深淵「わたしの家はお兄ちゃん、お兄ちゃんの家はわたし」
目の前で金髪の少女は言った。少年は今にも泣きそうな顔をして、少女のもとへ駆けて行く。しかし、あと少しで触れられそうな時、少女は一歩後ろへ下がってしまった。
「蛍! 一緒に帰ろう……!!」
少年の呼びかけは虚しく、蛍は表情ひとつ変えず首を横に振った。
「ううん、今はだめ」
「どうして! なんで!!」
「隣を見て」
蛍は少年の側にいる者を指し示す。少年は言われた通りに隣を見た。蛍は話し出した。
「ダインと一緒にいる。それは決別の証。言ったよね、ダインと一緒にいてはだめって」
「……どういうこと……?」
困惑する少年を見ないように蛍は瞳を伏せ、溢した。
「今は言えない。ごめんね……お兄ちゃん」
蛍が言い終わるや否や、彼女の背後に巨大な深淵が現れ、中から従者が出てきた。
「行きましょう、姫様」
蛍は頷き、最後に少年の方を見て言った。
「またね」
「待って! 蛍……!!」
少年は手を伸ばすが、そこに自分の手は無かった。あるのは地面に滴る鮮血のみ。
「あ……」
赤い雫の背後に映ったのは……小さな少年の「手」だったのだ。
「あああああああああ!!!!!!!」
少年が発狂した時、冷たくも温かい何かが彼を包んだ。それは少女のものとは異なる温もりだが、不思議と肩の力が抜けた。
「落ち着け、深淵に呑まれるな。お前は誰で、どこにいるのか意識をしっかり保て」
ダインスレイヴは少年を抱き締め、慎重に声をかける。
「ダ……、イン……」
「そうだ。旅人、お前は誰だ」
「お、れは……空」
空は自身を認識した途端、やっと理解した。先程は夢を見ていたのだと。
「落ち着いたか」
しかし、妹の蛍がいないのは紛れもない事実であった。空はダインスレイヴを抱き返し、答えるのだった。
「うん。……でも、もう少しこのままでいさせて」
ダインスレイヴは口を結び、しっかり頷くと、空を包んでいる腕の力を微かに強める。
じんわりと濡れる肩に、ただただダインスレイヴは黙した。
――旅人よ、どんな事があろうとも立ち止まってはならない。