砂漠の花 殤不患と睦天命は天幕の入り口に見慣れた顔を認めて、喜びで顔を輝かせた。
「あら、萬将軍」
入り口の萬軍破に気がついて睦天命が、嬉しそうな声をあげた。
「おっ、閣下、お出ましで。
こんな所まで共の者も連れずに、今日はどんな御用で?」
殤不患が入り口で萬軍破を出迎えて、砕けた様子で軽口を叩いた。
「ふふ、軍破でよいと言ったではないか。
不患、今日は将軍ではなく、萬軍破として非公式の訪問だ」
「では遠慮せずに、軍破って呼ばせてもらうぜ」
萬軍破を部屋の中に招いて、殤不患は嬉しそうに向かい合って座り、睦天命も隣に座る。
「で、どうだった?」
こう聞かれて、話題は一つだろう。
以前、三人は西部総督の不正を告発するために一緒に西幽で短い旅をして戦った仲だ。
「今日は礼を言いにきた。
西部総督は、俺の告発により職を解かれ、牢獄に勾留中だ。
詳しい取り調べの後に、刑罰が決まるだろう。
まず極刑は間違いないな」
「おお、ついに悪党も命運が尽きたか。
ありがとよ。これで俺も一安心だ」
「こちらこそ、礼を言わねばならん。
前西部総督の不正により苦しめられていた民も救われる。
夷狄との開戦も避けられ、兵士の無駄死にせずに済んだ。
使節団が西部総督府で、現在、平和条約の協議中だ」
「軍破が名誉と命をかけて、前西武総督を告発してくれたおかげだ」
「謙遜などお前らしくないな。
不患と天命殿の補佐があったからこそだ。
その、天命殿と呼んでよろしいか?」
「では私も軍破将軍と呼ばせていただくわ」
「ずいぶん俺と天命とじゃ、扱いが違うじゃねえか」
柄にもなく殤不患が口を尖らせて、拗ねた口調をしてみせる。
「女性には礼儀正しく丁重に接しなければならん」
「ふふ、軍破将軍は紳士なのね」
睦天命も満更ではないらしい。
にっこりと微笑む睦天命につられて萬軍破も笑った。
天幕が笑い声で満ちた。
「軍破が前に言っていた、魔剣の作る呪法について、もしかしたら手がかりを知っているかもしれない人がいる。後で一緒に訪ねてみるかい?」
「少しびっくりするかもしれないけれど、信用できる良い人よ」
「重ね重ね、礼を言う」
捕えられた前西部総督が、素直に自白するとは限らない。情報は多い方がいい。
萬軍破は深々と頭を下げて顔を上げると、決意を新たにしたように頷いて、背筋を伸ばした。
萬軍破は、目の前の殤不患を真剣な面持ちでじっと見た。
「なんだ、俺の顔になんか付いてるか?」
「話は変わるが、不患は、啖劍太歳と過去に密輸で一緒だったことがあったはずだな?
「あー、それか。
ちょっとお知り合いってだけだ」
殤不患は目を泳がして、鼻を掻きながら答えた。
将軍である萬軍破が、休暇の名目で一人で共の者も連れずに、つい最近まで緊張状態だった夷狄の部族の村を訪れたのは、こっちが本題だったか。
殤不患は、勤めて平静を装った。
「不患、啖劍太歳に会ったら伝えてくれないか。
盗んだ魔剣と神誨魔械を幽皇陛下に献上すれば、罪を減じてもらえるように、俺が請願する」
「は? 何言ってんだ?」
「関わった者たちの中には啖劍太歳を義賊として慕う民もいるようではないか?
悪いことはやめて罪を償い、正道に戻れるように、俺が取りはかろう」
「フン、ありがてえこった。
その啖劍太歳ってのに伝えとくよ。
幽皇なんぞに、神誨魔械をくれてやるなんて話は、聞くわけねぇと思うけどな」
「頼んだぞ」
「好意だけは、ありがたく受け取っておくよ」
天幕の入り口付近で、声がした。
「萬軍破将軍は、こちらでしょうか?」
使者の男が入り口で礼をして、部族長から萬将軍の活躍に感謝の宴を開きたいと申し出があったと告げた。
「軍破、時間はあるか?」
「明日まで、休暇中だ」
「なら野暮用は明日にしてくれねえか。
部族長が、萬将軍を歓迎して、宴会を開いてくれるってよ。
上等な酒が山ほど飲めるぜ。
確かいける口だったよな」
「飲み比べか?
受けて立つぞ」
「おう」
案内された街の大きな天幕には、酒宴の席が設けられ、山海の珍味が並んでいた。
立派な民族衣装の部族長たちが円座に並び、そこに萬軍破と殤不患と睦天命が加わった。
殤不患と睦天命が挨拶し、萬軍破も部族の言葉で挨拶をした。
将軍として外交に関わり、南方の蛮族や夷狄の部族の言葉など数ヶ国語を学んだ経験が役立った。部族長たちはたいそう喜んだ。
部族長の中でも一番の長老が歓待の祝辞を述べると、乾杯の歓声があがる。円座の中心で歌舞楽曲が披露される。
部族長の一人が、萬軍破の分からない言葉で話しかけた。
「俺たちに何か余興をやってくれって言ってるぜ」
ここで断っては悪いが、喜びそうな余興が全く思い浮かばない。
萬軍破が考えを巡らしていると、殤不患が助け舟を出した。
「俺と一緒に、剣舞ならできるだろう?」
「私も箏の演奏で補助するわ」
軽く打ち合わせをして、刃を潰した剣舞用の剣を手に、殤不患と萬軍破は円座の中央に進み出た。
普段は来ている鎧を脱いだ萬軍破は、服の上からでもしなやかな筋肉と均整が取れた肉体とわかる。
これから始まる西幽人の珍しい余興に、宴会場の全員の視線が萬軍破と殤不患に注がれる。
睦天命の引きならす琴の音に合わせて、萬軍破と殤不患は剣舞を踊り出した。
二人合わせて同じ型で構え、剣を突き薙ぎ払う。
手首で素早く剣を回し、華麗な足捌きで剣を振る。
太鼓の音が加わり、琴が戦乱を告げるように激しい調べに変わった。
二人は向き合い弧を描くように周り、軽く剣を打ち合う。
互いに振り下ろされた剣を躱し、戦いの演出になる。
やがて笛が加わり勝利を祝う曲になると、殤不患が舞台から退いて、萬軍破の一人舞台になった。
勇壮な勝利の舞で剣技を誇るように剣を大きく回して、喜びを表現する。
萬軍破の後ろで結んだ長い髪がつられてくるくる揺れて回る。
剣を宙に放り投げ、高く跳躍して体を回転させて、再び剣を受け取り最後に剣を頭上に捧げる勝利の型を決めた。
萬軍破の躍動感が溢れる剣舞に静まり返った後、場内を割れんばかりの、拍手と歓声が響いた。
族長をはじめ、後ろの見物人や給使まで魅入っていた全員が賞賛する。
「やったな」
礼をして舞台を引っ込んだ萬軍破を、殤不患が満面の笑みで讃えた。
剣舞はとりわけ女性たちに大人気だった。
宴はお開きになった。今日は遅いから客室用の天幕で泊まっていけという提案を、萬軍破達はありがたく受けることにした。
殤不患と睦天命と共に、各自にあてがわれた客室用の天幕に向かう途中に、萬軍破は何か違和感を感じた。
背後をつけられている気配がする。
他にも物陰から、視線を感じる。
殺気はないが、自分に注がれるねっとりとした興味のような意思を感じる。
「何か、おかしな雰囲気ではないか?」
「さあ? 俺はなんとも」
柱の影にコソコソ動く影が見える。
「誰だ?」
可愛い女性が飛び出てきて、萬軍破に花を差し出した。
睦天命と殤不患に気がつくと、頬を赤らめて逃げ去った。
角を曲がると、艶やかな美女に出くわして萬軍破に色っぽい眼差しを送った。
萬軍破の客室用の豪華な天幕の側には、女性の集団がすでに待ち構えていた。
殤不患は合点した。
「てめぇは狙われてる」
「何? 刺客か? 暗殺か?」
殤不患は、呆れて頭を抱えた。
俺も朴念仁だが、萬将軍はそれに輪をかけた朴念仁で唐変木だ。
「ちげぇよ! お婿さんだ!」
「はあ?」
萬軍破は涼しげな瞳を、驚きで大きく見開いた。
そう言えば、酒の席で家族関係を根掘り葉掘り聞かれた。独身だと答えた後に、族長の親戚という着飾った妙齢の娘たちを何人も紹介された。萬軍破の前で品を作り嫣然と微笑む娘たちに戸惑ったが、西幽とは風習が違うのだと思い、気に留めなかった。
「気を付けろ。
婿になる気がないなら、断れない状況を作られないようにな」
殤不患は、赤くなって慌てる萬軍破を眺めた。
萬軍破の勇姿と誠実な人柄は先の事件でお墨付きな上に、西幽で百撃成義という二つ名がつくほど功名をあげている。
性格は、礼儀正しく紳士的で清廉潔白で語学も堪能。
加えて、涼しげな目元に整った顔立ち、精悍な体躯だ。
娘達は、萬将軍の剣舞の凛々しい姿に見惚れていた。
娘の婿として申し分ない。
それでなくても、部族長たちは西幽の萬将軍に恩を売っておいて損はない。
「頼む! 身の証を立ててくれ」
萬将軍に頭を下げられて、殤不患は首を捻って顎髭を撫でた。
ここで萬将軍が部族長の娘の婿になってしまったら、西幽にとっては大きな戦力の損失だ。
「分かったよ。
今日一晩、付き合ってやる。
俺一人じゃ口裏を合わせたと疑われそうだな。
天命、いいか?」
「良いわよ。
不患一人に軍破将軍の独り占めは許さないんだから」
「天命殿!
若い女子が独身の男と一室で夜を過ごすなど、言語道断!」
「あら、山の中と荒屋で、不患と一緒に一夜を共にした仲じゃない」
「それは、止むに止まれず、成り行きで……」
顔を赤らめて口ごもる萬軍破に、睦天命はクスクス笑った。
「そうだな。
異性に寝姿を晒すのは互いに目の毒だろう。
大きな衝立で部屋を仕切って、俺たちは向こう側で寝よう」
客室は大きく広く豪華だった。寝台は広く、ゆうに3人は寝れるだろう。
部屋を衝立で仕切って布団を持ち込み、簡易寝台を作った。
殤不患と睦天命はそのまま萬軍破の客室に泊まり込んだ。
萬軍破の天幕を訪れ、一目見よう、あわよくば話して部屋に入り込もうとする女たちを、殤不患と睦天命が何度か追い払い、夜更けになった。
「凄い人気だったな」
殤不患は小声で萬軍破に囁いた。
やっと夜も静まり返り、萬軍破は天蓋付きの寝台に、殤不患は隣の簡易寝台に横になった。
衝立の向こうの簡易寝台で睦天命も寝入ったのか、静かな寝室には二人の小さな声しか聞こえない。
「同盟を強固にするために、婚姻関係を結ぶという意図もあるかもしれんな」
萬軍破は、ため息をついた。
「で、どうなんだ。
軍破が気になる女性がいるなら、異国の人でも俺は反対しないぜ」
萬軍破は瞳を伏せた。
「俺は、まだ嫁を迎えるつもりはない」
将軍の家族は人質としての価値が高い。
萬軍破は子供の頃、戦禍を離れて母と一緒に過ごした日々を思い出した。
戦乱の中で前線で戦う父の帰りを、母はいつも待っていた。
父の身を案じて、朝と夜に父の無事を一心に祈っていた母の姿。
知らせが来るたびに、父からの手紙かもしれない期待と悪い知らせかもしれない恐怖の入り混じった表情。
後に残される者の悲しみは、嫌というほど見てきた。
都で武官として鳳曦宮に出仕していた頃は、有名な歌姫や女優から恋文が届いたりもしたが、明日にでも戦で死ぬかもしれぬ身で家族を守れようか。
一個人としての幸せを追求して家庭を持つのは、役目が終わった後だ。
「そんなこと言ってたら、あっという間にジジイになっちまうぜ」
殤不患は、西幽の民の安寧のために日々を勤勉に働き、滅私奉公の生活を送る萬軍破を少し哀れに思った。
「将軍として国や民や仕事のことばかりで、仕事以外の生活はねぇのか?」
萬軍破にとって、軍での生活が日常の全てだった。
国からの俸給以外に、日々の生活は軍営で衣食住が保障される。軍務以外の時は将軍専用の私室で、剣の鍛錬や仕事に必要な教養の勉学にあてていた。
萬家に生まれた男子は、軍人として働き将来は将軍になるものと、子供の頃から思い込んでいた。軍以外の生き方など、考えてもみたことがなかった。
殤不患にそう言われてもすぐには思いつかない。
考えあぐねて、萬軍破は殤不患に矛先を向けた。
「不患、そういうお前はどうなんだ?
女性に言えないような昔話も、男同士の俺なら、今聞いてやる」
その言葉に、殤不患は今までの軽口を閉じた。
殤不患は萬軍破より年下の三十代前後に見える容姿に似合わず、時折、老成した眼差しを見せる。
誰よりも強く自由に見えるが、そのためにお前は多くの愛を失ってきたのか?
萬軍破は心の中に浮かんだ問いかけに蓋をした。
誰しも、明かしたくない心の傷はある。
「踏み込んでしまって悪かった。語りたくない話もあるだろう。多くは問うまい」
萬軍破は寝台に体を伸ばした。
「明日は早い。もう寝よう」
空は白みかけているが、仮眠程度はできるだろう。
うたた寝程度の休息を経て夜が開けた。
朝から部族長と娘達から、狩の誘い、名所を案内する、秘蔵のお宝を開陳するなど、誘いが矢のように降り注いだが全部断わった。
萬軍破と殤不患と睦天命は、礼をして天幕を出発した。
今日は暑くなりそうだ。
西幽と違って、この土地は緑が少なく日差しを避ける木がない。
朝からすでに暑い。
「軍破、その鎧を脱いだらどうだ?」
「大丈夫? 暑そうよ? このままではのぼせてしまうわ」
心配そうな表情の睦天命に、痩せ我慢して微笑み返しながら、萬軍破は申し出を断った。
「これは武人の礼装だ。
異国の地で、西幽の武人の評判を落とすわけにはいかん」
鎧は西幽の武人である萬軍破の意地みたいなものか。
殤不患はそう思って、「無理するなよ」とだけ言い添えた。
約束の場所に向かう途中に通った市場は、朝早い時間だが人で溢れていた。
耳慣れない言葉や見慣れぬ文字が溢れ、行き交う人々の髪の色、肌の色、奇妙な服装や被り物など多種多様だ。
店先には見たこともない野菜や果物、食べ物、使い方も目的も分からない道具、見慣れない色使いと模様の看板が溢れていた。
色彩に萬軍破は目が回りそうだった。
街を抜けて馬で向かったところは、街外れの丘を登ったひらけた場所だった。
見晴らしもいい丘の上に卓と椅子が4つあった。
萬軍破に殤不患は、周囲に視線を遮るものもなく、ここはめったに人も来ない穴場だと説明した。
「驚くかもしれないが、絶対に取り乱したり暴れたりするなよ」
「承知した」
丘の反対方向の方角から、頭から足元まですっぽりと白い外套で覆った人物が、丘を登ってきた。
「お待たせ」
年齢が分からない不思議な女の声がした。
不思議な女は被り物をとり、萬軍破の目の前に顔を表した。
とうもろこしの房のような美しいうねる金髪に紅い瞳、そして額に小さな角が二つ。
「魔族!」
萬軍破は剣に手をかけた。
「よせ」
「やめて、彼女は人間の側よ」
女は萬軍破をじっと見つめた。
「あなたには虎が憑いてる」
「虎?」
その言葉に虚をつかれて、萬軍破は語気を荒げた自分が恥ずかしくなった。
「取り乱してしまい申し訳ない。
ご無礼つかまつった」
萬軍破は深々と頭を下げた。
「私は、窮暮之戰の後で人間の男性と地上に残った魔族の女性の間に生まれた、人間界生まれの人間界育ちよ」
朝の清々しい明るい日差しの中では、小さな角と赤い目以外は異国の他の娘たちと違いはない。
少し日焼けした肌に薔薇色の頬に小さな八重歯、伝え聞く魔族のような恐ろしい禍々しい雰囲気はなかった。
「今から話す内容は、残酷な話や神や宗教の禁忌に触れることもあるから覚悟してね」
萬軍破の話を聞いて、彼女は語り出した。 魔力の原動力になる、強い望みや執念、欲望について。 未来にこうあって欲しいと干渉する意思の力について。「まず祈りと呪術について話すわね。 祝いと呪い、この二つは分けて考えられるけど、元は同じもの。もともとは祈り願うことなの。 幸せを祈ると祝い、相手の不幸せを祈ると呪い。 同じものなので、祝いが呪いに、呪いが祝いに逆転できる。 敵と味方で、互いに与える利益と損害が逆になるように、同じ願いでも立場と方向性によって、祝いと呪いが逆転する。 また価値観の違いから、善悪、正邪、聖と魔は、簡単に分けられない場合がある。 人と魔族のように、人間が善とする価値が、魔族では悪であったり、逆の場合もある。 強い魔力、強い願い、価値観と方向性、この三つ目の要素の価値観と方向性に強い意思の力で働きかけることで変えることができる。 仕組みと方法を知っていれば、聖と魔、正邪・善悪を塗り替え捻じ曲げ、強い力を持ったものを利用できる。 過去には怨霊を祀り守護神にすることも、神の名を借り戦いで多くの命を奪うことも行われてきた。 もしかしたら『魔剣を作る呪法』は魔剣を作るのではなく、魔剣そのものを作り替える呪法か、魔剣で別の物を作る呪法なのかもしれない。 魔剣をたくさん集めて、強い魔剣の魔力を利用しようとしたのではないかしら? だけど、熟達した魔術の修練がなければ、ここまでの呪法は難しいわね。 まして人間は、魔力が少ない。強大な魔力を持つ神仙や魔族や龍などの魔物と比べて、人間は魔力がほとんどない。 しかし、特殊な修行を身につければ、魔力を増大できる。 さらに人間でも、強い願いを抱く時に強い魔力を発揮する瞬間がある。 それは、愛と死よ。 どちらも生命の根本に関わり、とても強い欲望と力の源になる。 一人一人の魔力が少なくても、多くの人間の愛の祈りと命と魂を捧げられることで、魔力を増大できる。 今では、ここや西幽でも禁止されているけれど、古代の多くの宗教では神のために生贄を捧げてきた。 そういった崇められる立場や指導者なら、人間でも強大な魔力を蓄えられる。『西幽で最も尊く神に等しいお方』はそういった立場の人間ではないかな?」 その言葉を聞いて、殤不患の目つきが鋭くなった。
「そいつは俺が知っている奴かもしれん」
「何か心当たりが?」
萬軍破の問いかけに、殤不患は首を振った。
「いや、ただの思い違いかもしれん。証拠もねぇしな」
話が終わった頃には、日は高く登り正午を過ぎていた。
「飯でも食いに行くか」
萬軍破は食欲が湧かなかった。
頭が痛くなるような魔術の話を長い間聴いたせいか。
「それ、暑くないのか」
日向で長い時間を過ごした鎧は熱して、鋼鉄の上で焼き肉ができそうだ。
「これは俺の武人の誇りだ」
萬軍破はなおも頑固に鎧を脱ぐのを拒否する。
丘を下ったところに、ちょうど泉が湧き、側に木が生えていた。
澄んだ水はとても冷たそうだった。
「馬もバテてる。水を飲まそう」
馬を降り、水辺に連れて行く。
「おっと」
ザブンという音がして振り返ると、殤不患は水の中だった。
「足が滑る。おい、手を貸してくれ」
萬軍破は、水辺により手を差し出した。
殤不患はその手ではなく腕を握り、ぐいっと萬軍破を引っ張った。
「おっと!」
友の不意の動作により、萬軍破も姿勢を崩し、水の中にザバンと落下した。
「何をする!」
水の中から顔をあげて抗議の声をあげると、殤不患は少し悪い顔で笑っていた。
立ちあがろうとした途端に、足がふらふらしてへたり込む。
ぼんやりする意識を水の冷たさが引き戻した。
体に冷たい水が染みて心地良い。
「やっぱりテメェは熱中症だ。
少し日陰の水の中で行水していけ。
天命、悪いが、冷たい物を買ってきてくれねぇか」
「この市場の名物の氷菓を買ってくるわ。
軍破将軍に味見してもらおうと思っていたの」
天命の後ろ姿を見送って、殤不患はずぶ濡れの服を脱いだ。
「軍破も、その甲冑じゃ動きにくいだろ?」
萬軍破も諦めて、ずぶ濡れになった鎧と装備を体から外した。
濡れた鎧の手入れを後でしなければ。
そう思いながら、木陰の冷たい水の中で、ゆっくりと体を浸すとだんだんと体の熱が冷めていく。
肌着の上に薄い衣一枚になった殤不患と萬軍破は、しばらく川辺で一緒に泳ぎ水浴びした。
「お待たせ、名物の氷菓よ」
天命がお使いから戻り、氷菓を差し出した。
萬軍破は、睦天命に薄い衣姿で水浴びした姿を見られて少し恥ずかしかったが、こんな時は仕方がない。
睦天命が買ってきた砕いた氷に甘い果物と乳と蜂蜜を混ぜた氷菓は、名物というだけあって舌が蕩けるほど美味かった。
睦天命も裸足になり、冷たい泉に足を浸して涼みながら甘味を味わってる。 甘味が全身に行き渡ると、疲れた体に眠気が差した。
水辺の木の下の木陰で、服が乾くまで横になることにした。
目を瞑ると、夜更けの殤不患との一夜語りを思い出した。
もし他の仕事に就いていたら?
夜に語り合った後、萬軍破はぼんやりと夢想していた。
幽皇陛下の西幽の改革が成功に終わり、俺も将軍を退いたら、何をしよう。室内での書類仕事は性に合わない。
外で体を動かす仕事、農場でも営もうか?
その頃には、お互いに家族を持っているかもしれん。
不患も家族と共に、俺の農場に遊びにきて、昼は農作業をしながら、夜は昔話を語り合いながら酒を飲む。
そんな平穏な日々を送るのも良いかもしれん。
起きたら夕方で涼しくなっていた。
干してあった鎧と衣服も乾いている。
そろそろ、国境付近の宿に戻らねばならない。
「送っていくぜ」
殤不患と萬軍破は装備を整えて、睦天命と共に馬に跨った。
「部族長達にも世話になった。礼を伝えておいてくれ。
街の市場も様々な人と物で溢れ、活気があって面白かった」
今日、通った街の市場の賑わいと共に、西部総督の告発のために訪れた西幽の都の惨状を思い出した。
萬軍破が知る昔の栄華は見る影もなかった。昔は今日見た市場の千倍も大きく人も溢れ色鮮やかだった。
しかし、今では寂れて人影も少なく人々の顔も暗かった。
「もちろんよ」
「軍破が、ここを気に入ってくれてよかった」
「今度もっと時間があったら、砂漠の中の遺跡や、海辺など美しい場所や名所をたくさん案内するわ」
「ありがたい。ぜひお願いする。
しかし、俺は西幽の緑溢れる大地が好きだ。
木と草と花に覆われた西幽の大地を俺は美しいと思う」
「あら、砂漠にも花は咲くわよ」
「岩塩の結晶が薔薇のように固まった石のことか?」
「いいえ、本当に花が咲くのよ」
睦天命は続けた。
「砂漠にも雨季があるというのは、以前、お話ししたわよね。
短い期間に大雨が降り川が流れて生命が息づくの。前に敵をもてなすご馳走になったお玉杓子が生まれるのもこの時ね。
その時は、普段は砂地に埋まっている草花の種が一斉に芽吹き、短期間で花開く。地平線まで色とりどりの花が咲き乱れ、百花繚乱の極色彩の世界が訪れる。
そこで動物や虫や魚は恋をして、次の世代を残して短い一生を終える。
また乾季が訪れ、生き物や草花の種は地下に潜り眠りにつくの」
「天命殿の見識の高さにはいつも感服いたす。
世界は広い。まだ俺の知らないことだらけだ。
表面だけを知ったぐらいで理解した気になってはいかんな」
萬軍破は反省して謙虚な気持ちになった。
その土地や文化には、それぞれ違った固有の美しさと人々の生活と愛があり、それは西幽も西部の夷狄も南方の蛮族も一緒だ。
しかし、やはり萬軍破は西幽が一番好きだ。
生まれ育った土地への郷土愛もある。
それは他の愛を否定するものではない。
砂漠に日が沈みかけ、周囲が夕日で赤く染まる。
萬軍破は暮れかかる太陽に向けて祈った。
愛する西幽が安らかならんことを。
日が暮れ月が登りかかる頃、あと少しで西部国境だ。
そこへ萬軍破が国境沿いに残してきた護衛が駆けてきた。
「西部総督が脱走し、使節団を人質にして逃走中と緊急の連絡が入りました」
「なに! 至急、早馬を手配せよ」
すぐにでも現場に飛びたいが、緊急に鳥の文で早馬を手配しても西部の都市まで一日はかかる。
もし使節団が殺害されるようなことがあれば、和平どころではない。また戦乱に戻れば、民も兵も犠牲になる。
その時、大きな虎が草むらをかき分けて、萬軍破の前に現れた。
「白虎じゃねぇか」
神の使いと言われる白い虎は、乗れというように、3人の前に背中を伏せる。
一日で千里を往復するという虎の伝説を思い出した。
ここは、伝説にかけてみよう。
「俺たちも行くぜ」
月夜の中で砂漠も草原も森も村も、豪速ですぎていく。
一刻もすぎると、すでに西幽の都市の中だった。
白虎は3人を下ろすと、『見ろ』というように顎をクイと一方向に向けた後に、闇に駆け出して消えた。
「あそこよ!」
白虎が顎を向けた方向の暗い街の道には、数人の衙門の役人と夷狄の服装の人物が倒れて呻いている。
その先には、夷狄の服の若い娘と手を縛られた夷狄の使節団長を連れた剣を持った恰幅の良い壮年の男がいた。粗末な服を着ているが、紛れもなく前西部総裁だ。
「天命、怪我人の救護にあたってくれ」
睦天命を怪我人の元に残して、殤不患と萬軍破は人質を連れた前西部総督を追った。
キンッ!
追いかける萬軍破の首元を三日月の光が襲った。
体を逸らして避け、虎嘯山河で追撃を受け流す。
闇に光る二つの大きな三日月。鎌だ。
「あなたの相手は、私です。萬将軍」
闇の中から、まだ若い男の声。
「不患、ここは先に行け」
萬軍破は殤不患に声をかけて、闇の中の男と刃を交える。
殤不患は、前西部総督に追いついた。
何かおかしい。
殤不患に気がついて前西部総督は、娘の首筋に小刀をあてた。
「命だけは、助けてくれ」
前西部総督の声が震えている。
「人質を離せ」
「分かった。行け」
夷狄の使節団長が、前西部総督の側から走り去る。
前西部総督が娘からも手を離す。
殤不患は、前西部総督の目に、ほっとするような安堵の色が浮かぶのを見逃さなかった。
娘は殤不患に走りより、助けを求めるように手を伸ばした。
違和感の正体、それはこの娘だ。
殤不患は、助けを求めて伸ばされた娘の手を躱わした。
鋭い爪が頬すれすれに掠めた。
娘は振り向いて、柄に蠍の細工のある細身の剣を抜いて斬りかかった。
とっさに殤不患が剣で受け止め打ち返すと、娘は飛び退いた。
「外したか」
娘の姿は金髪の長髪の美女に変じた。
金と薄紫と黒の薄物の衣服に、蠍の飾りがついている。
「助けてくれ。俺は不正を見逃す見返りに操られていたんだ」
前西部総督はへたり込んだ。
金髪の美女は前西部総督へ軽蔑の視線を投げかけた。
「よくもぬけぬけと。
村の告発を抑えきれずに傭兵に襲撃させ、夷狄に罪をなすりつけたのはお前の失態だ」
前西部総督は泣き声を上げた。
「許してくれ。命だけは」
「しかしお前の失敗により、目的の大きな魚が釣れたのは褒めてやる」
前西部総督の体を蠍が這い回っている。
「口封じに楽に死なせてあげるつもりだったが、罪をなすりつけようとした罰だ。生き地獄を味合わせてやろう」
震える前西部総督の首筋を蠍の尾が針を刺した。
「ぎゃー!」
「幻覚と激痛で正気を失う毒よ。
処刑される日まで、殺された村人の幽霊に怯えて苦痛にのたうつがいいわ」
前西部総督は恐ろしい叫び声をあげて苦痛に転げ回る。
「仕事は終わった。引き上げよう」
金髪の美女は萬軍破と戦う闇に向かって声をかけた。
影の男は、萬軍破との戦いから身を引き、金髪の美女の横に立った。
足元でのたうち回る前西部総督を足蹴にする。
「囮の役もまともに務まらない小物め」
その時の一瞬だけ、闇の男の白い横顔が浮かび上がった。
うなじで切り揃えられた紫がかった短髪、後頭部から前髪にかけて触覚のような髪飾り、白い肌に小さい鼻と顎、特徴的な三白眼。
「萬将軍、あなたとはまたいつかお会いするでしょう」
声だけ残して、金髪の美女と共に男も闇に消えた。
殤不患は確信した。毒を操る蠍の剣の金髪美女は蠍瓔珞だ。
そして、前西部総督が関わっていた『西幽で最も尊く神に等しいお方』その名は。
禍世螟蝗
「挨拶もしないで、軍破将軍から去っていいの?」
天命は、馬上の殤不患の横顔を見ながらきいた。
「一緒に居て、とても楽しそうだったじゃない」
「前西部総督は神蝗盟と繋がっていた。
俺たちと神蝗盟の争いに、これ以上、あいつを巻き込んじゃいけねぇ」
「ふふ、不患もそんな顔するのね」
萬軍破は前西部総督を捕縛して、衙門に連絡しようと振り向いた。
「不患?」
そこには殤不患と睦天命の姿はなかった。
挨拶もせずに、立ち去ったか。
萬軍破の口元に少し寂しげな微笑みが浮かぶ。
また縁があれば、会うこともあるだろう。
いつか、また、必ず。
(終)