白昼夢 その日、ダライアス・ナイトレイは、自邸の廊下で奇妙な男と出くわした。
――正確に言えば、後になって思うのだ。あれは白昼夢だったのではないか、と。
真昼の、やわらかな陽光が差し込む廊下で、夢とも現ともつかぬ光景に出会うなど、常識的に考えればありえない。だがその瞬間の自分は、薄い靄に包まれたように頭の芯がぼやけ、現実と幻の境を見失っていた。いつもなら鋭敏な感覚が、やけに遠く、鈍く感じられたのだ。
小柄で猫背の男が、くたびれた白衣をまとい、廊下脇の扉から姿を現す。視線を落ち着きなく泳がせ、不安げな様子を隠しきれていない。顔立ちは彫りが浅く、切れ長の目が印象的だった。見慣れぬ風貌から、彼が異国の人間であることはすぐに察せられた。
本来ならば、即座にこの不審者を捕らえるべきだった。だが、男の纏う現実離れした気配に、ほんの一瞬、足が止まった。まるで目の前の人物だけが、別の空気の中に立っているように見えたのだ。
男は眼鏡を右の人差し指で押し上げ、怯えを帯びた視線でこちらを見据える。
「……な、なんやぁ。こ、こんなに幽霊がいるなんて……み、見たことない」
意味を測りかねる声だったが、言葉自体は通じるらしい。男はダライアスの背後を凝視し、歯を小刻みに鳴らしながら二歩、三歩と後ずさった。見慣れぬ布張りの靴が、絨毯の毛足を押しつぶしながら擦れる音を立てる。低く湿ったその音が、やけに耳に残った。
「……幽霊?」
気づけば、聞き返していた。無害そうな外見と、あまりに突飛な言葉に、毒気を抜かれたせいだろう。
反射的に視線を左右へ巡らせ、自分の背後を確かめる。だが、そこには何もないように見える――少なくとも、この目には。
「ア……アンタ、これまで何してきたんやぁ。監察医になってから、何回も何回も幽霊を見てきた……やけど、一人がこんなに幽霊に囲まれてるのなんて……見たことない。なんでや。なんでや」
男の声が震え、やがて俯いた肩が小刻みに揺れ始める。押し殺した嗚咽とともに、涙が大粒となって白衣の袖や絨毯を濡らしていった。
――そこで、ようやく我に返った。この男は屋敷に侵入した不審者である。早急に捕らえ、然るべき対処をしなければならない。胸元のポケットからベルを取り出し、澄んだ音を廊下に響かせた。
振り返ると、血相を変えた使用人が三人、こちらに駆け寄ってくる。
その瞬間、違和感が胸を刺した。――泣き声が、止んでいる。
はっとして振り返ると、そこには誰もいなかった。つい先ほどまで確かに立っていたはずの男が、影も形もなく消えていた。
空気の中に、わずかに湿った涙の匂いだけが残っていた。
◆
解剖室の部屋の扉を開けたつもりやったのに、何故か豪邸の廊下に出ていた。ボクは不可解なこの現象に、キョロキョロと周囲を見てみたけど、何も分からなかった。左手方向に、西洋風の顔立ちの老人が立っていることに気が付き、そちらを見て思わず眼鏡に手を伸ばした。
その老人の背後には、解剖室で見るよりももっとたくさんの幽霊が立っていた。
ボクは解剖医になって以来、何故か幽霊が見えるようになった。幽霊たちの多くは自らの死について訴えたいことなどがある場合、最後のエネルギーをふりしぼるかのように、人が死んでいちばん最後に辿りつく場所―― つまり、解剖室にあらわれるんや。彼らは祟りをなしたり、口をきいたりするわけではなく、ただその場に存在することしかできない。幽霊にも様々な人たちがいて……はるか昔の人もいれば、犯人がみつからなくて悔しくて成仏できない人もいる。
ボクには見えるから……そうした幽霊たちの想いを背負っていかなければいけないのだと思っている。
幽霊があらわれるのは解剖室がほとんどやけど、たまに町中でみかけることもあった。やから、老人の背後に幽霊が立っていてもおかしいとは思わなかった。
やけど、老人の背後にいた幽霊の数は、解剖室で見るよりもずっと、ずっと多かった。ほとんどは西洋風の顔立ちの男ばかりで、若者から初老までが、何もない場所を見つめてぼんやりと立っている。老人には一切見えていないのか、ボクを見て怪訝な顔をしているだけやった。
「……な、なんやぁ。こ、こんなに幽霊がいるなんて……み、見たことない」
思わず口から出た言葉に、老人の眉間の皺が余計に深くなった。ここはどこですか、あなたがここの家主ですか。そんな質問は、いき場を失ってただ茫然と虚空を見つめる幽霊たちの姿を見たせいか、頭からすっ飛んでしまった。
この老人の何かを訴えたくて、きっとこの幽霊たちはここにいるんや。これまで、ボクよりも長く生きる中で、この老人は一体、この人たちに何をしてきたんや。そう思うと、自然と涙がこみあげてきた。
死ぬより前に救うのが一番や。やけど、間に合わんこともある。そんなときは、幽霊が見える解剖医のボクが、浮かばれない幽霊たちに何かしてあげるべきなんやと、そう思っている。やけど、この数は……
「ア……アンタ、これまで何してきたんやぁ。監察医になってから、何回も何回も幽霊を見てきた……やけど、一人がこんなに幽霊に囲まれてるのなんて……見たことない。なんでや。なんでや」
あかん、身体がガタガタ震えてしまう。こんなこと急に言ったって、この老人に理解してもらえるわけないのに。
思わず後ろに数歩足を引いて、俯いた。こんなに大量の幽霊に、ボクはどう寄り添ったらええんや。そもそも、時代が古そうに見える。ご遺体は残ってるんやろうか。残ってなかったら、どうやって調べていけばええんやろうか。
ボクは無意識に、先ほどここへ来た時と同じ扉に手をかけていた。ほとんど考えることなくその扉を通り抜けると―― いつもの×× 大学× × 付属病院の廊下に立っていた。馴染みの医者が、ボクの泣き腫らした顔をみてギョッとしている。
「な、なんや先生。どないしはったんや」
「あ……い、いや。子供の解剖は……何度やってもこたえるんや。大丈夫、大丈夫や……」
嘘は言ってない。毎回しんどいんや。特に、幽霊として解剖室の新顔になられると……ボクはどうにかして、その幽霊の訴えが何なのか、探し回ってしまう。
「先生、あまり無理せんといてくださいよ。ほな」
馴染みの医者はそう言って、ボクの肩に手をポンと置いてから、廊下の先の方へ歩いていった。ボクは、そのうしろ姿をながめながら、考えていた。
―― あの老人は、一体何者なんやろうか。全部の幽霊たちを殺した犯人……ってことはなさそうや。あまりにも数が多すぎる。医者なんやろか。それとも、政治家なんやろか。
まるで、屍の上に立っている王様みたいやった。あの眉間の皺は、そんな自分の心を誤魔化すために、どんどん深く深く刻まれていったんやろか。
もう一度確認した方がええんやないかと思って、解剖室の扉を開けた。やけど、そこにあったのはいつもの解剖室で、いつもの幽霊たちが佇んでいるだけやった。
―― きっと、きっとあれは、白昼夢や。最近、夜勤が多かったせいで、疲れてたんや。
ボクには何故か幽霊が見える。幽霊たちは動くこともなければ、何かを訴えることもできない。ボクには見えるから……そやから、見えるから、幽霊たちの想いを背負わなければいけないんや。
そう思っていたのに、あの一瞬の夢は……あの白昼夢は、ボクにできないことを突き付けてきているようやった。実際、そうや。ボクは、自分の部屋に出る、嫁の―― 絵夢を成仏させてあげることができないままでいる。
ボクは画板に囲まれ、薄暗い部屋に佇む絵夢を思い出して、白衣の袖口で涙を拭った。