おやまぁと降ってきた声は気が抜けていて、脂汗を垂らしながら呻く身には苛立つ声だった。だがしかし次には「大丈夫？新人隊士さん？」と顔を覗き込まれる。目線を動かすが言葉にならず、上ってきた気持ち悪さに抗えず嘔吐した。
「あらら、いいよいいよ。庭の隅だから吐いちゃいな」
言いながら背中をさすってくれる。顔を上げられないでいると茶碗の水が差し出された。
「まだ飲まないでね。口濯ぐといいよ、気持ち悪いでしょ？いまお医者様来るから」
口を濯ぎ、ぐらつく頭で己を支えてくれた人を見る。視界に菫色が揺れて、手拭いが差し出された。
「ちょうど湯上がりで持っててよかった。手拭い、返さなくていいからね」
にこりと笑うと肩に掛かる長い髪が一筋落ちる。暗い色の浴衣に映える菫色の髪と、まだ昼下りにあって首の白さが際立った。
「そちらの方ですか？」
「あ、山南さん」
そんなやりとりののち、ずいぶんと背の高い男が近くに来ててきぱきと熱や脈を確認された。
「熱はないようなのです。吐き気が治まったのなら少し横になりましょうか、こちらへ」
「お大事にねえ。ここ後片付けしとくから」
山南……副長格の…？とぼんやり考えるが、支えてもらいゆっくり歩くのが精一杯だった。辿り着いた部屋の畳へ横になる。
「長旅で来られて疲れたのやもしれませんね。上の者に様子を見るよう伝えてありますので、また何かあれば医務室へ。お大事に」
「あ、あの……」
やっと絞り出した言葉に、山南先生は呆れたようなしまったというような、なんとも言えない顔をして戻っていった。
温厚そうな彼から些かピリリとした空気が漏れ出たのを、借りた手拭いを握りしめ横になる新隊士は感じ取る事もなかった。

「お疲れ様。あの子大丈夫だった？」
「……スズラン殿」
研究室の定位置へ胡座をかいたスズランは、湯上がりの髪もすっかり乾いてゆるく括ってある。
その横へ座り込むとなに？と見上げてくる顔に、見慣れているはずなのにソウゲンは手を伸ばしてしまう。
「うん？どしたの、ソーゲンちゃん」
「はあ……」
「あら大きなため息」
「あの方に「この手拭いを貸してくれた先程の方は誰か」と尋ねられました。優しく介抱してくれた、通いの手伝いか何かかと」
「えっ僕隊士だと思われてない！？これでも隊長任されてる身なんですけど……ショック」
「隊士どころか、手伝いに通っている娘だと思われてましたよ」
「ええ…なんか朦朧としてたからねぇ……にしたって、女の子がお風呂上がりにあんなとこウロウロしてる訳ないでしょ」
「そういう思考も出来ぬほど具合が悪かったのでしょう。大事そうに手拭いを握っておりました」
ソウゲンはスズランへ手を伸ばし、髪に触れ、首筋に触れ、肩に手を置く。
一連の動きをくすぐったそうに笑ったスズランからとうとう息が漏れ、それを合図にソウゲンが肩を抱き寄せて二回り小さな身体をすっかり包んでしまった。
「悋気を起こしました」
「わー……そうなの？」
「あの隊士は、おそらく明日からあなたを探しますよ」
「僕だと思わないんじゃないかな。お互いはっきり顔を見てないんだもの」
「……信用しておりますが、名前を書いておきたい気分です。おこがましいですね」
「はは、ソーゲンちゃんったら」
スズランは笑い声だが顔を伏せ、額を擦り付けるようにソウゲンに凭れてくる。
その耳がふわりと染まるのを眺め、ソウゲンはそのままゆっくり背を撫でた。
「……ソーゲンちゃんの名前、ね」
「スズラン殿？」
「嬉しいなあって思って。ほんとに書いてくれたっていいよ」
いじらしいことを言うのがかわいくて、本当に己の名を刻むならさて背中か胸か、平坦な喉か。
筋彫りだけでもさぞ色が映えるだろうと、白い肌を眺めながらソウゲンはそんな倒錯的なことを思った。