Christmas Carol「あれ」
突然、耳に届く賑やかな雑踏。
瞬きと同時に現れる、視界いっぱいの鮮やかな景色。
どうして今ここに? と疑問に思うほどの、突然の場面転換。
素足から伝わってくる感触は硬いコンクリート、と思いきや特にそこは何も感じない。
奇妙だなと思いながらもゆっくりと周囲を見渡して、それこそグルリと一回転して。目から入る情報を、一つ一つ頭に放り込んでいく。
少しばかり古めかしい服装や、髪型。もしかしたら一回りして戻ってきたトレンドなのかと思うが、そこまで詳しくないから懐かしさを感じると、素直に思う。
建物にかかる広告や、巨大な立て看板。その色使いやデザインも、詳しくないけれどやはり懐かしさを感じる。そういえば、今では当たり前になった電子広告板が一つもないなと、思わず頷く。
賑やかさを盛大に演出する、聞き覚えのある音楽。これは間違いなく古いものだ。なぜと問われれば答えは一つで、幼い頃から今に至るまで頻繁に聞いているから、だ。
ルースターの周りを通り過ぎていく何人もの人は、ルースターのことを微塵も気にせず、笑ったり話しながら各々歩いている。
シャツをキッチリとインした細身の男性数名が、可愛らしいワンピースを身につけた女性二人を追いかけている。そんな様子をぼんやりと見つめて、今の自分の姿を何となく見下ろした。
「寝ようと思ってたんだぞ、俺」
そうだ。寝るためにベッドに入って、横になって、はあっと一息ついて目を開けたらこうだったのだ。
だから服装は少しよれたグレーのスウェットの上下だし、足は裸足だ。少しばかりこの場にいて恥ずかしさを感じるが、突然こうなったのだから仕方がない。
ふん、と開き直るように胸を張ったら、うふふと堪えるような笑い声が聞こえた。
ルースターの足で二歩か三歩。その距離で笑う少年がいる。年の頃は十歳になるかならないかで、かつては綺麗だったろうブロンドは色を落ち着かせ始めている。何故そう思ったのかは、一目瞭然。
覚えのあるその髪色と、見上げてる顔。
「こんにちは、大きい僕」
「……なるほど? 手の込んだ夢だ」
見るともなく周囲を見て呟けば、ふふ、と小さな子供は笑って静かに一歩、近付いた。
「驚かないんだね?」
「驚いてるが、夢なら何でもアリなもんだろ」
「そうだね。大きい僕は頭がいいなぁ」
そりゃどうも。
嬉しいようなそうでもないような、複雑な気持ちを抱えながらルースターも少し近付けば、もうほぼ目の前に、見覚えのある顔がある。夢だとわかったのはいいが、これからどうしたらいいのか。この小さな自分と何かしろとでもいうのか。小さく首を傾げたら、ハイヒールを鳴らす女性が少年を蹴る勢いで進んでくるのが見えた。ルースターは慌ててその腕を掴んだけれど、女性が到達するほうが速い。
ぶつかることを考えた一瞬の時間は、唖然とする時間に取って代わる。
身構えた目の前を、通り抜けていく女性。男の子ははにかんだように笑い、ルースターの手を握りしめてきた。
「……俺たちは認識されてない系の夢、ってことか」
「うん、そうみたい。ふふ、建物も人もぜーんぶ通り抜けられるよ」
「地面は違うんだな」
「通り抜けたら、地球の反対側に出られるかな」
くすくすと笑う声に小さく笑い返すと、それでも満足なのかきゅっと口角が上がった。
小さな手の温かさも感触も、よくわからない。でも、掴まれているのはよくわかる。不思議なそれを体感しながら、ルースターは幼い頃の自分と手を繋ぐという奇妙な状態を、素直に受け入れた。
うん、と頷いて。遥か下にある顔を見下ろしながら「さて、これから何を?」と訊ねてみる。
見上げてくる顔はやっぱり笑っていて、わかんないと一言、確かにそう告げた。
「は、」
どうするんだよ、と問いたかった言葉は、押されたような衝撃と共に置き去りになった。
景色が驚くほどの速さで流れて、溶けるように消えていく。きゅ、と力が篭ったのがわかるその小さな手を離すまいと決めて、重力も何も感じられない体に少し不安を覚える。
でも、ぱっ、と流れる景色が止まったかと思えば、そこは先ほどとは全く違う場所。自分達が飛んだのか景色が流れたのかと混乱したが、恐らく自分達のほうが飛ばされたのだろう。
ならば最初からここにいればよかったのではと思うが、そうはできない事情でもあったのか。
スウェット姿に裸足のルースターと、しっかりと普段着の洋服を身につけている小さな少年。揃って見上げる先は、一軒の家だった。
「えぇと、怪我は?」
「してないよ? 大きい僕は?」
「問題ない。……さて、ここ、は」
通りに面して、たくさんの家が並んでいる。
どの家の庭や家屋にも、賑やかなクリスマスの装飾が溢れている。サンタクロースや雪だるまもいたりして、その造形を懐かしいなと思って目を細めた。
「忘れちゃった?」
右や左を見ているルースターに、下からかかる声。パチリと瞬きをして視線を下ろすと、小さな自分が少しだけ寂しそうな顔を見せていた。
自分の機嫌を取るというのはなんだか不思議なものだが、ルースターはやんわりと笑みを浮かべると、ゆっくりと首を横に振ってみせる。
「俺たちの家、だ」
その声にゆっくりと解けるように笑みを浮かべていく顔は、自分であるのに可愛らしいなと思ってしまい、妙に照れた。
まるで誤魔化すように顔を上げたルースターは、目の前の家に目を細める。
木造二階建ての、小さな家。
植木と柵で囲まれた敷地の一角には、小さな庭。
この家の間取りも、どこに何があるのかも。ルースターは目を瞑っていたって歩ける自信があるし、言い当てる自信もある。
現在進行形で、小さな自分はまだこの家に住んでいるはずだがと思った瞬間、繋がっていた手が離れて、小さな影が植木に飛び込んだ。
「お、おいおい!」
ガサッと音が鳴るわけでもなく、スルリとすり抜けていく背中。何も気にしていないような顔はルースターを振り返って、ニコッと笑っている。ついでに言えば、手招いてもいた。
他人の家ではないが、何処となく引け目を感じるのは、もうこの家に住んでいない心苦しさがあるからか。
ほんの少し迷って、ゆっくりと場所を移動したルースターは、垣根と柵の間が少しだけ歪んで開いている場所から、スルリと庭へ足を踏み入れた。
記憶では子供の頃だって植木に服や足が引っかかっていたはずだから、半分以上はすり抜けたかなと、薄く笑ってしまう。
「それ、ママに見つかったら、そこは通らないでって言ったでしょ! って怒られちゃうよ」
ふふふと笑う小さな自分は、これの常習犯だ。緩やかに口角を上げて「やってるだろ?」と問えば、ニィーッと楽しそうに笑みが広がった。
「大体、母さんが直さなかったのが悪い」
あとで直すと言い続けて何年も経って、ルースターの記憶のこの家の最後の日も、そこは広がったままだった。
少しだけ胸が痛んだのには、気づかなかったことにした。
「大きい僕、ねぇ見て、僕がいる」
「そりゃそうだろ」
そう口にして、万が一自分が生まれる前だったらとも思ったが、庭に転がるおもちゃの様子から赤ん坊に等しい子供がいるのは、なんとなく察しがついている。
庭に面した窓に張り付いた小さな自分は、カーテンの隙間から覗き込むようにして家の中を見ている。やめさせようかと思って、視界に入った人影に動きが止まった。
小さなソファに座る女性と、膝の上の、赤ん坊から脱しようかという幼児。絵本をマイペースにめくって、ニコニコと笑っている様子は記憶になんてない。そんな子供を見下ろす優しい眼差しも当然、知らない。
「……母さん」
若く、まだ少女のような笑顔を見せる母親が、ふくふくと丸い頬をした幼い自分を見つめている。きっとそんな光景が実在しただろうと想像したことはあったけれど、目の前に突きつけられた実際の光景は想像の何倍も幸せで、胸がいっぱいになるようだ。
「あ、どっか行っちゃう」
呼び鈴が鳴った瞬間だった。
母はパッと、明るい顔をより輝かせて、幼い子供を片腕に抱き上げると玄関に向かったよう。玄関は自分達がいる壁の横だ。ルースターは顔を上げようとして、同時に隣の小さな自分に手を引っ張られて意識を戻す。
小さな手が力一杯握りしめてくる理由は、なんなのか。視線を上げてカーテンの隙間を覗くと、母親の明るい声が響き渡った。
「おかえりなさーい!」
「ただいまダーリン!」
「ぱぱぁ!」
舌足らずな声が追いかけていって、弾けるように笑う父親の声が家の中に広がっていく。
「ブラッドリー! いい子にしてたかー!? また大きくなったなぁ」
二人揃って食い入るように見つめた先、絵本を放り投げた幼い自分が父親の手で高く抱き上げられている。でも一度しゃがんだ父親の手には絵本があって、その指先が幼児独特の丸い腹をつついている。
「こぉら、本は投げちゃダメだ」
「ごめしゃい」
「んー! 素直ないい子だ! ブラッドリーはいい子だ!」
指先から父親の鼻先へと変わる腹への擽り。きゃあきゃあと笑う幼児独特の笑い声は底抜けに明るくて、父親と母親の声も混ざり合って家の中がとても明るく見える。
三人揃ってソファに座る姿は、家族そのものだ。
父親の髭に手を伸ばして笑う幼児と、その手を食べようとする父親と、二人を笑って見つめる母親。
――こんなの、あったんだ……。
幼すぎて記憶に残っていない出来事は、眩しすぎる。それでも、覚えていたかったと無茶なことを思うのは、許して欲しい。
母の姿と、父の姿。当たり前にあったはずの幸せな光景なのだ。自分にも確かにあった、家族の光景だ。
「パパ……」
「あ、おい!」
強く握っていたはずの手があっさりと離れて、小さな自分が壁にぶつかるようにしてすり抜けていく。
どうにも見慣れない光景に一瞬ギョッとするけれど、何事もなく部屋の中に入り込んだ小さな自分は、ふらふらとソファに近づいている。
どうするべきか。悩みながらもルースターは、手を壁に押し当ててみる。するとその手は、何事もなく向こうに突き抜けたのがわかった。すごいなと妙な感動を覚えている間に、窓から垣間見える小さな自分は、もう三人の目の前にいる。
「ああもうっ!」
目を瞑って体を壁に打ち付ける勢いで一歩を踏み出せば、スルリと体が部屋の中に入り込んだ。
温かさなど感じられないというのに、部屋に入ったとわかった瞬間から、体を包む空気と柔らかくて温かいと感じる。匂いも分からないのに、懐かしい匂いが鼻をくすぐった気がした。ジワリと込み上げる気持ちを飲み込んで、ルースターは足を止めずにさらに踏み出し、小さな自分の肩を掴んだ。
細い肩が揺れて振り返る顔は、目にいっぱい涙を湛えた顔で。どうしてそうなったのかなんて、考えなくてもわかってしまったから。ルースターは小さな体を包むようにして、その場にしゃがみ込んだ。
「パパがいる……っ」
「うん」
「パパいるよぉっ」
「うん、そうだな」
前に出ようとする体は、ルースターの腕をすり抜けることはないらしい。ぽろぽろと涙を零して、それでも必死に前に出ようとする小さな体。太いルースターの腕を振り解くことはできなくて、しがみつくようになる小さな自分は、その手を父親へと伸ばしている。
「ぱぱぁ!」
「……ダメだよ」
「なんで? 僕のパパだよ? ……小さい僕だけズルいっ!」
「ズルくない。なぁ、それは違うよ、ズルくなんてない」
振り返る顔がなんでと訴えている。
温かさを感じない体を抱きしめて、ルースターは大きく息を吸い込んだ。
「そこの、父さんに抱かれてる子供は俺たちだ。これは俺たちが忘れてるだけの、きっと本当にあった出来事なんだ。だから、ズルくなんてない。俺たちも同じように遊んでもらって、たくさん抱きしめてもらってたんだよ」
「そんなのわかんない! 知らない! 僕のパパなのにぃ!」
「今は、あの小さなブラッドリーの、父さんだよ」
頬を撫でて、笑って、鼻先にキスをして。たくさんの愛情で息子を妻を包む父親は、眩しくて遠い。
俺だってと思ってしまうけれど、大人になった思考は緩やかにストップをかけてくる。
あれは過去の自分で、きっと確かにあった温かい思い出。都合のいい夢かもしれない。でも、そうだとしても、優しい夢だ。
「悔しくないの?」
「悔しいとは、違うけど。……少しだけ、羨ましいとは思うよ」
涙を零す小さな自分は、顔を真っ赤にして震えている。まだ赤ん坊の自分が当たり前に受けている愛情を、羨ましいと全身で訴えている。けれど、唇を噛み締めて我慢することもできている。こんなに小さい時から、自分の気持ちを押し殺して耐えていたんだったかなと、ルースターはまるで他人事のようにパチリと瞬きをした。
「……僕、寂しいんだ。パパいなくて。平気だよってママに言うけどさ、本当はさ、すごく寂しい」
一度だって、母にそのことは言っていない。どれだけ悲しませてしまうか、辛い気持ちにさせてしまうか、知っているから。
いつからかもわからないくらい子供の頃から、そうやって生きてきた。もうそれは我慢の必要もないものになってしまったけれど、言いたいことを飲み込む癖の起源はこれかな、と。体を包む腕は離さず、右手で小さな頭を撫でた。
そろりと見上げてくる顔は、まだポロポロと涙を流している。赤ん坊の自分をズルいと思っているかもしれない。でも、自分だからこそわかる。
「忘れないでいよう? それだけで、勇気が湧くから」
もうどこにもいない父親にもらった愛情は、今見たままだ。確かにあって、無条件に溢れんばかりに与えられていた。
だからきっと、母に言わなかったと思うのだ。父さんがいなくて寂しいと。ちゃんと与えられていたものを、母は目にして知っていたから。与えられなかったと嘆く息子の姿なんて、見たくなかっただろうから。もちろん、大人になった今、漠然とそう思うだけなのだけれど。
ぽたんと落ちる雫が弾けて、消えていく。
ゆっくりと目の前の小さな頭へ視線を向けると、同じような動きで大きな目がルースターを見た。
温かな家族の声が遠い。そこにいて、そこで幸せいっぱいに笑っているのに、手が届かないとわかるくらいに遠く感じる。
それでも、ルースターは目の前の顔をただじっと見つめた。
「大きい僕」
「うん?」
「忘れないでね?」
何を、と問おうとして。すぐに思い至って笑って見せる。今し方自分で口にしたことだ。当たり前だと言うように力強く頷いて見せたら、腕の中でくるりと動いた小さな自分はその細い腕をルースターの首へと伸ばした。感触はない。でも、感じられるような気はした。
薄い背中に腕を回すと、すっぽりと収まる小さな自分。まるで輪に入れないのを二人で慰め合っているようだと感じたけれど、ルースターは口にはせず。ぎゅうっと抱きついてくる体をただ、支えた。
「大きい僕、パパより大きい気がするね」
「厚さはあると思うよ。身長は多分、父さんのほうが高い」
「そっかぁ。……お髭、パパみたい。素敵だね」
ゆっくり体を離した小さな手が、鼻の下を撫でた。くすぐったくて笑うと、ママみたいと口にしながら笑って。
その体がスゥッと消えていく。
ハッと息を呑んだのはルースター。小さな自分は涙を目の端に湛えたまま、その視線をゆっくりと温かな家族へと向けた。その眼差しは、ズルいと妬むようなものではない。
「パパ、大好き」
届かない声をあげて、小さな手を振って。ありったけの気持ちを込めた言葉を残し、音もなく消えた小さな自分。
その瞬間にグン、と体が引っ張られるような感覚に襲われた。咄嗟に大切な人たちへ目を向けたのは、きっともう、見れない光景だからだ。
「父さん、母さんっ」
遠ざかる景色。声は当然届かない。それでも、小さな自分がしたように。
「二人とも、愛してる」
叫んだ声は虚しく響くだけだ。
でも、気のせいだとしても。
パチリと瞬きをした瞳が、たとえ何もないところを見ているのだとしても、確かに自分を見てくれたと思えたから。
ルースターは赤くなった顔で、精一杯笑って見せた。
「……で、次はお前か」
「次?」
「いや、なんでもないよ」
肩をすくめるルースターの前にいるのは、ヒョロリとした青年だ。でも、お前は誰だと見間違える要素は、何一つとしてないだろう。
ブラウンの、クセのある少し長い前髪を揺らして、その奥からジトリと見つめてくるのは間違いなく自分だ。
いつ頃のと言われれば、その態度から推測は可能だった。
――たぶん、マーヴに願書破棄された頃、かな。
これはどう接したらいいのだろう。
先程までの小さな自分とは違い、ずっと今の自分に近い青年。扱いづらいなと、即、頭の中で満場一致したのは、この頃は本当に不安定で仕方がなかったからだ。
キョロキョロと周囲を見渡す青年の自分は、やはり長い前髪の奥からじっとルースターを見てくる。おそらく、彼もルースターが何者なのか察しているだろう。
「あのさ」
「うん?」
「……アンタ、父さんじゃ、ないよな」
「わかってなかった……!」
「え?」
思わず仰け反って声が出るくらいの衝撃。
驚く自分の顔はキョトンとしていて、まだ子供だなぁと妙に納得してしまった。
「いや、なんでもない。……うん、俺は、きみだな」
「……オレ?」
「そう」
「……写真の中の父さんそっくりだ」
「ありがとう、よく言われる」
父を知る人物が、ルースターを一目見て先ず口にするのは「お父さんにそっくりだ」という社交辞令。その言葉にはもう慣れたが、昔の自分に言われると、なんだか少しむず痒かった。
今、自分で鏡を見てもそこにいるのは当たり前に自分で、亡き父ではない。どちらかといえば小さな自分が口にしていたとおり、髭に見慣れてくると母の面影が強く感じられる顔だが、それでもどうしたって、ニックでもキャロルでもなくブラッドリーだ。
「……いくつ、なの」
「年齢?」
伺うような眼差しを受けて問えば、存外素直に頷く自分。荒れていた部分もあったが、基本的に世界は敵だとかいった感覚ではなかったから、見知らぬ誰かに喧嘩を売るようなことはしていなかった。この時の敵は、ただ一人だから。
「三十五」
「うわ、おっさんだ」
「おっさん言うな。お前だってこうなるんだ」
両手を広げて、見ろよと伝えれば、その顔は少し引き攣ったような面持ちだ。ずいぶん失礼な態度を取るやつだとムスリとした顔を向けると、小さな咳払いと共に驚いた表情は消えていく。
かわりに興味が湧いたのか、ぎこちなく一歩前に出て、小さな歩幅で近づいてきた。
身長はまだルースターより低い。遅くやってきた成長期はちょうどこの頃で、食べた栄養が全て骨に回っていたような時期だった。太る暇もなかった記憶がある。過度なストレスもプラスしていたのに、よく耐え切ったなと喉元を過ぎたそのことに、第三者視点から感心した。
「で、大人のオレは、オレになんの用?」
「さあ?」
「……さぁ、って」
「気付いたらこんなことになってるから、俺もよくわかってない」
「はぁ? ……なんだよそれ」
「もっと子供の俺のほうが、事情を飲み込めてたんだよな……素直って怖い」
何言ってるんだ。
そんな顔で見つめてくる自分に肩をすくめて笑みを見せると、ため息混じりに頭を振られた。
子供が大人のフリをするようなそれは、無意識にやっているのだろうけれど、少しばかり恥ずかしさを感じる。熟れてくるまでしばらくかかるだろうなと思って、ルースターはゆっくりとした仕草で腕を伸ばした。
腕を伸ばせば、触れられるところまで来ていた青年の自分。ちょんと指先で触れるだけのそれに訝しんだのは当然向かいの彼で、何も起きないことに手を握らなければダメかと口を結んだ時。
グン、と引っ張られるような感覚がルースターを襲い。ヒッ、と短い悲鳴のような声が聞こえた気がした。
流れてちっともまともに見れない景色。思わず止めていた息を吐き出せたのは、ブレーキがかかるようにして体が止まったからだ。
ふらつきながら顔を上げて、視線だけで周りを見て。ゆっくりと体をその場で一周させると、記憶の中の映像と目の前が唐突に一致して少し笑ってしまう。
「なに、今の」
「驚くよなぁ」
「……経験済み?」
「まぁね」
つい先程経験したばかりだと言ったら、どんな反応をするのだろう。少しだけ見てみたいと思ったけれど、ルースターは指先で青年の肘の辺りに触れて「怪我は?」と問いつつ曲がっていた背中を伸ばした。
「してない。……アンタは?」
「……ふ、ふふ、してない。ありがとう」
突然笑い出すルースターに、青年は当然眉を顰めている。
でも仕方がないだろうと、ルースターは誰にともなく思う。
だって、少年の自分も青年の自分も。二人は全く同じ意味合いを口にしたのだ。ルースターは大丈夫なのか、と。
問われて当たり前に返す言葉ではあるだろうけれど、普段とは違うこの状況下で返す言葉が同じとは、妙に嬉しくて思わず笑ってしまうのだ。
そんなことを露程も知らない青年は、よくわからないとばかりに頭を振って。そうしてゆっくりと視線を上げた。
「……クリスマス?」
「そうだな」
「ねぇ、ここ、オレん家なんだけど?」
「そうだな」
「……なんで?」
恐る恐ると言うように顔を向けてくる青年の自分は、家を指差したまま声色の通りに顔を引き攣らせている。
わかる。と思いながらルースターも見上げるそこは、先程まで小さな自分と一緒にいたあの家だ。一度飛ばされた意味がわからないと思いながらも、ゆっくりと瞬きをして見つめるそこに、少し違和感があることに気が付いて。胸に走る痛みを誤魔化すような笑みが、ポロッとこぼれた。
「オレ、この家、捨てたんだよ……?」
震える声が聞こえた。
それはまるで、怯えているような、憂虞しているような声。
知っていると呟いて頷いたルースターに、それでも揺れる瞳を向けてくる青年の自分は、今にも泣き出しそうな状態を堪えるように、目元に力が入っている。
見上げる先の家は、先程小さな自分と見上げて上がり込んだ家であり、でも何処か違うと感じる家。青年の自分が最近まで住んでいただろう家とも異なるのは、同じくそこに住んでいたルースターだからわかる。
家の見た目はそう変わらなくても、壁や屋根の色は塗り替えられていて、垣根や玄関先に飾られているクリスマス用の電飾が煌々と輝いていた。家の中から聞こえてるくる賑やかな笑い声は、全く知らない誰かの声。
ゆっくりと足を進めると、青年の自分の目が追ってくるのがわかる。足が縫い付けられたように動かないようで、ひたすらに戸惑いの視線が向けられている。それでもルースターは足を止めず、何も感じない足の裏に少し慣れたなと思いながら、ある場所を覗き込んだ。
「……だよなぁ」
「お、おい、」
「なぁ、ほら、みて見ろよ」
おいでと手招けば、手をワタワタと動かして、それから深呼吸して歩き出した青年の自分。そろそろと周囲を伺うようなそれに少し笑って、ほら、と見て欲しいところを指差した。
素直に覗き込むかつての自分は、ハッと息を吸って顔を上げてくる。
わかってくれたことに目尻を下げると、見つめる先の顔は途端に泣き出しそうな赤に変わって、下を向いてしまった。
「ここは、俺たちの家じゃない」
辛い現実を口にすると、青年の自分は項垂れたまま頷いている。
ルースターが指差した先にあるのは、子供一人が通り抜けられるほどに空いていた隙間。小さな自分と訪れた昔の家にもあったあの隙間は、今はもうない。補修がされたそこは、ルースターがこの家を、青年の自分がこの家をあとにした時はあったはずのもの。
同じ形の家であっても、そこに住んでいる人は知らない誰か。
父との記憶も、母との思い出も、全て塗り替えられた家。もはや、ルースターの家ではない、家。
クリスマスイブにはしゃぐ子供の声は明るくて、この家にそんな声が響いたのはいつぶりだろうかとルースターは思う。
――ここ、もしかして、今?
この家が青年の自分が出たあとだとして、どれくらい経った頃なのかとふと考えたルースターは、子供の声や口にしている言葉では判断できなかったけれど、テレビから聞こえてくる音でおやと顔を上げた。
つい最近発売した車のCM。映画の主題歌を使ったそれは妙に耳馴染みが良く、記憶に新しい。短い時間で切り替わる各商品の宣伝音は、やはりどれもこれもここ最近耳にしたり目にした、セルフォンと連動した腕時計の新発売であったり映画の広告といったものばかり。
――現在、か。
困惑の顔で家を見上げている青年の自分へ目を向けて、驚かせてしまうだろうと思いながらも、その肩を優しく叩いた。案の定肩をはねさせた青年は、それでもしっかりとルースターを見てくれたので、どこかホッとできた。
「ここは、お前にとったら未来だ」
「……未来?」
「そ。俺が今、生きてる時代だから」
「……そう」
思ったよりも驚かないな、と片眉を上げたら、寂しそうな笑みを浮かべる青年の自分はゆっくりと頭を振って一歩一歩確実に下がった。そんなことどうでもいいと訴えるように、震えるように息を吸って、止めて、細く吐いている。
泣きそうになる時、そうして懸命に涙を抑え込んでいたなと思い出して。ルースターは同じように一歩ずつ家から遠ざかった。
少しだけ小さくなる家の中の音。
苦しく圧迫していた何かが取り除かれるようで、自嘲気味に口を歪めた。
ここはもう、自分の家ではない。
まざまざと突きつけられた現実は、平然としていたつもりのルースターの内側に的確にダメージを与えていたらしい。青年の自分のように泣き出しそうになるまではいかなくとも、重たく苦しい気持ちに嘘はない。
「オレ、母さんが大事にしてた家、勝手に、いらないってっ」
「うん、そうだな」
「きっと誰も住まないって、思ってたんだっ」
「……わかるよ」
「ここは、オレの家なのにっっ」
両手で顔を覆った青年は、崩れ落ちるように地面に座り込んだ。
引き攣るような呼吸に混じる水音は、堪えきれなくなった涙だろう。
どれだけ後悔しても、事実は変わらない。この家は確かに青年の自分が衝動的にいらないと手放し、そして今の今まで見向きもしなかった。誰かが住む可能性も、取り壊される可能性も。全く一度だって考えなかったのだ。ただずっとそこにあるのだと、きっと頭のどこかで望んでいたのだと、突きつけられた現実に胸が痛む。
あのあと、いつ、他の人の手に渡ったのかはわからない。訊ねれば教えてくれる人はいるけれど、今更だなと思ってスウェットのズボンのポケットに手を入れた。
「……なぁ、今、アンタは何してるの」
ズズッと鼻を啜る音と一緒に聞こえて来る、震えた声。チラリと視線を落とすと、俯いたかつての自分は涙を拭いながら息を吐いている。そこからまた視線を上げて、別の人の家となっている昔の我が家をぼんやりと見つめた。
これは夢だからと気にせず、本当のことを言うべきか。それとも、嘘をつくべきか。
逡巡した出た答えは、
「広い意味で人を助ける仕事」
なんて曖昧にも程がある言葉だった。
想像通りに青年の自分はキョトンとした顔を向けてきて、瞬きで涙の滴が落ちていく。悲しいとか悔しいとかそういった感情が見えない顔はあどけなくて、散々周りに子供だと言われてきた理由がわかった気がした。
「なに、それ」
「いつかわかるだろ」
「……あの人とは?」
「想像に任せる」
「んだよ、それ!」
「答えを聞いて楽しいか? 自分で探し当てろよ」
どうせ通る道だ。
突き放すような言い方で青年の自分をもう一度見下ろすと、悔しそうに下唇を噛む様子が見える。
ルースターも散々迷って悩んで時に道を間違えて、そうして今の場所に辿り着いた。それは確かにヒントや答えが欲しくなる道だった。でも、辿り着けた。そうしてまだまだ歩き続けると、足は止めていない。
手を貸したくなるくらい、今の青年の心がズタボロなのは知っている。けれどルースターだから知っているのだ。それを乗り越えて得られたものがあることを。それがなければ得られなかったものを。
だから、手を差し伸べようとはしなかった。
「……ねぇ、母さんと父さんに、会いたいって、思ったことは」
「……あるよ」
地面を睨むようにしてルースターから視線を外した青年からの言葉は、その時のルースターが散々思ったことで。でも、決して実行には移さなかったものだ。
同意を得られたからか、ゆっくりと顔が上がった。困惑の色が強いけれど、また、泣きそうな顔だ。こんなに泣き虫だったかなと思うが、抱えた胸の内を曝け出すなら感情的にもなるかと納得もできた。
「オレ、さ。父さんの記憶殆どないんだよ」
「だよな、俺もだ」
肩をすくめると、小さく笑う空気と一緒によかったと声も届く。少しだけ肩から力を向いて未だ座り込んでいる青年の自分を見つめると、その顔はじっと家を見ていて。でもきっとその目に映っているのは、今そこにある家ではなく、かつての風景か。
「……それはさ、仕方ないって思うけど。でも……なんでか、母さんの、怒った顔も思い出せないんだ」
思ったよりも明るい声で。でも、悲しい顔で。涙を落とし、震える体。
滅茶苦茶な感情に振り回される青年は、そのまま辛そうに息を吐いて、小さく頭を揺らす。まるで嫌だとする、子供のようだ。
「笑ってる顔は、たくさん思い出せるんだ。あったかくて大好きな顔。……なのに、怒った顔が思い出せない。何度も怒られてきたはずなのに、大事な思い出なのに、オレしか覚えててあげられないのにっ! 全然わからない! ねぇっ! あの家でオレは何度も怒られたよね!? なのにっ、なのに……っ、全然、わからないんだよ!」
ボロボロとこぼれていく涙は、止まることを忘れたように落ちていく。
苦しい胸の内を聞かされて、ルースターはポケットから出した手を自分の胸に当てた。ギュッと服を掴む手は、短い呼吸と一緒に震えている。
必死に頭が思い出すのは、言われたとおり、笑っている顔ばかり。困った顔は辛うじてわかるけれど、どれもこれも必ず母は笑っていて、怒った顔も声もわからない。
今まで気にもしなかったことだ。だって、優しい思い出を抱いていれば幸せだったから。いつだって笑って見守っていてくれると、そう思うだけで奮い立つことができたから。
けれど、いざそう言われて。母は怒らなかった人ではないのに、大切な一部分を綺麗に忘れてしまっている自分に、胃が落ちるような感覚を覚えた。
怒ってくれた顔も声も忘れてしまったら、母の綺麗なところだけを覚えているような気持ちになる。それでいいと言う人もいるだろう。けれど、自分は違う。母のことを覚えている人はもう少ない。その誰もが母は明るく笑う元気な人と認識して、覚えてくれているだろう。
でも、そうではないのだ。
母は確かにルースターを叱ったし、肩を掴んで言い聞かせてきたことだってある。思春期を迎えた頃は言い合いになり、酷い言葉を放って母を泣かせたことだってあった。その顔も思い出せない。辛くてまともに見れなかった姿だけれど、確かに目にしたはずなのにわからない。
そんな他人からは忘れていいんだと言われてしまうような姿が、何も記憶に残っていないことが、胸を引き裂くように辛い。その全てをもって母であったのに。その全てを見て育ってきたはずなのに、思い出せるのが笑っている姿だけなんて、あまりにも酷すぎる。
「ごめんなさいっごめん、母さん」
立てた膝の間に顔を埋めるようにして、青年の自分は大きく体を震わせた。
その姿がぼやけて見えたのは、気が付けば涙が目に浮かんでいたからだとようやく気付く。袖口で拭って、大きく息を吸って。泣きじゃくる青年の隣へ静かに近寄り、ルースターは震えるその肩を抱くようにして隣に腰を下ろした。
嫌がるかと思ったけれど、拒否はされなかった。だからその肩を力を込めて摩れば、温かさは感じられないけれど何かが触れている感覚だけは伝わるだろう。そう思いたかった。
「……オレ、ひどい息子だ」
「俺もだから。……言われるまで、全然気にしてなかったし」
「思い出せる?」
「母さんの怒った顔? 残念だけど、全く」
「そっか……大人になっても酷いやつだな」
「面目ない」
母の友人や知り合いには、怒った顔を知っている人はいるのだろうか。いたとしても、ルースターにはその人たちと連絡を取る手段はないので、結局は自分が思い出せないのなら母の姿は綺麗な願望に包まれた偶像のままだ。
――ああ、でも。マーヴはもしかしたら……。
開きかける口からは、その音は出なかった。今その名を口にすれば、不安定な心を抱えて泣いている青年の自分は訳も分からず怒りを爆発させて、泣き叫ぶだろう。辛いところに更に辛い事を重ねるのは苦しい。それを知っているから、引き金になってしまう名前は口に出せなかった。
音もなく閉ざした口はきゅっと結ばれて、騒がしくならなかった周囲には、涙を拭ってはこぼす音だけが響く。
「まぁ、頑張って思い出してみるよ」
「……無茶だ」
「やってみなけりゃわからないだろ」
「今まで忘れてたくせに」
「それを言われると何も言えねぇ」
クッと笑うルースターに、肩をしっかりと抱き抱えられている青年は泣きながら笑って見せた。
無理して思い出さなくてもいいと、母は呆れているかもしれない。むしろそんな顔忘れててと、慌てているかもしれない。
でも、思うのだ。
青年の自分が口にしたとおり、怒られたそれも大切な思い出で。ルースターを作り上げた一つの柱だ。全部を抱えるのは無理だと笑われるかもしれないが、大切な記憶は抱えていたい。なんにも残らない、残せないのなら、もう、自分が握りしめていなければ消えてしまうのなら、大事に抱えて生きていきたい。
そう、思うのだ。
「……思い出せたら、忘れないでくれよ」
「わかってる。……頭ん中の音とか、外に出せたらいいのになぁ」
「未来人なのにそんなのもできないのかよ」
「未来人って!」
あはは、と。心底楽しそうにルースターが笑えば、涙を目の端に浮かべた青年も確かに笑った。
その笑顔が見れたからといって、彼が今抱えている全てが晴れたわけではないのは、そこを通ってきたルースターにはわかっている。そしてこれが現実でないことも、わかっている。
だけれど、夢の中であっても、目覚めたら忘れてしまうかもしれない出来事の一つでも。心にかかっている負担を少しでも軽くできたのなら、今ルースターが立つ場所を目指す力の支えになるかもしれない。
そう思えば、こうしているのも悪くないものだなんて考えるのだから、実に身勝手なものだ。
「あのさ」
「うん?」
「三十五って、言ってたよね」
「うん」
「……結婚とかしてないの?」
「ああ、してないよ。独身」
ひらり、と左手を振って見せれば、そこに指輪の類がないのはわかるだろう。確かにいい歳だと言われる頃合いだけれど、相手がいなければ結婚なんてできる訳もなく。その相手だっていないのだから、胸を張って独り者だと言い切れば、青年はなんとも表現し難い顔で頷いた。
「今の頃だと、付き合ってるのナンシー?」
「あーうん、でも、もう連絡微妙だよ」
「なるほど。頑張れよ」
「別れる未来が確定してて何を頑張れと」
ふっ、と、笑いながら口にする青年は、肩口で涙を拭うとまだ濡れているまつ毛をそのままに、ゆっくりと顔を上げた。その視線の先はかつての自宅で、今の彼には未来のそこ。
この先この家のことを思い出すこともせず、ひたすらに空を目指してもがくことになる青年は、うまく思い出せない父と、確かに思い出せる母の笑った顔を支えに突き進むのだ。
あれやこれやとたくさん失敗も後悔もするけれど、お前は空に居場所を見つけるのだと、そう言ってあげたくて。でも言えないから、ルースターはその背を力一杯に叩いた。
感触は無いはずなのに前につんのめる青年は、何するんだという顔でルースターを振り返って。そうして、生意気そうな顔で口角を上げる。
「その、よれよれの格好してちゃ恋人もできないよ。勘弁しろよな!」
「ああ? 言ったな!?」
これは寝るからこの格好だ! と。言い訳じみた本当のことを告げようとして、隣にいたはずの生意気な顔をした青年が、音もなく、余韻もなく消え去った。
残されたルースターは一瞬呆気に取られ、でもすぐに、少しだけ寂しそうに笑う。
「頑張れよ、お前はここに来れる」
そう呟いた声が、遠く置き去りにされた。
グン、と引っ張られる感覚は突然すぎて慣れないけれど、一度経験したからアタフタとすることもない。
逆らえない力に身を任せるように、ルースターは大きく息を吐いた。
瞬きをすると、目の前が真っ暗で一瞬たじろいだ。
目を開けていないのかと思うけれど、パチパチと動く瞼は確かに開閉しているから、目を閉じているのではない。
なら、目が見えなくなったのか。それは困るぞと焦る気持ちに急かされて目元に手を寄せるけれど、真っ暗すぎるそこでは指先すらも見えなかった。
冷や汗のようなものを背中に感じながら、それでも発狂しなかったのは、これが夢の続きだとわかっているからかもしれない。足は今までと同じく、多分素足。でも足が触れている場所の感覚は曖昧。それは、長いこと夢の中で過ごしてきた場所の全てと同じ。
ふぅっと息を吐いて、擦るようにして足を前に出した。手は探るように前後左右に伸びて、その指先に何か触れないかと神経を集中させる。
空を切るばかりの手は何かに触れることはなく、足も平坦な場所を擦って行くだけ。足の裏の感触がわからないので、そこが人工物なのかさえも判断がつかない。目を開けて周囲を見ても、目を閉じているのと変わらない暗闇はどんどん気分を落ち込ませていくだけで。なら、とふざけたように目を閉じてみるけれど、変わらない暗闇のはずなのに開けていないと不安が増した気がした。
「……最初が過去で、さっきが現在。なら、次は……」
子供の頃に読んだ本のとおりなら、次に訪れる場面は未来。
予想を裏切ってくる可能性はあるだろうけれど、多分そうだろうなと楽観視しながらジリジリと一歩を進む。
でもそこでふと、顔を上げたルースターは足を止めた。探るように伸ばしていた腕も体の脇に下ろして、暗闇の中で立ち尽くす。
「……ここが未来だとしたら、こんなに真っ暗なのって」
俺、死んだ?
と口から出なかった言葉は頭の中だけに響いて、ストンと肩が落ちる。
これが百年後の未来です、なんて言われれば納得もするけれど、きっとそうではないだろう。現在より未来で、ルースターは命を落とすのか。
誰にだっていつかは訪れるそれは、仕方のないことで当たり前のこと。突然なのか準備をして迎えるのかは人それぞれだろうが、今まだ生きているルースターには少し重たい事実だ。
「えー、いつだよ。八十くらいまで生きたいんだけどなぁ」
真っ暗な暗闇に向かって呟くと、その声は反射することなく飲み込まれていく。少しだけ怖いなと感じて、細くため息を吐いた時。
小さく空気が揺れるのを、肌が感じとった。気がする。
誰かいる。
そう認知した瞬間、少し先にぼんやりと生まれた光りが目に入った。
目は見えていることに安堵しつつ、唯一の光源に照らされる周囲は相変わらず真っ暗だったけれど、吸い寄せられるようにして、ルースターは足を動かした。
一歩一歩近づいて、しっかりと見えてきた朧げな輪郭を浮き上がらせている球体の光りが、不思議なことに宙に浮いているとわかった。奇妙だなと思うのに、不思議と嫌な感じはしなくて。ルースターは足を止めることなくその光りの端に触れた。温かさは今までのように感じないけれど、暗闇の中の唯一の光源に安堵したのは確か。
「そこでストップ」
光りばかり見つめていて、誰かがいることに気が付かなかった。
慌てて声が聞こえたほうに顔を向けると、ルースターがいる場所のちょうど反対側の光りの端に、暗闇を向く形でビーチチェアが置かれているのが見えた。
なぜビーチチェア。と、疑問が湧きつつも、言われたとおりにその場で完全に足を止めれば、背もたれから飛び出す手がひらひらと揺れたのが、ぼんやりとした中でもわかった。
「ありがとう。これ以上は接近禁止だ」
低い声は自分のものなのだろうかと思うほどに、酷い声だ。その声色だけで年齢を推し量ることは不可能だけれど、見るなというように足を止めさせたのだから、見てほしくないほどの年齢なのか。
「別に構わないけど。……なぁ、なんでこんなに真っ暗なんだ?」
未来の年老いた自分が存在するなら、こんなに真っ暗な理由はなんだ。まさか世界が滅亡したとか、あり得なくもないことを考えて緩く頭を振った。
それを察したのか、自分の考えそうなことだとでも思ったのか。年老いた自分は低く笑って、咽せって大忙しだ。
「確定してないから、といったところかな」
「……でも、アンタはいるんだろ」
「ああいるよ。けど、お前がどんな道を選ぶかで俺じゃなくなる可能性はある」
「それ言われると、小さい自分たちが選ぶ道次第で俺がいなくなるんだが」
連綿と螺旋のように過去と現在と未来が繋がっているのなら、どこかの自分が違う選択をしたら違う未来になるのではないか。それは困るぞと顔を顰めると、またひらひらと手が揺れているのが見えた。
「大丈夫。基準はお前だから」
「なんでだよ」
「それは知らない。けど、お前を基準に過去も未来もくっついて回ってる。だから、お前が選ぶ選択肢で俺の歩く先が決まる。でも過去はそう変わらないさ」
そんな保証どこにある。憮然とした面持ちでチラリとしか見えない姿を睨めば、その手が一の形を取り、人差し指がチッチッと鳴る音に合わせて右に左に揺れた。
「だって俺は、お前が選んできた選択肢に合わせて姿が変わってる。けどお前は変化なしだろ? なら、基準はお前」
難しいことは考えるな、と笑う声は揺れている。
それは大事なことのような気がするが、と口から出そうになる言葉を無理やり飲み込んで、ルースターは眩しく光る球に視線を移した。
直視し続ければ目がやられてしまいそうな、それでも一瞬で網膜を焼くような強さはない、柔らかな光りの球。ルースターの顔の位置にあるので、室内灯のように手の届かないところにあるわけではない。そおっと手を伸ばして触れようとしてみるが、熱さも感覚も何も伝わってこない。
ただ存在する光源を不思議そうに見つめながら、肩から力を抜いて、両手をポケットへと押し込んだ。
「俺はここで何したらいいんだ? アンタの愚痴を聞けばいい?」
「いや? 別に愚痴ることもない。思い残すことなんて特にないしな」
「あっそう……」
では何をするためにここに来たのか。
疑問に首を傾げると、年老いた自分はまた愉快そうに笑って咽せている。無理するなよ口にすれば、またひらひらと手が揺れた。
「なあ、若い俺よ」
「若いか?」
「俺よりは」
「まぁそうだけど。……で、なに」
クツクツと笑う音はやはり闇の中に吸い込まれていって、どことなく不気味だ。心細いわけではないけれど、光りを体全部に当てていたくて。その場から動かずに体を捻ったりしながら、全身にくまなく不思議な球体の光りを浴びた。
それを見ているわけでもない年老いた自分は、ゆらゆらと手を動かして言いたいことを纏めるのに忙しいようで、暫く無言が続いてしまう。それは苦ではないけれど、暇だな、とは素直に思った。
「そうだな、お前が今欲しいものはなんだ?」
考えた末の問いがそれか。
少しだけ呆れつつ、ルースターは相手に見えないと分かっていても肩をすくめた。
「別に。特にないよ」
「本当に?」
「本当に。欲しいものは自分で買うし、無理なものなら心に留めておく。これでも大人なんでね」
年老いた自分からすれば、今のルースターはどれほど子供に見えるのか。聞いてみたい気もしたけれど、馬鹿にされるのはごめんだったので。ルースターは静かにそう告げて、少しだけ背を曲げた。
「お前はそうやってまた、心を殺すんだなぁ」
「……そんなことしてない」
「そうか? だって口にしない」
「欲しいものがないのに無理に口にしてどうすんだよ。そんな、馬鹿みたいな嘘のほうが嫌だ」
呆れるルースターに年老いた自分は笑って、静かな空間が少しだけ賑やかになる。でも、ルースターの顔はやや険しいし、相変わらず年老いた自分の顔は見えない。
それでも、何も見えない有利を活かすように、年老いた自分はくつりと笑った。
「お前は何を見てきた? 幼い自分が、青年の自分が、欲しいと願ったものは手に入ったのか?」
その問いに、手に入るわけないだろうと反射的に言葉が飛び出しかけて、慌ててぐっと唇を噛み締めた。すんでのところで飛び出さなかった言葉は、暴れるように騒がしくも飲み込まれて、もう飛び出せない。
キツく噛んだ唇を見たわけでもないのに、唇を噛むなと呆れた声が届く。
「無理だって諦めたか」
「……あのさ、その二つはどう頑張っても無理なんだよ。わかるか? 父さんと、母さんの怒った顔なんてこの先、どんなに大金を積んでも、一生かかっても手に入らない!」
張り上げた声は思ったよりも大きくて、でも反響するもののない空間に飲み込まれて消えていく。
どれだけの声をあげても、全て吸収されてしまったら、自分はここにいるのに、誰にも気づいてもらえないのではないか。そう感じて、ブルリと体を震わせる。
唯一、今、ルースターを認識してくれている年老いた自分は、相変わらず向こう側を向いたまま顔を見せることなく、そうだけどと呟いてる。話す時は人の顔を見て話せと、母に言い聞かされてきただろうと、怒りにも似た感情を腹に抱いて、ルースターはポケットの中で拳を握りしめた。
「それを欲しいって叫んだところで、何の意味もないだろ! ……虚しくなるだけだ」
口にして手に入るのなら、いくらだって叫んでやりたい。けれど、どうしたって無理なものだとわかっているから、ルースターはその選択を選べない。
もうこの世にいない父と、母。その二人を望んだところで、欠片も手に入らない。これほどまでに苦しいものはないだろう。
だから、最初から望まない選択を取る。それが、現在のルースターが選ぶ答え。
強く握りしめた拳はポケットの中で震えて、それでも大した痛みもないから、ああこれは夢だったなと認識する。
たかが夢の中で何を感情的になっているのか。呆れるように短く吐き捨てるように笑って、ルースターは白光りしている足元に視線を落とした。相変わらずそこは人工物なのか違うのか、よくわからない。でも特に気にすることでもないかと、少し昂った感情を抑え込むように、口から息を吐き出した。
「ほら、心を殺してる」
「――っ、だからっ!」
「なあ、ここはお察しの通り夢の中だ。誰に秘密がバレるわけでもない、お前の頭の中の世界だ。好きに叫んでいいだろ。この俺だってお前の想像した何かなのかもしれないし、今まで見てきたものだってそうかもしれない。なら、今のお前が今一番欲しいものを口にしたところで、誰に迷惑がかかる?」
男の両手が大きく揺れている。
揺れる光に、睨むようにしてそれを視界に入れたルースターは、グッと下唇を噛み締めて。それをまた見ていないだろうに、噛むなと口を出してくる男。
言うことを聞くのは何だか癪に障ったけれど、ゆっくりと歯の間から下唇を解放すると、それでいいと明るく笑う声が聞こえた。
その様子を片目を眇めて見つめ、ルースターは思いっきり息を吐き出した。
もう、どうにでもなれと言うように、ポケットから出した手を開いて、腕を広げて。全てを、曝け出すように。
「……俺は、母さんの怒った顔が、声が思い出せない。だからそれが欲しい。生き返って欲しいとか、そんなことは望んでないよ。ただ、俺が覚えてるはずの大事な思い出を、思い出したい。それだけ」
素直に認めて口にすれば、苦しかった胸の内がすうっと軽くなるようだった。これを口にしたら頭の中に、忘れてしまっていた母の姿が思い出されるかと期待したけれど、そんなことはなく。相変わらず記憶の中の母は笑っている。
緩く頭を振ると、「そう簡単に思い出せるものかよ」と笑う声が聞こえた。クソッと舌打ちをしたのは聞こえないふりか、宙に不規則な縁を描くような男の両腕が揺れる。
「で? 他は?」
言ってみろよ、と促す声。低く高く揺れる声は、浮ついているように聞こえなくもない。
ルースターはパチリと瞬きをして。そうしてまた大きく息を吐き出すと、その顔に少しだけ笑みを乗せた。
「言わなくていいだろ。だって、叶った」
「……ん? 言わなくちゃ叶わないって知ってる?」
「……はぁ、」
「ため息かよ!?」
「父さんに会いたい。……これでいい? 父さん」
吐き出した息の最後の力で出した声は、情けないくらいに小さくて細かった。
でも。
「良くできました! ……え、ウソ、いつから気づいてた? さすがだなぁ息子よ!」
ビーチチェアから漸く振り向いたその顔に、明るく笑う父の顔に、もうどうでもいいかと笑ってしまう。
涙が出るかと思ったけれど薄情なもので、目の辺りは熱を帯びたように熱いのに涙は一粒も溢れてこない。
立ち上がって、近付いてくる細身の体。
見慣れたアロハシャツを揺らして、目の前にやってきたのは間違えようもなく、写真で目に焼き付けてきた姿。
声はどうだろうと思って、でも小さな自分と目にしたこの父の声と同じだったと気付く。なら、この人はやはり、父親だ。
「いやぁ、俺のことはやっぱりいいですとか言われたら、ちょっとどうしようかと思った!」
「言ってもよかったけど」
「酷いっ! ……でも、冗談抜きで。いつ気付いた?」
声のトーンが落ちて、伺う声。
本気で不思議だと首を傾げている姿をじっと見つめて、ルースターはうんと頷いた。
「だって、俺そんな声じゃないし」
「歳とったらこうなるかもしれないだろ!?」
「いや、父さん二十四でしょ? 俺三十五! 声若すぎるから!」
「うそー!? 頑張って威厳あるふうにしてたのに!」
「咽せてただろ」
「え、そんな最初から?」
「いや、気付いたのはもう少しあとだけど。……いや、そうじゃなくて、ああもう……!」
こんな会話をするより、何か他のことを。そう思って頭を必死に動かすけれど、話しのきっかけが何も見つからない。
ポンコツになったような頭を必死に振ると、笑った父の手が肩を掴んできた。
思わず見つめるそこに、確かにある手。でも、感触はわからない。悔しいなと思って顔を顰めたら、そのまま細い腕に抱き込まれる。何が起きたのかと目を瞬かせるルースターの背中を、優しく叩く手は、かつてあった記憶を揺さぶるようで、懐かしくも安心する。
この手を、知っていると、確信があった。
この手のひらで背中を殆ど覆えてしまうくらい、自分が小さかった頃の、断片的な、ちっとも鮮明ではない写真のような記憶。
優しい歌を、聴いた記憶。
夢だとわかっている。現実ではないと知っている。でも、ルースターは両腕を持ち上げて、自分よりもずっと細い体を抱きしめた。
何も言えなかったけれど、肩口に埋めた顔に小さく笑いながら、頭の後ろを柔らかく撫でてくれる手が優しかったから。ルースターは子供のように、グリグリと額を押し付けた。
「眠いのか坊や」
「……違う」
わかっているだろうに、茶化す声に不満げな声が出る。それを自分で耳にして、ああなんて子供のようだと思ったら、恥ずかしさが一気に駆け上がってくる。
慌てて離れようと服を引っ張るけれど、思ったよりも腕に力を入れているらしい父の腕は離れなかった。
「ちょ、離して!」
「なぁんでよ。俺は今、この時を盛大に堪能してるのに」
背中と頭と。温かいリズムで触れてくる父の手は、ちっとも力なんて入っていない。簡単に引き離せると、服を掴むルースターは手に力込めて。でも、どうしても引っ張れなかった。
泣きたいくらいに嬉しくて、仕方がなかったから。
「……これは夢なんだろ」
「そう。夢」
「……じゃあ、俺が勝手に作り出した幻だ」
「そうかもな」
「……夢じゃなく、逢いたい」
父の首筋に頭を預けて、小さく呟いた声。
胸の奥底にずっとしまってあった、口に出せない言葉。
逢いに行くことはできないし、したくないし、来てもらうこともまた不可能で。絶対に叶わないその逢瀬は、確かに夢の中でなければ叶わない。
だから、自分が勝手に作り出した幻だと思って、悲しくなる。
素直に嬉しいと思いたいのに、年齢の分重ねた複雑な感情がそれを邪魔する。それこそ、素直になれない子供のようだ。
「なに、俺はいつもお前のそばにいるさ」
「よく聞くやつ」
「冗談抜きに。お前が思ってくれた時、ちゃんとそこにいる」
見えないけどさ。と、明るく言う父の声は優しくて。まともに記憶していないはずの声なのに、とても落ち着くと、そう思う。
こんな年齢になって、それこそ生前の父親の年齢をとっくに追い越して、体格だって引けを取らず、厚さでいえば圧勝しているというのに、父親は、お前はまるでまだまだ小さな子供だと言うように抱き締めてくる。それが嬉しくて、幻でもなんでも構わないから、もう少しこうしていたいと我儘にも思って。はたと、顔を上げた。
「ねぇ、母さんはいないの? 俺が作り出した幻なら、俺の夢なら、母さんも来てくれていいだろ?」
グイッとシャツを引っ張るようにして、ようやく体を離したルースターがそう口にすれば、ルースターの二の腕に手を当ててキョトンとした顔を見せた父親は、ふっと好相を崩す。
楽しそうなその顔はまだ少年さを残していて、少しだけ、ルースターの胸に痛みを感じさせた。
「マイハニーは、今はいないよ」
「……なんで?」
「ブラッドリー、マイサン。お前が望んだのは?」
「……えぇ? 母さんの……怒った、顔とか、声……」
「そう。つまりそんな顔で声で、愛しい我が子と再会できるかーって、そう言うこと」
「嘘だろ!? なんだよそれ!!」
holly sit! と大声を上げれば、ケラケラ笑う父は実に楽しそうに「language!」と口にして両腕を力強く叩いた。
「それでいいから来てよぉ」
「あっはは! 一人プリプリ怒ってるマイハニーも可愛いけど、そこはほら、母親としての意地もあるからさ」
「なんの意地だよ……。あーぁ、残念」
「大丈夫。さっきも言ったろ? 俺もダーリンも、お前が思ってくれればそばにいる」
ひとしきり笑って器用にウインクする父は、二の腕に当てていた両手をスルリと持ち上げて、ルースターの頬を包み込むように触れてくる。
実際の感触や温かさを感じられたら良かったと、もう何度思ったかわからないことを思って、少しだけ高い位置の目に視線を合わせた。
「……ねぇ父さん。これが、あの話しに沿った夢なら」
「うん?」
「俺はやっぱり、親不孝者だった?」
過去を見て、現在を見て、未来を見て。
あの物語の主人公は、自分の行いを改める。もしその話しに沿っているのなら、自分の行いは良くなかったのではと思うのだ。
反社会的なことはしていないし、誰かを陥れるようなこともした覚えはないから、あるとすれば両親に対する何か不誠実なことがあったのか、という事。
伺うように見上げれば、またキョトンとした顔が見える。
その顔がふはっと笑うと、その瞬間を自分自身ではまともに見たことがないはずなのに、自分に似ていると思った。
「あのな、ブラッドリー。お前は、俺とハニーの最高傑作なわけよ。この最高の体とよく出来た頭と、優しくて陽気な心。ブラッドショーの名を引き継ぐ誇らしい我が子だ。こんないい子が親不孝なことをしたか? 何もしてないさ!」
「でも、軍に入ったよ」
「母さんは嫌がってたみたいだな……。でも、それをお前にはっきり伝えてきたか? そんな事なかっただろ? つまりさ、母さんもすごく悩んでたんだよ。嫌なことは嫌だってはっきり言う彼女が、口に出せないくらい、どうしようって考えてたんだよ」
なんで、と口にした音ははっきりとしていなかった。でも確かに拾い上げた父はニッと笑って、ルースターの胸元をドンと拳で叩いた。
「お前が本気だって、知ってたからだよ。軍に入ってほしくない、空に上がってほしくない。これは母さんの願いだ。でもブラッドリーは、お前の意志は逆で。それを応援したくても出来ない葛藤が、ずっとあったんだと思う」
「……葛藤」
「子供が望む道を、自分の勝手な気持ちで変えさせるのはダメだって、そう言うこと。進んでほしい、でも嫌だ。……母さんも悩んでたんだと思うな、俺は」
「おれ、進んだよ、それはやっぱり、裏切ったことになるんじゃない?」
「ならない。言ったろ、葛藤してたって。つまりさ、どの道であっても、お前が選んだほうを、母さんは応援する気があったんだよ」
「でもマーヴに!」
「そりゃ、マーヴェリックにはそう言うだろ。自分の願いだもんよ。それでもお前が軍に入るならそれはもう止められないし、止まるならそれで良かったんだろうさ」
「待ってよ、意味わからない」
「母さんのあの言葉は、母さんの願いだ。でも、それでお前の行動を制限するものにはならないってこと。……な、母さんの願いの意味、わかるか?」
優しい目がルースターを覗き込んでくる。
困惑の表情でゆるりと右を左を見て、ルースターは唾を飲み込んでから、視線をもう一度合わせた。
「死んで、ほしくない、から?」
「きっとそうだ。……俺のことがあったからな。でも母さんは空を目指して飛んだ俺を愛してくれてた。これは本当。なら、お前は死なないように空を飛べよ。……あー、この前の作戦みたいなアレはな、二人で悲鳴あげてたからもう勘弁な?」
「アレは、うん。……母さんは、怒ってない?」
「念願の怒ってる姿を想像させてやらなくて悪いんだが、全く怒ってない。しょうがない子たち! って笑ってたよ」
「たち、って」
ルースターと、もう一人。子供扱いされている彼らと同い年の男を頭に浮かべて笑い。未だ右頬に触れている手に、少し悩んでから頭を潜り込ませた。
おや、と。目を見張る様子が視界の端に見えて、気恥ずかしさからルースターは俯いた。でも、それをやはり揶揄うようなことはせず。父はルースターが望むことを受け入れて、実行してくれる。
緩やかに動く手のひらが、髪を撫でていく。優しくゆっくりとしたそれは、今の年齢では現実だったら素直に受け入れられない。でも、ここは夢の中だから。もう、こんなチャンスあるかわからないから。ルースターは子供のように、撫でて欲しいと無言でせがんだのだ。
「ブラッドリー、ほんと大きくなったなぁ」
「……ごめん、もういい大人なのに」
「何言ってんの? 幾つになったって、お前は俺の子供なの。頼られたいし甘えられたいわけよ。全部、答えてあげらんなかったからさ」
撫でて抱きしめて。
欲しかったものが与えられる喜びは、ルースターに確かに降り積もる。
絶対に忘れるものかと、キツく奥歯を噛み締めた。
「でもさ、ブラッドリー」
「……うん?」
「男前になったよ、誇らしい!」
胸元にずっと置かれていた手が離れて、また頬に触れた。親指で頬骨の辺りを撫ぜ、手のひらで包むように。
それはそれは愛おしそうに触れる手に、ルースターは少し照れ臭そうにはにかんだ。
「目が覚めたら、マーヴが提案してくることをちょいと素直に受け入れてみな? きっといいことが起きる」
「ええ? 何それ、予知? ……って言うか待ってよ、俺もしかして事故に遭って意識不明になってるとか言わない? こんなすごい夢、死の淵にいるからとか?」
顔を引き攣らせてルースターが口にすると、父親はケラケラと笑って、しまいにはヒイヒイと声をあげている。そこまで笑うことはないだろうと半眼になれば、両手が髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜてきた。
「や、めろって!」
「ヒー! いやいや、面白いなぁお前。さすが俺とダーリンの子。でも安心しろ、お前が寝ている場所はお前のベッドで、グースカ呑気に寝てるから」
「あ、そう。それは良かった。……っていうかさ、さっきの過去がどうのとか俺が基準とか、あれなんなの?」
「うん? まあ、適当にそれっぽいこと言ってみた、的な?」
「適当……」
面白かっただろ? と笑うどこか幼さの残る顔を、焼き付けるように見つめて。ルースターは小さく口の端を持ち上げた。
と、その時。
気持ちよく笑い続けていたその顔が突然ぴたりと止まり、つられるようにルースターも笑みを消せば、父の目がそろりとルースターに合わさった。
何だろうと見つめて数秒。
突然、ギュッと瞑られた両目に、「あーなんてこった!」と嘆く声。
置いてけぼりのルースターはパチパチと瞬きをして、こてんと首を傾げた。
「なに、どうしたの」
「ハニーが……マーヴが、ちょっと」
また何かしたのか。思わずそう漏らすと、ハハ、と小さく笑った父はルースターの頭に置いていた手をまた頬に下ろして、両手でむにゅりと頬の肉を押し上げた。
「いいかベイビーよく聞きな。目が覚めたらまず、秒でベッドを飛び出して玄関に向かえ。秒でだぞ? 速けりゃ速いほうがいい。そんでドアを開けろ。そのくたびれた姿でも構うな、とにかく開けろ! いいな!?」
「わ、わかった」
「OK、いい子だハニー。間に合わなかったらまぁ、ドンマイ」
「命に関わるとかじゃないってこと?」
「関わらないと思うぞ? ……でも、ちょっとどころじゃなく恥ずかしいことになるかも」
「えぇ……」
「だから、秒でドアへ、ゴーだ」
そう言われて、全く意味はわからないけれど、ルースターはとにかく頷いた。
そうすれば満足げに。でもどこか少し不安を残した表情で、父はニコリと笑ってくれる。
妙に照れくさくて、話題を変えるようにあのさと続けた。
「随分と、ハニーが多くない? 母さんはダーリンでもあるわけ?」
「そうよ。キャロルはハニーであってダーリン。ま、俺のハニーは家族全員だからね」
パチリと器用なウインクが飛び出す。ついでにぎゅっと両目を瞑る人を思い出して、ルースターの口角は自然と緩やかに上がった。
「さ、そろそろ目覚めの時だマイサン。なぁに悲しいことはない。鏡を見て最初の一瞬、そこには俺かダーリンがいるはずさ。だから、俺が大好きなその笑顔を見せていてくれよ」
「わかったよ……ありがとう」
寂しさを押し殺した笑顔はぎこちなかっただろうし、心からのものではないとわかったはず。でも、それでも父は気持ちのいい笑顔を見せてくれて。だから、つられて笑うのだ。
「愛してるよ、愛しい子」
額に押し当てられた唇は、遠い遠い記憶にある、あったらいいなと思っていたもの。
そろりと上げた視線の先、父は、ニック・ブラッドショーは、顔いっぱいで笑っていた。
目の端に、光るものを浮かべて。
ぱち、と開いたそこに見える景色は、カーテン越しに差し込む太陽の光りに照らされた見慣れた天井だ。
なんだかとても長い夢を見た気がする。そう思ってどんなものだったか考えるけれど、残念なことにちっとも頭に浮かんでこない。それでも不思議と、残念だと言う気持ちはあまりなくて、寧ろ胸がいっぱいで満たされているような、そんな気がする。
もぞりとシーツの中で泳ぐように動いて、何だか珍しくまだ眠いと訴える体を甘やかしてしまおうかと、息を吸ったその時。
体が勝手にシーツを蹴り上げ、スリッパも履かずに裸足のまま床を駆けた。
何をしてるんだと意識が追いついたのは、小さな小石を足の裏が踏んだ時。チクリとした痛みになんで痛いと思ったのかと変な疑問が頭に浮かび、何故か絶対に急がなければいけないのだと頭の中がローギアで動く。
目の前に迫るドア。
ドアノブまであと三歩。
何故か、開けなければと急く気持ちに、体が前につんのめる。
逸らすことなく見つめる先、雷でも落ちたのかと思う音と共に、ドアが吹き飛んだ。幸いにして蝶番が頑張ってくれたので、ドアが外れて部屋の中に転がると言うことはなかったけれど。
ただ、それでも。
ありえない現実に、ルースターは足を止めたまま唖然とそれを見つめるしかない。
「ブラッドリー! ブラッドリー、無事か!?」
「……は? え、マーヴ?」
「ブラッドリー! ああよかった! この時間になっても全然電話に出ないし、寝室のカーテンは閉まったままだし、何かあったんじゃないかって、心配で心配で!」
部屋の中に飛び込んできたのはマーヴェリックで、ルースターの姿を目にすると数歩を駆けてきて、そのまま体に触れて見つめてと慌ただしくそう口にしている。
もし、いないけれど、恋人と一緒に過ごしていたらどうする気だったんだこの人は。と、半分以上を呆れながら、されるがままのルースターは、ため息混じりに肩を落とした。
「あのさ、だからって、ドア壊す? 蹴ったの?」
「いやぁ、それは申し訳ない。慌ててたものだから」
「慌てて……ねぇ」
頑張ってくれたとはいえ、蝶番はもう使い物にならないくらいに歪んでいる。辛うじてドアを支えている状態で、グラグラと惰性で動いている様は、ドラマや映画のワンシーンのようだ。
マーヴェリックを横にずらし、ルースターはペタペタと床を踏みながら可哀想なドアを支え、感情があるのなら泣いていそうなそれをとりあえず閉めた。が、ギイと音を上げて内側に開くその様子に、はあ、とため息が吐き出される。
「す、すまない、弁償する!」
「それは当然してもらうけどさ。……何も、こんな日にやらかさなくても」
自然と口をついて出た言葉に、少しだけ思考が遅れる。どういう事だと一瞬疑問に思って、でも壁にあるカレンダーが目に入れば納得がいった。
今日はクリスマスだ。
お互いイヴまでは勤務で、マーヴェリックは今日から年明けまで休暇。ルースターはまだ明後日から数日勤務があるが、久しぶりにクリスマスは休みで。そのクリスマスを一緒に過ごさないかと提案してきたのは、マーヴェリックだった。
少しだけ緊張して、でも、楽しみに思っていた日だったのだ。
「俺のサンタクロースは、ドア蹴破るほど慌ただしいわけね」
「う、本当に、すまない。ええと、業者に連絡する……っ!」
「そうして。これじゃ買い物にも行けないよ」
セルフォン片手に、ドアを支えて業者を調べるマーヴェリックをそのままに、ルースターは起き抜けに慌ただしすぎるなと、眠気も吹き飛んだ頭を指先で掻いた。
寝室に戻って着替えれば、随分とくたびれた印象のスウェットが、ドアのこともあったからなのかだいぶ薄汚れて見えて。なら洗ってしまえと、シーツごと洗濯機に放り込んだ。見上げる時計は直にてっぺんを指す。
確かに寝過ぎていたと小さく笑って、ぐぅぅと大きな音をあげる腹を押さえた。リビングでは業者に連絡を付けたマーヴェリックが何やら話しをしている。それは彼に任せようと、とりあえずはキッチンで水を飲んだ。
本来であれば数時間前にマーヴェリックはこの家を訪れて、今頃の時間に一緒に近所のダイナーで昼食をとり、それから夕飯の買い物をするついでに色々と話しをする予定だった。それはルースターの寝坊に伴い大きくズレて、更にはドアの破壊でまた大きくズレた。マーヴェリックの腹具合はどうだろうかと思うが、ドアが閉まらない以上二人揃っては出かけられない。
「あそこ、デリバリーやってたかな……」
行く予定だった店を片手で検索すれば、表示されるのはデリバリー可の文字。思わず拳を握り顔を上げれば、ちょうど電話を終えたマーヴェリックと目が合った。
「すぐに来てくれるって」
「そりゃ良かった。ねぇ、腹減ってる? 俺はかなりペコペコなんだけど、ダイナー行けないからデリバリーするね。食べたいものある?」
セルフォンを振ると、近寄ってきたマーヴェリックが表示されているメニューに目を細め、ううんと、唸る声が聞こえてくる。
現状の体を維持するために、かなり厳しい食事制限をしているとは先の作戦の時に聞いていたし、実際目の当たりにした。休暇なのだし気にする事ないだろうと思うのだけれど、年齢を重ねれば重ねるだけ取り戻すための時間とワークが増えると、実に重い口調で伝えてきたので。ルースターはマーヴェリックの食事に関しては、口を出さないでいようと心に決めている。
「じゃあ、これで」
「わかった」
長考の末出された答えに返事をして、今度はルースターが電話をかければ、家の中に音が広がっていく。
もしかしたらドアの業者とデリバリーの到着が同じタイミングになるかもしれないなと、通話を切ったルースターは小さく笑って。グラつくドアを支えるマーヴェリックの横をすり抜け、明るい日差しで溢れる外へと出た。
明るいとは言っても冬だ。外は寒い。
それでも、なんとなくそこで空を見上げていれば、ドアが揺れない位置を見極めたマーヴェリックが支えるのをやめて、ゆっくりと隣にやってきた。チラリと視線を落とすと、それに気付いているのかいないのか。床に放ってあったバックパックを漁って、「ほら」と差し出してきたのは手のひらに収まる大きさの、丸い金属の入れ物。
何これ、と片眉を上げれば、古く錆びついた金属の入れ物の表か裏かを、くるりと回して見せてきた。貼られているシールがこれまた茶色く変色していて、経年劣化の具合を教えてくれる。でもその変色したシールに書いてある文字に目を止めて。ルースターは驚いたように、マーヴェリックを見つめた。
「これ、って」
「グースが撮ってたやつだ」
「だ、だって、家にあったやつは全部捨てた……!」
「うん、知ってる。だからこれは、僕がグースからちょっと無理矢理もらった、最初で最後のホームビデオ」
無理矢理と言ったか。そこに眉が寄ったけれど、ルースターは差し出されているそれに触れて、長い月日を過ごしてきただろう中のフィルムに、ため息にも似た息が感慨深く吐き出された。
「でもこれ、再生するやつないよ」
「そうなんだよ。……でも今はいい時代だ」
マーヴェリックが楽しそうにキュッと口角を上げた。それはまるで悪戯を思いついた子供のようで、変な事じゃないだろうなと少しだけ不安がよぎる。
「業者に頼むと、ディスクに移動してくれるらしいぞ」
「へぇ、そりゃすごい」
稀有に終わった心配に安堵し、何となく聞いたことはあったけれど、実際自分は世話になるのことのないサービスに相槌を打つ。
色々と調べたのか、知っていたのか。それはわからないけれど、見れないからと落胆することないと言うようなマーヴェリックに、へぇ、と感心するしかない。
「昨日、こっちへ向かう直前に、昔の物を入れておいた棚が壊れて……。すっかりしまったまま忘れていたコレが、まるで連れて行けって言うみたいに転がってきてな」
少し照れたように笑うマーヴェリックは、指先で触れているだけのルースターを見上げている。それを素直に見つめ返せば、皺の増えた目尻が優しく下がった。
「僕からのクリスマスプレゼントだ」
「……いや、これはマーヴのでしょ。受け取れないよ」
「僕が持っていても仕方がないだろう」
「じゃあなんで無理矢理貰ったんだよ」
思わず吹き出しながら笑えば、だって、と子供のように口を尖らせるマーヴェリック。ブツブツと、家族のホームビデオが羨ましくて、とか。僕も欲しくて、とか。きっと今は誰にも言わないだろう我儘を、父には素直に向けたのだなと思ったら、若い若いマーヴェリックが父と悪戯めいた顔で笑っている様子が頭を駆け抜ける。一瞬のそれは、ほとんどぼやけていたし白光りしていて眩しかったけれど、確かに父とマーヴェリックだった。
「じゃあ、さ、マーヴ」
「うん?」
「ディスクを二枚作ってもらおう。一枚ずつ手元に置く。で、これの保管はやっぱりマーヴにお願いする。そっちのほうが湿度低いでしょ」
「……僕ももらっていいのか」
「何言ってんの。父さんがこれを渡したんなら、マーヴはもう家族でしょ」
カタカタと小さな音が鳴る金属缶をしっかりと受け取って。ルースターは、擦れてもうほとんど見えない字に目を細める。マーヴェリックが今どんな顔をしているのか、見たいような見たくないような。だから、消えかけている文字に思いを馳せる。
ただの経年劣化で、ここまで文字が消えてしまうことはないだろう。
きっと、おそらく。マーヴェリックがその文字に指を這わせていたのだろうと思う。観るのを躊躇ってなのか、亡き父を思ってなのかはわからないが。
自分よりも多くあちこち移動を繰り返していたマーヴェリックが、それでも手離さず無くさずにいた過去の記録。今ルースターの前に現れたのは、二人の間に入った亀裂をゆっくりと補修しはじめたことを応援するためか。
そう思って、朧げな輪郭が笑ったのを感じる。
誰だろうと思って、カタンと聞こえる小さな缶の音。
そこにいる家族の記録を目にしたいと思って、ルースターは柔らかく笑った。
「ね、マーヴ」
「ん?」
「母さんのさ、怒った顔とか声って、知ってる?」
なんで唐突にそんなことを口にしたのかはわからない。でも、考えもせずに勝手に出た言葉を、何故か不思議だとは思わなかった。
ゆっくりとマーヴェリックを見下ろすと、こちらは不思議そうな顔をしていて。そりゃそうだよなと、ルースターは肩を揺らして「冗談だよ」と、無かったことにしようと口を開く。その寸前。
「知ってるよ、当然だ」
何を当たり前のことを、と。そう言うように。笑うようなことは一つもなく、真面目な顔がそこにはあった。
「……そ、う、なの?」
「そうだよ。そりゃもう、グースと一緒によく叱られたし、キミを遅くまで連れ歩いて怒られたし」
指折り数えるそれは、どんどん増えていく。
どれだけ母に怒られたのだと思わず笑い出せば、つられて揺れ出すマーヴェリックは「本当だな」と顔いっぱいに笑顔を広げている。
「ああでも確か、その中にあった気がする。前に再生させたのはもう三十年以上前だけど、何でこんなの撮ったのって、観ながらキャロルが声上げてたのは覚えてるよ」
「……この、中に」
「うん。業者がきて、デリバリーが来て。出かけられるようになったら、真っ先にこれを移してくれるところに行こうか」
「でもそれ、出来上がりまできっと時間かかるよね」
そう思って、何かとこういう機器に詳しそうな、もしくは詳しい仲間がいそうな男を思い浮かべる。パチンと指を鳴らして、ルースターはセルフォンを手の中で回した。
「それは有識者に聞いてからにしよう」
「有識者?」
「そう。ミッキー・ガルシア。通称ファンボーイ」
笑ってテキストを打ち込むルースターに、キョトンと目を瞬かせていたマーヴェリックだったが、じわじわと侵食してくる可笑しさに耐えきれず。ふふっと笑い出して顔を背けた。同じように笑いながらルースターの指先は、古い8ミリフィルムの再生方法を訊ねる文面が作られていく。
今日の勤務がどうなのか知らないし、直ぐに連絡が返ってくるかもわからない。でも、どうしても早く観たかった。
指先で作り出した言葉は一瞬で飛んでいき、そのうち相手に読んでもらえるだろう。ポケットへとセルフォンを押し込んだルースターは、顔洗ってくると告げて家の中に足を進めた。
「まだ洗ってなかったのか、だらしないぞ」
「誰のせいだよ、誰の!」
「あー、ノーコメントで」
全く。と笑いながら出る声は、マーヴェリックには聞こえなかっただろう。
バスルームの洗面台でバシャバシャと顔を洗って、髭は今日はもう整えなくていいかと顔を上げる。
水が膜を張る目の先。鏡に映る姿に、一瞬目を見張って。
ポタリと落ちた雫がその姿を連れ去った。
――鏡を見て最初の一瞬、そこには俺かダーリンがいるはずさ――
頭に弾けるような声。瞬きをして目を凝らしても、そこにいるのは自分だ。けれど、ルースターはなんだかそれがとても可笑しく思えて。
びしょ濡れの顔のまま、笑いながら鏡に触れた。
「ブラッドリー! 業者とデリバリー同時に来たぞ!!」
「そんな気がしてたー! 今行く!」
大慌てで顔を拭いて。
ルースターは明るい顔で、バスルームを飛び出した。
――だから、俺が大好きなその笑顔を見せていてくれよ――