ラブレター ルースターが空を降りる。
別段驚くことでも、悲しむことでもない。当たり前に迎える、いつかの日が今日というだけだ。
いや少し違う。正確には初めて聞かされた時にはかなり頭に来て、殴り合う寸前にまで口論になった気がする。
ともかくも。大きな怪我もなく、大きな違反もなく、この大空を駆けた雄鶏は鋼鉄の翼を返却する。
出会った頃はまだ飛行士として未熟も未熟な頃で、それがお互いに長いこと空を飛ぶものだから、いつしか長い付き合いになった。
思えば、自分を押さえ込んだ飛び方が気に入らなくて、全力を出して飛べと突っかかるようになって。こちらの話しを聞いているふりをしながら、実は全て捨てていた男を掴むのは非常に大変だった。変化をもたらしたきっかけは、いつだったか。雄鶏が初めて命令違反をしたあの時か。
少しずつ詰めたはずの距離は、気がつけばもうなくなっていて、でもこの関係に形はなく。互いに気軽に声をかけて、食事をして酒を飲んで。たまに、ベッドを共にする。
もう歳だとか笑いながら、始まってしまえばひたすらに求め合うことにも、当てはまる言葉はおそらくあるのだろうけれど、結局は名前もつけずに毎度毎度、同じことを繰り返す。それは居心地が良くて、少しだけ寂しくて。けれど名前をつけた瞬間に壊れてしまいそうで、やはりお互いに適切な距離を保っている。
そんな曖昧な関係は、この先どうなるのか。
お互いに飛行士として空を飛んで、そんな姿に惹かれ続けた。空を降りたら、一体どうなるのか。
空を切り裂いて音速の中を飛ぶ、その最後の景色を見つめるルースターは、何を思っているのか。
いくら考えたところで、残念ながらハングマンにはわからない。
繰り返される哨戒任務に発着艦訓練は、空母の周囲を戦闘機に乗って、まるで巣を守る蜂のように交代を繰り返して飛び続ける。
最後の日、同じ所属部隊、同じ飛行グループ。
誂えられたような今日の日を、ハングマンはルースターの斜め後ろを飛んだ。無駄のない動きと、滑らかな加速。彼を手本にすれば上達するとまで言わしめたその飛び方は、この日も変わらない。
美しい夕日が、水平線に触れている。
波立つ海面は穏やかではないけれど、片時も同じ顔は見せない煌めきは、きっと何物にも変え難い美しさだ。まるでルースターの花道だと、ハングマンは素直にそう思った。
長い海上訓練を終える空母は、明日には軍の港に到着する。海を割って進む誇りある船は、ランディングギアを展開したルースターを、とうとう迎え入れる。
ワイヤーをかけられず、もう一度飛べばいい。
そんなことを思って、ハングマンは失笑した。
あのルースターが、そんなことをするわけがない。
角度と速度。見ているだけでわかる、確かな位置どり。全て完璧なそれは、今、ハングマンしか見ていない光景。愉悦にも感じられるそのひと時。
彼の、教範通りの美しい着艦を忘れまいと、しっかりと目に焼き付けた。
着艦したあと、ルースターは感謝を込めたように愛機を撫でて、そうして空を見上げていた。
盛大にお疲れ様会をやりたいと、部隊の若い飛行士たちが口にしていたけれど、果たしてそれは隊長であるハングマンが許可しなかった。
まだ任務中で、遠洋から戻る今が一番油断しやすい時。もう少し待てば陸なのだから、それまで待てと。言われたことを反故する部下たちではないから、渋々了解していた。でもお疲れ様でしたと労って、涙を堪える様子を咎めるつもりはない。
空母に降りた彼の背を、真っ先に叩いたのは、間違いなく自分だったから。
その時のルースターの表情は、よく覚えていない。
ただ皺の増えた横顔に、夕陽の輪郭を湛えた鼻梁と光るような睫毛が、とても美しかったことは目に焼き付いている。
お疲れ。
いつも通りの、いつもの言葉。
ああ、お疲れ。
いつも通りの、いつもの返事。
ただそこに、今日だけは。
「楽しかった」
と、万感の思いを込めたような言葉が続いた。
ああ、本当に、今日で終わるのだな、と。
少しだけ寂しく思ったのは、本当だ。
いつか自分も迎えるだろうその日。多くの先輩、同期、早くも後輩が迎えたその日。
何でもないはずのその日が、初めて重たく感じられた気がした。
夜にかけての飛行訓練に入るグループが、続々とミーティングルームに集まるのを横目に。ハングマンは自室にいるのもなんだか落ち着かず、まるで若い頃のように艦内をウロウロと歩いた。
高揚しているとは、少し違う。でも、昂った気持ちがあるのは事実。時折すれ違う仲間が会釈や軽い敬礼をする中、行き着いた先は甲板を一望できる上部デッキ。
まだ戦闘機が飛ぶ前のそこは、風の音と波の音と、空母の唸るような音だけの世界。甲板の端に並ぶ戦闘機たちは、夜空へと舞う時を今か今かと待っている。
夜の、誘導灯が光る中を降りるのが好きだと。ルースターは以前そう言っていた。おかえりと、言ってくれているような気がすると付け加えた顔は、照れくさそうに笑っていたと思う。
無事の着艦は、甲板にいるクルー全員が願っていることだ。そう告げたハングマンに、それでもとルースターは目を細めて言った。「暗い中に輝いてる灯りは、やっぱり安心するよ」と。それはまだ子供だった頃の彼に植え付けられた、一種のトラウマなのだろう。癒えない傷は、年齢を重ねただけ誤魔化すのが上手くなり、気づきにくくなっている。けれど、やはりまだ、この年齢になっても癒えはしないのだろう。そう思う。
緩やかに人が増えてくる甲板はもう直、轟音の響く訓練場と化す。
そういえば、格納庫へと降ろされたルースター機体は、どうなるのだろうとふと考えが巡った。おそらくは優秀な整備士の手によって、あっという間に名前が書き換えられるのだろう。
ブラッドリー・ブラッドショー"ルースター"は、永遠に機体に表示されなくなる。
寂しいな、と。自分のことではないからこそ、そう思って。ハングマンは紺碧に染まる空を見上げた。
「あー、いたいた」
「……どうした?」
聞こえた声に顔を向けると、フライトスーツ姿のルースターがいた。もう飛ばないのにそれを着るのかと笑いたくなったが、港に戻るまで彼は飛行部隊の一人だ。任務と訓練のスケジュール上、最後のフライトはもう終わったというだけで。もしも不測の事態が起これば、すぐさま空に飛ぶ命が下るだろう。
それは決して、望んではいけないことだけれど。
「部屋にいないから、どこほっつき歩いてるのかと」
「偶には歩きたい時もある」
「この艦の中を?」
「そうだよ」
有り得ない。そう呟いて笑うルースターは、どこか憑き物が落ちたように穏やかだ。それが飛行士ではなくなるからなのか、今は任務から外れているからなのか、ハングマンにはいまいち判別はつかなかった。
「なんだ、用事か? 報告書の締切にはまだ時間あるぞ」
「もう出しただろ。見てないのかよ」
「知ってる。花丸つけて箱に入れた」
はあ? と目を丸くするルースターに、さすがに冗談に決まってるだろうと笑ってやり。ハングマンは欄干にもたれるように背中を預けて、邪魔するものの少ない空を見上げる。
その隣にやってきたルースターも、同じように背を預けて、星が目立ち始めた空を視界に入れている。空を見ていると見せかけて管制室を見ているとか、面白いことをしていなければ、だが。
「なぁ、ハングマン」
「んー?」
「俺さ、空に上がるようになってから、飛んだ日に毎回メモ取ってたんだよ」
「ほお。そりゃマメなことだ」
「だろ? まあ今日で最後だから、この分厚いファイルはもういらないわけなんだ」
欄干に置かれるファイルは、確かに分厚い。一抱えはあるだろう。そんなものを抱えて、艦内をウロウロしていただろうルースターの姿を想像すると、少しだけ笑みが浮かんだ。
「なんだ、海に捨てるのか? やめとけ、環境保護団体から槍玉に挙げられるぞ」
「海に捨てるわけないだろ! まだ現役続行するハングマンくんに、是非譲ってやろうかと思って」
「いらねぇ! 捨てづらいからって押し付けるな」
「……チッ、バレたか」
お前な、と半眼を向ければ、肩を揺らして笑っている姿がある。時間が経てば経つほどに見えづらくなる世界なのに、不思議とルースターの姿はしっかりと視認できている。
そのルースターが重たそうなファイルを開いて、パラリと紙を捲る。潮風に当たってダメージを受けると思ったが、そのファイルを手離したいのなら傷んでも気にしないのかと、そう思って口出しはしなかった。
「な、船が着くまででいいから、預かってくれないか」
「なんで」
「泣いちゃいそうだから」
「なんだそりゃ」
頼むよ。と紡がれた声は細くて、煩い風の音にかき消されかけていた。
飛行士を辞めることを、後悔しているのか。そう問いたかったけれど飲み込んで。代わりに手のひらを差し出した。上に向けたそれの意味を、わからないわけがないだろう。
ルースターはホッとしたように肩から力抜いて、重たいファイルを預けてきた。
「いや、ふざけるなよ、何だこの重さは!」
「筋トレにも使えるよ」
「いるか!」
「あはは。そう言うなよー」
楽しげに笑うルースターの声は明るくて、本心はわからないけれど、空から降りることを後悔している様子は見受けられなかった。
良かったと、そう思ったから。
伸ばした指先で、温かな二の腕を叩いた。
・初めて空を飛んだ。自分が操縦して飛んだ。思ったよりも簡単に、空に上がることはできるんだな。
・ムカつく先輩が多すぎる。空は顔で飛ぶわけじゃないだろ。機体の軋む音がいつもと違ってたから整備に言ったら、迷惑そうな顔された。
・整備が破損パーツがあったって言ってきた。別の機体で飛んだ。同じだけど全然違う。コイツは癖が強めだ。
・久しぶりにフェニックスに会った。複座機のパイロットを勧められたらしい。すごいな、誰かの命を預かって飛ぶって、確かな力がなきゃできないだろ。
・なんかクソ生意気なヤツに絡まれた。コイツ、ビックリするくらい空を自由に飛んでる。すごい。
・最近あのクソ生意気なヤツと訓練で一緒になる。ハングマンって言うらしい。やっと覚えた。
・海への降下訓練。海水が冷たかった。こんなところに一時間以上あの人はいたのか。ああだめだ、考えるな。
・アンクルアイスの教え通り、教範の通りに飛んで良かったと思う。周りより少し早く昇格した。
・話に聞いてたより、飛べる距離は短い。もっと自由に飛べたらいいだろうなとは思うけど、ルールは守る。違反はしない。
・ハングマンに絡まれた。ムカつく。
・今日ちょっとだけ、オーバーランした。ワイヤー三本目だった。
・久しぶりにハングマンを見た。飛び方、顕著になったな。誰かを犠牲にするのは、どうなんだ。
・朝焼けの空を飛んだ。ルースターからのモーニングコールって言われたから、無線でとりあえず鳴いといた。すげー笑われた!
・食べると吐く。食べなくても吐く。何年振りにあの人が飛ぶところを見たんだろ。嫉妬なのか嫌悪なのかわからないけど、すごく自分が嫌だ。
・基地にアンクルアイスが来た! やっぱりかっこいい! 内緒だぞって、ドーナツくれた!
「……飛行に関するメモじゃないのかよ」
少し頭が痛い、と額を抑えても書かれている内容に変化はない。
下手というよりは豪快な文字は、軍支給のメモ帳に短い文を綴っていて、それを貼り合わせたのがこのファイルの中身だ。
見られたくないのなら渡してこないだろうと、勝手に解釈し、部屋に戻ってコーヒーを用意しながら開いてみればこれだ。ドーナツのことなど全く空に関係ないし、ムカつくと言われるのは若干腹が立った。
読み進める中、すっかりと温くなってしまったコーヒーを口にして、まだ続くページをパラパラと捲る。紙を何枚も貼るせいで一ページが非常にボリューミーだ。でも、不思議と汚いとか見づらいとかは思わなかった。
おそらく、あまり溜め込まずに貼り付けて保管してきたのだろう。やはり意外とマメだ。今更に気付いたことに小さく笑って、ハングマンは全てに目を通していく。
ルースターが歩んできた道が、確かにここにあるからだ。たとえ内容は、飛行に関係なくても。
新米から中堅へと変わり、任務や仕事の内容に触れないものの、危険な場所に赴いている様子は、端々に感じられるようになった。
そんな中、メモの中にマーヴェリックの名前が出てくる。
・生きて帰るつもりだったけど、こんなに早く、大した怪我もなく帰れるとは思わなかった。マーヴはやっぱりすごかった。
例の日のメモ。そこには、二人の命を助けたハングマンの名前はない。あるのは、素直にマーヴェリックをすごいと称賛する子供のようなルースターの言葉。
もう慣れたはずの、慣れたと思っていたはずの痛みが胸に走る。あの人のことは切り離して考えなければ、どうしたってルースターの根っこの部分に絡んでいるのだから、何においても敵うわけながない。
ふーっと長く息を吐き出して、目に文字を追えと指示を出す。
滑るように何度かなぞった文字が、ようやく頭に入ってくると、文面から感じられるルースターの意識が変わったような気がした。
これまでのように、教範通りに飛ぶのを信条にしているのは変わらない。これはきっと、アイスマンからの教えで彼の飛行士の根源になっている。だから、基本的には変わらない。
でも、ハングマンも見てきたから知っている。
あの日を境にルースターは、必要とあれば自分の手でリミッターを外すようになった。
・空がすごく速く流れてく。音を置いてくるのが、気持ちいい。
・キャノピーいっぱいの空が好きだ。
・ハングマンと組んで複座機コンビとドッグファイトした。機体は二機で同じだけど頭数はあっちが倍。負けたくなかったから、かなり飛ばした。ハングマンが、できんじゃねーかって笑ってた。その顔でいたらいいのにな。
・ハングマンはいつだって全部完璧だ。自分でも言ってるけど、俺もそれは認めてるよ。でもそれはどうしようもない。ヘルメット取ったあとの後頭部の髪が、くるんって可愛いことになってたぜ!
・合同任務で来た基地に犬がいた。ハングマンがめちゃくちゃ嬉しそうだ。でも俺が飛びかかられて、顔舐められた。あいつすげー顔してこっち見てた。
・誕生日にコヨーテからケーキもらった! 少し歪な文字が書かれたチョコのプレートはハングマンがやったんだって。秘密だってさ。
・海に飛び込んでいい日だった。ハングマンと飛び込む高さ勝負した。ちょっと腹打った、痛い。
・コックピットにいたら、覗き込んできたハングマンにキスされた。なんで?
・もやもやする。
・顔見ると腹立つから、模擬戦で負かそうとしたらくじ引きなのに全部アイツと同じチーム。なんでだよ!
・マーヴとまた飛べた。あの時みたいに、バカはやらない。貴重な時間を無駄にしない。
・模擬戦でハングマンに勝った!! yeah!!
・昇進した。
・もっと空にいたい。
・だめだ。もっと。
・マーヴが退役するって決めたらしい。信じられるか、あのマーヴェリックが軍のパイロットじゃなくなる。最後の最後までパイロットだったのは、本当にすごい。
・俺はちゃんと飛べてるか?
・後輩の能力の高さに、初めて羨ましいって思った。
・ハングマンと飛んだ。うん、なんか考え込んでるのが馬鹿らしい。そんな時間勿体無い。俺が思うままに飛ぶ。
・マーヴと最後のドッグファイト。サイクロン大将が思いっきりやれって。一対一はほぼ互角。逃げ切れたし逃げられた。悔しい。この壁は越えられないみたいだ。
・ラストチャンスをもらった。本当に今日が最後。ハングマンとマーヴを追った。何をどうしたのか、思い出せないくらいに反射で動いてた。報告書にすごく困った。でも、勝てた。俺の囮にハングマンが間に合わせてきた。マーヴをキルした。俺じゃないけど、二人で勝ち取ったって言ってくれた。マーヴはすげぇ眩しい笑顔でハグしてきた。泣いてたのは見なかったことにする。
・部隊移動。笑える。俺が西でアイツが東。
・同じ部隊で、一緒に飛びたい。
・合同でも一緒になる機会が減った。仕方ないけど、少し寂しい。
・ハングマンの飛び方は、やっぱり俺には向かない。でも、参考にはなる。まだ、吸収できる。
・空を遠く感じる。
・今日は空に受け入れられてる。
・ムラがある気がする。少し機体に無茶させた。
・空が遠い。苦しい。上手く飛べない。
書かれている日付を見て、ハングマンは小さく頷いた。同じ部隊に配属される、一年前。ルースターが空を降りると決める、二年前。
そこから続く、苦しんでいる様子。体の不調ではなく、怪我でもなく、メンタルでもない。漠然とした空から突き放されたような感覚が、ルースターに襲いかかっている。
ハングマンにもそんな時はある。見放されたように、上手く飛べないのだ。空気の壁が越えづらく、加速も滑らかにいかない。置き去りにした音がしつこく耳元に残るような違和感が、集中力を削ぐ。
大抵の場合、ハングマンは捩じ伏せるように空を飛んだ。振り払って、それから逃れるように飛んだ。吹っ切れた気持ちはクリアになって、またいつもの空に戻る。
ルースターもそれを繰り返し、けれどまるで足を掴まれてしまったかのように、定期的にもがいて苦しんでいる。
上手く飛べないと綴る文字が、不安そうに見える。いや、不安だったのだろう、
もう終わりなのか。もう無理なのか。
迷えば次の瞬間には撃墜されるかもしれない世界で、そんな不安は邪魔しかならない。ずっとこれを抱えて、飛び続けていたのか。
全く気づかなかったと、ハングマンは下唇を噛み締めた。何年、何十年。彼のことを見てきたというのか。それなのに、一番苦しんでいる時に気づいてやれなかった。
もしかしたら、気づいてやれていれば。ルースターはまだ、空を飛べていたのではないか。
可能性の一つに、大きく息を吐き出した。
それはあくまで、かもしれない、の世界だ。更にその先に、もっと早くにルースターが降りることを選んだ可能性だってある。だから、気にしてはいけないと、頭を抱えた。
「それだって、相談くらい、しろよっ!」
悩みを打ち明ける間柄であると、思っていたからこそ。この相談を微塵も受けていない事実が重い。一人で悩んでいたって、解決まで大変な時間を要しただろう。堂々巡りをして、途方もない時間をかけたはずだ。
そんな時間、無駄だったのではないか。話してくれれば、ルースターの何かを変えるきっかけを、与えられたのではないか。
――俺は、アイツの救世主なのに。
ルースターを救えるのは自分だけだと、自負している。だからこそ、悔しさが募った。全く気づかなかった己の不甲斐なさと、気づかせなかったルースターのガードの強さに、ただただ憤る。
頭を抱えてじっと見つめるルースターの文字は、やはりどこか怯えたように見えた。そっと指先でなぞって、その筆圧の強さに悔しさも感じる。唇をかみしめて、眉根をギュッと寄せて。なんで、どうして、と。自問自答していたのだろうと思う。
過ぎたことは変えられない。それでも何か出来たのではと、後悔にも似た感情が渦を巻く。思考の波にのまれかけたその時、消灯を告げる音が艦内に鳴り響いた。
「……続きは明日だ」
パタンと閉ざしたファイルは、ルースターの心を閉ざしてしまったような気がする。逡巡して、ハングマンはファイルを抱えてベットに潜り込んだ。
誰かが突然入ってきて、これを見るのは困る。だからだ。有り得ない事を言い訳に、ハングマンはファイルをそばに、目を閉ざした。
無事に、空母が港に到着した。
広い港には今か今かと、この時を待っていた人たちが溢れている。家族や恋人、友人。笑顔で手を振り、無事の生還を喜んでいる。
それは艦に乗っている軍人たちも同じで。タラップが接続されるのを、まだなのか早くしろと待っている。
我先にと集まるものだから、今現在、非常に廊下は混み合っている。毎度のことながら、この押し合いへし合いはいつまでも解消されない恒例行事だと、ハングマンは部屋の中で一人笑った。
部隊ごとに降りるのではダメなのかと、毎年嘆願が出るにも関わらず解決されない。たまに一悶着が起きて殴り合いにまで発展してしまうから、困ったものだというのに。
賑やかな廊下の様子を、容易に想像しながら。ハングマンはファイルをゆっくりと開いた。
朝からいくつも仕事が重なり、ようやく自由になったのはつい先ほど。さっさと読んで、ルースターに返してしまおう。
お前俺のこと好きだなと笑って、聞かれて困らないだろう書かれてる内容を、一つ二つ口にしてやろうか。
ニヤリと笑って、悩みに悩むルースターの、最後の日までのメモを読んでいく。
時折現れる、もう飛べないという文字に重たいものを感じながら、それでも空に焦がれて翼を広げ続ける雄鶏は、ある日を境にようやくまた自由になっていた。
「同じ、部隊になった日」
・ハングマンと同じ部隊に配属された!
・階級は同じだから、隊長はどっちかがやれだって。秘密だけど、カードゲームで勝敗つけた。上には言えねえ。
・空が開けた。久しぶりだ。
・俺、飛べてる気がする。
・ハングマンがいることが安心するって、どうなんだろうな。
・風の変わり方も層の違いも、今すごくわかる。
・全部、俺が背負わなくていい。そんな気がする。
・俺が出来ないことはアイツに押し付けた。切り裂いて飛べよ。俺は出遅れる連中を抱えて飛ぶ。全員で帰る。それが俺の飛び方だ。
・ハングマンと一緒に飛べてよかった。
・ペアで飛んでる相手を僚機だって呼んでたけど、今になってわかった気がする。マーヴとアンクルアイスが、離れてても僚機って呼び合ってた意味。コイツになら、いつだって命を預けられる。
・昨日のテンションどうした。口が裂けても、アイツのことをウイングマンなんて呼ばない。ムカつく。
・部下が可愛い。たくさん教えたい。覚えてほしい。生きるために。
・俺の後ろを飛ぶだけで上達するとか、何言ってるんだ。ただ飛ぶだけで上手くなるわけないだろ。そこは考えろ!
・育成プログラムチームから声がかかった。
・現実がそこにある。
・空が好きだ。ここにいたい。
・どうしてずっといられないんだろう。
・父さんも、空が好きでしたか。
・アンクルアイス、俺は貴方のように飛べましたか。
・マーヴェリック、空は果てしなくて、怖くて、でも美しいところだね。
・覚悟を決めた。いつかはくるその日が、来ただけだ。俺は地上で、仲間を守る。
・空を、降りる。
・ハングマンと殴り合う寸前になった。あんなに怒るとは思わなかった。鼻で笑われると思ってた。決意が揺らぐから、泣きそうな顔で怒らないでくれ。
・フェニックスに、そっか、て言われた。なんか全部込められてた気がする。
・クールダウンしたら、ハングマンとちゃんと話せた。すごく苦しいハグをもらった。お疲れとか、辞めるなとか、もっと一緒にとか、聞こえた気がした。……気のせいだな。
「気のせいじゃねーよ」
ふ、と溢れる笑み。
伝わっていた気持ちに、胸の内側が温かくなる。喧嘩しかけたことも、今ではいい思い出だが、年甲斐もなかったと思わなくもない、でもそれだけ悔しかったのだ。まだ一緒に飛べると、信じて疑っていなかったから。初めて同じ部隊に所属して、ハングマンもずっと同じ気持ちを抱えていたから。
「俺も、お前にじゃなきゃ命を預けない」
この先、地上と空とに分かれても、ルースターは命を預けると思ってくれるのだろうか。
目で追う度に日付が新しくなるメモを追って、ハングマンの手はとうとう、最後のページを捲る。
・後悔していないかと聞かれたら、正直返答に困る。体は問題ないし、空が怖いわけでもない。けど、空に押し返されるのはわかるんだ。俺は多分、もう空にいられない。
・空が好きだ。
・飛行機が、戦闘機が好きだ。
・体にかかる重力も、振り回される遠心力も、一瞬の無重力も、浮遊感も。全部忘れたくない。
・このままどこか遠くに、飛んで行けたらいいのに。
・明日は最後の日。総括に、ハングマンと飛ばせてほしいって頼んだ。
・ハングマンと最後の空を飛んだ。やっぱりアイツの飛び方は、切れ味があってカッコいい。だから安心して、俺はいつものように飛ばせてもらった。空も海も全部綺麗だった。果てしないくらい何もない空と海の世界で、小さな空母を見つけた時の嬉しさは、言い表し難いな。帰る場所だ。おかえりって、手を振ってくれる人たちがいる場所。ありがとうただいま。全部を込めた俺の全力で、今まで積み上げてきたものを着艦に込めたよ。
俺はやっぱり空が好きだ。
ここにいられて幸せだった。
諦めなくてよかった。
ありがとう。
じわ、と滲んだ涙を拭って。ハングマンはただ息を吐いた。
こんなことを思って飛んでいたのかとか、詩的な事を恥ずかしげもなくとか、そんなことはどうでもよかった。
コレが、空を飛んでいたルースターの気持ちだ。嘘偽りのない本音だ。
ありがとうの文字を指でなぞって、一人これを書いていた姿を想像する。最後であっても、いつもの豪快な字。綺麗な言葉でまとめたのではなく、自分の思った事を思った通りに並べたメモ。
誰に見せるわけでもなかっただろうそれは、ルースターの内側を象っているようだ。
「おつかれ」
そっと紙の束を手で押さえれば、分厚い弾力を強く感じた。泣き言を言った日も喜んだ日も、命ある喜びを綴った日も。全部ここにある。
アビエイターであるルースターの、大切な記録だ。
面倒でも持って帰って、しまっておけ。そう伝えようと紙を捲る。昨日の日付のメモは今見ていたページの中程にあったから、この先何があるわけでもない。まっさらな紙を目にして、背表紙にあたるプラスチックを閉ざせばいい。
「……紙」
捲ったページの裏側。一枚のメモ用紙が、折り畳まれて貼られていた。
畳まれている部分はひらひらとしていて、簡単に開くことができる。注意書きとか、そんなものだろうか。それとも本当にただのメモか。
指先でするりと撫でるように開けば、そこにはルースターの文字が踊っている。
お前が鼓舞し続けてくれたから空を飛べた。
だから俺はこの空を、お前と同じくらいに愛してる。
ゆっくりと瞬きをした。
何度も目で追った。
少し乱暴にファイルを閉じて、小脇に抱えて。ハングマンは部屋を飛び出した。
すっかりと静かになった廊下は、時折誰かの声が聞こえる程度。もう残っている者のほうが少ないだろう。
ルースターはもう艦から降りたかもしれない。とっくに降りて、部下たちと酒場に繰り出しているかもしれない。
それでもハングマンは、バタバタと狭い艦内を駆けて、まだ残っている仲間に、ルースターの居場所を聞いて回った。
「ルースター!」
昨日、ファイルを押し付けられた場所。そこに、ルースターはいた。
もう少しだけ目に焼き付けてから降りたいと、そう言っていたと教えてくれたのは、整備の一人。ルースターの名前を消したくないんだよね、と笑っていた彼を信じてよかった。
「ハングマン。まだ降りてなかったのか」
「お互い様だろ」
「そうだけど。……で、なに」
明るい日差しの元、鈍い色を煌めかせるいつもの戦闘機は無言のまま鎮座している。チラリとこちらを見ただけで、壮観なそれを再び見下ろしているルースターの表情は、伺えない。
それでも、ハングマンはもう一度、ルースターを呼んだ。
ゆっくりと体ごと向き直る様子は、どこか不思議そうにこちらを見ている。なんの用だと、無言で伝えてきている。
だからハングマンも無言のまま、片手で軽々とはいかなくても、顔の横あたりにファイルを掲げてみせた。当然ルースターの目はそれを追い、そして小さく笑うのと同時に目尻が下がったのが見えた。脱力したような様子に、気を抜いたと感じる。
「わざわざ返しにきてくれたのかよ。捨ててくれてよかったのに」
「捨てるわけねぇだろ」
「仕方ない、クローゼットの奥深くにしまっておくよ」
頂戴、というように手のひらが向けられた。
でもハングマンが言いたいのは、そういうことではない。だから、自分の肩に乗せるようにして、ルースターの手から遠ざけた。
「ハングマン?」
「返さない。俺が全部もらう」
「……えぇ、と」
「お前が飛んできた時間全部もらう」
「……マジか」
手のひらが、ゆっくりと頭に回る様子が見える。
困ったような、でもどこか嬉しそうな。そんな顔で、ルースターはへにゃりと笑った。
「じゃあ、ハングマンの時間も頂戴」
「欲しけりゃ勝手に持ってけ。生憎と俺は、こんなメモなんてとってないがな」
「だよなぁ。……じゃあ、」
吐息と一緒に消える声が、距離を詰めてきた。
一秒にも満たないその、瞬きのような時間。
潮の香りに混ざるルースターの匂いが、ハングマンを包んでいた。
「これもらう」
「高いぞ」
「マジか」
耳元で笑う声にハングマンも笑って、空いている手でルースターの背をあやすように叩く。久しぶりの密着は、心が落ち着くようだ。
「この先のお前の時間が対価だ」
「それは困った。お釣り出る? 俺あと百年くらい生きる予定なんだけど」
「マジかよ」
吹き出して笑えば、ルースターも体を揺らしている。冗談だとわかっていても、それがどこか照れ隠しなのはお互いにわかっているから、ふざけるなと笑うこともない。心地のいいやりとりは、二人が行き着いた場所にあった、大切な宝物だ。
「仕方ないなぁ。残り百年、お前と歩いてやるか」
「せいぜい遅れないよう着いてこい」
「言うね。……これからは俺がお前を飛ばしてやるんだから、媚び売っとけよ」
「ああ頼む。安心しろ、マーヴェリックみたいには飛ばないから」
言い終わるのと同時に二人で笑い出して、ゆっくりと体を離す。
差し込む日差しが眩しくて、揃って顔を顰めたらまた笑ってしまう。なんて顔をしているんだと、お互いに言い出すのだからどうしようもない。
「なぁ、それ、本当に欲しいのか?」
「ん? ああ、返さない」
「なんで」
「……自覚なしかよ」
「うん?」
「お前これ、もはやラブレターだぞ」
かなり分厚いけどな。
ニヤリと笑えば、キョトンとした顔にゆっくりと広がったのは赤い色。
お前がこの関係に名前をつけたのだ。
空を飛んでいた雄鶏は地上に戻って、これからは空を見上げて過ごす。その顔に悲しい色など乗せるものか。お前が作った道を俺が飛んで、まだまだ空を見せてやろう。
今日は晴れの日だ。
飛行士を辞めて、新しい一歩を踏み出す日だ。
そして、名前のついた関係を始める日だ。
でも今この時だけは。
「お疲れ。よく飛んだな、ルースター」
「……ありがとう。楽しかった」
誇りを持って広げた翼を、ゆっくりの畳む雄鶏が口にしたのは、きっと、間違いなく本音。
年相応に増えた皺をくしゃっとさせて、屈託なく笑った顔は少年のようだ。
だからハングマンも、なんの心配もなく送り出せる。
先に地上を歩く大切な人の、飛行士人生の無事の終幕と、これからの忙しいだろう毎日の幕開けに、心からの祝福を。