月の都「魔剣を作る呪法に心あたりはあるか?」
萬軍破の発した問いかけに、殤不患と睦天命は驚いた。
「そんなもん、しらねぇな」
殤不患の言葉に、睦天命も首を振る。
崩れかけた廃墟で夜の焚き火を睨みながら、萬軍破は言葉を続けた。
「俺が西部総督について調査を行ったところ、西部総督は不正を行い私腹を肥やしていたが、それ以外にも魔剣の情報を集めて、あまつさえ神誨魔械も手に入れようと画策していた。
そして、魔剣を作る呪法にも関わっていた」
「俺がいうのもなんだが、西幽じゃ魔剣は厳しく管理されてるはずだろ?
西部での皇帝の代理人の総督が隠れて禁断の魔剣集めか?
こりゃ、驚きだな。あんな迷惑な代物、集めて喜ぶ奴の気がしれねぇが」
「そもそも人間に強力な魔剣など作れるのかしら?」
睦天命の言葉に、萬軍破は頷いた。
人間の魔術師が剣に魔術をかけることもできるが、ほとんどは一過性の効果だ。
魔法道具作りに長けた工人もいるが、お守りやおまじない程度の効果で、魔剣といほど強力な物は作れない。 魔剣の中でも最上の神誨魔械は、窮暮之戰で神仙が人類に教えを与え鍛造した聖剣とされている。
他にも西幽を騒がした七殺天凌は、護印師の聖剣に、皇帝をたぶらかして誅滅された妖女の照君臨の悪霊が憑いたものという噂がある。 他に呪いや怨霊がついたなど噂のある魔剣もあるが、来歴が分からない魔剣も多い。
「ふむ。俺は何か思い違いをしているのかもしれん」
萬軍破は、焚き火をじっと見ながら考え込んだ。
「ならば、『西幽で最も尊く神に等しいお方』というのに心当たりは?
西部総督はこの企みでその者と関わりがあったようだ」
「ねぇな。そんな偉そうな野郎は」
「啖劍太歳の知り合いならば、あるいは何か手がかりを知るかとも思ったが、つまらんことを聞いてしまったな」
これ以上、この話の進展はなさそうだ。
「明日は、いよいよ関所よ。
そろそろ休んで英気を養いましょう」
「睦殿の言うとおりだ」
関所を越えれば中部だ。
告発を阻止しようとする西部総督が、手が届かなくなる前に攻撃を仕掛けてくる公算が高い。
2日前の朝のこと、萬軍破が総督府の城壁の門から、初夏の朝市の人通りで賑わう橋を渡る時だった。
「萬将軍、反逆罪で逮捕する」
萬軍破の目の前に役人が立ち塞がる。
開いた巻物には、西部総督の署名があった。
萬軍破は唇を噛みしめた。
西部総督に嵌められた。反逆罪など濡れ衣だ。
萬軍破が夷狄の国で啖劍太歳の探索を行った際に、人質にされた睦天命という娘を助けて捕まった。入れられた牢獄で殤不患という怪しい男と同じ独房になった。その男から西部総督の不正の事実を知らされた。
不正を告発しようと試みて犠牲になった村民を、西部総督は傭兵を使って襲い、その罪を夷狄に擦りつけた。その告発を殤不患に依頼され、証拠を受け取った。
極秘に鳥で緊急の文を送り、鳳曦宮の追命靈狐に不正告発の渡りをつけた。
後は萬軍破が都まで出向いて証拠を受け渡す算段だった。
それを察知した西部総督に先手を打たれたのだ。
ならば、萬軍破がとる手段は一つ。
「反逆罪など何かの間違いだ」
萬軍破は、つとめて決意を顔に出さずに抗議した。
「俺は鳳の御旗に恥じるところは微塵もない」
「申し開きは取り調べで聞こう。おい、武器をとれ。手鎖をかけろ」
刀に伸ばされた衛兵の手から身を躱す。
三十六計逃げるに如かず。
橋の欄干を飛び越え、ちょうど橋の下を通っている船に着地する。
驚く船頭を尻目に、飛び石のように他の船に跳躍し、城の堀の対岸に着地した。
「ひっ捕えろ!」
後ろで声がする。
城下の道から示し合わせたように警邏が押し寄せる。
ここで暴れては、無辜の民に被害が及ぶ。
萬軍破は咄嗟に判断して、人気の少ない方へ走り出した。
カン、カン、カン
警鐘が打ち鳴らされる音がする。
足には自信があった。甲冑を身につけていても、そこらの兵に速さで劣らぬ。追い縋る捕吏たちを次々と引き離す。
だが、市中の至る所に配置されている警邏の援軍が次々と押し寄せる。
大通りから、路地裏へ、より狭い小道へ追い込まれた。
ついに石の壁を背に捕吏たちに囲まれた。
「やれ」
捕吏が剣を抜く。
萬軍破は剣を抜かず、剣を躱し拳と足技で捕吏を倒していった。
しかし他勢に無勢、防戦一方では不利だ。
「こっちだ、登れ!」
聞き覚えのある低い声。上から、綱が降りてきた。
綱を伝い壁を駆け上る。登り切って縄を切ると、後ろから登ってきた捕吏たちは落下した。
萬軍破を引き上げたのは、編笠から垂れた黒い薄布で顔を隠す男だった。夷狄の牢獄で聞いた低い声、殤不患だ。
殤不患の後に続いて屋根の上を走る。
「あんた、百撃成義ともあろう男だ。
その腰の剣を使えば、あんな人数、簡単に吹っ飛ばせたんじゃねぇのか?」
「彼らは、西部総督の不正を知らず、捕縛の命令を遂行しているに過ぎぬ。命を奪ってはならぬ」
「ふん、お偉い萬将軍様はお優しいこった」
屋根に登り追いかけきた捕吏が剣を抜き切り掛かる。
「ちっ、仕方ねぇな」
殤不患は剣を軽く避けて、拳で殴り倒した。
「彼らは、ただ日々の労働を行う善良な者たちだ。
罪はない。真に憎むべきは、悪をなし権力を振るう西部総督だ」
「言われた通りに動くだけか。
それじゃただの意思のない道具と一緒じゃねぇか」
「こっちよ!」
牢獄で会った娘の声がした。
先導されて屋根を降り、暗く細い路地裏に入り込む。
「不患、告発は萬将軍の地位あってのことよ。
たとえ告発のために、一時的に追われても、西部の役人を殺めて遺恨を残してはいけないわ」
嗜められて、殤不患は肩をすくめた。
「ま、将軍様のご意向に従うしかねぇか」
萬軍破を連れて、殤不患と睦天命は人目のつかない裏路地を進んだ。
追っ手を巻いて、川縁に着くと小舟が停めてあった。
「少し狭いけど、ここに入って」
萬軍破は舟底に横たわった。上に板の台を置かれ、その上に果物や野菜や穀物の箱を置かれた。船を漕ぎ出す音が聞こえ、街の喧騒の声がどんどん遠ざかり、しばらくすると川の水と竿の音だけになった。
「もう大丈夫よ」
睦天命が上の荷物を退けて板を外すと、広い空と遠い対岸が見える。
萬軍破は一安心してふぅと一息ついた。逃げ切ったか。
「かたじけない」
萬軍破は礼を言い頭を下げた。
「間に合って良かったわ」
「あの悪賢い西部総督のことだ。
こんなことだろと思ったぜ」
「ちょうど良いところに居合わせてくれた。
そなた達の手助けに感謝する。
礼を言う」
「悪いが見張らせてもらった」
殤不患は萬軍破の顔を見ずに言った。
「あんたが不正の証拠を使って、西部総督に取り入るかもしれねぇからな」
「不患、そんな失礼よ」
一息ついたのも束の間、萬軍破の緊張が解けた心に、疑われていた落胆の気持ちが広がる。
俺を疑い監視していたのは、西部総督だけではなかったか。
次に怒りが湧き上がった。
「俺を侮辱するな!」
萬軍破は怒りの声を上げた。
「そなた達の証拠をもとに、俺も自分で西部総督の不正を調査した。
犠牲になった村の民のことは忘れん。
日々の生活に貧困に喘ぎながら働き、支え合って慎ましく生きていた村人の断たれた未来を、西武総督は踏みにじった。
もはやそなたに止められても、俺は自らの意思で告発する」
萬軍破の雷のような怒りに、殤不患は視線を落とした。
「悪かった。あんたには危ない橋を渡らせちまって、すまねぇと思ってる」
殤不患の詫びを萬軍破は素直に受け入れた。
「よい。民の生活を守るのが武人の勤め。
俺の西部への着任前のこととて、帝から西部の政を預かる総督によって、このような不正が行われていたとは、皇軍の将として恥ずかしい限りだ。
我らも襟を正さねばならん」
萬軍破は、声の調子を落として続けた。
「それにな、その襲撃で夷狄と西部の関係は一触即発状態だ。
事情を知っている俺がなんとか開戦を抑えているが、開戦の声が日に日に高まっている。
早く西部総督の不正を告発して、事態を鎮静化せねば、また無謀な争いで兵士が犠牲になる」
「さあ、仲直りして、次の手を考えましょう。
西部総督の告発を私たちで成功させましょう」
睦天命の言葉に、殤不患も気を取り直した。
「不正の告発の手筈は済んでるのか?」
「追命靈狐との繋ぎは済んでいる。
西部を抜けた中部の関所の城壁都市で、南部の将軍時代の知古と落ち合う予定になっている。
西部総督の告発の事情を知れば、道中は保護してくれるだろう」
「関所を抜ければ、西部総督の管轄外だな。
奴も手は出せなくなる」
殤不患は地図を取り出した。
「この調子じゃ、萬将軍の人相書きが出回ってる。
人通りのある街道は避けた方が良さそうだ」
しかし、関所の前の街道沿いには宿屋や街が密集している。人通りが多く役人も多いが、関所の前はそこを通らざるをえない。
「そこは強行突破する。足の速い馬が必要だな」
「つてはあるのか?」
「おう、任せとけ」
川辺に船をつけると、萬軍破は船を降りて、殤不患と睦天命に連れられて、山沿いの細道に入った。
山奥の険しい道をしばらく登ると、大岩が山道を塞いでいた。大規模な落石があったのだろう。
萬軍破はため息をついた。
「この道は通れん。
迂回する道はあるか?」
睦天命と殤不患を見やると二人は全く動じていなかった。
「天命、ちょっと退いてろ」
殤不患が腰の剣を抜いて、一閃。
大きな岩は中央から割れ、崖側の片割れは、重心を崩して谷底に落ちていった。
「やるな」
萬軍破はつぶやいた。
牢獄で力比べをした時から、殤不患はかなり傑物と看破していたが、目の前でその剣技を目の当たりにすると、殤不患は剣の手練れと確信した。
割れた大石の傍には、なんとか人一人、馬一頭が通れるぐらいの細道ができた。
曲がりくねった道を進み山道から見下ろすと、周囲を深い山々に囲まれた小さな里が現れた。小さな屋根と、炊事の煙から少人数の村のようだ。
殤不患と睦天命は集落には向かわず、萬軍破を連れて外れの小屋に向かった。
「爺さん、いるか?」
殤不患の声に、小屋から禿頭の老爺が出てきた。
「これはこれは、魔剣の一件では、お世話になり申した」
「こちらこそお世話になりました」
睦天命がにこにこしながら、挨拶した。
老爺は萬軍破を認めると、「おや、啖劍太歳様の新しいお仲間で?」と声をかけた。
「貴殿は啖劍太歳に詳しいか?」
萬軍破は老爺に聞き返した。
殤不患は、ばつの悪そうな顔をした。
「うっ、実は俺は啖劍太歳の知り合いでな」
「ほう」
萬軍破は疑わしげな視線を殤不患に向ける。
「密輸の際に、啖劍太歳に会ったってだけだ」
殤不患は、鼻をかきながら言い訳じみた答えを返した。
「おっと、ははあ?
啖劍太歳の知り合いということですな」
老爺はうんうんと訳知り顔でうなずき、にこにこと笑った。
「かしこまりました」
老爺の笑い顔に、萬軍破はそれを肯定するような笑顔で笑い返した。
緊急時だ。仔細は聞かないでおこう。
「その説はお世話になりました。
こんな山奥の小さな村では、西幽のお偉いお役人様たちは収税の時しか用がありません。
祠に祀られていた魔剣を啖劍太歳が封印して引き受けてくださって、毎年の生贄の苦役がなくなり助かりました」
この地方に祀られていた剣は、毎年の祭りに金品や動物の生贄に満足がいかないと、祟りをもたらして、近年は人が減り、魔剣は村の大きな負担になっていたらしい。
「爺さん、余計なことを」
萬軍破に語りかけるように啖劍太歳の善行を話す老爺に、殤不患は照れるように口を挟んだ。
「俺たちは追われてる。馬を売ってくれねぇか。金は払うが、もし警邏に見つかったら、脅されたと言ってくれ」
殤不患も道理は弁えているようだ。
馬の世話をする老爺に礼を言う殤不患を見て、萬軍破は考えた。
隠しているが、あの岩をも砕く剣の腕前といい、殤不患は啖劍太歳と考えてほぼ間違いはないだろう。
しかし、啖劍太歳も悪いことばかりしているわけではなさそうだ。
幽皇陛下のご治世に不満を持つ者たちの間には、啖劍太歳を義賊と持ち上げる者たちもいると萬軍破は聞いている。
世迷い事と一笑に付していたが、西部総督の不正の証拠を目の当たりにした今となっては、民が不満のはけ口を求めて叛逆の英雄を望むのも、臣下の不徳のいたす所と反省している。
今や俺も冤罪とはいえ、反逆罪で追われる身になってしまった。
啖劍太歳が魔剣を集めるきっかけも、何か止むに止まれぬ事情があったのかもしれない。
目の前で、老爺と和気藹々と話す殤不患を見ながら、萬軍破は、いつの間にか啖劍太歳に肩入れしそうになっている自身の心に気がついた。
いやいや、これも俺を取り込もうとする罠かもしれん。
将軍の本分は、国と民を守ることだ。
いずれにせよ民に仇なし、帝に弓引く者であれば、俺は許さん。
西部総督の告発が無事に終わるまで、気を引き締めねば。
平原に抜けるまで、しばらくは山道が続く。
凸凹道で馬を引きながら、萬軍破は殤不患に声をかけた。
「知り合いということならば、啖劍太歳に詳しいか?」
「うっ、まあ、それなりに」
殤不患は嘘をつくのが下手なようだ。
「ならばなぜ、啖劍太歳は魔剣を集めているか、理由を聞いたことはあるか?」
啖劍太歳は集めた魔剣を、金品に変えた形跡も、悪用した事例もない。
「さあな」
殤不患はそっぽを向いた。
「魔剣が大好きな野郎なんじゃねぇか?
名前の通り、剣を食べる妖物かもな」
萬軍破は殤不患の冗談を受け流した。
「力の象徴として魔剣に憧れ欲しがる者がいることは、俺も理解している」
強さと力に憧れるのは、武人なら当然のことだ。
その強さを得るために日々の武術の修練を怠らない。
しかし、魔剣は武人が何年も修練を重ねて得た武術の強さをそれ一振りで軽く凌駕する。
力を求める者にとって、それを簡単に与えてくれる魔剣の誘惑は抗い難い。
「自分の剣の実力不足を、魔剣で補おうとする野郎は、たいがいが悲惨な末路を辿るのが関の山だけどな」
萬軍破はその言葉に頷いた。
武人が修練の過程で、身につけるのは力の強さだけではない。
力を使う責任と結果を知り、分別を身につける。
力だけ手に入れても、力の使い方を知らない者は、容易く使い道を間違って自滅する。
西幽の伝説でも、魔剣を手に入れた故の悲劇は多い。
「しかし、俺にも魔剣の誘惑に負ける人間の心理は理解できる」
戦場で窮地に陥った時、この手にもっと力があればもっと多くの仲間を救うことができる、そう思ったことは一度や二度ではない。
その時に一振りの魔剣があれば、誘惑に抗える自信はない。それは誰でも同じだ。
だからこそ私情に流されないように、神誨魔械など絶大な力を誇る剣は、悪用されないためにも護印師によって守られ管理される。
「だが、過ぎた力は、使いこなせず我が身を滅ぼす」
魔剣を使った者の悲劇が広く語られるのは、手に余る力、武力や権力を使うことの教訓としての側面があるからと言われている。
西部総督は権力に溺れ、民を軽んじた挙句に不正に手を染めてしまった。
「刀剣なんぞ、しょせんは道具。結局は柄を握る人間次第だ」
「だからこそ、我ら剣を振るう武人は強い自制心をもち、自らを律せねばならん」
殤不患は頷いた。
「剣を振るのが、軽々しく簡単になっちゃいけねぇ」
「そうだな。
武人が剣を振うときは、それが為すことの目的を考え、引き起こす結果を背負わねばならん」
萬軍破は戦場で武力の暴走や人間の闇も見てきた。
武力に魅入られた人間が、魔族のように冷酷非情で無義道になる様も見てきた。
他人の命も自分の命も軽くなってしまった人間は、戦が終わった後もその闇を抱え続けることになる。
「無辜の民を守るという大義なき武は、人を食らう鬼や魔と同じではないか」
殤不患は笑顔を浮かべた。
「義を成すための剣か。
百撃成義、その二つ名に偽りはねえな」
馬を連れて山道を登っているうちに日が暮れた。険しい山道では夜は危険だ。一行は野宿をすることにした。
枯れ木を集め、木々の間の開けた場所で焚き火を起こした。
地図を広げ、これから辿る道を確認する。
「明日は山を越え、平原に出る。
そこからは馬に乗り一日走る。
その次はいよいよ関所だ」
草むらがガサガサ揺れた。
「あそこ!」
睦天命の叫びに、指差した方を向くと草むらから虎が顔を出した。
殤不患は腰の剣に手を伸ばす。
萬軍破は動かず、そのまま虎を睨み返した。
虎の金の目と、萬軍破の同じ色の瞳の視線がぶつかる。 睨み合いが続いた。
時が止まったような時間が流れた。
虎はふっと目を逸らすと、闇の中に姿を消した。
殤不患は安堵のため息をついた。
「ふう、でっけえ虎だったな」
「でも、威厳を感じたけれど、不思議と怖い感じはしなかったわ」
「この辺りの主だったのかもしれぬ。
虎は勇猛で気高い生き物だ。
虎は百獣の王、一日で千里往って千里還るとも言う」
「年古いた虎は神獣になるって言うしな」
「我らが彼らの領域に踏み込んだのだ。
礼を失ってはならぬ。
敬意を持って接しよう」
「無礼者は虎の晩飯にされちまうかもな」
念の為ために、交代で見張り番をして、焚き火の側で休息を取った。
朝になって草むらの辺りを確認すると、大きな虎の足跡が残っていた。
険しい山を越えると平原が広がり、馬に乗って移動した。
通り過ぎる最中に、廃棄された村、崩れかける家、放置され草ぼうぼうの荒れはてた田畑をたくさん見た。
汗水垂らして働く村人は、痩せ細って粗末な格好の者が多かった。
萬軍破は将軍として軍営地で生活を営み、市井の人々と触れ合う機会は少ないが、こうして旅をすると、西部が随分と疲弊している現状を突きつけられる。
萬軍破の地位と生活も、汗水垂らして働いた村人の納めた税によって成り立っている。
それを忘れてはならない。
馬を休め水を飲ませるために、水辺に馬を停めて三人は日陰に腰をおろした。
農民が農作業をしながら歌っている声が遠くから聞こえてくる。
彼らもきつい生活の中でも、喜びや楽しみを見つけて懸命に生きている。
「月夜にかかる虹の橋♪」
「月の都で会いましょう♪」
睦天命が、悲恋物語の歌の調べに耳を傾けている。
「睦殿は、耳が聡いな」
萬軍破もこの歌は聞いたことがある。 窮暮之戰で引き裂かれた恋人の物語を歌った古い民謡だ。
恋人が戦に行き、西幽に残された女が帰りを待つ。
便りが絶えて久しいけれど、あの人はきっと東離で生き延びて、いつか私の元に帰ってくるに違いない。
そう希望を繋いで恋人を待つ女は、夜空を見上げて月の都で会う夢を見る。
いまだに、二百年前の窮暮之戰で萬輿を西幽と東離に引き裂いた鬼歿之地は瘴気溢れ、旅人の踏破を拒んでいる。
つまり東離から恋人が帰ってくる望みはない。
月は死と再生の象徴であって、二人は今生では結ばれないという暗喩と、来世で結ばれましょうという願いが込められている。
そんな歌だと、昔、萬軍破へ恋文をくれた歌姫が教えてくれた。
初夏の木陰が、目を閉じて歌に聞き惚れている睦天命の白い肌と、ほんのりと紅い頬に影を作っている。
悲恋を歌う美しい調べに心揺れる睦天命の、乙女らしい一面を見たような気がした。
殤不患と供に行動するこの気丈な娘御は、歳は二十代前半ごろだろうか?
若い女子のことはよく分からないが、まだ青春の眩しさの真っ只中にいても良い年頃だ。
武侠の世界に身を置かず、友と遊び恋を語り将来を夢見る、そんな生活があったのではなかろうか?
将軍の萬軍破が、忠義を誓った西幽のために働く責務があるのは当然だが、この二人は危険を省みず西部で虐げられた人々のために、我が身をかけて戦ってくれている。
啖劍太歳の一味かもしれない怪しく素性も分からない二人だが、今この時は萬軍破は二人を信用しようと思った。
その晩は、三人は道端の崩れかけた廃墟に身を寄せた。
いよいよ明日は関所だ。
萬軍破は焚き火を見ながら、殤不患と睦天命に、自身が調査した西部総督が不正に隠れて行っていた、魔剣に関わる疑いについて語り出した。
朝早く、関所の門が開く少し前、三人は馬で街道を疾走した。徐々に速度を上げ、開門と同時の駆け込みを狙う。
関所の城壁都市の門が見えてきた。
このまま、行けるか?
ヒュっと矢が、肩をかすめた。
「いよいよお出ましか」
言葉が終わらぬうちに矢が降り注ぎ、前方の萬軍破と殤不患が剣で撃ち落とす。
人々を蹴散らすように、馬に乗った大勢の武装集団が正面に現れた。ただならぬ雰囲気に道端の人々が急いで武装集団を避けて逃げていく。
このままでは街道を行く他の人々を巻き添えにしてしまう。
萬軍破は馬首を左の街道脇の空き地に向けた。
後ろに殤不患と睦天命も続く。
街道脇の人々から十分に引き離し、追い縋る武装集団の矢が尽きたと見ると、萬軍破は馬を止めた。
追ってきた軍団に向き合う。
「待たれい!」
萬軍破の大声に、軍団も警戒したのか馬の足を止めた。
「ここは、引いてくれぬか?」
萬軍破は説得を試みた。
「西部総督は不正を行っていた。
その告発を試みた村を襲い、夷狄に罪をなすりつけた。
俺はその証拠を握っている。
そなた達にも西幽の役人として、民を愛する気持ちがあればこそ、西部総督の悪行は見逃せぬはず。
ここは俺に関所を通らせてくれ」
萬軍破の嘆願を聞いて、武装した集団は笑い声をあげた。
首領と思しき男が進み出る。
「西部総督の命令で村を襲ったのは俺たちだ。
西部総督様には、随分と美味しい思いをさせてもらってるぜ」
萬将軍の雰囲気が変わった。
「民に害をなす凶賊なれば、手加減するよしもなし」
萬軍破から立ち上る怒りの炎が見えるようだ。
萬軍破は虎嘯山河を構えた。
馬上で虎嘯山河を高々と掲げる姿は、凛々しく威風堂々とした伝説の将軍さながらであった。 萬軍破達と向き合う大勢の凶賊は、左右の騎馬の後ろに大軍がいるように錯覚した。
萬将軍の威風に気押された首領は、焦りを悟られないように命令した。
「かかれ!」
大勢の傭兵集団が槍を構えて突進する。
「下がっておれ」
後ろに声をかけて、萬軍破は馬を一歩前に出した。
大きく体を回転して虎嘯山河を振り翳す。
「百烈激刀!」
振り下ろされた刃に衝撃波が走る。
虎の咆哮のような轟音がとどろく。
岩と砂塵も吹っ飛ばされ砂埃が巻き上がる。
もうもうとした砂塵が舞い降りた後には、傭兵集団は一斉に薙ぎ払われていた。
「すげぇ威力だな。
街では力の出し惜しみしてたな」
殤不患の言葉に、萬軍破は自信に満ちた笑いを浮かべて虎嘯山河をしまった。
凶賊を一掃した空き地を後にして、関所のある街道に萬軍破は馬をめぐらせる。
「俺たちはここまでだ」
殤不患は、目配せして手で挨拶した。
「密輸がバレたらまずいからな」
「萬将軍。
西部総督の不正の告発をお願いします。
虐げられて苦しむ人々のためにも、襲撃で犠牲になった人たちの無念を、晴らしてあげて」
「かたじけない」
萬軍破は深々と礼をして、関所の方に振り返り、二人を置いて馬を走らせた。
関所の門に入っていく萬軍破の後ろ姿を見送り、殤不患は微笑んだ。
「萬将軍は良い人ね」
睦天命の心にも温かい気持ちが湧き上がる。
「噂に違わず、百撃成義の名に恥じない男だった。
堅苦しいのが玉に瑕だがな」
西幽に不正が蔓延り、多くの人々が苦しむ今があっても、正義と仁義を信じて不正をただそうと努力する萬軍破のような人物がいる限り、まだ明日に希望が持てる。
そんな清々しい思いだった。
(終)