたのか、戻ってきた味覚に喜んでいるのか、それを表すようだったから。ハングマンは泣き止めとは、口にはしなかった。
ただ、ずっと優しく見ていてくれて。
全部食べ終えてなお涙を流すルースターの目元に、さすがにもう泣き止めと苦笑を浮かべながらのキスを落とすまで、ずっと見守ってくれていた。
戻った味覚は消えることはなくて、けれど子供の味覚に戻った舌は、好き嫌いを明確に分けてしまう。なんでも食べるルースターは突然、好き嫌いの激しいルースターに変わってしまった。
当然周りは驚いていたけれど、理由を知るただ一人のハングマンだけは、ニヤニヤと笑っていた。
すっかり子供舌のルースターに、今度山のように好きな料理を作ってやる。足りない分は買ってきて、好きなのを好きなだけ食えと。
そんな嬉しいことを、楽しそうに言ってくれたハングマン。楽しみだとは思うけれど、正直にお前の料理が一つだけでもいいと答えたら、めちゃくちゃ抱きしめられてキスされた。
けれど、やはりテーブルいっぱいに山のように並べた料理を前にするお前を見てみたいなんて笑うので、じゃあ全部食べると宣言したら、他の連中も呼んで騒ごうと提案された。
それはきっと楽しいだろうと思う。でも、いやだと素直に口にしたら、ハングマンは驚いたのか目を丸くしていた。みんなと騒ぐの好きだろうと、顔に書いてあるのが見える。それは確かに好きだ。でも、コレはダメだ。
顔を上げて真っ直ぐに見つめた先、ハングマンはまだ不思議そうな顔。だから、ルースターは本音をしっかりと口にする。
「俺まだ、ジェイクのご飯、独り占めしたいんだよね」