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    urtrmurow

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    くろてらの成人向け用

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    極夜(ザドギエルさんとハニエルくんの章)の没原稿。
    こっちの方が村の描写とか丁寧なんだけどあまりにザドギエルさんが突っ走りすぎてるんじゃないかとか多分なんか納得いかずに書き直したんだと思う。今見ると別にこれでもよかったって感じなのは割とよくあるから供養しちゃお。

     翌日、ようやく目的の町に辿り着いた。町の衛兵に教会の使徒たる証を見せれば、血相を抱えて衛兵の一人が街の奥へ走っていくのを待って数分、やってきたのはこの街に従事している神父と町の長だ。すぐに礼拝堂に招かれ、事情を聞くことになった。
    「今もその村の人からの知らせは来ていないのでしょうか」
    「はい……音沙汰もまったくございません」
     その村に嫁いだ娘の親も心配しておりまして、と町長がほとほと困った様子で答える。たしかにそれは心配だろう。
    「俺達は『教会』から派遣された使徒です。勿論、くだんの村を調査するためにやってきました。……お話を聞く限りまだ確証には至りませんが、その村は悪魔の奸計に陥っている可能性も否定できません」
    「ええ……ええ、分かっております、使徒様。寧ろ、私どもが恐れているのは、そこです」
     神父がザドギエルの言葉に頷く。ザドギエルの言った言葉の意味を理解しているようだった。
    「……村に向かおうとした方とお話をさせてくれませんか」
    「もちろんです、彼に話はしております。実はその者は宿の主人でして、今夜はそこに泊まっていただくよう手配させていただきました」
    「ありがとうございます」

     太陽の絵が描かれた看板の、宿に案内される。一階が酒場で二階が客室の何の変哲もない宿だ。
    「……いらっしゃい」
     酒場のカウンターに立っている男が訪問者をちらりと見て声をかけてきた。ハニエルは息を呑み、ザドギエルの後ろに隠れたが、ザドギエルは一礼をして一歩歩み出た。
    「『教会』から派遣されました、使徒ザドギエルです。彼は使徒ハニエル。一晩の宿とお話をお伺いしたい」
    「ああ、かけな、坊主ども。酒は出さねえが」
     ぶっきらぼうにカウンター席を指させば、町長がそれでは私はこれで、といそいそと出て行った。二人が席に座った途端、くぅ、とハニエルから奇妙な音が鳴った。
    「す、すみません」
    「ははは……夕食がまだだったよな。夕食もお願いできますか」
     すぐにそれは出てきた。あぶり焼きにされた野兎の肉が数切れ、ハーブを添えられて皿に盛り付けられている。木で出来た器に満たされたスープは人参と芋が入っている。それから小さなライ麦パンがひとつ。数日ぶりのまともな食事に、二人の顔がわかりやすく明るくなった。
    「……なんだ、使徒様はまともに食べてなかったのか」
    「ここに来るまでに村の一つぐらいはあるのかなって思ってたんですけど、アテが外れちまって」
    「ここいらはまだ荒れているからな、仕方ねえ」
     ザドギエルがそう答えれば目の前にシードルが注がれた杯が二つ、置かれた。手短に祈りを済ませ、炙った肉をひときれ摘まみ口にする。むち、とした肉は噛めば脂が染みてくるがしつこくはない。獣特有の臭みを消すために使っているハーブが、独特の風味を醸し出している。ハニエルも硬いパンをちぎり、スープに浸す。塩だけで味付けた温かなそれが染みて柔らかくなったパンを黙りこくって咀嚼している若者二人を、主人はまじまじと見つめた。
    「もうちっとばかし大人が来るとおもっていたが」
     どこも人手不足か、と皮肉る主人に、ハニエルがびくりと身を震わせる。
    「まあね」
     軽く躱したのはザドギエルだ。脂にまみれた指をぺろ、と舐める。で、と仕切り直すように切り出した。
    「あなたが隣の村に行こうとした話を聞かせてほしいんだ」
    「ああ……そうだったな」
     男が頷き、顎髭に触れる。目を細めて、どこから話したものかと思案しているようだった。
    「……娘がなァ、あの村に嫁いでんだ。この町とあの村は森さえ越えちまえばさほど遠くはねえ、月に一度ぐらいはあいつも孫と共に顔を出しに来ていたんだが……三ヶ月前、冬になった頃から何の音沙汰もなくなっちまった。その頃はあの村で諍いが起きてるともっぱら噂でな」
    「……どんな噂でしょうか」
     ハニエルがおずおずと訪ねる。男は眉を寄せ、言いにくそうに唸ってから口を開いた。
    「よくある話さ。村長とその息子が喧嘩したらしくてな、周りを巻き込んじまって村の中で派閥が出来ちまった。娘は息子派だったが、旦那は村長派だったらしい……連絡が途絶える前に、俺に愚痴っていたよ、こんなくだらないことであの人と口も聞かなくなるだなんて、ってな。オレも一旦頭冷やせってあいつに言ったよ。孫と帰ってきてもいいってな。考えておくなんて言いながらあの村に帰ってもう三ヶ月さ、どうしてやがるんだか」
    「……」
     やれやれ、と額を手で押さえる。灯りに照らされた男の顔には疲労のせいで深くなっているのであろう皺が刻まれている。
    「森に入ったと聞いてますが」
    「ああ、入ったさ。実のところオレはあの村の出身でね、こことの道も通い慣れたもんだ、絶対に迷わねえ。村に行こうといつもの道を歩いて行って……ちょうど半ばのところでな、夜になるんだ。森は暗いもんだが、木の間から漏れる光ぐらいはあるもんだろう。違うんだ、その半ばで、それすら無くなる。ふっと暗くなった空を見上げれば夜になってんだ。気味が悪いったらねえよ」
    「……」
    「まあそれでも進んださ、道は分かってんだからよ。森が途切れる先も夜みてえに真っ暗で……とにかく出てみれば、目の前が真っ白になってなァ……気がつけば入り口だ。何度も日を変えて行ってみたが変わりゃしねえ、気でも狂ったのかと思ったよ」
     村には行けずじまいだ。男がぽつりと一言零し、黙りこくる。
    「ザドギエルさん……」
    「……ありがとうございます、ご主人。もしよかったらその村への行き方を教えて貰ってもいいですか。明日にでも行ってみようと思います」
    「……無駄だと思うがね」
     主人が羊皮紙を取り出し、ペンを走らせる。

     眠たい目を擦りながら、隊服を身に纏い愛馬に跨がり、例の森へと向かう。鬱蒼とした木々の奥へ道が続いていた。「とにかく、行ってみよう」
    「……はい」
     規則正しい蹄の音が静かな森の中に響く。ハニエルは力を使って、悪魔が潜んでいないか確かめているようだった。
    「ハニエル、何かおかしな気配はしないかい?」
    「はい、今のところは……」
     何が出てくるか分からないという緊張感から、お互い言葉少なになる。木々の間から小鳥の囀る声が聞こえ、視線を上げてみれば栗鼠の親子が枝を走っている。
     一時間ほど歩いただろうか。
     不意に周囲が暗くなった。梢から降り注いでいた陽光の煌めきがふっと失せたのだ。
    「……」
    「夜になってしまいました……!」
     本来ならば太陽が沈むと共に空が赤く染まり、地平線の端から徐々に夜に移り変わっていくものであるのに、それは突然だった。村を発ったのは朝方だ。まだ夜には遠い。
    「……」
     ザドギエルが作業用のナイフを取り出す。手頃な枝にそれで傷をいくつかつけた。
    「行こうか」
     再び馬を歩かせる。鳥の鳴き声は失せたが今度は草むらから虫か、蟇蛙の声が聞こえてくる。しかしどれほど歩いても森の外にはたどり着けないままだ。
    「あっ……ザドギエル、さん」
    「な……」
     視界に傷のついた木が飛び込んできた。ザドギエルがナイフでつけた傷だ。その傍の地面には馬の蹄が二頭分、まだ新しいまま刻まれている。
    「どこかで引き返してしまっていたのか?」
    「で、でも宿屋の方がこの道は曲がることなく真っ直ぐだと言っていました……!」
     二人の主の動揺が伝わったのか、二頭の馬も興奮気味に嘶き始めた。
    「こら、落ち着け」
    「大丈夫ですから」
     馬を落ち着かせた後、さてどうするかと考え込む。森を出なければ村にたどり着けない。しかし森を出るすべがない。
    「村には森からしか行けない、というのが厄介だな」
    「村自体がこの森に……囲まれているんでしたよね」
    もう一度行ってみるか、と進み出す。しかしやはり、暫く歩いた後にまた元の位置に戻ってしまった。
    「……俺達からかわれてる? 木を全部切り倒してやろうか」
    「それは……何年かかっても難しそうです……っ、!」
     忌ま忌ましげに悪態をつくザドギエルをハニエルが宥めていれば不意に感じた気配に、ばっと周囲を見渡す。
    「どうかしたの」
     二人が進んでいた筈の道に、少年が立っていた。齢十歳ほどだろうか、火の灯ったカンテラを持ち、こちらを見ている。
    「あの、オレたちは」
    「待ってハニエル」
     答えようとするハニエルをザドギエルが止める。深いコバルトブルーを目をじろりと少年に向ければ、少年はびくりと肩を跳ねさせた。
    「……君は、今どこから来たんだ」
    「えっと、この先の村からだよ。この道を真っ直ぐにいったところ」
     おずおずと少年が道の先を指さす。ザドギエルの様子に少し怯えているようだった。
    「……本当に? この先に村があるなんて聞いたことがないな」
    「え……」
     ザドギエルが吐いたのは完全に偽りだ。一瞬驚いてハニエルがザドギエルを見るが、気にとめることなくザドギエルは少年を見つめている。
    「お兄さんたち、迷子なの?」
    「そう、迷子……なんだ。旅をしていてね、ずっとこの森を歩いて疲れてしまったよ」
     その言葉に少年がぱっと顔を明るくさせる。
    「それなら僕たちの村においでよ! きっと皆歓迎してくれるよ!」
    「いいのかい、大人の人たちはよそ者をいらないって言うんじゃないかな」
    「そんなことないよ、皆とっても優しくなったんだ!」
     こっちだよ、と少年が歩き出す。ザドギエルがハニエルをちらりと見やる。そして行こう、と手綱を引けば、ザドギエルの青毛の馬が歩き出した。ハニエルも慌ててそれについていく為に、愛馬を進める。
     少年、彼はエミールと名乗った――に先導され、夜の森を進んでいく。カンテラの火が暗い森をゆらゆらと照らして、三人と二頭の足下を照らしていく。
    「それにしても長い夜だね」
     ザドギエルが目の前の少年に語りかける。何も知らないふうに、ただなんとなしを装ってだ。
    「ううん、違うよ」
     エミールがその言葉を否定する。違う? とザドギエルとハニエルが首を傾げて少年の言葉を待つ。
    「ずっと夜なんだ」
    「ずっと?」
    「うん、ずっと! 朝が来ないから雄鶏も鳴かないし、雌鶏も卵を産まないよ」
    「それは大変だ。卵を食べられなくなるし、洗濯物も乾かないだろうに」
     ザドギエルの暢気とも言える問いかけに、エミールは笑い、首を振る。
    「ううん、そんなのへっちゃらだよ! だって、村の皆、やっと喧嘩をやめたんだもの!」
     その声色には偽りがない。明けない夜に対しての虚勢ではなく、それによって起こった村の変化への純粋な喜びが滲んでいる。喧嘩をやめた、という言葉に反応したのはハニエルだ。
    「喧嘩、ですか?」
    「うん、それまで村のみんな……ずっと喧嘩していたんだ。父さんと母さんもね、毎日喧嘩していて……僕、いやだった。二人とも朝ご飯でも夜ご飯でも言い争いばっかり。夜が来るひとつき前ぐらいなんて、口も聞いてなかったし」
    「そりゃあ、酷いな」
    「どうして喧嘩をしていたのでしょう……」
    「知らない。母さんは村長のお爺ちゃんを庇ってて、父さんはそれを責めてた。どうして喧嘩してるのって聞いたらお前には関係ないって」
     エミールがそばの小石を蹴る。ザドギエル達が傷をつけた木から随分歩いているが、その木に再び戻る気配がない。
    「でも喧嘩をやめたんだろ?」
    「うん、朝になっても夜だった日、母さんと父さんが僕に謝ってくれたんだ。もう喧嘩はしないって約束してくれた。村の皆もその日から元通りになったよ」
     だからずっと夜でもいいんだ。皆仲良くしてくれるから。少年の足取りは軽い。お兄ちゃん達、もうすぐだよと振り向く彼に頷く。
     視線の先、空を覆っていた木々が開けている。もうすぐだよ、と少年が走るのについていけば、ついに森を抜けた。
    「……」
    「……」
     夜空の下に草原が広がっている。そこには白く愛らしい花がそこかしこに咲いていて、凜としたような、甘い匂いを漂わせていた。自分達がやってきた道は草原を抜け、その先には村が見える。
    「……いい所だね、きれいな花も咲いているし」
     ザドギエルが絞り出した褒め言葉にエミールは誇らしげだ。
    「今年はガランサスがいつもよりたくさん咲いたんだ! 村長さんもこんなに咲いたのは見たことがないって! こっちだよ!」
     そう言って村の方角へと走り出すのを眺め、ザドギエルが小さく息を吐いた。
    「ガランサス、ですか」
     あのよい香りのする白い花を摘み、籠に入れて持ち帰ればその家は清められるという言い伝えがあるのを思い出して、ハニエルがガランサスを眺める。夜の暗闇の中で白く浮かぶそれは、そよそよと微風で揺れている。
    「……ハニエル、渡したいものがあるんだ」
     草原の向こうに見える建物を見据えていたザドギエルが、隣のハニエルに呼びかける。低い声にぴくりと肩を震わせて、ハニエルはザドギエルを見た。
    「……?」
    「これ、念のため。いざって時に使え」
     ザドギエルが渡してきたのは、彼がいつも使っているあの銀製のナイフだった。天使の彫刻を施された柄の部分に細い窓があり、そこから赤い液体が揺れているのが見える。それを見て驚いたのはハニエルだ。
    「え、だ、駄目です……ザドギエルさんの大切な武器なのに……」
    「任務の前に補充したから大丈夫さ。さすがに五人の時には皆に渡せないけど、一人ぐらいなら分けても充分足りる。だから、さ」
    「……そんな、オレ……」
     押して付けてきた掌大のそれを見下ろし、なんと言えばいいのか迷い、ハニエルは視線を泳がせる。この赤い液体は、間違いなくザドギエルの血だ。彼が皮膚を傷つけ、そこから流れた悪魔を殺す血潮。しかしそれ以上に――。
    「これは俺の我が儘だ。ハニエルが持ってくれるなら安心出来る。もちろんそれを使わない方がいいんだけどな」
     ザドギエルが苦笑いを零す。頼むよ、持っていてほしい。彼にしては強い願いに、ハニエルは思わず頷いてしまった。頷いた手前、突っ返すことも出来ず、それを懐のホルスターに仕舞う。いつもは使うことのないそれに差し込まれた暗器が、僅かな重みを伝えてきた。
    「おーい、置いてっちゃうよ!」
     少し先でエミールが手を振っている。ああ、待ってくれよ、とザドギエルが穏やかに、少年へと馬を歩かせていく。
    「…………ザドギエルさん、どうして」
     ハニエルの疑問を乗せた呟きは、夜風に吹かれて消える。そしてすぐにはっと我に返り、慌てて二人を追っていく。

     村に入ればエミールの母親であろう女性がいた。
    「エミール、どこに行っていたの!」
    「いつもの森だよ、心配しなくてもいいのに!」
     あまり遠くへ行っては駄目よと諭す母親が、ザドギエルとハニエルに気付いて見つめてくる。
    「どちらさまでしょうか」
    「神学校の生徒です。巡礼の旅に出ていた所、あの森で迷ってしまいました」
     ザドギエルが一礼をすれば、まあ、と気の毒そうな表情をさせる。エミール君に出会い、助けられたのですよと告げればそうでしたかと納得したようだ。
    「それはお気の毒に……」
    「迷いに迷って少し疲れてしまいました。この村に宿はありませんか、もしよければ一部屋お借りしたいのですが……」
    「それならば私達がこの村の宿屋を経営しているので是非おいでください。ここ最近は旅の方がめっきりこなくなったものだから……」
    「そうでしたか、主に感謝しなくては」
     ザドギエルが軽く十字を切る。母親は頷き、こちらへと歩き出した。
     たしかにエミールの言う通り、町は穏やかな空気に包まれている。時折すれ違う人々は親しげに来訪者に挨拶をしてきた。
    「やあ、旅の方かな、ようこそ」
    「っ……あ、……」
     突如声をかけられて驚いたハニエルが顔をあげれば壮年の男がにこやかに挨拶をしてきた。驚いたのに気を取られて、その目を見つめてしまったのに気づき、ハニエルの血の気が引く。
    (目を合わせてしまった……!)
     慌ててヴェールを目深く被り直し、一礼する。しかし男は様子を変えることなく、何もないところだけどゆっくり休んでいってくれと去って行った。
    「あ、あれ……あれ……?」
     戸惑ったのはハニエルだ。あの瞬間、しっかりと目が合ってしまったのに彼は何ごともなく立ち去ってしまった。いつもならば跪いてうやうやしく挨拶をするだとか、何を求めているのかしつこく聞いてきたりするのに、至って、そう本来ならば至って普通の接し方だ。
    「ハニエル?」
     先に数歩進んでいたザドギエルがハニエルの様子に気付き、呼びかける。どうかしたのか、と聞かれても、どう答えればいいか分からない。
    「先ほどの者は村長の息子です。気さくな方ですよ」
    「うん、いっつも村のことを考えてくれてるんだ!」
    「はぁ……」
     さあ、つきましたよと宿と思わしき建物を紹介される。そこには月の絵が描かれた看板があった、
    (月……と、もしかして)
     ザドギエルがふと思い立ったように女に視線をやる。
    「森に迷い込む前に近くの町の宿に泊まったのですが、その宿は太陽の絵が描いてありました。奇遇ですね」
    「まあ! 父さんの宿に泊まったのですね」
     ザドギエルの言葉に女がぱっと顔を明るくさせる。エミールもお爺ちゃんのところで泊まったの?と嬉しげだ。ハニエルは何かを察して、ゆっくりと目を細めている。
    (当たり、か)
     どうぞ、と店内に案内される。中は掃除が行き届いている、というよりも暫く使われていないと言ったほうが正しいだろう。受付のカウンターには男が一人座っている。扉が開いたのに気付いて、読んでいた本から顔をあげた。
    「ああ、おかえりデボラ」
    「あなた、久しぶりのお客様よ」
     母親、デボラの言葉に主人はゆっくりと瞬きをし、ザドギエルとハニエルを見つめる。しかしすぐに穏やかな笑みを向けてきた。
    「いらっしゃい、旅の方」

     通された部屋も、手入れが行き届いている。二人それぞれに個室をと勧められたが二人部屋でいいと断った。その方が何かあったときに安全だ。宿らしく食事も勧めてきたが、ザドギエルはそれも断った。怪訝な顔をする夫人に
    「夜の続く村では食料を調達するのも難しいでしょう、私達には旅の為の保存食がありますので、それを食べます」
     そう固辞すれば、少し残念そうな顔をしながらも夫人は頷いた。
     部屋には時計があり、その針は三時過ぎを示している。窓の外をみやればやはり夜の帷が空を覆っている。
    「……おかしくなりそうだな」
     コートを脱ぎながらザドギエルが呟く。ハニエルも頷いて、上着を脱いで壁に掛けた。
    「本当にずっと夜なんですね」
    「ああ……」
     窓辺に座り、ザドギエルが外をうかがう。そして視線を戻してハニエルを見据えた。
    「どう思う?」
    「どう、ですか……」
    「ああ、夜が明けないという点は……一日明けてみないとなんとも言えないけど、ハニエルは他に違和感を感じているんだろ。話を聞いた宿の人から聞いた……娘とその夫の様子ともかけ離れてる。むしろ正反対なところも気になるけど。俺はハニエルがどう思っているのか聞きたいよ」
     ザドギエルに促されて、ハニエルが俯く。暫く迷った後、口を開いた。
    「さっき声をかけてきた人……オレの眼を見てもなんともなかった、です」
     ハニエルの言葉にザドギエルが目を見開く。ザドギエルもハニエルの眼の力は知っている。悪魔の弱点を見通す瞳、そして人を等しく魅了し、惑わせる瞳。
    「そいつが悪魔っていう可能性は?」
     ザドギエルの問いかけにハニエルが首を振る。
    「わかりません、悪魔の弱点は見えませんでした。ただ……オレの眼は悪魔の弱点が見えるというだけです。もし悪魔が人に化け、偽ろうとすればそれを見抜くのは、オレの眼では難しいでしょう」
    「そうか……」
     確かに、奇妙だ。人間のように魅了されず、しかし悪魔という確証がない。それがハニエルに声をかけた男だけの問題なのか、それとも。暫く考えていたザドギエルがゆるりと首を振った。
    「様子をみるしかないな、ハニエル。ここにいる間は俺達はただの神学校の生徒。そう振る舞うようにしてくれ」
    「は、はい……」
     ザドギエルの言葉に頷く。
    「それと……食事を出されても決して食べちゃ駄目だよ」
    「……あの、それってどういう……」
    「…………もし悪魔の手の内なら、そこで食事をするのは危険ってこと」
     なるべく術中に嵌まるような事態は避けたい。ザドギエルの言葉にハニエルが頷く。
     

     一夜明けて、というのは正しくないかも知れない。部屋の時計は八時頃を指していて、自分達が把握している限りではそれは朝の八時なのだが窓の外は相変わらず夜の帷が下りている。
    「朝が来たよ!」
     少年エミールがそう叫んで起こしに来たのだけが、今が朝であるという不確かな証拠だ。ザドギエルが神への祈りのために礼拝堂に行きたいと主人に告げる。しかし主人は困惑したように眉を下げて、首を振った。
    「礼拝堂はありますが立ち入りを禁じられているのです。何分老朽化がひどく……先日ついに壁の一部が剥がれてしまい、村長が立ち入りを禁じました。それに……」
     私達には信仰が必要が無いのです。主人の言葉に二人が目を見開く。
    「それは……どういう意味でしょうか」
    「申し訳ないですが、言葉通りの意味です。恐らくこの村のほぼ全ての住人が信仰を捨てたと言うでしょう」
    この国の民のおよそほとんどが【神】と『教会』を信仰している。寧ろ信仰していない人間を異端として村ぐるみで迫害するということもあるほどだ。その中でこうはっきりと、しかも神学校の生徒である二人の前で信仰を捨てたと言ってのけた主人に驚くのは無理からぬ話である。しかし主人は穏やかに微笑みながら
    「お怒りになりますか」
     とザドギエルに問いかけた。その瞳は真っ直ぐで、こちらが責められているような心地にザドギエルは居住まいを正す。少し黙りこくったあと、口を開いた。
    「怒る……というより、俺は理由が知りたいです。勿論、主を讃える身分の者としてもですが、何より……あなたが俺達に堂々と言ってのける理由が見当たらない。もし俺が異端審問官に告げればどうなるか想像つかない訳ではないと思うんですが」
    「ええ、ええ、勿論です。きっとあなた達が教会本部に告げれば、我々は罰せられるでしょう。この国において『教会』に属さないことは罪に近い。……しかし、我々は気がついてしまった、もう【神】は必要が無い、と」
    「……必要、ない?」
     ハニエルも探るように主人を見据える。数秒、彼と眼を合わせてしまった気がするが彼も【眼】に惑うことなく、そのままだった。
    「必要なのは【神】ではなく、隣人と手を取り合うことです。我々はつい最近までそれに気がつくことが出来なかった。あれだけ礼拝堂で祈り、己を律しても、村は二つに割れたまま。妻とも毎日喧嘩をして、息子を悲しませました。結局必要だったのは信仰ではなく、互いを許し合い認め合うことだったのです。それを知っている我々は異端審問官が来ようとも怖くはありません」
    「…………」
     主人の言葉に黙りこくる。至極正論なのだが何か、ひっかかるものがある。
    「そう、ですか……」
     ハニエルがなんとか相づちを絞り出す。
    「しかし俺達二人には、神が必要です。祈りを捧げ、聖書を読み、十字を切る場所も。どうか礼拝堂に入る許可をいただきたい。この村に神父はいないのですか」
    「……私にはその権限はありません、それならば村の長に掛け合ってみるといいでしょう」
     そう提案する主人の瞳には、若い信徒に対する哀れみが見えた。ありがとうございます、行ってみますと告げてザドギエルが立ち上がる。ハニエルも慌てて、立ち上がった。話を聞いていたエミールが二人の後をついていく
    「僕もついていっていい?」
    「……あー、うん、君の母さんが許すならね」
     ザドギエルが言えば母親にお伺いに向かったらしい。宿から出て、ぐ、と伸びをした。これが朝の陽光を浴びながらならすっきりするのだが、それも叶わない。
    「……一気にきな臭くなったな」
    「はい……信仰を捨てるだなんて……」
     信仰に厚い信徒ならば怒り狂っていただろう。あの主人が嘘を吐いているとは考えづらいが、村長とやらにもう少し聴いてみるしかない。礼拝堂があったということは神父もいたということだ。ならば彼は今どこにいるのか。
    「母さんがいいってさ、僕も一緒に頼んであげる!」
    「そうか、ありがとう」
     こっちだよ、と少年が村の道を先導する。それについていきながら、先の会話で感じた違和感の正体を、ザドギエルとハニエルはそれぞれ考えていた。

     村長の住む家に案内された。他の家よりも少し大きいが、さほど違いは無い。要件を伝えればすぐに通され、丁寧に案内された。エミールに外で待っているよう告げ、客間で待てば村長を名乗る老爺が現れる。
    「礼拝堂の件ですが……申し訳ない、あそこには何人も立ち入らせないようにしております」
    「ひどく古くなって危険だとお聞きしました。もしよければ『教会』にかけあって修繕の職人を手配しては」
     ザドギエルの提案に村長はゆっくりと首を振る。宿の者にも話を聞いているとは思いますが、と前置きしてこう言った。
    「我々は信仰を捨てたのです」
    「……それも聞きました。必要がない、と」
    「そうです。必要がなくなったのです」
    「……」
     ザドギエルの青い目が村長を見つめる。その眼差しにも村長は微笑むばかりだ。
    「【神】に祈らずとも、『教会』に縋らずとも、人は互いを認め、許し合うようになれば平穏が訪れる。私達はそれを知っています。ただそれだけのことです。なので我々はもう、【神】も『教会』も、礼拝堂も必要がなくなりました。いずれあそこは草木に飲み込まれ、朽ちていくでしょう。それまでは危険なので、立ち入らせない。ただそれだけのことです」
    「そんな……」
     宿の主人と同じような返答に、ハニエルが何かを言おうとして口を閉ざす。彼は【神】や『教会』を貶めているわけではない。故にそれを責める気になれなかった。
    「……もう一つお伺いしても」
    「はい」
     コバルトブルーの双眸がきゅ、と細められる。
    「礼拝堂があったということは、神父はどうされているのでしょう。あなた方が信仰を捨てる、と聞けば真っ先に反対する立場の者だとは思いますが」
    「……」
     沈黙が下りる。狼狽えるでもなく村長は大人びた少年を見据えていた。その目の中で、思考はうかがい知ることは出来ない。
    「死にました」
     ただ一言、告げるだけだった。
    「死んだ。病ですか」
    「いいえ、我々の責任です。村の者から既に聞いている気がしますが、我々は二つに分かれ、争っていました。理由は聞いてくださるな、些細なことです。この明けない夜が来る前の日に、村人同士の諍いを止めようとして……」
    「…………そこまでの争いに発展して、今、穏やかに暮らせていることが不思議でなりません」
    「彼の犠牲があった故にです。我々はそこで過ちに気付き、この明けぬ夜を受け入れました。この夜は、我々の罪の証であり、平穏の為の夜でもあるのです」
    「この夜が神の怒りだとお思いになりませんか?」
    「いいえ、思いません。では聞きましょう、何故、そうなるまでに神は我々を止めてくださらなかったのでしょうか。毎日祈りを捧げていたのに」
     話は平行線を辿るだろう。そう判断したザドギエルがため息を吐き、分かりましたと切り上げる。
    「もしよろしければ、もう暫くご滞在ください。そうしていただければ、我々の考えも少しは理解していただけるかと。少しでも理解していただけたなら、異端審問官にこの村のことを告げずにいただきたい」
    「ええ、そうしましょう。ただし、俺達は信仰に従い、神に祈り、十字を切ります。それを許していただけますか」
    「もちろんです。礼拝堂には入っていただけませんが、自由に信仰なさってください」
     ザドギエルが礼を言い、立ち上がる。ハニエルが戸惑いを隠せずに視線を泳がせていれば
    「貴方は迷っていらっしゃいますね」
    「……え……」
     村長の目は真っ直ぐハニエルを見つめていた。その琥珀色の目に魅了されることなく、真っ直ぐに。ハニエルも皺の刻まれた老爺の眼差しから、目を逸らすことが出来ない。
    「あなた方二人は、盲信しているというわけではないとこの老爺、察しております。もちろん、ただ生きる為に信仰するのも大切なことです。しかし、あなたがたはその信仰と自らの心が相反したとき、どちらをとるか、決めておられるか」
    「信仰と……心……」
    「ハニエル」
    ザドギエルがハニエルの名を呼ぶ。はっと我に返り、ハニエルは立ち上がる。村長に一礼してから部屋を出て行くザドギエルの後を慌ててついていく少年の姿をじっと見つめていた。
     大人しく家の外で待っていたらしいエミールが二人を見つけ、駆け寄ってくる。
    「祈りを捧げたいんだ。礼拝堂に入っちゃいけないけどその近くならいいかな?」
    「うん、それならいいと思うよ! こっち!」
     少年が無邪気に頷き、村の奥へと走っていく。村人はすれ違えばやはり穏やかに挨拶をしてきて、村長や宿の主人が言っていた剣呑さは見当たらない。しかしやはり、何かの違和感を感じる。
     しばらくすると礼拝堂が見えた。確かに古い、今では見られないような木造の礼拝堂だ。煉瓦の屏に覆われており、本来ならば信徒を迎え入れる門は閉じられ、鎖を巻き付けられて入り込めないようになっている。普通の人間では立ち入れないだろう。
    「ありがとう、ここなら祈りが届くよ」
     ザドギエルが礼を言い、ハニエルも自らのロザリオを胸ポケットから取り出す。祈りの言葉を紡ぎ、十字を切る。聖歌は歌えないが、ロザリオを手繰り、信じる神に祈る。それを少年は不思議そうな顔でじっと見つめていた。
     

    「ねえ、どうしてお兄ちゃん達は毎日神様に祈るの?」
     祈りを済ませた二人にエミールが問いかける。純粋な疑問なのだろう、その瞳は真っ直ぐで、ハニエルは少年の顔を見つめる。この村に来てから人と顔を合わせる事への抵抗が段々薄れてきているように感じた。
    「えっと、それは……オレたちは『教会』の信徒で、神学校の生徒だから、です。一日に一回、お祈りをする決まりで……」
    「お勉強みたいなもの?」
    「お勉強、はまた別にやるのですが……ええっと、そう、神様に挨拶をするというか」
     ハニエルの言葉に言い得て妙だとザドギエルが頷く。あいさつ、とエミールが繰り返せば次はザドギエルが問う番だった。
    「エミールは神様に祈ったことないか?」
    「うーん、一年ぐらい前までは母さんにつれられて週に一回、礼拝堂へお祈りに行っていたよ。神父様がお祈りしましょうって。でも皆が喧嘩しはじめてからは……お祈りに行けなくなっちゃった。あ、でもね」
     エミールがぱっと表情を明るくさせる。
    「僕、神父様の話が好きだった。今は皆争っているけど、神に祈り、許し合えばまた仲良くくらせるから、父さんと母さんも笑顔になるからって励ましてくれたんだ」
    「……そうか」
    「うん、だから僕、この【夜】が来るまでたくさんお祈りしたんだよ、皆が喧嘩をやめて、ずっと仲良くなりますようにって。神様、聞き届けてくれたかな、お日様の代わりにきっと、皆が仲良くなるようにしてくれたんだと思う! ねえ、きっとそうでしょ、お兄ちゃんたちなら分かるかなぁ」
    「それは……はい、主の考えはオレたちには分かりませんが……」
     ハニエルが言い淀むが、少年はそれを肯定と捉えたのか嬉しそうだ。
    「お兄ちゃん達はなにを祈ってるの?」
    「俺達?」
    「うん、神父さまは神様に祈る時、誰かのことを考えたり、祈ったりしてるって言ってた。それを神様が聞き入れてくれるんだって」
    「……」
    「そう、だな……」
     ザドギエルが考えながら、手元を見る。白い手套に隠された疵をじっと見つめて、ゆっくりと瞬きをした。
    「俺は……、もう会えなくなった人に祈ってるよ」
    「会えなくなった人? 神父様みたい」
    「そう、もう二度と会えない人。二度と会えない事にごめんなさい、って」
    「なんだか寂しいね」
    「はは、そうだろ。でもそう祈ったら、きっと神様が届けてくれるって信じてる」
     苦笑いを零し、遠くを見つめるザドギエルの目はどこか虚ろだった。しかし少年もハニエルも、それを見ることがなかった。彼がすぐに目を伏せたからだ。
    (オレは、何のために祈っているんだろう)
     揺れるガランサスの花を眺めながらハニエルは思案していた。使徒になったのはこの眼に力があると言われたからだ。使徒になれば、多少なりとも自分を受け入れてくれる。そう考えたから。自分にとって【神】というものは自分に罰を与えたもので、ある種畏怖に近い気持ちを抱いている。サンダルフォンのように毎朝祈りを込めて万世に祈る、といった信仰は、実のところ持っていない。ここでないと、自分は生きていけないからだ。
    (もし、この村の人々みたいに自分を普通の人として受け入れてくれたら、オレは使徒になっていただろうか。信仰を、持っていただろうか)
     ふとそんな考えが頭を過る。人を魅了し惑わすことを恐れずに生きていけるのならば、自分はどこでもいいし、誰でもいい、神への信仰を捨てろと言われれば、きっと。
    「ハニエル?」
     ザドギエルの呼びかけに、びくりと肩を跳ねさせる。まるで神が自分の思考を咎めるような、そんなタイミングだった。
    「あ、はいっ、すみません……!」
    「いや、いいんだ。ぼんやりしていたから」
     驚かせて悪い、とザドギエルが頭を撫でる。それを見ていたエミールが瞬きをしてねえ、と口を開いた。
    「お兄ちゃん達って兄弟なの? 似てないね、銀色とリラ色だし、目の色も違うし」
    「ち、ちがいます! 同い年です!」
    「えー、本当に?」
     可笑しそうにエミールが笑う。顔を真っ赤にしたハニエルが心外だと唸っているのを眺めながら、ザドギエルはすん、と鼻を鳴らす。村にもガランサスはそこかしこに咲いていて、その甘い匂いはひどくむせかえるようだった。
     
     村に来て二日経った。皆が寝静まる頃を見計らって礼拝堂に忍び込もうとしたものの、村長が命じたのか見回りの者がいて断念した。起きているうちは村を見て回ったり、エミールや他の子どもの遊び相手になったりと人々の暮らしを観察することに努めるほかない。相変わらずハニエルと目を合ってしまっても、人々は何の異変も示さず、普通に、彼に挨拶をし、言葉を交わしていた。むしろ変化しつつあるのはハニエルかもしれない、憂いがちな表情はいつもよりずっと明るく、仲間以外の人間に、ついに笑みを向けていた。声も、明るい。
    (ハニエルにとっては、いい村なのだろうな)
     子ども達に読み聞かせをするハニエルを眺めながら、ザドギエルは愛馬の毛並みを撫でていた。出会った頃は悍馬も悍馬で、事あるごとに宥めていたのだがようやく最近になって歩み寄りを見せてきたように思える。
    「どうするかな……」
     小さくぼやきながらがっしりとした首筋を軽く叩く。鼻息を荒くさせながら、肩を小突いてくる愛馬にやめろよ、と笑いながらハニエルに歩み寄る。村の鐘がカン、カン、カン、と夜の時間を告げてくる。
    「さ、皆そろそろ夜だから帰るんだ」
    「何言ってるの、ずっと夜じゃん」
    「はいはい、屁理屈こねるなって」
     ザドギエルが子ども達を家に帰す。もうそんな時間なんだ、とハニエルが驚きながら空を見上げる。相変わらずずっと夜で、いっそ世界はずっとそうだったのではないかとも錯覚してくる。
    「ほら、エミール、一緒に帰りましょう」
    「うん!」
     ずっとハニエルの横にいた少年も立ち上がり、三人で宿への道を歩いて行く。
    「ねえねえ、ハニエルお兄ちゃんたちはいつまでここにいるの」
    「そうですね……」
     エミールの問いにハニエルが首を傾げる。どういう結論であれ、もうそろそろ判断を下さないといけないことは分かっていた。
    「僕、ずっとお兄ちゃん達と遊んでいたいな! 皆優しいから、きっと二人がずっとここにいてもいいって言ってくれるよ!」
    「それは……難しい、かもです」
    「……」
     そっか、と寂しそうにエミールが俯く。その様子にハニエルが微笑む、
    「あの、エミール」
    「なぁに?」
    「……エミールは父さんと母さんのこと、好きですか?」
     ハニエルの問いに少年が首を傾げる。
    「当たり前でしょ、ハニエルお兄ちゃんってばへんなの」
    「ふふ、ごめんね」
    「僕は村のみんなが好きだよ、喧嘩もしてたけど今は仲良しだし……神父さまも今いたら、喜んだだろうなぁ」
     エミールの話を聞きながら宿に帰れば、エミールの両親が出迎えてくれた。あたたかな家族だ、羨ましいぐらいに、ハニエルはそれを眺めながら、そっと目を伏せた。

     隊服を着る。ハニエルはマリアヴェールを被り、ザドギエルはそれを被らないものの、手に持っていた。
    「……ハニエル、一つだけ聞きたい」
    「…………はい」
     深いコバルトブルーの眼差しが、ヴェールの向こうの表情は、固い。
    「ハニエルはここの村で、住みたいかい」
    「……」
    「どういう理由かは結局分からなかったけど……いや、今から行く礼拝堂に答えがあるかもしれない。それを抜きにして聞くよ、ハニエル。お前と視線を合わせても普通に接してくれるこの村で、住みたくはないか」
     ザドギエルの問いかけは穏やかだった。ハニエルを問い詰めるという意思ではなく、ただ純粋にどう思っているかこの仲間は聞いているのだとハニエルは直感した。
    「……はい、と言えばどうなりますか」
    「俺だけがこの村を去ることになる。そしてシスター・ゴーに、この村を滅ぼした悪魔にお前がやられて、命からがら逃げ出してきたと報告する。それでこの任務は終わる」
    「……ザドギエルさん」
    「ロザリオは預かることになるけどね」
     ザドギエルが寂しげな笑みを浮かべる。そして一歩、ハニエルへと踏み出してそのヴェールに覆われた顔をそっと露わにした。
    「よく考えたほうがいい。村長のじいさんが言っていただろ、信仰と心の問題……もし、ここに住むことがハニエルにとって幸せな一生なら」
     俺は神にだって嘘を吐くさ。そう告げられて、ハニエルの目が見開かれる。
    「だから礼拝堂へは俺一人で行く。何かあったら、あいつに脅されていたって言えばいい」
    「ザドギエルさんっ、オレは……っ、……!」
     ハニエルの声が途切れ、がくりと身体が崩れ落ちる。それを抱き留めて、ザドギエルはそのまま仲間の身体をベッドに寝かせた。
    「……ごめん」
     ぼそりと呟いて、部屋を出る。誰も起こさないように、外に出てザドギエルは、闇夜に紛れていった。
     
     相変わらず礼拝堂の周りには見回りの者がいた。一人ならばと隙を見て気絶させ、茂みの影に隠す。そのまま煉瓦造りの屏をひらりと跳び越え、ザドギエルは礼拝堂の敷地に入った。
    「……」
     どうやら庭に降り立ったらしく、冬の間手入れの施されていないそこは荒れ放題だった。しかしそこにもあのガランサスの花は目立っている。清めの花として愛されるそれだが、ここまでくればいっそ不気味に思えた。
     礼拝堂の扉はやはり厳重に錠が掛けられている。力尽くで開けることは出来るが大きな音で気付かれるだろう。ぐるりと周囲を回れば、破れた窓を見つけた。
     そこから入り込む。内部も木造で、確かに古いが天井が落ちてくるだとか、壁が剥がれているだとかそういった様子は全くない。
     唯一奇妙なのは。
    「血……」
     礼拝堂の床、奥に点々と続いている血痕がここで何かあったことを悟らせた。その血を辿り、奥へと進む。それは小さな部屋へと続いていた。入ってみればベッドと机、そして本棚が埃を被っている。どうやらここの教会の神父の私室らしい。
    「神よ、許し給え」
     ぽそりと呟き、部屋を物色する。それはすぐに見つかった。神父という職に就く者は日誌を書く決まりとなっている。革製の表紙を持つそれを開き、ぱらぱらと捲っていく。
    「一年前……」
     そこには村の住人同士が争うきっかけが書かれていた。本当に些細なことだったが、それが拗れに拗れた結果、村長派と村長の息子派で真っ二つに分かれたらしい。神父は中立派であったらしく、とにかくこの騒動が一刻でも早く終わるように奔走したものの状況は日に日に悪くなっていく様が書かれていた。
     神への祈りは続き、しかし人々への失望は募るばかり。
    「〝貴方は、貴方と等しく貴方の隣の人を、愛さなければならぬ〟」
     ページに書かれた聖句が目にとまり、ザドギエルはぽつりとそれを呟く。数ヶ月の間、この村に対する暗澹たる思いが読み取れた。
     しかしその中でザドギエルの意識にとどまったのは、ある少年に対する記述だ。礼拝堂によく遊びに来る少年は、神父に懐いていた。
    「――母と父があの件で仲違いをしていると、私に悲しげに話してくれた。神父様、どうして母さんと父さんは毎日喧嘩ばかりしているの。どうすればまた仲良くしてくれるの。そう私に問うてきた……」
     恐らく、エミールのことだろう。
     ――僕、神父様の話が好きだった。今は皆争っているけど、神に祈り、許し合えばまた仲良くくらせるから、父さんと母さんも笑顔になるからって励ましてくれたんだ。
     少年が嬉しそうに言っていたことを思い出す。確かに彼の言う通り信仰に厚い人格者であったらしい。
     ページを捲っていく。夏になり、秋を経ても村の対立は収まる様子はない。彼らに対する嘆きと、神への祈り、そして少年越しに見る僅かな、人に対する希望で日誌は埋まっている。
     ザドギエルの指が最後のページを捲る。

     ――どうして皆、あの子に気がつかなかった。目の前の憎しみに夢中になり、彼らはあの子を突き飛ばした。もっと早く気がついていれば、もしかするとあの子は助かったかもしれないのに。どうして平穏を望んだあの子が死に、あの愚か者達は生きているのか。

    「神よ、お教えください。さもなくば……」
    日誌はそこで、途切れている。
     どういうことだ、とザドギエルが眉を寄せる。この村に来た時に訪ねた村長の言葉に寄れば人々の争いに巻き込まれて死んだのは神父の筈だ。しかしここには、子どもが死んだと書かれている。
    「真実を知りたいのですか」
    「っ……!」
     背後からの低い声にザドギエルが振り向く。そこには人影があった。しかし、人ではなかった。黒い雄鶏の頭を持つ男がそこにいた。――悪魔だ。
     背後をとられたザドギエルが剣の柄に手をかける。深いコバルトブルーの双眸が悪魔の姿を睨み付け、これ以上の不覚はとらないと殺気を滲ませた。
     しかし雄鶏の悪魔は若い使徒に襲いかかることもなく、じっと彼を見極めるかのように見据えている。そして嘴をゆっくりと開いた。
    「お待ちください、私は貴方に害をなすつもりは毛頭ございません、どうか」
    「悪魔の言うことを信じる使徒がいると思うか?」
    「……ごもっともです。しかし、使徒様、どうかいっときのお慈悲を。この身体は悪魔のものですが、魂は……今あなたが読んでいた日誌の書き手のものなのです」
    「神父の? 下手な嘘だ」
    「真実です、神に誓って」
     雄鶏の悪魔はゆるりとあげた両手をザドギエルに見せる。何もしないという意思表示らしい。
    「最後の日付、収穫祭の前日夜……書いてあるとおりです。村の人々の間でついに大規模な衝突が起こりました。私が夜の祈りを捧げている頃、人々は言い争い、つかみ合い……それを止める者はいませんでした。いえ、一人、あの子が止めようとしたのです」
    「エミールか」
    「はい。しかし人々は争いに夢中で、彼の必死の説得にも耳を貸しませんでした。それどころか……誰かの手が彼を突き飛ばしたようです。勢いよく突き飛ばされてあの子は……硬い煉瓦の壁にしたたかに頭を打ち付けました」
    「……」
    「私が騒ぎを聞きつけてやってきても大人達は互いにつかみ合い、罵り合っていました。そしてその傍には、……あの子が、頭から……血を……」
     嘴から呻き声が漏れる。何が起こったかは明白だった。
    「待て、俺達が聞いた話は違う。あんたが……仮に、本当にここの神父だったとしよう。あんたが、巻き込まれて死んだと」
    「はい、彼らにとってはそれが真実です。いえ、私が彼らにそう思い込ませたのです。この村を一度死に絶えさせて、もう一度あの子の望んだ村にするために」
    「……なんだって……?」
    「使徒様、ここの者は全て死んでおります。生きた屍となり、平穏無事に暮らしております」
     ザドギエルは自分の全身から、ざぁ、と血の気が引いた心地がした。数秒、告げられた真実というものの理解が追いつかずに、雄鶏の顔を凝視する。
    「何を言っている」 
    「私は悪魔と契約したのです。うち捨てられたままのあの子を抱いて、あの馬鹿どもにすっかり失望してしまった私に、この悪魔が囁いたのです!」

     ――その可哀想な子どもを、生き返らせたくはないか?

     神父が悪魔と契約したという事実に思考が追いつかない。しかしここに来た時から感じていた違和感が今はっきりと輪郭を伴って現れる。
    「なんとでも言うがいいでしょう! 神に祈り、平穏を説いても無駄だった! 彼らは、何の罪も無い子どもを殺しても気付かず争い続けた! 親を思い、人々を思い、神に祈り続けた子どもを、神は見捨てたもうた! それならばいっそ、悪魔と契約して、あの子が望む日々を過ごさせてやりたい、そのためならば村の馬鹿ども全員の命を奪ってもいい!」
     雄鶏の悪魔が叫ぶ。
    「皆知っているのか、自分が死んでいることを」
    「知っております。知っておりますとも、身体は死んでもこの悪魔の力で、魂をそこに縛り付けております。どれほど身体が朽ちようとも、あの子が望んだ夜を永遠に続けさせるつもりです」
    「っ、狂ってるぜ、おい」
     ザドギエルが吐き捨てる。そして、刹那、ハニエルの事を思い出し、ここに来るまでに自分が言った言葉を酷く後悔した。
    「……だからハニエルの目に魅了されなかったんだな」
     すまない、と宿の部屋で眠る仲間にひとつ謝り、懐から銀のナイフを一本取り出す。
    「ここを永遠の夜に閉ざし、あの子が満足するまで永遠の時を過ごします。どうか使徒様、あの子に免じて見逃してやってはくれませんか」
    「無理だな、そこまで聞いちまったら……無理だ。悪いが死んでくれ」
     そうですか、と雄鶏が顔を伏せる。
    「ならばあなた方も、ここで永久に暮らしていただきましょう」
     
     ――まるで天使のよう、さあお菓子をおあがり
     ――こんなにも美しい目をしているのだから、この子は神様に愛されているに違いないわ
     ――まるであの方の再来のようではないか

     ――目を合わせてはいけない。ああ、恐ろしい。
     ――人を惑わす悪魔のようだわ、あの瞳!
     ――化け物め

     ごめんなさい、目を合わせてごめんなさい。
     そんなつもりではなかったんです、惑わすつもりではなかったんです。
     みんなと同じようにしていただけなんです。ほんとうです、信じてください。
     オレはあなたたちが、怖い。
     
     ――ハニエル。

     ――二人で無事に帰ってくるんだよ。

     はっと目を覚ます。首のあたりが少し痛くて、顔を顰めながらハニエルは起き上がった。眠っていた、いや、気を失っていたのだと悟り、そして全てを思い出す。
    「ザドギエルさん……!」
     慌ててベッドから起き上がり、足をもつれさせながらヴェールを被り、剣を手に取る。部屋を飛び出して階段を下りれば、そこには宿の主人と、妻がいた。
    「え……」
     彼らの皮膚は朽ちかけていた。所々骨が見えて、着ている衣服もぼろぼろだった。生ける屍、死して尚身体に魂を縛り付けられた哀れな犠牲者の姿。
    「あなた達は……」
    「おォ……あなたがたはし、使ト様、でしたか……」
     濁った声が主人の裂けた唇から零れる。
    「申しわけ、ない、このような、すがタで……もう一人はどうなさいました……?」
    「…………」
    「わぁって、おります、シと、さま……しかし、お慈悲、慈悲を、いただけませんか。このムラは、平和、そのもの……で、きっとシトさ、ま、も、気に入って……」
    「っ、どいてください!」
     ハニエルが二つの屍の傍を抜こうとする。黙っていた女の屍が手を伸ばし、ハニエルの腕を掴んで引き留めようとした。しかしハニエルはそれも撥ね付け、玄関扉に手をかける。
    「お慈悲、を、お見逃しくださ、い」
    「この、村は、争いもなく、手をとりあて、ェ……」
     縋る声を背に扉を開ける。そこには月光を浴びながら、同じように朽ちかけた身を晒す屍の群れが、ハニエルを囲んでいた。そこには話た村長もいた。
    「あなた達は……」
     お慈悲を、お見逃しください、あなたもこの村にとどまってください、そう口々に呻き縋ってくる【村人達】の姿に、ハニエルは全てを察した。この村はもう、死んでいたのだ。何かの力でかりそめの命と姿を被せられた亡者達しかもういない。
     ザドギエルさんが危ない。自分を気絶させて単独行動に走った仲間の危機を悟り、剣の柄を取る。

     ――僕は村のみんなが好きだよ。

     脳裏によぎったのはエミールの言葉だった。あの子の姿はない、どこにいったのだろうか、と一瞬思考に捉えられば、亡者達がすがりついてくる。
    「っ、……!」
    「こっち! お兄ちゃん、こっち!」
     その幼い声はやけに澄んで聞こえた。弾かれるようにハニエルがそこへ向かって駆ける。群れの僅かな隙間をぬって囲いから脱すれば、物陰から呼ばれる。そこにはエミールがいた。
    「……エミール」
     少年の姿は変わらなかった。血の気は失せていたが、肌は滑らかで、どこも欠けていない。それが寧ろ、不自然なほどに。
    「君も……死んでいるんですね」
    「……うん、今思い出したよ。僕は収穫祭の前の夜に……死んだんだ」
    「どうしてこんな事に」
    「僕のせいだ。僕が、神父様に願ってしまったから、みんなが元の優しいひとたちに戻りますようにって、元に戻りますようにって」
    「エミール」
     ハニエルが少年の手をとる。
    「神父様が悪魔とケイヤクして、みんな死んじゃった。僕の願いを叶えるために、身体がお日様に焼かれない為に、ずっと夜にして、みんなをここに縛り付けてる。でも、僕そんなの望んじゃいない!」
    「…………それがどういうことか、分かる?」
     ハニエルがじっと琥珀色の双眸をエミールに向ける。一瞬泣きそうな顔をして、エミールは頷いた。ハニエルはゆっくりと頷く。
    「礼拝堂に行きます、ザドギエルさんはきっとそこにいる」
     背後で自分を探す濁った声が聞こえる。
     シとさま、使徒様、シト様。
     エミールが頷いて、その冷たい手でハニエルの手を引いた。


     黒い趾の鉤爪がザドギエルの身体を裂かんと振り下ろされる。すんでの所で反応し身を捩ればコートの端が紙のように破れた。
    「っ……く……」
     ザドギエルの目の前では樹木ほどの巨大な黒い雄鶏が、地を這う獲物を啄む為に六つの眼で睥睨している。黒い羽毛とかぎ爪は夜闇よりも冥い。
     使い切りつつあるホルスターのナイフを取り出し、ザドギエルが悪魔に立ち向かう。ハニエルがいない今、敵の弱点は分からないが血は効く筈だと何本か打ち込んだ。再び踏みつけようと舞踏する趾の合間をかいくぐり、懐に潜り込む。脚さえ避ければそれを突き刺すのは容易に思えた。左手に持ったナイフを打ち込もうとさらに一歩踏み込む。雄鶏の腹に刃を穿つ。吹き出した血は悪魔のものか、それとも刃を通して注がれた自分のものか、血潮を浴びながらザドギエルは右手に持つ剣で追撃しようとした。しかし雄鶏の腹から飛び出してきたものに吹っ飛ばされ、礼拝堂の壁に叩きつけられる。背をしたたかに打ち付けて、膝をつくザドギエルを睨んでいたのは、雄鶏の貌と狗の貌だった。
    「っ……が、ぁ……」
     視界が霞む。口の端から血が垂れるのを感じてザドギエルは痺れる手でそれを拭った。かろうじて剣は手放さなかったのはこれを手放せば死ぬと理解した本能か、それとも使徒としての矜恃だろうか。ふらつく身体を叱咤し、立ち上がる。口の中に溜まった血を吐き捨てれば青い目で目の前の悪魔を睨み付けた。一方、身体からはらわた――どす黒い狗の、生きた首と血を垂らした雄鶏は傷を負ったものの未だ衰えを知らない。力が下級悪魔のそれではない、中級、いや、『名前付き』と同等――。
     悪魔が瘴気を吐き出しながら嘴を開く。
    「なぜ、戦うのです。あなた達がここを去るだけで、この村は永久の平穏を得るというのに」
     悪魔の問いにザドギエルが眼を細める。ゆっくりと相手を指さして、笑った。
    「――……俺が、それを平穏と認めたくねぇからだ。大勢の死の上で一人が満足するだけの平穏を、俺は認めねえ、それが悪魔と手ェ組んで作ったもんなら尚更ってだけさ。なぁ、知ってるか。悪魔と契約した奴はな、地獄に堕ちるって決まってるんだよ。だから俺が…この村ごとテメェを地獄に送る。それだけだ」
    「では問いましょう、あの子一人が死んで出来上がる平穏と何が違うというのか、数でしょうか? 大人だから、子であるから、どちらにせよこの村は死の上に平穏を築くほかなかったのでしょうか? 何故神は、毎日祈りを捧げていたあの子を死なせ、争いあっていた大人を生かしたのでしょうか? 私には分かりません、しかしこれだけは分かる!」
    「……」
    「この村で平和にいたいと願ったあの子の純粋さは神の教えより尊いと、神に仕えていた私には分かった! だから私は信仰を捨て、悪魔を呼び出した!」
     叫ぶ悪魔の声に、剣の柄を握る手の力がこもる。残り一本のナイフをホルスターから出して、空いた左手で握りしめた。これが最後だ。ゆっくりと深く、息を吐く。それを呆れと捉えたのか、雄鶏は激昂して羽根を広げた。
    「神の奴隷に何が分かるというのです! あの子がこの村で永久に、穏やかに暮らす為ならば私は悪魔と契約しても後悔はありません!」
    「ああ、だろうな。そうだろうよ、てめぇはな!」
     ザドギエルが叫び、悪魔へと駆ける。痛みはあるが、畏れはない。ただ悪魔への強い殺意が、ザドギエルを突き動かそうと、鼓動を早くしていた。
     腑の狗がザドギエルに食いかかる、それを躱し狗の脳天にナイフを突き刺せば男の叫び声を上げてそれは朽ちたが同時に、剣も弾き飛ばされた。舌打ちをし、雄鶏の頭上を目掛けて、跳躍する。雄鶏の嘴がザドギエルを飲み込もうとぐぱりと開く。
    (もうこの手に賭けるしかない!)
     その嘴は若い使徒を容易く飲み込むだろう。それが狙いだった。自らの持つ血の武器、最後のカートリッジ、自分自身。それで内側から殺すつもりだった。おそらく雄鶏の喉を通れば腹の中で押しつぶされ、その血が悪魔を殺すだろう。
     冥い穴が迫る。
    「ザドギエルさん!」
     飛び込んできたのはハニエルの声だった。ひらり、ヴェールを靡かせ小柄な身体を駆って、仲間が雄鶏の身体を駆け上がり、跳ぶ。
    「ハニエル……!?」
    「お兄ちゃん! 頑張れ!」
     急襲ともとれるその少年と、幼子の声に雄鶏の反応が一瞬遅れた。
    「〝邪な骨を散らせ、骸は捨て置かれ、お前は恥辱を晒すであろう〟」
     ハニエルの声が聖句を唱え、琥珀の双眸が燃えるように輝く。雄鶏の鶏冠と嘴の間に冥い炎が、見えた。
    「ああぁああああ!」
     叫び、そこ目掛けてナイフを振り下ろす。銀色に光るそれは正しく悪魔の弱点をとらえ、深く突き刺さった。
     雄鶏と男の叫び声が混じる。ナイフが刺さった場所から、黒い雄鶏は凍り付いていく。やがて身体の全てが霜に覆われ、がらがらと砕け、崩れ去る。
    「……神父さま」
    どうして、なぜ、わたしは。雄鶏の目が歩み寄ってきた幼子を悲しげに見つめる。それが悪魔と契約したものの、最期だった。
    「っ……あ……!」
     悪魔の身体が崩壊していくと同時にバランスを崩したハニエルが、足を滑らせて地面へと落ちていく。駄目だ、と目を瞑って衝撃にそなえたが、すんでの所でザドギエルが飛び込み、ハニエルを受け止めた。
    「ぐっ……ぅ……」
     受け止めた衝撃にザドギエルが呻く。さすがに大けがをした身体で受け止めたのには、無理があった。
    「す、すみません……!」
    「っ無茶するな馬鹿……!」
    「ザドギエルさんだって! なんで一人で行くんですか!」
     怒るザドギエルにハニエルが叫ぶ。面食らったのはザドギエルの方だ。目の前の仲間は明らかに自分よりも、怒っていた。
    「っ、あ、それは……」
     言い淀むザドギエルの胸ぐらをハニエルが掴む。睨む琥珀の目から視線を逸らすことができない。
    「ふざけないでください! オレだって使徒です! あなたは、あなたはそうやっていつも、自分だけで納得して、怪我して痛い思いをしても、平気な顔で!」
    「ハニ、エル……?」
    「今だって死んでもいいって、ああしたんでしょう! オレの気持ちも考えないで、サンダルフォンさんやラジエル、サマエルの気持ちも全部放っておいて、死んでしまってもいいって思ったんでしょう! ザドギエルさんの、ばかやろう!」
    「…………」
     泣きじゃくりながら自分を叱り飛ばすハニエルに、ザドギエルは何も答えられない。喉に熱いものがつっかえたような感覚にごくりと、喉を鳴らした。
    「……オレ達は、二人で帰るんです……みんなの所に……オレを見る人々の目が、どれだけ冷たくても、怖くても、オレには……帰る家があるんです……ザドギエルさんと帰る、家が……」
    「…………ごめん、ごめんな、ハニエル……」
     ハニエルの肩を抱き、ザドギエルが謝罪の言葉を口にする。本当に、返す言葉がなかった。そんな二人を幼子はじっと見つめて、それから傍の、黒い肉塊をそっと見つめた。
     
     白い花は枯れることを知らないと言いたげに、そこかしこで咲き誇っている。
    「このお花は春告げの花だって神父様が言ってたんだ」
     村を出てすぐの草原で、使徒二人と少年は立っていた。村の中にはもう誰もおらず、少年も自分が生まれ育った家の前で一度立ち止まり、ごめんなさい、と零した後で二人をつれてここに来た。
    「神さま、みんなを許してくれたらいいな」
     母さんも父さんも、村のみんなも、神父様も、みんな。エミールが空を見上げる。地平線の向こうが心なしか白んできているのが見て取れた。少年は足下のガランサスを摘み取り、嬉しそうにそれを見つめる。それからゆっくりと視線をあげた。
    「ねえ、お兄ちゃん達」
    「……はい」
     ハニエルがエミールをじっと見つめる。ここでお別れだと、互いの目が告げていた。ザドギエルは何も言わず、二人を見守っている。
    「ありがとう、さようなら」
     地平線の向こうから光が溢れてくる。永い夜の終わり、生者の為の朝。
    「……さようなら」
     ハニエルが告げた先には、ひとつ手折られたガランサスが名残の雪のように落ちていた。
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