いたずら「あ……?」
その日、小さな異変に気がついた。
本当に小さな小さな異変で、恐らくは自分しか気づかない場所の異変。
ロッカールームにある、何の変哲もないロッカー。その広くはない部屋に並べられた金属のそれは、ネームプレート以外、ほぼほぼ全て同じ姿かたちをしている。
外見は統一性があれど、中に何を入れるかは個人のプライベートが尊重されている。先輩は恋人の写真を。同僚は先月生まれた娘の写真を。愛犬や両親、人それぞれにロッカーの扉の内側に貼り付けていて、着替えのたびにニコニコと眺めている様子が垣間見える。
ハングマンのロッカーの中はというと、至ってシンプルで。
トレーニングウエアと、シャワーのときに使うアメニティが少々、予備のタオルと整髪料といった多くの仲間が揃えている物がある程度。個性的ではないが、唯一あるとすればドアの部分に昨年末に軍から支給された、手のひらサイズのカレンダーがマグネットで貼り付けてあるくらいだ。
カレンダーなんて今時セルフォンを見ればすぐわかるし、予定なら大抵頭に入っている。だから正直いらなかったのだけれど、なんとなくそこにくっ付けてみたら以外にもしっくりきたので、そのまま据え置かれている。
月めくりのそれは、月末になるとわざわざ同僚が「カレンダーめくれよ」なんて声をかけてくる。
なんでそんなことを言ってくるのかと思っていたら、同僚はどうも、ハングマンがロッカーを開けているタイミングで、カレンダーを盗み見て日付を確認しているらしかった。自分の物だって支給されているだろうと半眼になったが、サイズと書き込みやすさを奥さんが気に入ったらしい。そのため自宅にあると言われては、ああそうと頷くしかなかった。
別に見るのは構わない。予定の書き込まれていない、真っ白なままのカレンダーだから。
だから、という訳でもないけれど。
何の予定も書き込まれていないこの真っ新なカレンダーに、当然ながらロッカーを開けるたびに目を向けることは本当に少なくて、小さな異変が起きたことに気がついたのは、今日だった。
「……」
ぺらり、とカレンダーを捲ればまた小さな異変。
次、その次、と捲って、なんだかおかしさがこみ上げてくる。
止まらない手はとうとう最後の月までを捲ってしまい、各所にあった小さな異変に積もるように顔に熱が集まって、そして口元が弓なりになるのを止められなかった。
「ルースター」
「んー、ハングマン、おはよう」
合同訓練の合間に挟んだトレーニングは、今日はタイミングよくルースターと一緒のようだ。少しだけ浮足立つような足をしっかりと地に付けて、ハングマンはトレーニングルームへと遠慮なく入った。至るところで仲間がトレーニングの真っ最中だ。走る音や錘を上げる音、短く息を吐く音が聞こえている。朝早くからよくやるなと思うが、その中の一人になろうとここへ来たのだからハングマンも大抵よくやるな、の部類の人間だ。
入口で見かけたルースターを追うように歩けば、ルースターはハングマンのことは大して気にせずに進んでいて、持っていたストレッチ用のマットを広げている。チラリと周囲に視線を向けると幸いと言うべきか、周囲には誰もいない。小さく笑んで、ハングマンはその場にしゃがみこんだ。
そうすると、床に座っているルースターと目線がほぼ一緒になる。
わざわざ近くにしゃがみこんだことに首を傾げるルースターは、素直にその口を開いた。
「どうか、した?」
きょとんとした顔をするルースターは、真っ直ぐな目でハングマンを見つめてくる。
何か用事かと、心底不思議そうな顔をしている様子に一瞬、間違えたかなとも思うけれど、間違いじゃないとなぜか確信があった。
だから、ハングマンはにこりと笑みを浮かべた。
「カレンダーにな、」
そう切り出すと、マットを広げ終えてその上に腰を下ろしたルースターは、はっとしたように顔を上げた。
「かわいい悪戯がされてたんだよ」
ニヤリと笑えば、ルースターの目は一度大きく見開いて。それからあからさまに泳ぐのが見える。じわ、と目尻が赤くなっていく様子は大変に好ましい。
そんな態度では、自分がやりましたと白状したも同じだ。
以前のように冷めた表情で視線を外したり、温度のない貼り付けた笑みを向けたり。そうすればいいのに。
それをどうやっていたのか、全くわからなくなったらしいルースターは、感情のままにゆらゆらと視線を動かしている。
「カレンダーの月数字の横に、小さい雄鶏が描かれててさ」
ルースターを真っ直ぐに見つめて言うと、ルースターの顔は目元からさらに頬、耳、首へと赤が伝播していく。驚くほど綺麗に色を変えていくから、思わず魅入ってしまう程だ。それくらい、ルースターは動揺しきりだ。長い睫毛を震わせて、ハングマンと合わせない視線が迷子のようにウロウロしている。
「全部捲ってみたんだが、次の月にはまた違う場所に雄鶏がいるんだ。その次も、その次も。どこかに必ず雄鶏がいて、可愛らしいことこの上なくてね」
捲るのが楽しかった。
そう言って笑ったら、ルースターはとうとう湯気でも出そうなくらいに顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
思わず咄嗟に周囲に視線を向けたが、相変わらず誰も近くにいないし、見知った仲間の顔はこちらを微塵も気にしていない。このルースターを見せたくないと思ったハングマンにはそれが丁度良く、安心しながら視線をまたルースターへ向けると、再び笑みが浮かんだ。
万が一にもルースターがやっていなくても、こんなことになってるんだと見せることはできた。やったのかやっていないのか、どちらに転んでも構わないと思っていたハングマンは、あっさりとした結末に少し拍子抜けしながらも、込み上げる喜ばしい感情に胸を膨らませた。
まず間違いなく、ルースターが悪戯をしたことに、間違いなさそうだ。
この、優等生が、だ。
「あの、……ごめん」
「いや? 謝ることじゃないな。楽しかったから全然」
構わない。
そう続けると、困惑に近い顔が上目遣いでハングマンを見つめてくる。
そんな庇護欲を掻き立てるような顔をしても困る。困るけれど、嬉しい。
ぐるぐる巡るような気持ちは不快ではないから、ゆっくりと口角を上げた。
「でも、その」
「なんだよ」
しどろもどろに口を開くルースターは、言葉を探しているようだ。
はっきりとしない音がもごもごと聞こえて、しばらくしてから、覚悟を決めたように形のいい唇が音を描いた。
「お前のカレンダー、真っ白だったから、つい、その、」
「……深い理由はなかった、って事か?」
「そう。……悪かった」
謝りながら頭を下げるルースター。
でもハングマンは別に、謝ってほしいわけではない。どうしてそんなことをしたのか、ただそれが気になって仕方がなかっただけだ。
「謝らなくていいんだが……」
「いや、だって!! 勝手にロッカー開けちゃったしっ!!」
「見られて困るものなんてないが?」
「そ、そうかもしれないけど!」
ルースターは必死にごめん、すまなかったを繰り返してる。
本当に、何も気にしていないハングマンは、笑って問題ないと告げるが、これが他の人だったならば、冷ややかな一言でも投下していただろう。現金なものだなと自分に対して薄く笑い、ゆっくりと瞬きをしてルースターを眺める。
ひたすらに悪かったと思いおろおろとしいる様子は、以前なら絶対に見せなかった姿だ。少なくとも、自分には。
ああ、ルースターのこんな可愛らしい悪戯を受けて、どうしたら怒ろうと思うのか。
意地悪くも笑みが広がるのが、自分でもわかった。
「ルースター、本当に気にしてない。楽しいって思ったんだよ、俺は」
安心させるように穏やかな声色で告げれば、ルースターはようやく落ち着いてきたのか、ぎこちなくだけれど頷いたのが見えた。
もちろん、話題を出す前の、柔らかな表情は未だ見えないけれど。
「……その、よかった……」
「あの雄鶏はお前が描いたんだよな?」
「あー……うん、前に部隊内で落書きしてたら生まれた、雄鶏」
「……へぇ?」
カレンダーに描かれたあの雄鶏を、他の奴も知っているのか。少しばかり苛立ちに似たものを感じれば勝手に片眉が上がるけれど、僅かな動きはルースターには見つからなかったようだ。未だ、上目遣いでハングマンを見つめている。
「あのカレンダー、もったいなくて捨てられないな」
「はあ!? あ、あんなの捨てろよ!」
「はぁ!? 折角お前が描いてくれたってのに、なんで捨てなきゃならないんだよ。あれは俺のだ」
「は、あ!?」
二人揃って同じ音を出しながらも、盛大に動揺するルースターを憮然とした表情で見つめ続ければ、おろおろとした様子のルースターは「ハングマン落ち着け」なんて言っている。けれど動揺しているのはルースターであり、ハングマンは至極落ち着いてる。
「だってお前、サインじゃなくて自画像描いてくれたんだぞ? それもとびっきり可愛いのを。捨てるだなんて、できるわけがない」
頭を振って、ルースターの捨てろという言葉を真っ向から否定するハングマンは、でもと言うようにすっかりと下がった眉をさらに下げるようなルースターに、緩やかに口元を上げて見せた。
「ルースター」
「な、なに」
「来年は、日めくりにする」
「は??」
「可愛い雄鶏を楽しみにしてる」
「ええ!?」
絶対に、来年は日めくりにしよう。たとえロッカーには全く似つかわしくなくても。
きっとまた合同の訓練は来る。その時、せっせとペンを走らせるルースターを見かけたい。大きな体を小さくしながら描く様子を、離れたところから見ていたいと強く思った。いや、できれば隣で見ていたいと思った。
だから、そう心に決めた。
「なあ、なんでそんなことしたんだよ」
「だ、だから、真っ白だったから」
「俺以外にも、そんなのはいると思うんだが」
ん? と口角を上げて見せると、また大きく目が動いている。
光りの加減で色合いを変える瞳が、何度も唇を舐める赤い舌が、ハングマンの視線を絡めとる。
この胸の内に生まれた感情は、きっと口にすればチープなそれになってしまう。だからもう少し、確実に受け止めてもらえるまでは自分の中に留まっていろ。
ああでももし、ルースターがそれを口にしてくれるなら、両手を広げて大歓迎なのに。
困った顔で見上げてくる年上の男に、ハングマンはただただ、余裕を貼り付けた笑みをニコリと見せた。